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 次の日も、わたしは昨日と同じ時間に、土手に向かった。でも、その日は、カオルさんとは会えなかった。わたしは、すでに3日目にして、カオルさんと話すことを目的にして、その土手に行っていた。自分の事で迷うことなんて、もうなかった。カオルさんはどうしているだろう、カオルさんは大丈夫だろうか、と、そればかりを考えていて、食事が喉を通らないという、初めての経験をした。昨日は、何も食べずに、テレビをつけっぱなしで、家から出ずに過ごした。思えば、離婚したときも、夫からメールが来たときも、仕事はできなくても、食事だけはすることができていた。それができなくなるということは、よっぽどの事だ。

 土手に用事がなくなったので、わたしはすぐに家に帰った。でも、朝食は食べる気が起こらなかった。そのままベッドに入って、気のない昼のワイドショーが始まる時間になって、このままじゃいかん! と気分を無理矢理にでも変えて、着替えて、財布だけを持って家を出た。気分は、変えようとしないと変わらないものだな、などと妙な事を考えていた。

 すると、家の前に、正確には、わたしの住んでいるアパートの一階部分に、カオルさんが立っていた。一人で、何やら柔道着のような服を着ていて、ナップサックのようなものを背負っていた。

「カオルさん」

 わたしは声をかけた。なんだか、とても嬉しくなった。それと同時に、この時間に何とか家を出ようと決心した自分を、褒めてあげたいと思った。

「こんにちは」

 カオルさんは、三つ編みをしていた。これまでの2日は、髪に何も施さずにいたので、その姿は新鮮だったと同時に、少し安心した。少しずつ、カオルさんも、大丈夫になっているんだろうな、と思ったのだ。三編みが、そんな気分の象徴のように思えた。

「こんにちは。お買い物ですか?」

 カオルさんは、満面の笑みで言った。ああ、眩しいな。本当に、眩しい。生きているって、そして、笑えるって、本当に、素晴らしいな。そう思った。

「そうなの。朝食を食べていなくて、限界」

 わたしは、お腹を擦りながら言った。

「わたしも、部活帰りなんです」

「何をしているの? 柔道?」

「いいえ、空手です」

 すると、カオルさんは、空手の技を繰り出す姿勢をして、笑った。なんだか、バレエをしているカオルさんとは、結びつかなかった。でも、どちらも、カオルさんなのだ。

「すごいね。空手もしていて、バレエもしているなんて。もしかして、ピアノもしているとか?」

「凄い。なんでわかったんですか?」

 カオルさんは、本当に驚いたように、両手を口の前で合わせて、大きな口を開いた。ああ。何という可愛らしさだろう。

「うん、なんとなくね」

 ここで、シャーロック・ホームズみたいに、結果に至った観察の推移を説明すれば、格好良かったな、と思った。でも、残念ながら、まったくの勘なのだ。

「わたしも、これからお昼なんです」

「そう。おうちで?」

「そうです。でも、一人だから、レンジで温めるだけですけれど」

「そうなんだ。ねえ、もしよかったら、一緒に御飯を食べない?」

「え? でも・・・」

「もちろん、カオルさんが良かったら。無理はしないで。わたしと一緒だと、不安かもしれないし」

「そんな事ありません。ええ。行きましょう」

 わたしは、思いがけず、カオルさんとご一緒できることで、嬉しくなった。荷物を持ってあげようか、と言うと、それは丁寧に固辞された。

「好きな食べものは、何?」

「そうですね・・・、ピザが好きです」

「へえ。いいわね。じゃあ、ピザにしようか。どこか、美味しいお店を知っている?」

「いいえ。いつも、母が作ってくれていたので」

「そうなんだ」

「あの、両親の事は、気にしないでくださいね。もう、三ヶ月以上も前のことですし、わたしも、少しずつ、大丈夫になってきていますから」

 わたしの声のトーンの、無意識の変化を、勘の良いカオルさんは、感じ取ったんだろう。悪いことをしたな、とわたしは思った。

「今日は、土手に来なかったね」

 わたしたちは、駅前に向かって歩いていた。そこには、いい感じのイタリヤ料理店があったはずだ。日曜日の昼なら、やっているだろう。もしやっていなかったら、近くにラーメン屋さんもある。そこそこのお店は揃っていたはずだ。

「朝から、部活があったものですから」

「もう、あそこに行かなくても、大丈夫?」

「わかりません。でも、今までは、ほとんど毎日行っていたんです。どうしても、あそこにいかないといけないんだ、と誰かに言われているような気がして・・・。今は、祖父母の家に住んでいるんですけれど、ふたりとも、この事は知らないと思います。朝早いですし、二人が起きる前に帰っていますから・・・」

「今日は、部活を優先したんだね。ということは、少しずつ、大丈夫になっていくっていうことだよ」

「そうかもしれません。実は、今日、事故があってから、初めて、習い事に行ったんです。バレエも、空手も、ピアノも、全部休んでいたので・・・。もう行かないかもしれないなと思ったんですけれど、おじいさんが、祖父が、行きなさいって言ってくれて・・・。わたしも、ようやく、行こうという気持ちになれたので、行ってみたんです」

「うん。どうだった?」

「意外と、平気でした。先生とか、お友だちとかが、泣いてしまって・・・。わたしも、つられて泣いてしまいました。でも、それは、両親が死んだときとは、違う気がしました」

「それはね、嬉し泣きなんだよ。人は、嬉しくても、涙が出るの」

「わたし、初めての経験でした」

「うん。これから、きっと、もっと経験すると思うよ」

「そうだと良いですね」

 わたしたちは、イタリヤ料理店に到着した。丸太でできている、ロッジみたいなお店で、美味しそうな料理を出しそうな雰囲気が、プンプンしていた。中に入ると、オレンジ色のランプが灯っていて、昼間なのに、薄暗かった。今日はお客が少ないらしく、どこの席でもどうぞ、と店員さんに言われたので、一番奥の、調理場に近い席にした。

 メニューを受け取りながら、道着姿のカオルさんを見て、あることに気がついた。

「そうだ。一度、着替えに戻ればよかったんじゃない? ごめんね、気が付かなくて・・・」

「大丈夫です。道着を着ていると、気が引き締まる気がして、好きなんです」

「空手をしていて、バレエに支障は出ないの?」

「あんまりありませんね。むしろ、それぞれに違う筋肉がつくので、バランスが良い感じがしています」

「すごいね。わたしなんて、子どもの頃、何もしていなかったよ」

「そうなんですか」

「うん。唯一通ったのが、絵画教室。わかる? 絵画って」

「えーと、絵を描くところ、ですか?」

「そう。でも、3回行っただけでやめちゃった」

「どうしてですか?」

「先生に頭を叩かれたのよ。毎週、題材があるんだけれど、わたしは、それを無視して、絵を描いていたのね。それで、3回目にとうとう。先生も、腹が立ったんだろうねえ」

「お転婆さんだったんですか?」

「そうでもないと思うけれど、そうね、カオルさんよりは、お転婆かな。木登りは、よくしていたし」

「わたしもしますよ、木登り」

「へえ。そんな大きな木があるのね」

「そうなんです。小学校にあるんですけれど、樹齢100年って言っていたかな」

「それは凄い。幹が太いから、登りやすそうね。じゃあ、ピザを選びましょうか。一枚ずつ、好き
なものを選びましょう。お金の事は気にしないで。今日は、わたしの奢り」

「そんな、悪いです」

「あのね、こっちは、仕事をしてるのよ。働いてもいない人にお金を出させるなんて、プライドが許さないわ」

 そこで、わたしは舌を出して、片目を瞑った。カオルさんは、右手で口を抑えながら笑った。

「じゃあ、ごちそうさまです」

 わたしはマリナーラを、カオルさんはマルガリータを注文した。世界のピッツァコンテストで入賞しました、という宣伝が多かった。もちろん、それも良いんだろうけれど、少ししつこい気もする。そう言えば、店の前にも幟が出ていたな、と微かに思い出す。

 ピッツァが来るまで、わたしたちは、また他愛のない話をした。まるで、十数年来の友達のように、わたしたちは話した。その話の中に、暗いものは一つも無かった。

「あの、マコトさんは、大丈夫ですか?」

 カオルさんは、ようやく来たピッツァをひとくち食べてから言った。わたしは、タバスコをかけている途中だった。チーズの塩気が強くて、別の刺激を足したくなったのだ。

「何が?」

「だって、マコトさんも、何か嫌なことがあって、土手に来ていたんでしょう?」

「ああ・・・」

 わたしは、タバスコをかけたところから一口食べた。良い塩梅になっているのを確認してから、カオルさんを見た。カオルさんは、両手をおそらくは膝の上に置いて、わたしの言葉を待っていた。

「あのね、昨日、カオルさんと話をしたでしょう? それから、不思議なんだけれど、わたし自身の事は全然考えなくなっていたわ」

「本当ですか?」

「本当よ。昨日、カオルさんは、辛いことは人によって違うって、言ってくれていたけれど、やっぱり、わたしは、そうは思わない。カオルさんに比べたら、わたしの悩んでいることなんて、なんてこと無い。そう思ったら、とても、どうでもよく思えたの。こういう事を言うと、カオルさんの事を出しにしたみたいで、嫌なんだけれど・・・」

「そんな事、ありません。わたしも、昨日のマコトさんに、とても救われていますから・・・。だから、わたしも、曲がりなりにも、マコトさんの助けになっているみたいで、嬉しいです」

「そんな、自分を卑下したらだめだよ。わたしがしていることは、本当は、とてもいけないことなんだよ。不幸を比較するなんて、本当はしては駄目なんだ。だから、カオルさんも、これからは、そういう事はしないでほしい」

「でも、マコトさんは、それを正直に話してくれました。わたしには、それが嬉しいんです。自分の嫌なところを、話してくれたでしょう? それって、とても勇気がいることだと思うんです。ましてや、年下の、それも小学生の子どもに、そんなことを言えるなんて、凄いことなんです」

 わたしは、カオルさんが急に褒めてくれたので、どうして良いかわからなくなっていた。このままじゃあ、お互いを褒めて終わってしまう。それでも良いけれど、わたしは、やっぱり、カオルさんのこれからについて話をしたかった。彼女がどういうおとなになっていくのか、そればかりが気になっていた。

 わたしは、カオルさんの好きなこと、嫌いなこと、将来やってみたいことなどを、しつこく質問した。カオルさんは、時折恥ずかしがりながらも、真摯に答えてくれた。気がつけば、午後一時半になっていた。わたしは、あまり長い時間だと申し訳ないので、店を出ることにした。そのまま、自動販売機でカオルさんにジュースを買ってあげた。カオルさんは、すごく恐縮していたけれど、そこも、大人のプライドというものを、脅迫状のようにチラつかせたので、受け取ってくれた。

 わたしたちは、わたしのアパートの前で別れた。わたしたちは、次に会う約束をしなかった。きっと、これで最後なんだと、どちらともなく思っていたに違いない。ふたりとも、将来にはお互いが交わらないことを悟っていた。だから、未練を残さないように、これからのことを話したのだ。

 わたしも、もう、あの土手には行かないだろう。行く必要が無い。わたしの悩みなど、大したことはない。誰も、死んでいないのだから。カオルさんのその言葉が、わたしを奮い立たせた。そう。生きてさえいれば、どうとでもなる。わたしは、生きている。夫も、生きている。誰も、死んでいない。それが、すべてではないか。

 わたしは、周りの声に耳を傾けすぎたのかもしれない。あるいは、自分のやりたいことを、限定しすぎていたのかもしれない。カオルさんには、色々な可能性があった。きっと、そのどれかに、彼女は属するはずだ。彼女ほどの人間であれば、それができる。

 わたしは、いつから、自分の可能性を考えなくなっただろう。もっと、色々な事に目を向けて生きていけたはずなのに、一つのことばかりを追い求めて、そしてそれの邪魔となるようなものを排除してきた。でも、共存できる道もあったのではないか。そちらの道を選んでも良い、道なんて、自分が歩いてきた轍なんだと、どちらを向いても、向いたほうが前なんだと、どうして、そう思えなかっただろう。

 カオルさんに会えて、本当に良かった。決して、不幸の度合いを比べて、自分が楽になったというだけではない。それだけなら、本当にクズだ。

 わたしは、アパートの前でカオルさんと別れた時に、一言だけ、言った。

「カオルさん」

「はい」

「生きていてくれて、ありがとう」

 すると、カオルさんは、にっこりと笑った。

「マコトさんも、ありがとうございます」

 それが、わたしたちの、最後の会話だった。
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