第2話

文字数 2,127文字

 大輝殿の一日は空気入れからはじまる。朝起きると、ベッド脇に置いた愛用のT字型空気入れを手にとり、寝ぼけまなこをこすりながら、ご家族の空気を入れにかかる。

 ベッドに寝ている母上におはようの挨拶をし、きちんと床に立ててから、背中の空気孔のキャップを外し、空気入れの口金を差し込む。折り畳んである空気入れのペダルを広げ、足でしっかり床に固定し、ハンドルをいっぱいに上まで持ち上げてから、よいしょと力をこめて下へ押し込む。

 しゅうううと小気味の良い音がして、ちょっと弛んでいた母上のお身体がピンと張る。お歳のせいかこの頃ちょっと多めに空気が抜けがちな母上も、空気がいっぱいに入るとふわふわとしたもので、床に底面が着くか着かないかのところで、気持ちよさそうに揺られはじめる。とはいえ以前、空気を入れすぎて父上が破裂してしまったので、ちょっと加減に気を使っている。

 全員の空気をいれ終えると、みんなを座卓の周りに着かせ、一緒に朝食をとる。せっせとコーンフレークを口に運ぶ大輝殿のまわりで、みんなはふわふわ浮いている。朝食が済むと、ランドセルを背負い、空気入れを引っつかんで、いってきますと大輝殿は玄関を出ていく。みんなは窓から吹き込む風に吹かれて、思い思いの場所に揺られていくのだ。

 大輝殿はその空気入れを、いつも肩に掛けて持ち歩いている。学校や塾の行き帰りに、クラスメイトや近所の人にも空気を入れてあげる。近所の自転車屋にも自動の空気入れ器が置いてあるけれど、あれは一瞬でぱんぱんに膨らんでしまって味気ないのだと、近所のご婦人方が道端で語っていて、風に吹かれて流されていった。それに比べて大輝殿は、力加減が絶妙だと評判で、空気入れに関してはちょっとしたものだと、学校でも近所でも人気者なのである。

 でも何故であろう。大輝殿はさびしがりやである。もう小学校も五年生だというのに、よくご家族の身体にべったり抱きついている。ぎゅううと懸命に自分の身体を押しつけ、相手の空気を抜いてしまう。大輝殿が抱きついている間は、きゅっきゅっとビニルのこすれる音がやまない。それでも大輝殿は一心に、すがるようにして、相手を抱きしめなさるのだ。

 学校でいじめでも受けているのじゃないかしらと母上は悩まれた。何度か話し合いを持とうとするのだが、大輝殿はじっと黙したまま答えない。お母さんが風船なのがいけないの、と言うと、ふるふると哀しそうに首を振るばかり。

(メカねこちゃん、大輝の遊び相手になってあげてね。あの子の寂しさを埋めてあげてちょうだい)

 私は母上に仰せつかった。そして、すぐにそれが非常に困難な問題なのだと思い知らされた。

「ねえ、箱座りしてみてよ」

 机に頬杖をついて、大輝殿が言った。机の上に乗せられた私を、期待に目を輝かせて見つめている。
 箱座りとは、前脚を折りたたんで身体の下に仕舞って座る、猫の伝統的な座り方だ。手を完全に隠した無防備な姿が可愛いと、人間の皆様に評判の姿勢である。もちろん、私はそれをすることができる。

 私は前脚の駆動系モータを動かし、第二間接を折り畳んでいった。同時に腹ばいの体勢になるべく、タイミングを合わせて後脚も沈み込ませる。体全体のモーメントバランスを常時監視し、最適化物理演算によって適宜、目標座標を修正する。
 ういーん。ういーん。
 モータの駆動音をさせながら、私はその動作を完了させた。

 私は箱座りした。

「…………」

 大輝殿が私を見やる目に、喜びはなかった。

 私は自分が何か失敗をしたのかと考えた。完璧に動作したつもりだったが、どこかで演算を間違ったのかもしれない。

 検証演算を走らせている私の頭に、大輝殿はそっと手を伸ばした。耳の後ろを撫でさすってくださる。

 私は心持ち頭を上げ、ごろごろと喉を鳴らす音を再生した。私の内蔵メモリには、百種類以上のごろごろ音が詰め込まれており、飼い主の好みのごろごろ音を発することができる。ごろごろ。ごろごろ。だが大輝殿はお気に召さない様子で、そっと手を離した。

 大輝殿は私を抱えあげると、ぎゅっとしがみつくように頭を伏せて抱きしめた。だがすぐに私を手放すと、部屋の隅に行って膝を抱えてしまわれた。

 私はどうしたものだろうかと考えた。

 私は人間についての膨大な知識データベースを保有している。ここには人間の感情と行動のパタンと、猫的に適切な応答事例が収録されている。私は大輝殿の行動について、データベースに問い合わせた。該当はなし。次に通信機能を使って、今度はネットワークに問い合わせてみると、興味深い返答があった。

〈人間は不完全なものを可愛いと思う性質がある〉

 なるほど、と私は合点し、大輝殿の方へと歩いていった。

 にゃあと大きく一声出して、大輝殿を振り向かせてから、コケ、と床に転んでみせた。

 膝を抱えていた大輝殿は、ぷっと吹き出した。メカねこのくせに、まぬけだな~と笑って、私を抱き起こしてくださる。さびしそうではなかった。
 それから、私はよく転ぶようになった。不完全なものになろうと努めたのだ。
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