第1話:女神

文字数 5,771文字

 美しい空の青だった。
 私は、その青に包まれている。
 裸足で、眼鏡も掛けてなくて、下着もつけていない。さらりとした感触の袖のない膝丈のワンピースを着て、体を宙に浮かせていた。地球には1Gの重力があるはずだから、ここはたぶん、私の知っている世界じゃない。
 眼鏡を掛けてなくても世界の輪郭(りんかく)は確かだ。伸ばした自分の指先も、浮かんだ自分の足先も、くっきりと見える。蓄積(ちくせき)されていたはずの疲労感もない。
 私は、ゆっくりと体を起こした。地面と呼べるものは無かったけれど、浮いた状態のままで立ち上がることができた。普段から着ることのないワンピースのせいか、剥き出しの足が心もとない。

「お待たせしました」

 背後から声がして振り返った。
 そこには、すらりとした髪の長い女性がいた。微笑んだ顔はバランスの取れた美しさがあって、親しみやすい空気と(おごそ)かな空気が混ざっていた。

「いえ、こちらこそ」

 状況が分からないから、そう返事をした。
 少し記憶が曖昧だから、もしかしたら私の方が彼女を待たせているのかもしれないと思ったからだ。

「状況を説明しますね」

 そう言って彼女が話してくれた内容は、まごうことなき異世界転生だった。
 私は三十一歳になったばかりの会社員だった。仕事は確かに忙しかったけれど、突然死するほど過酷な労働状況ではなかった。ここにいるのは、事故死ということらしい。出張から戻った空港でリムジンバスに乗った。職場へのお土産の入った紙袋を前部座席の背についたカップホルダーに引っかけた。そこまでは、なんとなく覚えている。そこから先の記憶が曖昧なのは、バスが事故に遭ったせいらしかった。

「他の乗客は、どうなったんですか?」

 平日の午後の便。私と同じような会社員が十五人ほど乗っていたはずだから、結構な規模の事故だっただろう。元の世界では、かなり混乱したんじゃないだろうか。突然の事故。しかも死んでいる。当然、戻ることはできない。
 私には疎遠になっている姉が一人いるだけだ。家族はもう姉しかいないし、残ったものは彼女にどうにかしてもらうしかない。元カノとの写真は全部スマホの中だ。会話もやり取りも全部メールやアプリだったし、手紙のやり取りもない。スマホのロック解除は難しいだろうし、事故で壊れているだろう。見られて恥ずかしいものはないはず。……いや、あったな。局アナ時代から推していた女子アナの写真集。しかも二冊。あれは言い逃れができない。子供の頃から隠してきたのに、本棚に性癖をバラされてしまうな。ちょっと辛い。

「先ほど、転生作業を終えました」

 彼女、いや、女神は背筋を伸ばした。

「全員ですか?」
「そうです」
「私が最後の一人なんですね?」
「そうなります」

 気のせいだろうか。
 女神の表情が暗い。背筋も伸びているし、髪にも肌にも艶がある。女神らしさは損なわれていないけれど、表情の暗さが滲み出ている。転生作業は私で最後だと言っていた。たぶん、疲れているのだろう。そんな状況なのに、私の前で女神であろうとしてくれている。健気だ。

「女神様」
「はい」
「もしかしたら、なんですけど」
「なんでしょう?」
「お疲れなんじゃないですか?」

 私の問いに、女神はキュッと唇を結んだ。
 返事はなくとも回答は得られてしまった。女神は今、疲れているのだ。それはそうだろう。十五人前後の異世界転生作業を行った後なのだ。説明にあった通りなら、転生先と付与スキルを細かくヒヤリングしながら作業を行ったはずなのだ。話の通じない人もいただろうし、無茶を言う人もいたはずだ。一人でクレーム処理を行って、へとへとの状態なんだろう。その疲労感、分かる。とても分かる。

「私は急いでいませんし、少し休憩してはどうですか?」

 畳みかけるように優しい矢を放つ。
 女神は少し俯いた後、顔を上げ、指先をキュッと捻った。
 音もなく景色が変わる。私たちは、花畑の真ん中に建ったガゼボにいた。屋根も床も八本の柱も白い石で出来ている。中央にはマホガニーで作られたテーブルと椅子。椅子の座面には瑠璃色のビロードが張ってあった。

「お付き合い頂けますか?」

 女神が手のひらを差し出した。
 彼女の動きに添うように、花畑いっぱいに咲いたネモフィラの青が、さらさらと揺れる。天国とは、こういう場所のことを言うのだろうと思った。

「喜んで」

 私は女神の手に自分の手を重ね、頭を下げた。
 椅子に座ると、女神が銀色のポットとティーセットを出した。

「紅茶でよかったですか?」
「はい。あ、私が淹れます」
「貴女はお客様ですから、私が」

 女神はポットを持ち上げ、注ぎ口をカップに近付ける。
 香りのいい紅い液体が、滑らかな曲線を描きながらカップの底に吸い込まれていった。残念ながら紅茶には詳しくない。でも、とても好きな香りだった。勧められてカップを傾けると、豊潤な甘さが体中に染み渡る。ほっとして泣きそうになった。

「転生対象の方で、私のことを気遣ったのは貴女が初めてです」

 女神はカップを、そっとソーサーに置いた。

「だから、私のお気に入りの場所に連れて来ました」
「光栄です」

 しばらく二人で、ぼんやりした。
 揺れるネモフィラの青、空の青、女神の瞳の青。
 私は、たくさんの青に包まれている。
 ここで過ごせたら、私は幸せだろうなと思った。

 正直な気持ちを言えば、キャパオーバー気味でもあった。
 自分の人生が終わっていることにも驚くし、終わった後の世界の存在にも驚く。それは、想定外の事故に遭ったボーナスステージではあるけれど、せっかくの機会だから無駄にしたくない。
 でも、先週末のことがなければ、私も他の乗客と同じように異世界転生したと思う。それをしなかったのは、付き合っていた恋人に振られたばかりだったからだ。


    ☆


 恋人とは付き合って二年半が過ぎていた。
 私は三十一歳で、彼女は二十八歳。お互い、そんなに高給取りではなかったから、デートの内容には工夫を凝らした。私は彼女を喜ばせようと、いつも一生懸命にプランを練った。
 最後のデートは立川に行った。
 南極北極科学館に出かけて、私の作ったお弁当を食べた。天気もよく、楽しかったのだ。私は明るい気分でモノレールの駅に向かった。彼女が歩くと、持っているナイロン袋がカサカサと音を立てた。中には南極北極科学館で買ったホッキョクグマのぬいぐるみが入っていた。私のポケットにはガチャガチャで取ったアザラシの親子のフィギュアがあった。
 私はポケットからそれを取り出した。

「こうやって、少しずつ思い出の品を貯めていけるといいね」

 恋人に笑顔を向けながら私は言った。
 私は彼女とこれからも付き合いたいと考えていた。付き合い始めてすぐに貯金も始めた。最近のデートで手作り弁当率が高くなっているのには理由があった。
 サプライズを計画していたのだ。
 内緒で指輪を買っていた。
 プロポーズしようと思っていた。
 結婚という形は取れなくても、今は色んな形で愛を誓える。一生に何度もあることではないし、計画には真剣に取り組んだ。デートにまでお弁当を作っていくのは、やりすぎかと思ったけれど、それもプロポーズ成功のためなら頑張れたのだ。
 わくわくしている私とは反対に、恋人は少し不機嫌だった。

「悩みごとでもあるの? 何でも聞くよ」

 私は彼女に声をかけた。
 とてもいい笑顔をしていたと思う。

「何でも聞くの?」
「うん」
「じゃあさ、別れて欲しいんだけど」
「ん?」
「私、白雪(しらゆき)と別れたい。もう終わりにしよう」
「どういうこと?」
「もう、こういうの嫌なの。白雪と出かけるところって、なんかこう、弾けた楽しさっていうか、そういうのないんだもん」
「というと?」
「ぶっちゃけ、貧乏くさい」

 彼女が吐き捨てるように言った。
 そう来るか。
 そう来るのか。
 だけど、ここで話してしまうとサプライズにならない。
 私は、ぐっと我慢した。
 まだ修復は可能だと思っていたから。

「最初は、白雪の堅実なところが好きだった。でも今は、こういうしみったれた感じの毎日が続くのかって思うと、貴女との将来とか、全然考えられない」

 私は声を出すことも出来ずフリーズした。

「じゃあ、私はここで」

 恋人は振り返ることなく歩き、タクシーに乗り込んだ。
 私は呆然としたまま動けなかった。
 目の前を走っていくタクシーに向かって手を上げると、弁当箱がカランと間抜けな音を立てた。

 あの時、私は彼女が乗ったタクシーに向かって手を上げた。
 その手で、自分は何をしたかったのかと考える。
 手を振りたかったのか、それとも、タクシーを止めたかったのか。
 思い出しても答えは見つからなかった。
 確実に思うのは、彼女が私のことを一日でも早く忘れてくれるといいってことだ。別れたばかりの恋人が事故で死んだとか、後悔しまくり案件だろう。
 どうか、私のことなんて忘れて欲しい。
 だけど、時々思い出して欲しいような気もする。複雑だ。


    ☆


 ふと顔を上げると、目の前に女神がいた。
 少し首を傾げながら手を伸ばしてくる。伸びた指先は私の頬に触れ、スッと外側に流れて行った。

「涙、出てますよ」
「あ、すみません」

 自分が泣いていたことに気付かなかった。
 鼻がツーンとするとか、そういう前触れが全然なかった。
 号泣とかしなくてよかった。頑張った、私の涙腺。

「長いお付き合いだったんですか?」

 主語もなく話しかけてくる女神の言葉は的確だった。
 涙も拭ってもらったのだ、もう格好つけても仕方がない。

「二年半です」
「将来の誓いを視野に入れてましたものね」
「そうですね」
「どんなプロポーズをする予定だったんですか?」

 私は立ち上がり、女神の前で(ひざまず)いた。
 子供の頃から、わりとロマンティックな性分だった。私からプロポーズするなら跪きたかったし、されるなら跪いて欲しかった。

「こんな感じで」

 笑ってもいいですよ、女神。
 そう思いながら見上げると、彼女は両手で口元を(おお)い、目を大きく見開いていた。

「あ、ごめんなさい。ちょっと、鼓動がおかしいかもしれない」

 女神の頬が、ほんのりと朱に染まっていた。
 笑っているんじゃない、(たかぶ)っているんだと気づいた。

「こういうこと、全然ない生活だったので」
「お仕事ばかりしてたんですか?」
「はい。その通りです」

 私たちは顔を見合わせて笑った。
 ふと、転生したら、女神にはもう会えないんだなと気付く。
 それはちょっと、いや、かなり寂しい。
 私の中に、ひとつの考えが浮かんだ。
 
「転生先の希望は決まってますか?」

 女神がおかわりをカップに注いでくれた。
 時間が経ったはずなのに、ポットからは熱いほどの紅茶が湧いてくる。冷めたはずのカップも適度に温かさを保っていた。

「決まっているんですけど、採用されるかは疑問です」

 私はカップを傾け、おかわりの紅茶を味わった。
 女神の説明では、転生先の世界はいくつかあった。
 魔法の国、冒険の国、平穏な国、などなど。職業も選べるし、特別な付与もある。おそらく、どんな選択をしても、それなりに危険で、それなりに素晴らしいのだろう。今までの世界でも、転生先でも、それは同じだと思う。

「言ってみてください」

 女神は少し胸を張っていた。
 様々な願いを叶えてきた自負があるのかもしれない。
 顎を少し上げたドヤ顔が可愛かった。

「ここに転生したいです」

 私は言った。
 魔法の国で、魔女になる。
 冒険の国で、勇者になる。
 平穏な国で、賢者になる。
 どれも魅力的だと思う。
 だけど、どの世界にも女神はいない。

「私は、貴女の(そば)に転生したい」
「……本気ですか?」

 女神は私の顔を見た。

「もちろんです」

 首から上がグッと熱を帯びる。
 何かの力を使われているようだった。嘘が無いかスキャンでもされているのだろうか。
 しばらくすると、ふいに熱が引いた。

「少しお時間をください。前例がないので、上と相談してきます」

 女神は指先をキュッと捻り、テーブルに皿を出した。
 皿の上にはビスケットやスコーンなどのティーフーズが並んだ。ここで待っていなさいということなのだろう。私が頷くと、女神は小さな風と共に消えた。

 ほどなく、女神が戻って来た。

白雪(しらゆき)さん」
「はい」
「もう一度、跪いてもらえますか?」
「分かりました」

 私は女神の前で片膝をついた。

「続けてください。それが、上からの条件なので」
「条件?」
「転生先をここに設定するなら、私の伴侶になるのが条件なんです」
「女神の伴侶って、人間でもなれるんですか?」
「いえ、なれません。赤子として生まれ、見習いからスタートしたのち、神になります」

 ひゅうっと口から空気が洩れた。
 まさかの展開だった。
 女神の秘書にでもなれたらいいくらいの感覚だったのだ。

「白雪さんの恋が終わったばかりの時に申し訳ないですが、気持ちを切り替えて取り組んでみてください」
「私の方こそ申し訳ないです。今日、会ったばかりの人間を伴侶にさせるなんて」
「大丈夫です。私、今とても、わくわくしていますから」

 女神が、ふわりと笑った。
 ネモフィラが、さわさわと嬉しそうに揺れた。

「では、名前を訊いてもいいですか?」
「アネモストゥロヴィロスです。ロヴィと呼んでください」
「どんな意味なんですか?」
旋風(つむじかぜ)です。風を操るのが得意なので」
「ロヴィ。私に名前をつけてください」

 異世界転生するのだ。
 伴侶として誓いを立てた後、また赤ちゃんから新しく私が始まるのだ。名前も変えたい。その名前はロヴィに付けてもらいたかった。
 ロヴィは少し眉間に皺を寄せた後、パッと目を開く。

「決めました。貴女の名前はヒオノシエラです。シエラと呼びます」
「どんな意味なんですか?」
「猛吹雪です」

 女神は胸を張っていた。
 旋風(つむじかぜ)猛吹雪(もうふぶき)
 ちょっと物騒だけどバランスは取れているかもしれない。
 そして、顎を少し上げたロヴィのドヤ顔は、やっぱり可愛かった。

 私は改めて跪き、ロヴィの手を取った。

「私と生涯を共にすることを誓ってくれますか?」
「誓います」

 ロヴィの返事を聞いた刹那(せつな)、ネモフィラが一斉に揺れる。
 柔らかく爆ぜる旋風に乗って大きな光に包まれていった。


 美しい空の青だった。
 私は、その青に包まれながら、女神の腕の中に生まれ落ちた。




<続く>


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