第1話

文字数 4,966文字

「紳士諸君!」残念ながら恒例の忘年会に淑女は含まれていなかったので、木下氏はそう宣言せざるをえなかった。「年末年始の予定はどうなってる。正直に申告せよ」
 当グループのリーダー格である木下氏は御年二十五歳、慢性的な失業者である。仕事の飲み込みは速くて人並み以上の回転力を誇るおつむを有するものの、むら気が強すぎてひとところに三か月以上いたためしがない。
「実家でごろ寝およびふて寝」紳士の一人である城島氏は肩をすくめた。着古したチェックのシャツに度のきついめがね。非モテ男の見本のようななりだ。
「悲惨やな、そら」と最後の紳士、和泉氏が同情する。ひょうきんそうによく動く瞳に清潔な短い髪。気のいい関西人はモテるという神話を粉砕した記念碑的存在である。
「よろしい。和泉の予定は」
「実家で寝腐る以外にどないせいっちうねん」万歳して降参の意を表明してみせた。「そういう木下はんはなんかあるん」
「いつもより多くのカロリーを摂取する予定だよ」
 これにてめでたく非モテ三人衆の予定が出揃った。全員が寝正月を堪能するのである。未来が扇状に開けているはずの若者が三人も集まっているというのに、誰一人としてどこへもいく宛てがないばかりか半日でも付き合ってくれそうな女性すらいない。これは由々しき問題である。
 と、並みの人間なら考えるだろう。慢性的失業者はちがった。彼はむしろとある実験の好機ととらえたのである。
「寝正月はあっという間に過ぎ去ると言われる。これは主観的な主張にちがいないが、単なる感じかたの問題だとばっさり切り捨てるには報告件数が多すぎる」
 講義調の出だしだったので、二人はまたぞろ途方もない与太話がおっぱじまるのだといち早く察した。気のないようすでしなびた揚げ出し豆腐をつつき、あくびをひとつ。
「いっぽう光速に近い宇宙船内では実際に時間が間延びする。いわゆる〈双子のパラドクス〉だな」
「片方が地球に残って、もう片方が光速で旅立つってやつだろ」飽き飽きしたように城島氏が割り込んだ。「船内時間は著しく遅くなるから、地球に帰還したとき二人の年齢がちがっちゃう」
「そんなことあるんか」
「それがあるんだ、和泉。スケールはうんと小さくなるけれども、理論上は飛行機で飛び回ってる商社マンなんかはほんの少し、寿命が伸びてるんだぜ」
「で、それが寝正月とどう関係があんねん」
「物事が一瞬で過ぎ去るということは、その人物の時間が遅くなってる――つまり相対論的効果が発生しているという仮説が成り立つ!」
 申し合わせたように居酒屋の喧騒が静まった。無関係なはずの酔客たちが例外なく、木下氏に注目している。
「そしていま、それを検証できる人材をわれわれは得た」
「それって、まさか……?」
 城島氏の悪い予感は当たった。失業者は得意げに胸を叩いた。「もちろん、われわれ自身だ」

◎実験の要諦
 本実験はまことしやかにささやかれる〈一般寝正月理論〉を検証することにある。相対論によれば①重力と加速は区別できない、②①の事実から十分に高速で動く個人の時間は間延びする、という結論が導かれる。
 ある宇宙飛行士がブラックホール近傍にいるとしよう。彼は徐々に暗黒の穴へ落ちていっている。そのようすを観測すれば、彼は

はずだ。理由は光の速度にある。
 人間がものを見るには光が必要だ。ブラックホールは光すら脱出できない重力を有するので、漆黒に見える。宇宙飛行士がブラックホールへ落ち込む瞬間の光景を届けた光は、かろうじて暗黒の縁から(著しい赤方偏移をともなって)脱出してきたと考えられる。それ以後彼が落ちていく姿は光ですら例の穴から脱出できないので、われわれの目には届かない。したがって宇宙飛行士はいつまでも止まって見えるのである。
 とはいえ彼の主観では静止などなく、そのままシームレスに穴へ落ちていることに留意。外部からそう見えないだけで、彼自身の時間は正常に進んでいる。これは裏を返せば、宇宙飛行士が客観的にほぼ永遠の命を得ていることになる。
 以上が相対論のあらましである。これらを踏まえてわれわれは
①食べることと寝ること以外、極力なにもしない実験群
②正月を有意義にすごす対照群
③①および②の実験を観測する管理者
 の三者に別れて実験を行う(詳しい生活内容は別添の手順書Ⅰ、Ⅱを参照)。主観時間の相違を観測するには千年で誤差1秒程度の精度を誇るセシウム原子時計を使う予定である。二人がこれを所持し、観測可能な相違が見出されるかを検証する。
 当実験がもしなんらかの有意な結果を残すのならば、われわれ日本人の長期休暇に革命が起きるであろう。

実験レポートⅠ 城島氏の正月
 正月休みを規則正しくすごす。城島にとってそれはさほど難しいようには思えなかった。もちろん七時にきっかり目を覚ましてお雑煮をすするより、ちんたら十一時ごろに起きてきて朝昼兼用のおせちをかっ込むほうが楽ではあるが。
 イカ天がアクセントを添える年越しそばを食べ終え、ゆったりとくつろいでいた城島の端末がぎゃんぎゃん鳴り響いたのは二十三時すぎだった。何事かと電話に出る。
「なにやってんだ城島、いまどこにいる」木下からだった。
「どこって、実家に決まってるだろ」
「ちゃんと手順書Ⅰを読んだのか。正月は遊び倒すのがお前の役目だろうが」
「遊び倒すったって、こんな深夜にどこいくんだよ」
「長島のカウントダウンだよ。そのあと除夜の鐘をつきにいく」
「ごめんだね、ぼくは寝る」
 数分後、玄関でなにやら会話が交わされているのに彼は気づいた。母親があらまあ久しぶりとかなんとか言っている。いやな予感。間もなく自室の扉が勢いよく開かれた。「準備はできてるんだろうな」
「できてるよ、ご覧の通り寝る準備がな」城島は全身これ寝巻姿だった。
「服さえ着てりゃなんでもいい。さあいくぞ」
 こうして波乱の一日めが始まった。二人は新年のカウントダウンではしゃぐ若者の群れに揉まれ、客のために百八つ以上の鐘にも目をつむる商売上手な寺で力任せに鐘をつき、煩悩まみれのまま帰宅した。午前三時だった。
 倒れるように眠り込んだ城島はしかし、朝の六時きっかりに叩き起こされた。だしぬけに自室の扉が開いたのである。「すいません、城島さんってのはあんたすか」
 寝ぼけ眼をこすると、髪を軟便のような色に染めた大学生くらいのガキが突っ立っているのが見える。これは幻覚にちがいない。だが幻覚は消えないばかりか、執拗に彼を揺すって起こそうとする。「悪いけど、起きて一緒に初詣へいってくださいよ」
「誰なんだお前は。ていうかどうやって入ってきた」
「俺は内藤っす。扉はふつうに開いてたっすよ」
 三時間前、あまりの眠さに立っていられず、自室まで木下が連れていってくれたのを思い出す。やられた。やつは施錠せずに出ていきやがったのだ。
「俺、木下さんに雇われたんす。あんたと一緒に初詣にいけば一万円もらえるんす」首根っこを掴まれた。「服さえ着てりゃなんでもいいす。いきましょうや」
 初詣コースは厳密に定められているらしく、彼は四か所も回らされたあげく、ボロ雑巾のように疲れ切って帰宅した。失われた睡眠時間を取り戻そうとした矢先、またぞろ端末が鳴り響く。「どなた」
「初詣は楽しかったかい。いいやつだったろ、内藤は」
「すこぶるね。で、お前は寝腐ってたってわけか」
「勘ちがいしてもらっちゃ困る。管理者が実験に介入しすぎると測定結果に乱れが生じる。それを避けるために第三者を派遣したんだ」
「よくわかったよ。もう寝るから切るぞ」
「なに言ってんだ。どこの世界に正月の夜を寝て過ごすリア充がいる」
 数分後、内藤くんとは別の――しかし年恰好は似たり寄ったりの――エージェントが現れ、城島を連行した。
 彼の正月はこんな調子ですぎていった。五日間あった正月休みのうち、睡眠時間は計10時間42分であった。

実験レポートⅡ 和泉氏の正月
 正月休みをだらだらすごす。お安いご用だった。意識して努力するまでもない。ただいつもの通り実家で腐っていればいいだけなのだから。
 えび天でアクセントを添えた年越しそばを食べ終え、近所の寺から聞こえる除夜の鐘に耳を澄ませていると、端末がぎゃんぎゃん鳴り響いた。くつろいだ気分も台なしである。「誰やねん」
「いまにも瞼は閉じそうなんだろうな」失業者だった。
「おまはんの電話のせいで目覚めたわ」
「なんとしても十二時きっかりに寝てもらわなきゃ困るぜ」
「阿呆ぬかすなや。そんな器用なまねできるかい」
「手順書Ⅱを読んでないのか。一日あたり17時間がノルマなんだぞ」
「目が腐ってまう。なんぼなんでもそんなに眠られへんて」
「とにかく鋭意努力してくれたまえ」
 電話が切れた。和泉は伸びをして寝室へ赴く。言われなくてもぐっすり眠るつもりだった。
 翌日、十一時すぎにだらだら起き出すと、食卓に異物が混入しているのを彼は目撃した。「き、木下はん、うちになんの用や」
 当人はおせちをつまみながら泰然としている。「子守り役として馳せ参じたのさ」
「意味がわからへん。ていうかおとんとおかん、こいつの存在を疑問に思わへんのかい」
 両親は諦めきったようにかぶりを振った。木下の強引な押しかけ戦術に屈したものとみえる。
「きみを眠り姫にするための機材は搬入ずみだ」
「機材? 機材ってなんやねん」
 失業者は大仰な身振りで居間を指し示す。プロジェクターと映写装置、あたり一帯を振動で倒壊させられそうなほどでっかいスピーカーが乱雑に積み上げられている。和泉は途方に暮れた。「説明してもらえるんやろな」
「きみは食事から睡眠までを毎回二時間でこなす必要がある。睡眠導入用の映像、意識下に作用する超低周波、副交感神経への切り替えをスムーズに行うホルモン調整剤。これらすべてを投入して徹底的な寝正月を満喫してもらおうという作戦だ」
 昼飯のおせちを食べたあと、早速睡眠管理が始まった。プロジェクターにはひたすら波が寄せては返す映像が垂れ流され、パソコンからは咀嚼音やマウスサウンズのASMR動画、それでも足りないとでも言うかのように、木下ご本人による量子力学の哲学的解釈がエンドレスで朗読された。
 気づくと夜だった。倦怠感を振り払い、さして腹は減っていなかったけれども夕食を摂る。即座に寝室へ連行され、悪夢のようなメニューがくり返される。眠りは浅く何度も目覚めるのだが、和泉はもはや起きているのか夢を見ているのかわからなくなってしまった。
 彼の正月はこんな調子ですぎていった。五日間あった正月休みのうち、睡眠時間は計79時間15分であった。

◎実験報告書
 城島、和泉両氏の多大なる協力により、〈一般寝正月理論〉の検証は無事終了した。結果を下記の通り報告する(城島と和泉の原子時計を写した写真が添付されている。和泉のほうの写真はわずかに赤みがかっている)。
 結果は明らかである。両者の時計は1分25秒ものずれが発生していたのである! もちろん遅れていたのは徹底的な寝正月を課された和泉のものである。セシウム原子時計が一週間程度のあいだに1分以上もずれる可能性は限りなく低く、また写真が赤みがかっていることからも(=時間遅延にともなう赤方偏移)、これらは寝正月が相対論的な時間の相違をもたらす決定的な証拠と断定できる。
 正月に海外旅行をしたいやつにはさせておけばいい。連中は寝正月派に比べて無視できない時間的損失を被っているのだ。
 したがって今後もわれわれは世間に流されることなく、断固として寝正月派を貫き通すべきなのである!

「どうだね」以上のレポートを二人に手渡しながら、木下は得意げに問いかけた。
「つまり、和泉は1分25秒だけぼくより寿命が伸びたってことか」と城島。
「その通り」
 被験者の二人は顔を見合わせ、苦笑いを漏らす。
「せやけど木下はん、79時間眠って1分ちょいちうのは、割に合わへんのとちがうか」
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