文字数 4,560文字

 カロンの舟に乗る前に見ていた城が、今は目の前にあった。その城は黒く冥界の空気と同化しているようだった。辛うじて城から漏れている小さな明かりだけが、その場所になにかがあるということを教えてくれた。わたしは恐怖からくるものなのか寒気からくるものかわからないけど、急に背筋がぶるりと震えた。だけど、ここまで来たからにはしっかりとやり遂げないと……。あの子に申し訳ないもんね。わたしは大きく息を吸い、思い切り吐き出してから大きな扉を押し開けると足元には真っ赤な敷物が敷かれており、その延長線上には背もたれが大きく天へと伸びている椅子があった。そして、そこに深く腰掛けている男性らしき人物。

 ─あれだ。あれに間違いない。

 わたしの勘がそう言っていた。実際、オルプネーさんも「あの方がハデス様です」と教えてくれたから間違いはなかった。間違いがなかったから無事というわけではなく、実際にその姿を目にするとまるで喉元を掴まれているような圧力を感じた。髪や衣服は黒く、肌は少しだけ紫色にも見える。目元は少し吊り上がっていて本気で睨まれたらたぶん、動けなくなるくらいに鋭かった。
「……貴様か。おれの城に侵入してきたという愚か者は」
 ずんとお腹の奥に響く声。そしてその声の主がゆっくりと立ち上がると、背丈もかなり高く、わたしを優に見下ろしていて、まるで小動物を見ているように不敵な笑みを浮かべていた。
「まぁ、良い。貴様はここで果てるまで存在し続けるのだから」
 言っている意味がわからなかった。果てるまで……って、もしかして、ここにずっとい続けろってことなの? そんなのは嫌。わたしにはやらないといけないことがあるんだから。わたしは意を決してそれを否定した。するとハデスはくくくと笑った後、大きな声を出して笑いだした。
「貴様にそんなことができると?? ならばかかってこい。暇つぶし程度にはなるだろう」
「は……ハデス様。おやめください!」
「オルプネー。お前はなぜその人間側についている」
「これは……」
 どう言ったらわかってくれるかと悩んでいるのを、ハデスは裏切りと判断したのかハデスの体から光をも飲み込む闇を生み出した。そしてその闇はじわじわとわたしに向かって意思があるかのように迫ってきた。この闇に触れてはいけないと思い、わたしは逃げられるところまで逃げてからデッキを取り出し、一枚展開した。
「きゃははっ!! このバラの香りで天国へ連れってあげる! どう? きれいでしょ?」
 現れたのは金色の髪に、艶っぽい唇から漏れたその言葉すらが甘美というものを表現していた。その少女は嬉しそうに高笑いをすると、自身からどす黒く変色した茎が鋭い植物をいくつも生やした。そしてその先端には美しくも残酷な色をしたバラが咲き乱れた。フレデリカと名乗った少女は茎をどんどんと伸ばし、ハデスへと絡ませると嬉しそうに微笑みながら手を叩いた。
「もうすぐ……迎えにくるから。安心して……ね♡」
「ぐっ」
 フレデリカの能力は、相手が回復するときにそれを毒に変じて攻撃ができるというものだった。さっきの闇から漂ったのはたぶんそれだと思って、フレデリカを選んでみたんだけど、それは正解だったみたい。ハデスは苦しそうに身動ぎをしていた。
「次は私たちの出番ですね。妖狐の力を見せつけるのです! いきますよ! こんこん!」
 狐の妖─クイナが小さな狐とともに現れ、ハデスから生気を吸い取っていく。徐々に立っていられなくなったハデスは歯をむいてわたしを睨んできたけど、もう一息とばかりにもう一枚展開した。
「アナタノセイキ。コノコニアゲルノ。ダカラ、チョウダイ」
 桜色の着物を纏った少女─籠女(かごめ)が手にしているのは、かつての思い人のしゃれこうべ。そのしゃれこうべの目が赤く光ると、ハデスからさらに生気を吸い取っていった。やがて籠女は満足したかのようにほほ笑むと、闇を纏いながらその場から姿を消した。
「ぐあっ! こ、小賢しい! 貴様、おれに歯向かったことを後悔させてやる……!」
 完全に立てなくなったハデスが、鋭く尖った視線をわたしに向けて叫ぶと今度がオルプネーさんがつかつかと歩み寄り、腰を屈め手を差し伸べた。
「おお……オルプネーよ」
「……どいてもらえますか」
「な……なんだとっ!!! ぐ……ぐおおおおおっ!!!」
 オルプネーさんは差し伸べた手から、あの冥い芋虫を呼び出すとハデスの生気をこれでもかとばかりに吸い込んだ。しばらくして、芋虫は小さく息を漏らすと冥い世界へと帰っていった。
「ハデス様。人の話を最後まで聞かないのは悪い癖だと、前から言っていますのに」
「ぐ……ぐぅ……」
 わたしは怖くて何もできなかったのに、オルプネーさんはそんなことを気にしないで歩み寄って更に追い打ちをかけるその顔は冷ややかに怒っていた。すっくと立ちあがりオルプネーさんと目が合うとオルプネーさんはちょっと恥ずかしそうに笑いながら小さく頷いた。それにわたしも小さく頷き、動けなくなっている今がチャンスだとばかりにハデスに近付き証について尋ねてみた。
「あ……証だと。あぁ、あれなら持っている。だが、貴様には渡すことはできん」
 頑なに渡したくないというハデスに、わたしはハデスの耳元で囁いた。すると、ハデスは顔を真っ青にして首を横に振り始めた。
「だめだ。それはだめだ。絶対に、絶対に!!!」
 さっきと明らかに態度が違うことにオルプネーさんは不思議に思い、わたしに何を囁いたのか聞いてきた。けど、それをも必死に静止するハデスは降参し証を渡してもらえることになった。
「それにしても貴様。なぜそのことを知っている……」
 わたしは適当にはぐらかして、まだふらつきの残るハデスから目的の「魔の紋章」を受け取った。これで……これで試練を突破できた喜びにわたしは目の前に二人がいるのを忘れてはしゃいだ。今までたくさん怖い思いをしてきたけど、今回以上のものはなかったからこそこの達成感はひとしおだった。
「よかったですね。おめでとうございます」
 オルプネーさんがまるで自分のことのように喜んでくれることに、わたしはまた嬉しくなりオルプネーさんの手を何度も握った。ここまで頑張れたのもオルプネーさんが協力してくれたおかげだと言うと、オルプネーさんは首を横に振りながらわたしの手のひらに何かを置いた。
「あなたが手伝ってくれたから、私も手伝いたいって思えました。これはそのお礼です。受け取ってください」
 オルプネーさんの手が離れると、そこにはオルプネーさんの顔が描かれた駒があった。これはと尋ねると、オルプネーさんは「困ったときはいつでも呼んでください。きっとあなたの助けになりますから」と柔らかい口調で教えてくれた。
「それと……ハデス様。この方がここにいらした理由を聞かずに力を使ったことについてですが……。始末書を提出するのと、この方に力を貸すのとどちらがいいですか?」
 オルプネーさんは冷たくそう言うと、ハデスはまた表情を引きつらせながらしばらく悩むと、右腕を伸ばして意識を集中し始めた。それは小さな円盤状の物となり、最後にハデスの顔が描かれると駒として生成が完了した。
「……ふん。言っておくが、この力は強すぎる。貴様に制御できるなら……使いこなしてみるがいい」
 ハデスの駒を手に取ったときに感じたのは、初めてハデスと対面したあの息苦しさにも似ていた。手のひらに載せただけなのに、その駒から何かが蠢いているように感じた。そして、この駒にわたしの意識を持っていかれないよう気を付けながらカバンにしまうと、ハデスは「用が済んだならさっさと去れ」と言い、指を鳴らした。
「貴様が現れたところに扉をこしらえた。そこをくぐれば元の世界に戻れる。感謝しろ」
「……ハデス様??」
 オルプネーさんの言葉に体をびくっとさせるハデス。顔はちょっと怖いんだけど、どこか楽しい人なんだなって思った。わたしは二人にお礼を言って城を出ようとしたとき、オルプネーさんは白い光を生み出しそれを辿れば扉まで導いてくれると教えてくれた。何度も頭を下げて、今度こそわたしは城を出て、出口へ導いてくれる白い光を追った。

「ところで、ハデス様。あの子はさっき、なんと言っていたのですか?」
 立ち上がれるまでに回復したハデスは、もう言っても大丈夫だろうと判断しオルプネーに小声で言った。
「……おれが地上へ攻め込もうと企んでいるのを妻にばらす……と」
「……そんな計画は初耳です。それは本当なのですか……?」
「……実は密かに考えていたんだが……。こっそり書類まで提出したのだぞ?」
「おかしいですね。その書類はまだ拝見していないのですが……」
「だが! このことは妻に内緒に……!!」
「あらぁ? なんだか面白いことを考えてるって聞こえたのだけど……?」
ぎくぅう!!
 体をびくりとさせ、汗をだらだらと流すハデス。聞かれてはならない人物に聞かれてしまい、もうどうすることもできない。だが、もしかしたら違うかもしれないという僅かな期待を胸にハデスはゆっくりと後ろを振り返った。
 その瞬間、ハデスは真っ白になり固まってしまった。こことは無縁とも思える銀河のような髪に、冥界の炎のようなディープグリーンの瞳、闇夜をイメージしたような深い色のドレスに金色のヒールを履いた女性。その女性こそハデスの妻であり冥界の女王─ペルセポネ。ペルセポネは優雅に一歩ずつハデスに近づくと何事かと尋ねる。しかし、ハデスの口からはとても言えるような内容ではないので、ただだらだらと脂汗を流している。なぜ言えないかという理由も知っていてペルセポネは敢えてもう一度旦那であるハデスに尋ねた。
「あなた。なにやら面白いことを考えているみたいだけど……どんなことかしら?」
 二度聞かれても答える気配を確認したペルセポネは「仕方ないわね」と言い、今度はオルプネーに尋ねた。
「オルプネーは何か知っているのかしら?」
 柔らかな笑顔を崩さず尋ねてきたペルセポネを直視することができないハデスは、無言で首を小刻みに動かし「言うな」と訴えていた。それを見たオルプネーは小さく頷き、ペルセポネに口を開いた。
「どうやら、ハデス様は地上へ攻め込むことを企んでいるご様子だそう」
「ほう」
ばっ!!!!
 もうこれ以上白くなれないというのに、ハデスは更に白くなりぴくりとも動かなくなった。ペルセポネがハデスの傍に寄り、頭を撫でながら確認をした。
「あなた、それは本当なのかしら?」
「……………………」
「そう。無言は肯定と捉えるわね。そのお話、ゆーっくり聞かせてもらえるかしら?」
「……………………」
「あ、オルプネー。教えてくれてありがとう。あとでお礼をするわ」
「はい。ありがとうございます」
 そう言ってペルセポネはハデスの首根っこを掴みながらずるずると引きずり、どこかへ行ってしまった。途中、何か悲鳴のようなものを聞いたような気がしたが、きっと気のせいだとオルプネーは自身に言い聞かせて自分のデスクへと戻っていった。
「さ、仕事はきっちりこなしますよ」
 気合を入れたオルプネーの声を最後に、ハデスの城の入り口はゆっくりと閉まり闇の中へと消えていった。
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