第1話 冷凍室の男

文字数 4,494文字

ある一人の男性が目を覚ました。周りには誰もいない。彼一人だけだ。
ここは、日本の片田舎にある冷凍食品を生産する工場の中だ。
その工場は、閑散としていて、まったく人の気配がない。
彼は、暗闇の中で、この場所について、記憶を手繰り寄せてみるが、記憶の手がかりが見つからなかった。誰かがいる痕跡が無く、夥しいほどの異臭がそこら中にしていて、胃の底から込み上げてくる吐き気がする。
ここは、風が吹き抜けて行く洞窟か満天の星空を眺めるプラネタリウムの中のように声が反響して吸い込まれていき、彼の言葉が外に届くことはなかった。
誰かがここに来るまで、一人きりでジッと待つべきだろうか、とも思ったが、この工場の中は、北極の中心に立っているのと同じくらい寒く、人が来るよりも、自分が凍え死んでしまう方が先だと、ガタガタ震えて、寒さと恐怖心と格闘しながら、彼は助けを待ち続けていた。
彼は、手探りであたりを動きまわってみよう、と思い立ち、暗がりの中で、近くの機械につかまって、立ち上がり、工場の中を捜索し始めた。
目を覚ましてから、およそ5分が経ち、暗闇の中の様子が少しだけわかるようになってきたので、自分の周囲に手を伸ばし、半径5メートルにあるものを、手当たり次第に触れてみた。彼の周りには、重厚そうな機械が数台置いてあり、手触りと頼りない視界だけでは、全ての感触を正確に確かめることはできないものの、他にあるものといえば、その機械の隣の本棚くらいで、脱出の役に立つようなものは見当たらなかった。
彼は、自分の一番近くにある機械をさらに注意深く触れてみた。手触りから推量すると、物体と物体を組み合わせて接合するための機械のように思えた。
頼ることができるのは、自分のそれぞれの感覚となけなしの経験だけだったので、なかなか判別が難しかったが、周囲に漂う生魚のようなひどい匂いと機械にこびりついた食べ物の感触から、家庭用の食品を作り出す機械だろう、と彼は推測をした。
そして、さらに慎重に手を滑らせていくと、ベルトコンベヤーのざらざらとした感触がしたので、ここは食品工場の生産レーンの一部なのだろう、と彼は感じた。
この機械が動き出してしまったとしたら、自分は某ハンバーガーショップのハンバーガーのパティのように、いとも簡単につぶされてしまって、自分の身体は、おそらくひとたまりもないだろうな、と彼はとても怖くなって、シャッターの方まで走り、
「おい、出してくれ、誰か、頼むここから出してくれ」
と、大声で怒鳴って助けを呼んだ。だが、十分経って、凍えるような寒さと殴り続けた手の痛みで、手の甲が血まみれになっても、誰も助けには来なかった。
彼は、半袖半ズボンのままで、気がついてみれば、いつのまにかこの場所に閉じ込められてしまったので、彼の唇と耳や鼻などの器官は、すでに凍り始めていた。
早くここから出ないと本当に死んでしまう、という生を求めるが故に発生する恐怖感が彼の心を支配し始めた。
まず彼は、ここから出るために明かりとなるものを探そう、と行動した。三十秒ほど目を凝らして、彼は工場の中を歩き回った。すると、シャッターの横には、懐中電灯が1つ置いてあった。彼は懐中電灯を備え付けの台から外して電気が点くか確かめてみた。幸いなことに、その懐中電灯は、まだ電池が残っているようだった。懐中電灯のある場所に貼ってあった用紙を確認すると、今年の三月に点検したばかりのようだった。まだ私には自分の身を生かすための時間が残されているようだ、と彼は束の間の安堵をした。
そして、彼は、懐中電灯の明かりをつけて、誰かが人の存在を認識することができるように、その懐中電灯の置いてある場所に備え付けてあった非常ベルを鳴らした。けたたましい空襲警報を予感させるサイレン音が辺りに響き、彼自身も音のうるささに鼓膜が破れてしまうのではないか、とも思ったが、生きるために背に腹は変えられないと思い、そのままサイレンを鳴らし続けた。
サイレンが鳴る暗闇の工場の中で、彼は閉じ込められてからずっとなにも食べていなかったことに気がつき、耐えられないほどの空腹感のため倒れてしまいそうだったので、次に食べ物を探そうと思い立ち、懐中電灯で工場の中を歩き始めた。明かりを点けて工場の中を歩き回ってみると、小麦粉のような粉があたりに撒き散らされていることが確認できた。そういえば、彼の母は小麦アレルギーを持っていることを思い出した。今、彼が咳き込んだり、首筋を掻きむしったりしていないことを考えると、自分には小麦アレルギーが遺伝していないのだとわかって、余計にこの工場の身に堪える寒さだけが強く意識されるようになった。工場を一周しきってしまうかと彼が思った頃、彼の眼前に非常用の食料庫があることが発見できた。
だが、扉が閉まっていて、彼の力だけでは、頑丈な錆びた鉛の扉を開けることはできない。どうにかこの扉を開けて食料を確保したい、と思って、彼は工場の一番小さな機械を足で蹴り飛ばして、破壊しようとした。その機械には、重油が溜まっていたので、蹴り飛ばした衝撃で、周辺に大量の油が撒き散らされて、ただでさえ生臭さや生き物が死んだような酷い匂いがするのに、余計に背筋が凍りつくような匂いがして、彼は思い切りなにも入っていない空の胃液を吐き出した。
機械は、三十回ほどの脚での打撃で、かろうじて壊れて、一本の一メートルほどの鋭利な鉄の棒が手に入った。彼はその棒を振り上げて、食料庫の窓ガラスを割った。すると、食糧庫の中から五十匹を超えるほどの真っ黒いコウモリが彼の頭上を掠めるように飛び出てきた。サイレン音とコウモリの鳴き声がけたたましく辺りに響いて、さながら地獄絵図のような音響が工場全体を覆いつくした。彼は、その音の嵐に耐えられなくなって、涙を出しながら天井を仰ぎ見るように大声で発狂した。 
ガラス片をいくつも飛び散らせながら、何度も鉄の棒でたたいて、やっとのことで窓ガラスを割ることができたので、食料庫に忍び込もうと上半身から、彼を待つ四角い空洞に身体を預けた。   
ズルズルと彼の身体は、食料庫の中に吸い込まれていく。窓に残っていたガラス片のいくつかが腹部に刺さって、着ていた水色のTシャツは、血液で真っ赤に染まった。生きるために必死な彼は、そんなことは御構い無しに、彼の身体は、食料をただ食べることだけを求めて、食料庫へと入っていった。
血液が流れ出た感触で、彼のアルゼンチン代表のような色をしたそのシャツは、とてもベトベトして気持ちが悪い。
彼が食料庫に入り終わり、右手に持っていた懐中電灯で、その中を照らした。食糧庫の中は、工場にいた時と比べても、さらに十度近く気温が低い。生きるためであれば、人間はこんなにも力強く呼吸を続けることができることを、生死の境で彼は思った。
食料庫には、大量の水と大量の米と大量の冷凍食品が凍ったまま置いてあった。
「なんだよ、これ。全部温めないと食えないじゃないか。」
彼は激怒して、袋を破って米を周囲にまき散らした。そして、米を炊かずに凍ったままで口の中へ流し込んで、むせ返ってほとんど吐き出した。だが、食べないと生きていくことが難しいことは、彼の本能が察知していたので、彼は歯で凍ったペットボトルを突き破って氷を取り出し、その氷に何の手も加えずに齧りついて、口の中を血だらけにした。 工場の中で目を覚まして、一時間ほどが経ち、一周回って自分を振り返ってみれば、彼は全身血まみれだった。
唯一、凍ったままでも食べられるものと言えば、冷凍食品の食パンだけだった。仕方がないので、食パンをムシャムシャと血に染まった口で、そのパンを真っ赤に染めながら食べていた。食品庫の寒さと凍った食品によって、彼の腹部は冷えきって、腹を壊してしまいそうだった。
何匹かのコウモリが、キイキイ鳴き声を出しながら、彼の周りを飛んでいる。彼は手を振り回して、必死に追い払った。だが、コウモリは彼の放つ死にかけた鰹のような血の匂いに引きつけられて、まったくその場を離れようとしなかった。
彼は、1匹のコウモリを先ほどの鉄の棒で、思い切り叩き殺した。コウモリは五回ほど叩くと力尽きて、地面に落下していった。彼は、おもむろにそのコウモリを食べてみようと思って、コウモリを食パンに挟んで、噛り付いてみた。そのコウモリは非常に苦味が強くて、今までに食べたことのない気味の悪い骨の感触がしたが、嗚咽を漏らしながら、彼はコウモリを無我夢中に食べた。コウモリの足の骨の感触は鳥の軟骨のようで、不気味さが彼の背筋に付きまとったものの、凍った食パンや凍ったままの冷凍食品と比べれば、決して食べられないことはなかった。味わうことさえ考えなければ、このコウモリを胃の中に入れることは不可能ではない、と彼は記憶さえも朦朧とする極限状態の中で、一つの炎が彼の意識に登って行くことを強く感じ取った。
そして、彼は二匹目、三匹目と次々にコウモリを鉄の棒で捕まえて、心の中で祈りを捧げながら、命に感謝しつつ召し上がった。
コウモリは棒で叩いて殺す時に、ショッカーの大群に似た断末魔のような叫び声を上げる。その音がサイレン音と連鎖して、彼の気持ちを著しく不安にさせた。
だが、私はここで生き延びなければならないのだ、という強い使命感を彼は持っていたので、必ず生きてここから出るのだ、と心の中で天国の父に誓願していた。
腹部から血が滴り落ちて行き、この工場の寒さと相まって、血が少しずつ凍りついて、彼の身体を蝕んで行った。
もしかしたら、このまま自分は、たった一人きりで、この地に骨を埋めることになってしまうかもしれない、という予感が彼の脳裏を過ぎった。
そこで、彼は懐中電灯を手にして、食料庫の白を基調とした壁に、腹部の血液を絡め取った割れた窓ガラスの破片を当てて、自分の生きた痕跡を残そうと決意した。
詩こそ書かなかったものの、彼は詩人のようなメンタリティを持っていた。生きることに命を燃やし尽くせば、誰もが詩人になれると彼は信じていた。
そう意味で、彼は詩人だった。
衰弱しきった精神と肉体で、彼は一遍の詩を紡ぎ出した。
「もしあなた方が地球の片隅で、目を瞑り佇む私を見つけたならば、私の骨を四川省の大地へ投げ捨てて欲しい。私は、その広大な緑野で、鹿や小鳥たちと哀しみに染まった秋の風を感じながら、歌声を響かせたい。私は、血液も凍りつく南極のようなこの場所で、生命を絶やさないようにと、命の火を燃やし続けた。だが、もう限界だったみたいだ。君の人生には、限りない幸福の福音と栄光の祝福がありますように。 劉獏顔(リュウ・バク・ガン)」
そして、活力を失った生命の炎を慈しむように、その男、劉獏顔は米の袋の上に頭を置き、束の間の眠りについた。彼の周りには、血の匂いを嗅ぎつけたコウモリの大群が飛び交っていた。
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