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文字数 3,781文字

 屋敷の外へ出ると、すっかり日が暮れていた。雲間から月が覗き、暗い木立の影を伸ばしている。このまま闇に乗じて下山したいところだったが、待ち伏せる者がいた。
「待て」
 例の水遁使いだった。後ろにはひどい顔をした百舌と矮鶏もおり、憎々しげに麓丸を睨んでいる。
「中にいた男はどうした」
「ふん、お仲間なら幽閉してやった」
「ほう……それはそれは」
 男は口を歪めた。「好都合というものよ」
「なに?」
「あやつの処分も我らの任の一つ。宮の忍としての一面を持つ輩を、いつまでも泳がせては危険なのでな」
「貴様ら……」
 麓丸は怒りをにじませたが、三人は侮蔑の目で見下ろしてくる。
「情にもろい奴らよ。だが動けぬのなら処分は後回しでよかろう。巻物を持っているな、出せ」
「何を言っているかわからんな」
「くく……シラを切れると思うか」
 男が顎をしゃくると、矮鶏が布を広げてみせた。見覚えがある。既視感の正体に気づいた時、麓丸は叫んでいた。
「弟をどうした!」
 それは梅之助がいつも使っているエプロンだった。
「まだどうもしていない。まだな」
 激昂する麓丸を(なぶ)るようにして、男は続けた。
「先ほどそこの河童が名を言っていたが、貴様、飛騨麓丸だろう」
「……だったらなんだ」
「やはりな、飛騨家の長男といえば術が使えぬ忍。鹿沼でも音に聞く落伍者ではないか」
 顔を合わせ、三人はせせら笑う。握りしめる麓丸のこぶしからは血が流れた。
「落ち着け。我らとて鬼ではない」
 百舌が言い、横道を指した。
「一時間だ。この道の先で一時間だけ待つ。巻物を持ってくれば弟は返してやろう」
 矮鶏も言う。
「貴様らの手の内は知れている。二度と遅れは取らぬ。無駄に抗うな」
「妙な真似をすれば人質としての価値がなくなる。そうなれば……わかっているな」
 不吉な予兆を残し、三人は闇に溶けた。
 立ちつくす主人を心配そうに、家臣たちもまたどうすべきか迷っていると、うつむいたまま麓丸が言った。
「おまえら、全員で山を降りろ。母上の無事を確認するんだ」
「しかし、それでは坊ちゃんが一人に」
「いいから行け!」
 案ずる気持ちを振り払い、命に従って家臣らは駆けていった。虫のさざめきすらない夜の闇に、麓丸だけが残された。
 かつてないほど焦燥が胸を焼いた。訓練で馬鹿にされて帰ってきても、温かい食事があった。いつも変わらず支えてくれた。それらが失われていいはずがない。気持ちを落ち着かせようとするのだが、どうしても酷い目に遭わされる姿が脳裏をよぎる。巻物を渡したとして、無事で済むとは限らない。かといって一人では勝算もない。これほど力のない自分を呪ったことはなかった。
 だが、選択肢が一つに集約されていく最中、麓丸は母の言葉を思い出した。
 どんな時も自分の心を見失わないように――。
 そうだ、今すべきは現状を憂うことではない。どう打破するかだ。梅之助は助ける。巻物も渡さない。どんな手段でもいい。どうやって成し遂げるかを考えろ。
 そして麓丸は、見つけだした可能性のために走った。屋敷に戻り宝物庫へ。操作盤を叩いて床を開けた。
 尋常ではない気配をまとい、その手は刀の柄に掛けられている。花岡の衣服はあちこちが裂けていた。
 ところが彼が問いただす前に、麓丸は(ひざまず)き、床に手をついた。さらには頭を下げ、懇願した。
「頼む! 弟を助けてくれ!」
 渾身の土下座に、花岡は手を緩めた。
「どういうことだ?」
 麓丸が事情を説明している間、花岡は黙って聞いていた。真意を確かめるつもりだったのだが、次第にその必要もなくなっていった。こんなに必死な姿は見たことがない。そう思った。
「状況は把握した。もう少し整理したい」
「言ってくれ」
「先ほど君は僕を、鹿沼に与していると言ったな。あれはどういう意味だ?」
「そのままの意味だ。おれは昨晩、鹿沼の支部におまえが行ったのを知っている。巻物の話をしていたのでスパイと断定した」
「見られていたとは……であれば、加勢に来たというのも嘘か?」
「ああ。ここへ閉じこめて、後で協会に引き渡すつもりだった」
「つまり本当に言葉通りの意味なのか。しかしそれでは君は、鹿沼の者に助けを求めているということになるが」
「そうだ。でもこの際どうだっていい。弟の命には代えられん」
「君は……」
 警戒を解いた花岡は、膝をついて麓丸の肩に手を置いた。
「立ってくれ。僕も話すことがある」
 花岡は話しはじめた。
「まず誤解がある。僕は沼の忍じゃない」
「何。昨日のあれはどう説明する」
「支部長の指示さ。ある忍をあぶり出すために、情報を流せとのお達しでね」
「ある忍?」
「僕が情報を渡していた相手だよ。かつて宮の忍と激しく争った人物で、すでに引退したはずが、ここ最近また姿を現すようになったらしい。筆談のみで声は聞いていないが、向かい合っているだけで僕は身がすくんだ。放っておけば災いをもたらしかねないため、動向が知りたいそうだ」
「追跡はできないのか?」
「無理だ。術によるものと思うが、まるで空間を転移するように神出鬼没なのさ」
「なるほど……それはわかった。だがおまえが宮の忍という証明はできるのか?」
「これを見てくれ」
 花岡が出したのは今回の指令書だった。巻物の入手に加え、鹿沼へ情報を流布すること、さらに支部長の朱印が押されている。
「つまり二重スパイか……」
 じくじくと嫌な感じがした。これまでの怨みが行き場を失い、恥と共に返ってくる。認めたくない感情は、事実の前にただ見苦しい淀みとなってまとわりついた。理解はできても納得は遅れる。だが、もたげる思念の一切は唾棄(だき)すべき矜持(きょうじ)であり、醜い愚図の心だ。誇りこそが(かせ)なのだった。
「おれの早とちりだったようだ」
「いや、これは勘違いしてもおかしくない。君の判断は、宮の忍としては間違っていなかったはずだ」
 たとえそうだとしても意味などなかったが、いつまでも私情にかまけていられない。
「付け加えると、巻物を入手した後は宝の捜索を行ってよいそうだ」
「見つけてこいということだな。相変わらず厳しいお人だ。後進に与えられる試練はいつも険しい」
「そうでなくてはいけないのだろう。しかし君も思い切った交渉をしたな。鹿沼の者が協力するとでも?」
「おっと、これを伝えてなかったな。あいつらはおまえも処分すると言っていた」
「なんだって!」
「やはり知らなかったか。だからこそ共闘する理由になると判断したんだ。実際は敵じゃなかったわけだが」
「その忍はどんな連中なんだ」
 花岡はただならぬ様子だった。それは命を狙われているという事実からくるものと麓丸は思っていたが、違っていた。
「どいつも人相は悪い。それぞれ毒霧、木遁、水遁使いだ」
「その水遁使いはどうだった? 足が変じゃなかったか」
「そういえば俊敏ではないというか、歩き方が変わっていたな。こう、引きずるに近い感じだった」
「そうか……すまない飛騨くん、もう一つ話がある」
 ややためらってから、花岡は続けた。
「水遁使い、それは僕の兄だ」
「なんだと」
「今は斑鳩(いかるが)と名乗っている。情けない話だが、わけあって鹿沼に寝返ったんだ。僕がスパイを引き受けたのも、兄の行方を探すためさ。けれどずっと見つからなかったのが、まさか刺客として現れるとは……」
 悔いるように花岡は言う。ゆえに麓丸は確かめる必要があった。
「戦えるのか?」
 努めて当然とばかりに花岡は答える。
「もちろんさ。身内の恥は身内が摘み取らなくてはね」
 それ以上は聞かなかった。

 ひとまず屋敷を出た。
「さて、とはいえ勝つ見込みはあるのかい。数の上でも不利なわけだが」
 花岡の問いに、麓丸は大いなるため息を吐いた。
「この手だけは絶対使いたくなかったんだが……梅之助のためだ」
 意を決した麓丸は、それでも半ば嫌そうに、周囲へ呼びかけた。
「おい、いるんだろ。出てこい」
 やがて屋敷の窓辺から、ふわりと降り立つ者がいた。麓丸にとっては飽きるほど見た、幼なじみの姿がそこにはあった。
「あら、ロク。奇遇ね」
「こんな山奥で奇遇もクソもあるか。どうせ全部見てたんだろ。手伝え」
「そうねえ、ロクだけがピンチなら全力で断るのだけれど」
「全力である必要性を教えろ」
「タダ飯をかっ喰らってる身としては仕方ないわね」
「かっ喰らってるとか言うな。まあいい、手伝ってくれるんだな」
「飛騨くん、こちらは?」
 花岡が訊ねると、麓丸をさえぎって唯良乃が答えた。
「どうも初めまして。この人の婚約者で、伊豪唯良乃と申します。()飛騨麓丸はわたしを愛しています」
「括弧内がはみ出してる上に虚言とはこれ如何(いか)に。おい、こいつはただの幼なじみだから気にしなくていい。それより作戦を話す。時間がないんだ」
「照れちゃって」
「照れてないし婚約者でもない」
「こうは考えられないかしら。本当は夫の危機に駆けつけた愛すべき妻を熱い抱擁で迎えたい。けれど今は花岡さんの手前、素直になれない。嗚呼(ああ)、これが思春期の魔物か。悔しいぜ、ちくしょうめい」
「そうは考えられない」
「惜しいわねえ」
「惜しくもねえ」
「なつかしいわね。こうやって夫婦漫才していると、グランド花月の舞台に立ったあの頃を思い出すわ」
「思い出を捏造するな」
「ずいぶんと冷たい子に育ったのね。ちょっとアンタ、何様?」
「だーから時間ないんだって!」
 くすくすと唯良乃は笑った。
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