御屁様

文字数 2,308文字

  エレベーターの中。

  下手(しもて)側にドアがあるが、閉じている。  

  

  10人ほどが立っている。

  みな不安顔である。

ママ。

だいぶ揺れたね。

エレベーター、大丈夫かな。

今の地震で、自動停止したんでしょ。

心配ないわよ。

  エレベーターは止まったままで、ドアも開かない。
(イラついた調子で)何してやがるんだ?
  男、エレベーター内の緊急連絡ボタンを押す。
はい。

こちら、エレベーター集中管理室です。

早く、ドア開けてくれよ。

俺は、急いでるんだ。

そうしたいのはやまやまなんですが、今の地震で、多数のエレベーターが緊急停止しております。

なこたぁ、分かってる。

真っ先に、ここを開けてくれよ。

俺は、便所に行きたいんだ。


係員の人数は、限られております。

順番に伺っておりますので、しばらくお待ち下さい。

ざけるな!

すぐに開けないと、ここで、やらかしちまうぞ。

何とか、耐え難きを耐え、忍び難きを忍んで……。
  中年の男が、人をかき分けて近づく。
まあまあ、落ち付いて下さい。
なんだ、テメエは。

安倍川餅みたいなツラしやがって。

(男を無視して、集中管理室係員に話しかける)

もしもし。

地震の規模や被害状況はどうなんですか?

震源は千葉県東方沖、最大震度は6弱です。

今のところ、大きな被害は報道されていません。

津波の心配は、ないとのことです。

そうですか。

それで、係の人がこちらに来るのはいつごろになりますか?

見通しが立っておりません。

出来るだけ急ぎますので、ご理解下さい。

はい、分かりました。


(ほかの人達に向かって)

お聞きのような状況です。

とにかく、待つしかないようですね。

(乗客たち)オヘサマのご加護を。
(いまいましそうに)ちくしょう。
  エレベーター内を沈黙が支配する。


  突然、「プー」と小さい音がする。


  乗客たち、それに気が付かないかのようである。

誰だー?

こんな狭いところで、()こきやがったのは。

  誰も答えない。
(低く小さな声で呟くように)締めよ―、締めよ―。時、満つるまでー。

(ひそひそ声で)

ママー。

あの人、ヘボだよ。

(小声で)

シッ!

黙ってなさい。

(小声でぼそぼそと)オヘサマのご加護を……。
  どこからか「スー」という音が聞こえる。
おいおい、今度は音無しかよ。

ウッ! すげぇ臭いだな。

鼻が曲がりそうだ。

  すると今度は、「ブリブリブリー」と、かなり大きい音が響く。


  誰も気が付かないかのようだ。

いい加減にしろ!

屁を連発してるのはどいつだ?

これから、俺が一人一人調べる!

ちょっと待って下さいよ。

オナラを冒涜(ぼうとく)しちゃいけません。

なんだとー!

屁に、冒涜もクソもあるかよ。


ねぇ、皆さん。

この人は明らかに、オヘサマを侮辱してますね。

(男を除く乗客たち、低い声で)

ヘボ、ヘボ、ヘボ――。

(母親を見上げて)

ヘボは、悪者(わるもの)なんでしょ?
そうよ。

ヘボはいつか、オヘサマに()り殺されちゃうのよ。

お前ら、グルか。

何なんだ?

ヘボとか、訳の分からんことを言ってるが。

ヘボというのは、「屁亡」と書きます。

御屁様を(ないがし)ろにし、敵対する者のことですよ。

ますます、分からねぇ。

何だ? オヘサマってのは。

いわゆる、オナラのこと。

オヘサマは、「御屁様」と書きます。

こりゃ、驚いた。

屁に、様を付ける阿呆(あほう)がいたとはね。

(呪文を唱えるように)屁亡、屁亡、屁亡――。
体内から()り出されるオナラは、実は尊く有難い存在なのです。

人間は長らくそのことに気が付かなかった。


馬鹿言え。

屁は、単なる腸内ガスに過ぎんよ。

まあ、聞いて下さい。

およそ10年前、医師であらせられた須加辺(すかへ)大先生が、用便中に卒然と、この永遠不変の真理を会得されました。

そして、オナラを「御屁様」と名付け、「御屁様真理研究会」を創設されたのです。

あたしたちはね、あなたを除いて全員、研究会の会員。

この高層ビルの屋上で、日没に合わせて放屁する「日没放屁会(ほうひえ)」を執り行うところだったのよ。


すると、そこのジジイが、すかしっぺ大先生とやらか?

いや、私は「導師」です。

大先生は(かしこ)くも、奈良県にある総本山におられます。


あなたも、日没放屁会に参加してみませんか? 

御屁様の有難味が、実感できますよ。

冗談じゃねぇよ。

だが、気色悪い話を聞いたせいか、また腹が渋ってきやがった。


腹の具合でも悪いんですか?

(額の脂汗を手で拭いながら)

昨夜、キンキンに冷えたビール、大ジョッキ10杯飲んだら、下痢だ。

いったん収まったんで、昼に大ジョッキ5杯飲んだら、ぶり返しやがった。

大丈夫ですか?
大丈夫じゃねぇよ。

う……。

こりゃいかん。

間違っても、御屁様を大便と一緒に出さないで下さいよ。


何でだよ。
御屁様を大便と一緒に出すのは、御屁様に対する、一番罪深い冒涜です。
何を、たわけたこと言ってんだ。

うっ! いよいよダメか……。

(身をよじる)

(会員たち、恐怖の色を浮かべ、男から離れようとする)

恐ろしや―、あな恐ろしや―。
平太郎(へいたろう)

ママの後ろに隠れて。

(母の後ろに隠れながら)

ママ、怖いよ!

やむを得ません。

日没放屁会は止めて、ここで、大放屁の御業(みわざ)を執り行いましょう。

いいですか⁈

はい!

はい!

はい!


構え!
  会員たち、合掌しながら同じ方向を向いて、尻を突き出す。

臍下(せいか)丹田(たんでん)に力を込めて―。

ダイホーヒィ――!
  エレベーター内に、さまざまな音色の放屁音が鳴り響く。


  と同時に、エレベーターのドアが開く。

放屁やめぃ!

退避!

  急いで、しかし整然と、エレベーターから出ていく。


  男一人が残される。床に倒れていて動かない。



  暗転。

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登場人物紹介

中年の男。エレベーターの乗客。

比較的若い男。エレベーターの乗客。

比較的若い女。エレベーターの乗客。

比較的若い女の息子。小学生。エレベーターの乗客。

若い女。エレベーターの乗客。

その他の乗客。5人。

エレベーター管理会社社員(声のみ)。

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