十六日目(火) 蕾と雷と下校だった件
文字数 6,349文字
今日からは阿久津を見習いサテラーに行こう……そう思っていた。
しかしながら世の中というのは、何かしら決意をした時に限って不思議と誘惑なり邪魔が舞い込んでくるものである。
例えるならダイエットを始めようとした矢先に普段食べられないような豪華なものを食べるチャンスが舞い込んできたり、勉強を始めようとした矢先に母親が部屋へ入ってきて「アンタいつ勉強するの」と叱られることで今やろうと思ってたやる気が削がれたりといった形だ。
『――――もし良かったら、一緒に帰らない?』
そんな謎の法則に従うかの如く、昼休みに俺の携帯へ届いたのは夢野からのお誘いメール。詳しく話を聞いてみれば、今日は自転車を直すために音楽部を休むとのことらしい。
今までは一緒に帰ることが結構あったものの、三年生になってからは未だに0。それに加えて今日は普段の自転車での下校と違い、滅多に機会のない電車での下校となれば、俺の返事は必然的に決まっており即答でOKと返した。
昨日は昨日で阿久津が陶芸部に顔を出す日だったため、結局俺も普段通り部室へ行ってしまったという体たらく。明日から頑張ると言いたいところだが、明後日になると今度は新入部員歓迎会のパーティーがあるため、水曜だけ行くのも中途半端でどうかという話。サテラーに行くのはゴールデンウィークが明けてからになりそうだ。
(明日から本気出すというニート発言にしか聞こえないね)
脳内に住みついているプチ阿久津が苦言を呈して呆れているが、決してそんなことはない。サテラー以外の勉強は、連休中にしっかりやるつもりだ。
まだまだ自分に甘い俺は、そんな言い訳ばかり心の中に言い聞かせる。
「お待たせ」
「おう」
放課後を迎えるなり昇降口を出ると校門に向かい、今にも雨が降って来そうな曇り空の下で待つこと数分。駅へ歩いていく他の生徒達を眺めていると、ショートポニーテールの尻尾を揺らしつつ夢野がやってきた。
今朝振りに再会した少女と共に並んで歩くが、いざ一緒に帰るとなると徐々にテンションが上がってくる。いやいや、だからって調子に乗ったらいかん。
「米倉君、何か良いことあった?」
「ん? どうしてだ?」
「何だか凄く嬉しそうだから」
前にも似たようなことを聞かれたような気がする。確かあれは雪が残ってた日……うっかり俺の即興ラーメンソングを夢野に聞かれてしまった時だっただろうか。
その時のやり取りを思い出し、思わず笑みを浮かべつつ少女の質問に答えた。
「まあ、そうかもしれないな。こうして夢野と一緒に下校してる訳だし」
「ふふ。そんな風に褒めても、何も出てこないよ?」
夢野もまたあの日のことを思い出したのか、可愛い笑顔を見せる。冗談めかしつつ言ったのでお世辞に受け取られたかもしれないが、俺の言葉は決して嘘ではない。
整った顔立ちに優しい性格。
緩やかな曲線を描いている胸に、スカートの下から覗かせている綺麗な脚。
見ているだけで元気になる眩しい微笑み。
「……………………」
――――そして、艶やかな唇。
修学旅行の最終日、頬にキスをされたことは夢じゃない。
最近になってようやく直視できるようなってきた……と思っていたが、あの柔らかい感触を思い出してしまうと未だに顔が熱くなり、不気味なニヤけ顔になってしまう。
何てったってKISSである。
言い換えれば接吻。
フランス語ならベーゼ。
頬や額、手の甲といった部位への場合はライトキスとも呼ばれるらしいが、ほっぺにチューしてもらった高校生とか全国の1%にも満たないんじゃないか?
考えれば考えるほどにウキウキして足が速くなりそうだったが、今は隣を歩く少女にペースを合わせる。一人だったら間違いなく全力疾走してたなこれ。
「雨、今にも「降りますよーっ!」って感じの空だね」
「ああ。天気予報でも午後は降るって言ってたしな」
「今日は電車にしておいて正解だったかも…………きゃっ?」
唐突に空がピカッと強く光る。
間隔を空けてゴロゴロと雷鳴が轟く中、夢野は両手で耳を抑え身を強張らせていた。
「ひょっとして、雷が苦手なのか?」
「うん。あんまり……建物の中とかにいれば、まだ平気なんだけど……」
「そういうことなら、止むまでどこかに寄ってくか?」
「ううん。今のはいきなりでちょっと驚いただけだし、そこまで駄目って訳じゃないから大丈夫。心配してくれてありがとうね」
梅雨入り前や梅雨明け辺りになると授業中に雷が鳴る時があるものの、怖がっているのはせいぜいクラスに一人か二人くらい。見ている分には守ってあげたい気持ちになる可愛い反応だが、女子校生ともなれば割と珍しかったりもする。
合宿で肝試しをした時にはお化け屋敷は大丈夫でも心霊スポット系は駄目と言っていたし、恐らくは自然的な物が苦手ということなんだろう。最初の一回目ほどではないものの、その後も空が光って雷が鳴る度に夢野はビクッとしていた。
「俺も子供の頃は傘を差してたら自分に落ちてくると思ってたから、雷は苦手だったよ」
「今は怖くないの?」
「まあな」
寧ろ個人的には雷が鳴った後の、この今にも夕立が来そうな瞬間が大好きだったりする。雲が薄い時とかは空が紫色になり、滅多に見られない世界の終焉みたいな雰囲気っぽくなるため厨二心をくすぐられるんだが……夢野にはわかってもらえなさそうだ。
まあ稲光を見るのも、世界の終焉を楽しむのも、異常なくらい激しい雨にワクワクするのも、理想を言えば建物の中がベスト。自分が雨に打たれるのは勘弁願いたい。
「グラウンドみたいに周囲に高い物がない場所ならならともかく、この辺りなら俺達より先に木とか家に落ちるだろうからさ。木の下とか軒先で雨宿りしてたら感電しやすいから危ないけど、近づいてさえいなければ問題ない筈だぞ」
「本当に?」
「そんなに心配なら、とっておきの奥義を教えておくか?」
「奥義?」
「雷しゃがみって言って、海外の雷が多い地域とかだと必須らしいんだけどさ。踵を合わせながらつま先立ちでしゃがむんだよ。そうすると上半身に電気が流れないで右足から左足に電気が逃げるし、流れる量も少なくて済むんだと」
「踵を合わせながら、つま先立ちで…………こんな感じ?」
大通りより一本裏道を歩いていたため、夢野は周囲に人目がないことを確認してから頭を抱えつつその場にしゃがみこむ。
本人は至って真面目な様子だが、どこぞのゲームのカリスマガードを彷彿とさせる感じで、見ていてほっこりしてしまったのは内緒だ。
「そうそう。それが奥義、雷しゃがみだ。この構えさえあれば雷さえも防げるぞ!」
「へー。でもこれ、光った瞬間にやっても間に合うの?」
「…………」
「………………」
「……………………光速を超えれば防げるぞ!」
「えーっ?」
言われるまで全く気が付かなかった衝撃の事実。それこそ格ゲーじゃあるまいし、雷が光るのを見てからガード余裕でしたとか絶対無理に決まってる。
光速ダッシュならぬ光速ガードという梅みたいなことを言っていると、雷に対する恐怖心が和らいだ様子の夢野は立ちあがるなり首を傾げつつ尋ねてくる。
「ちなみに、誰から教えて貰ったの?」
「教えて貰った訳じゃなくて、小さい頃に見たテレビでやってたんだよ。もしかしたらやるタイミングとか説明してたのかもしれないけど、流石にそこまでは覚えてないな」
我が家の場合は兄妹がアレなので、この手の知識が紹介された場合は実際にやってみることが多々あった。例えるなら『テレビの前の皆さんは今すぐ○○を用意してください』とか言われる場合は、しっかり準備をしていたくらいである。
クイズ番組は参戦でもしているかの如くテレビの前で解答しながら見ていたとか、この辺りは兄妹あるあるかもしれない。答えが分かる場合はペラペラ喋る癖に、知らない問題が出た途端に静かになるんだよな。
「へー。今度、幼稚園の子にも教えてあげよっかな」
仮に梅の奴を相手にこの手の知識を話したら「そういうお兄ちゃんトリビアとかいいから」なんて一蹴されるところだが、夢野は素直に感心してくれている。こういう反応だと、教えたこちらとしても嬉しい限りだ。
「幼稚園児の場合、教えたら教えたで何か別の形に派生しそうな気がするけどな」
「うーん。誰が一番、雷しゃがみの姿勢を維持していられるか……とか?」
「そうそう! そういう感じのやつ!」
「ふふ。確かにそうかも。子供って何でもゲームにしちゃうんだよね」
元旦のハル君の一件が脳裏に浮かび上がり、思わず苦笑いを浮かべる。あんな子達を相手にしていると考えると、保育士って本当に大変だな。
「あー、何かそんな感じの遊びってなかったっけ? 何が落ちたって聞くやつ」
「うん。あるよ。落ーちた落ちた♪」
「何が落ちた?」
「リンゴ!」
「むむ……閃いたぞっ! これを万有引力と名付けようっ!」
握り拳を掌にポンと当てるポーズをして、ニュートンっぽい物真似を披露すると夢野がクスッと笑う。アキト辺りのツボに入りそうなネタだし、今度昼休みにやってみるか。
「確かリンゴはこう、支えるんだよな。他にどういうバリエーションがあったっけ?」
「よくあるのはげんこつが落ちたら頭を抑えて、雷が落ちたらおへそを抑えるくらいかな。年長さんとかになると雨とか、桜の花びらとか追加するときもあるけどね」
「ん? 雨は傘を差すんだろうけど、桜の花びらってどうするんだ?」
「こう、バチンってやってキャッチす――――」
――――ゴロゴロゴロゴロ――――
「…………るの……」
「間違ってるぞ夢野。雷が落ちた時に抑えるのは耳じゃなくてへそだろ?」
「もう。そういうこと言って、米倉君にげんこつが落ちても知らないからね?」
「そうそう。その意気だ。知ってるか? 夢野が笑ってれば雷も落ちないんだぞ?」
「どうして?」
「蕾って漢字から草を取ったら、雷になるからな。草を生やすくらいに笑えば大丈夫だ」
「え? …………本当だっ! 米倉君、凄いっ!」
「更にもう一つ! 夢野の元気がないと雨も降るんだぞ」
「元気がないと……? うーん。ちょっとわからないかも。どういう意味なの?」
「蕾って漢字から苗って漢字を取ると、雨が残るだろ? 蕾が萎えとると雨が降るってな」
「凄い凄い! 米倉君、よくそういうの思いつくね!」
「まあ伊達に万有引力の研究をしてな…………ん?」
徐々に近くなっているのか雷鳴の頻度が増していく中、個人的には雷よりも雨の方が気になるところ…………と思った傍から、額に何か冷たい物が当たった気がする。
どうやら気のせいではなかったらしく、数秒もするとポツポツと大粒の雨が降り出してきた。
「降ってきちゃったね」
「だな。夢野は傘持ってるのか?」
「うん。大丈夫」
夕立の雨はあっという間に激しくなるため、慌てて鞄から折り畳み傘を取り出す。隣を歩く少女に尋ねてみると、彼女も折り畳み傘をしっかりと持ってきていた。
俺は普段から傘を鞄に入れっぱなしで常備しているため、今日みたいに朝の時点で雨を感じさせない天気だったなら相合傘ができるかもしれないなんて思ってもいたが…………ちょっと待て。俺が忘れた振りでもすればワンチャンあったのか?
「米倉君。手術した足、濡れたりしても大丈夫なの?」
「ん? あー、まあ風呂は駄目でもシャワーは許可が出てるし、多分問題ないだろ」
「うーん。やっぱりどこかで雨宿りして行こっか」
「いやいや、駅までちょっとだし大丈夫だって」
「本当にー?」
この手の雨は一気に激しくなる代わりに少ししたらすぐ落ち着くだろうが、夢野が部活を休んだのは自転車の修理のため。のんびり雨宿りした結果サイクルショップが閉まっていた……なんてことになったら、流石に申し訳なさすぎる。
傘を差していても足は濡れやすく、まだ手術後二日目であることを考えれば正直あまり良くはないのかもしれない。それでも昨日や一昨日に比べたら痛みは大分マシになっているし、これくらいどうってことないだろう。
「そういう夢野こそ、本当は雷が怖くて雨宿りしたいんじゃないのか?」
「そんなことな――――」
少女が否定しかけた直後、雷様が空気を読んだのか一段と強く空が光り輝く。
そして今までとは異なり、どこかに落ちたと思わせるような一段と激しい雷鳴が轟いた。
「おー、今のはでかかったな」
「…………」
「おーい、夢野ー? 大丈夫かー?」
「…………だいじょうぶ……」
「本当に~?」
「…………米倉君の意地悪……」
雨も激しくなってきたが、駅が近づいてくると歩くのは高架下。降り出したタイミングが遅かったこともあり、俺達は大して濡れることもないまま電車に乗ることができた。
窓ガラスへ勢いよく打ち付けてくる雨粒や、時折ピカッと輝く雷雲を眺めていると、俺の隣で一緒になって外を見ていた夢野が小さな声で囁いてくる。
「もうすぐゴールデンウィークだけど、米倉君の予定は?」
「予定か……陶芸部の歓迎会も明後日になったし、これといってないな。夢野は?」
「私も音楽部の練習くらいかな。本当は米倉君と行きたい場所があったんだけどね」
「ん? どこだ?」
「藤まつりって知ってる?」
「いや、知らないな。この時期にお祭りなんてあるのか?」
「うん。ちょっと待ってね…………ほら、これ」
見せられたスマホの画面に映っていたのは、藤まつりと大きく書かれた広告。そしてそこには紫色をした綺麗な藤の花が咲き誇っている写真が載っていた。
内容は踊りに和太鼓に吹奏楽といったパレードに加えて、出店なども並び賑わっている様子が窺える。それこそ夏のお祭りと何ら変わりない盛り上がりっぷりだ、
「へー。こんなのがあったんだな。よし、行こう!」
「駄目です。怪我人は安静にしましょう」
「いやいや、最終日の頃なら足も大分良くなってると思うぞ?」
「それでも駄目。お祭りは夏まで我慢です」
こういう時の夢野は絶対に引かないというのが、最近になって少しわかってきた。
少し残念ではあるものの、今回は大人しく諦めることにしよう。それに藤まつりよりも夏祭りの方が気温が上がってる分、浴衣姿を拝める確率も上がるかもしれない。
「わかったよ。まあ、ゴールデンウィークが明けたらテスト二週間前だしな」
「そうそう。ちゃんと勉強しないと…………今回もお世話になります」
「お世話してるのは主に阿久津とか火水木だけどな」
「そんなことないよ。米倉君の説明だって、凄く分かりやすいから」
「そうか?」
「うん。私のレベルに合わせてくれてるっていうのかな? ちゃんとわからない人の気持ちになって教えてくれる感じがして、一番分かりやすいよ」
「それは単にあの二人に比べた場合、俺のレベルが低いだけだと思うぞ?」
「そんなことないってば…………あっ!」
「どうした?」
「いいこと思いついちゃった。米倉君、ゴールデンウィークの予定は空いてるんだよね?」
「ああ。まあ大体は空いてるけど……」
俺の答えを聞くなり、夢野は無邪気な笑みを浮かべる。
藤まつりを諦めた少女の口から発せられたのは、予想だにしない唐突な提案だった。
「一日の日曜日、米倉君の家にお邪魔してもいい? 一緒に勉強会しない?」
しかしながら世の中というのは、何かしら決意をした時に限って不思議と誘惑なり邪魔が舞い込んでくるものである。
例えるならダイエットを始めようとした矢先に普段食べられないような豪華なものを食べるチャンスが舞い込んできたり、勉強を始めようとした矢先に母親が部屋へ入ってきて「アンタいつ勉強するの」と叱られることで今やろうと思ってたやる気が削がれたりといった形だ。
『――――もし良かったら、一緒に帰らない?』
そんな謎の法則に従うかの如く、昼休みに俺の携帯へ届いたのは夢野からのお誘いメール。詳しく話を聞いてみれば、今日は自転車を直すために音楽部を休むとのことらしい。
今までは一緒に帰ることが結構あったものの、三年生になってからは未だに0。それに加えて今日は普段の自転車での下校と違い、滅多に機会のない電車での下校となれば、俺の返事は必然的に決まっており即答でOKと返した。
昨日は昨日で阿久津が陶芸部に顔を出す日だったため、結局俺も普段通り部室へ行ってしまったという体たらく。明日から頑張ると言いたいところだが、明後日になると今度は新入部員歓迎会のパーティーがあるため、水曜だけ行くのも中途半端でどうかという話。サテラーに行くのはゴールデンウィークが明けてからになりそうだ。
(明日から本気出すというニート発言にしか聞こえないね)
脳内に住みついているプチ阿久津が苦言を呈して呆れているが、決してそんなことはない。サテラー以外の勉強は、連休中にしっかりやるつもりだ。
まだまだ自分に甘い俺は、そんな言い訳ばかり心の中に言い聞かせる。
「お待たせ」
「おう」
放課後を迎えるなり昇降口を出ると校門に向かい、今にも雨が降って来そうな曇り空の下で待つこと数分。駅へ歩いていく他の生徒達を眺めていると、ショートポニーテールの尻尾を揺らしつつ夢野がやってきた。
今朝振りに再会した少女と共に並んで歩くが、いざ一緒に帰るとなると徐々にテンションが上がってくる。いやいや、だからって調子に乗ったらいかん。
「米倉君、何か良いことあった?」
「ん? どうしてだ?」
「何だか凄く嬉しそうだから」
前にも似たようなことを聞かれたような気がする。確かあれは雪が残ってた日……うっかり俺の即興ラーメンソングを夢野に聞かれてしまった時だっただろうか。
その時のやり取りを思い出し、思わず笑みを浮かべつつ少女の質問に答えた。
「まあ、そうかもしれないな。こうして夢野と一緒に下校してる訳だし」
「ふふ。そんな風に褒めても、何も出てこないよ?」
夢野もまたあの日のことを思い出したのか、可愛い笑顔を見せる。冗談めかしつつ言ったのでお世辞に受け取られたかもしれないが、俺の言葉は決して嘘ではない。
整った顔立ちに優しい性格。
緩やかな曲線を描いている胸に、スカートの下から覗かせている綺麗な脚。
見ているだけで元気になる眩しい微笑み。
「……………………」
――――そして、艶やかな唇。
修学旅行の最終日、頬にキスをされたことは夢じゃない。
最近になってようやく直視できるようなってきた……と思っていたが、あの柔らかい感触を思い出してしまうと未だに顔が熱くなり、不気味なニヤけ顔になってしまう。
何てったってKISSである。
言い換えれば接吻。
フランス語ならベーゼ。
頬や額、手の甲といった部位への場合はライトキスとも呼ばれるらしいが、ほっぺにチューしてもらった高校生とか全国の1%にも満たないんじゃないか?
考えれば考えるほどにウキウキして足が速くなりそうだったが、今は隣を歩く少女にペースを合わせる。一人だったら間違いなく全力疾走してたなこれ。
「雨、今にも「降りますよーっ!」って感じの空だね」
「ああ。天気予報でも午後は降るって言ってたしな」
「今日は電車にしておいて正解だったかも…………きゃっ?」
唐突に空がピカッと強く光る。
間隔を空けてゴロゴロと雷鳴が轟く中、夢野は両手で耳を抑え身を強張らせていた。
「ひょっとして、雷が苦手なのか?」
「うん。あんまり……建物の中とかにいれば、まだ平気なんだけど……」
「そういうことなら、止むまでどこかに寄ってくか?」
「ううん。今のはいきなりでちょっと驚いただけだし、そこまで駄目って訳じゃないから大丈夫。心配してくれてありがとうね」
梅雨入り前や梅雨明け辺りになると授業中に雷が鳴る時があるものの、怖がっているのはせいぜいクラスに一人か二人くらい。見ている分には守ってあげたい気持ちになる可愛い反応だが、女子校生ともなれば割と珍しかったりもする。
合宿で肝試しをした時にはお化け屋敷は大丈夫でも心霊スポット系は駄目と言っていたし、恐らくは自然的な物が苦手ということなんだろう。最初の一回目ほどではないものの、その後も空が光って雷が鳴る度に夢野はビクッとしていた。
「俺も子供の頃は傘を差してたら自分に落ちてくると思ってたから、雷は苦手だったよ」
「今は怖くないの?」
「まあな」
寧ろ個人的には雷が鳴った後の、この今にも夕立が来そうな瞬間が大好きだったりする。雲が薄い時とかは空が紫色になり、滅多に見られない世界の終焉みたいな雰囲気っぽくなるため厨二心をくすぐられるんだが……夢野にはわかってもらえなさそうだ。
まあ稲光を見るのも、世界の終焉を楽しむのも、異常なくらい激しい雨にワクワクするのも、理想を言えば建物の中がベスト。自分が雨に打たれるのは勘弁願いたい。
「グラウンドみたいに周囲に高い物がない場所ならならともかく、この辺りなら俺達より先に木とか家に落ちるだろうからさ。木の下とか軒先で雨宿りしてたら感電しやすいから危ないけど、近づいてさえいなければ問題ない筈だぞ」
「本当に?」
「そんなに心配なら、とっておきの奥義を教えておくか?」
「奥義?」
「雷しゃがみって言って、海外の雷が多い地域とかだと必須らしいんだけどさ。踵を合わせながらつま先立ちでしゃがむんだよ。そうすると上半身に電気が流れないで右足から左足に電気が逃げるし、流れる量も少なくて済むんだと」
「踵を合わせながら、つま先立ちで…………こんな感じ?」
大通りより一本裏道を歩いていたため、夢野は周囲に人目がないことを確認してから頭を抱えつつその場にしゃがみこむ。
本人は至って真面目な様子だが、どこぞのゲームのカリスマガードを彷彿とさせる感じで、見ていてほっこりしてしまったのは内緒だ。
「そうそう。それが奥義、雷しゃがみだ。この構えさえあれば雷さえも防げるぞ!」
「へー。でもこれ、光った瞬間にやっても間に合うの?」
「…………」
「………………」
「……………………光速を超えれば防げるぞ!」
「えーっ?」
言われるまで全く気が付かなかった衝撃の事実。それこそ格ゲーじゃあるまいし、雷が光るのを見てからガード余裕でしたとか絶対無理に決まってる。
光速ダッシュならぬ光速ガードという梅みたいなことを言っていると、雷に対する恐怖心が和らいだ様子の夢野は立ちあがるなり首を傾げつつ尋ねてくる。
「ちなみに、誰から教えて貰ったの?」
「教えて貰った訳じゃなくて、小さい頃に見たテレビでやってたんだよ。もしかしたらやるタイミングとか説明してたのかもしれないけど、流石にそこまでは覚えてないな」
我が家の場合は兄妹がアレなので、この手の知識が紹介された場合は実際にやってみることが多々あった。例えるなら『テレビの前の皆さんは今すぐ○○を用意してください』とか言われる場合は、しっかり準備をしていたくらいである。
クイズ番組は参戦でもしているかの如くテレビの前で解答しながら見ていたとか、この辺りは兄妹あるあるかもしれない。答えが分かる場合はペラペラ喋る癖に、知らない問題が出た途端に静かになるんだよな。
「へー。今度、幼稚園の子にも教えてあげよっかな」
仮に梅の奴を相手にこの手の知識を話したら「そういうお兄ちゃんトリビアとかいいから」なんて一蹴されるところだが、夢野は素直に感心してくれている。こういう反応だと、教えたこちらとしても嬉しい限りだ。
「幼稚園児の場合、教えたら教えたで何か別の形に派生しそうな気がするけどな」
「うーん。誰が一番、雷しゃがみの姿勢を維持していられるか……とか?」
「そうそう! そういう感じのやつ!」
「ふふ。確かにそうかも。子供って何でもゲームにしちゃうんだよね」
元旦のハル君の一件が脳裏に浮かび上がり、思わず苦笑いを浮かべる。あんな子達を相手にしていると考えると、保育士って本当に大変だな。
「あー、何かそんな感じの遊びってなかったっけ? 何が落ちたって聞くやつ」
「うん。あるよ。落ーちた落ちた♪」
「何が落ちた?」
「リンゴ!」
「むむ……閃いたぞっ! これを万有引力と名付けようっ!」
握り拳を掌にポンと当てるポーズをして、ニュートンっぽい物真似を披露すると夢野がクスッと笑う。アキト辺りのツボに入りそうなネタだし、今度昼休みにやってみるか。
「確かリンゴはこう、支えるんだよな。他にどういうバリエーションがあったっけ?」
「よくあるのはげんこつが落ちたら頭を抑えて、雷が落ちたらおへそを抑えるくらいかな。年長さんとかになると雨とか、桜の花びらとか追加するときもあるけどね」
「ん? 雨は傘を差すんだろうけど、桜の花びらってどうするんだ?」
「こう、バチンってやってキャッチす――――」
――――ゴロゴロゴロゴロ――――
「…………るの……」
「間違ってるぞ夢野。雷が落ちた時に抑えるのは耳じゃなくてへそだろ?」
「もう。そういうこと言って、米倉君にげんこつが落ちても知らないからね?」
「そうそう。その意気だ。知ってるか? 夢野が笑ってれば雷も落ちないんだぞ?」
「どうして?」
「蕾って漢字から草を取ったら、雷になるからな。草を生やすくらいに笑えば大丈夫だ」
「え? …………本当だっ! 米倉君、凄いっ!」
「更にもう一つ! 夢野の元気がないと雨も降るんだぞ」
「元気がないと……? うーん。ちょっとわからないかも。どういう意味なの?」
「蕾って漢字から苗って漢字を取ると、雨が残るだろ? 蕾が萎えとると雨が降るってな」
「凄い凄い! 米倉君、よくそういうの思いつくね!」
「まあ伊達に万有引力の研究をしてな…………ん?」
徐々に近くなっているのか雷鳴の頻度が増していく中、個人的には雷よりも雨の方が気になるところ…………と思った傍から、額に何か冷たい物が当たった気がする。
どうやら気のせいではなかったらしく、数秒もするとポツポツと大粒の雨が降り出してきた。
「降ってきちゃったね」
「だな。夢野は傘持ってるのか?」
「うん。大丈夫」
夕立の雨はあっという間に激しくなるため、慌てて鞄から折り畳み傘を取り出す。隣を歩く少女に尋ねてみると、彼女も折り畳み傘をしっかりと持ってきていた。
俺は普段から傘を鞄に入れっぱなしで常備しているため、今日みたいに朝の時点で雨を感じさせない天気だったなら相合傘ができるかもしれないなんて思ってもいたが…………ちょっと待て。俺が忘れた振りでもすればワンチャンあったのか?
「米倉君。手術した足、濡れたりしても大丈夫なの?」
「ん? あー、まあ風呂は駄目でもシャワーは許可が出てるし、多分問題ないだろ」
「うーん。やっぱりどこかで雨宿りして行こっか」
「いやいや、駅までちょっとだし大丈夫だって」
「本当にー?」
この手の雨は一気に激しくなる代わりに少ししたらすぐ落ち着くだろうが、夢野が部活を休んだのは自転車の修理のため。のんびり雨宿りした結果サイクルショップが閉まっていた……なんてことになったら、流石に申し訳なさすぎる。
傘を差していても足は濡れやすく、まだ手術後二日目であることを考えれば正直あまり良くはないのかもしれない。それでも昨日や一昨日に比べたら痛みは大分マシになっているし、これくらいどうってことないだろう。
「そういう夢野こそ、本当は雷が怖くて雨宿りしたいんじゃないのか?」
「そんなことな――――」
少女が否定しかけた直後、雷様が空気を読んだのか一段と強く空が光り輝く。
そして今までとは異なり、どこかに落ちたと思わせるような一段と激しい雷鳴が轟いた。
「おー、今のはでかかったな」
「…………」
「おーい、夢野ー? 大丈夫かー?」
「…………だいじょうぶ……」
「本当に~?」
「…………米倉君の意地悪……」
雨も激しくなってきたが、駅が近づいてくると歩くのは高架下。降り出したタイミングが遅かったこともあり、俺達は大して濡れることもないまま電車に乗ることができた。
窓ガラスへ勢いよく打ち付けてくる雨粒や、時折ピカッと輝く雷雲を眺めていると、俺の隣で一緒になって外を見ていた夢野が小さな声で囁いてくる。
「もうすぐゴールデンウィークだけど、米倉君の予定は?」
「予定か……陶芸部の歓迎会も明後日になったし、これといってないな。夢野は?」
「私も音楽部の練習くらいかな。本当は米倉君と行きたい場所があったんだけどね」
「ん? どこだ?」
「藤まつりって知ってる?」
「いや、知らないな。この時期にお祭りなんてあるのか?」
「うん。ちょっと待ってね…………ほら、これ」
見せられたスマホの画面に映っていたのは、藤まつりと大きく書かれた広告。そしてそこには紫色をした綺麗な藤の花が咲き誇っている写真が載っていた。
内容は踊りに和太鼓に吹奏楽といったパレードに加えて、出店なども並び賑わっている様子が窺える。それこそ夏のお祭りと何ら変わりない盛り上がりっぷりだ、
「へー。こんなのがあったんだな。よし、行こう!」
「駄目です。怪我人は安静にしましょう」
「いやいや、最終日の頃なら足も大分良くなってると思うぞ?」
「それでも駄目。お祭りは夏まで我慢です」
こういう時の夢野は絶対に引かないというのが、最近になって少しわかってきた。
少し残念ではあるものの、今回は大人しく諦めることにしよう。それに藤まつりよりも夏祭りの方が気温が上がってる分、浴衣姿を拝める確率も上がるかもしれない。
「わかったよ。まあ、ゴールデンウィークが明けたらテスト二週間前だしな」
「そうそう。ちゃんと勉強しないと…………今回もお世話になります」
「お世話してるのは主に阿久津とか火水木だけどな」
「そんなことないよ。米倉君の説明だって、凄く分かりやすいから」
「そうか?」
「うん。私のレベルに合わせてくれてるっていうのかな? ちゃんとわからない人の気持ちになって教えてくれる感じがして、一番分かりやすいよ」
「それは単にあの二人に比べた場合、俺のレベルが低いだけだと思うぞ?」
「そんなことないってば…………あっ!」
「どうした?」
「いいこと思いついちゃった。米倉君、ゴールデンウィークの予定は空いてるんだよね?」
「ああ。まあ大体は空いてるけど……」
俺の答えを聞くなり、夢野は無邪気な笑みを浮かべる。
藤まつりを諦めた少女の口から発せられたのは、予想だにしない唐突な提案だった。
「一日の日曜日、米倉君の家にお邪魔してもいい? 一緒に勉強会しない?」