戸川 綾香

文字数 4,152文字

 町の賑わいから離れたところにそのお店はあった。あることは知っていたけれど、訪れるのは初めてだ。重い木の扉に体重をかけて押すと、扉は返事をするようにきしんでから開いた。風鈴のようなドアベルが雑味のない音を響かせると、ふわりと柔らかな香りが私を迎えた。
「いらっしゃいませ」
 髪をサイドテールに結った若い店員が私に気づいて近づいてくる。
「カウンターになさいますか? それともテーブル席がよろしいですか?」
 ジーンズ姿にエプロンをかけただけの店員はほとんど化粧もしていないような顔で淡々と言った。見たところかなり若そうなのにどこか落ち着きを感じさせる佇まいだった。
「あ、テーブルで」
 わたしは彼女の顔から上半身へと目を走らせてからもう一度目元に戻して「一人なんですけどテーブル席でもいいですか?」と付け加えた。
「かまいませんよ。どうぞ」
 店員はそう言い終えるとほんの少しだけ微笑んで私を二人掛けのテーブル席へと案内した。私は勧められたテーブルの、店の奥を向いた席に腰を下ろした。それを見届けると店員はカウンターの方へ行って、水を持って戻ってきた。
「お決まりになりましたらお声がけください」と言って水を置くと、彼女はカウンターの方へ去って行った。

 私はメニューを開きながら店内を見回した。こじんまりとした店で、カウンター席の向こうにそう若くない店主らしき男性とさっきの店員がいる。店員は手慣れた様子で、なんの指示も受けずに店主と連携して作業をこなしていた。カウンターの一番端の席に常連らしい年配の男性がいて、しきりに店主に向かって話しかけている。店主は頷いたり小さく返事をする程度で適当にあしらっているように見えた。

 私は手を挙げて店員を呼び、アイスのハニーラテというのを注文した。店内にはなんとなく聞き覚えのある音楽が流れていた。緩やかな音楽の間をすべるようにして風が頬を撫でる。窓は壁の天井に近い位置に切られていて、そこから入った風が店の中を通り抜けているようだ。エアコンも送風機もないのに吹き抜ける風だけでじとついた肌が乾いていく。

 目を閉じると、食器のたてる音や水の音、スチームマシンやブレンダーのたてる音などが入り混じって前景に出てきた。その後ろに、どこかで聞いたような音楽が流れている。歌のない音楽はみんな似たようなものに聞こえる。
「おまたせいたしました」という声で目を開くと、さっきの店員が私の前にグラスを置くところだった。私は置かれたグラスから離れようとしている手をたどり、腕に沿って視線を走らせた。私の目が彼女の目にたどり着くと「アイスハニーラテです」と言って彼女はまたわずかに微笑んだ。私がありがとうとでも答えようとしたそのとき、高い音のドアベルが鳴った。彼女はドアの方を向いて「いらっしゃいませ」と言った。私がまごついていると彼女は「ごゆっくりどうぞ」と言い置いて、「カウンター席になさいますか?」と言いながら入ってきた客の方へ歩いて行った。

 私は大きく息を吐いた。ため息はつこうとおもってつくのではなく、自然に出る。出てしまったあとで、ああ、今ため息をついた、と確認する。思えば私はいつもこうだ。間が悪い。会話をテンポよく運びたいと思うのに、少しでも予想外のことが起こるとまごついてしまう。そして私が少しでもまごつけば、その間に事態は別の状況へと移り変わってしまって、私はそこに乗ることができない。道路の合流で一時停止したままいつまでも流れに入れずにいる若葉マークみたいに。わたしはきっと、この先もずっと合流のできない若葉マークのままだ。

 店員は背の高い男性客を私のいる席よりも奥のテーブル席へと案内した。私は脇を通る彼女を見上げたけれど、彼女はすぐに後ろ姿になってしまった。彼女は新たな客の対応に切り替わったのだ。私だけが、言いそびれた「ありがとう」を持て余していた。ストローで一口飲み込んだアイスハニーラテは甘さを連れて過ぎ去り、あとにはじんわりと苦さが残った。

 持ってきたバッグから読みかけの文庫本を取り出して開いた。読みかけといったって本当は読んでいるわけではないのだ。字を目で追っている。頭はたいてい別のことを考えている。書いてある内容はまったく入ってこないけれど、目が進んだところに栞を挟む。栞のところを開いて再開するけれど、そこまでの部分もわからないからどんな話なのかさっぱりわからない。今もまた、字を追いながらあの若い店員とのやり取りを思い出していた。どうしてたったあれだけのやりとりさえ、私はうまくできないのだろう。
「いらっしゃいませ」
 彼女の声が響いて文字の中から呼び戻された。鳴ったことに気づかなかったドアベルの余韻が消えていくところだった。彼女は私のすぐわきを通って店の入り口の方へ歩いて行き、新たな客を連れてまた私の傍らを過ぎた。新たに入ってきた男性客はカウンターの一番奥の席に座った。私の目はその客に釘付けになった。目から私の中身が吸い出されるような気がした。

 澄人? 私はなんとか視線を引きはがして手元の本に貼り付けた。彼はカウンターに座ってメニューを眺めている。私には気づいていない、はずだ。わたしはときおり目を上げて彼を見た。あれからどれほどの時がたったのだろう。店員とやりとりをしたあと、彼はカウンターの上に立てられてあった雑誌を手に取った。黒っぽいモノクロ写真の表紙に山吹色の字で誌名が書かれている大判の雑誌だった。それをカウンターの上に開くと、彼は少し顎を上げて目を細めた。

 やっぱり澄人だ。間違いない。

 雑誌を読む時のしぐさが私の奥に眠っていた記憶を一気に引きずり出した。とたんに、店内に流れている音楽の輪郭がはっきりした。そうだ。これは澄人の家でよく聴いたものだ。なんと言ったろう、澄人の好きなギタリストの作品だったはずだ。きっと私はこのアーティストの作品を聴いたことがある。澄人の部屋で。澄人は熱心に説明してくれた。それぞれの楽器を演奏している人の名前や、それぞれの曲の何が素晴らしいのか。でもどれほど澄人の話を聞いても、私にはどれがどの曲かさえついにわからなかった。澄人はときどきCDで聴かせてくれた曲を自分のギターでも演奏して見せてくれた。このフレーズのここが最高なんだと教えてくれながら子どもみたいな顔をしてギターを弾く澄人をよく覚えている。でも澄人が熱っぽく語る音楽のことは、最後まで私にはわからなかった。今ここで流れている曲はきっとその頃聴かせてもらったものだろうと思うけれど、本当にそうなのかどうかはわからない。私にはきっと、これが同じようなジャンルの別のアーティストの作品に切り替わったとしても、どこで切り替わったのかわからないだろう。

 澄人は私を置いて町を出た。ギタリストになりたいんだと言った。東京へ出て自分を試すのだと。私はこの町で待っても良かったのに、澄人は帰る場所があることに甘えそうだからと言った。私がもう少し澄人の好きな音楽のことをわかっていたら、澄人は私に一緒に来いと言ったろうか。この町で待っていろと、言ったろうか。
「いらっしゃいませ」
 ドアベルに呼ばれるようにして例の店員が私のそばを通って入ってきた客のところへ行く。私はまた本から目を離して澄人の方をうかがう。澄人は雑誌から目を離さないまま出された水を口にした。

 店員が女性客をカウンター席へ案内しようとすると、奥のテーブル席の男性が声をかけた。
「あれ? ユウミじゃない? ユウミ」
 声に誘われて、店員と、連れられてきた客と、私の視線がその男性のところに集まる。
「え、うそ。キリタニさん?」
 ユウミと呼ばれた女性はそう言うと、キリタニさんという男性の方へ歩み寄って、久しぶりとかなんとか言葉を交わしながらその向かいの席に座った。店員はカウンターへ戻って行った。私だけが、自分の領域に戻るタイミングを見失って宙ぶらりんだった。

 さらにドアベルが鳴った。店主の他には一人しかいない例の店員は、次から次へと入ってくる客に少しも慌てる様子を見せずに仕事をこなしていた。

 私は店の中を漂った意識を本の表面に縫い留めた。流れている音楽を耳で追いかけながらハニーラテを飲んだ。深い珈琲の香りが沁みた。かかっている音楽が戻ってきた。さっきまでのものと違う曲なのか、違うアルバムなのか、もしかしたら違うアーティストなのかすら、私にはわからなかった。

 澄人は氷の入ったグラスを軽く振るようにしてからストローに口をつけた。グラスを置くとその手で雑誌のページを繰り、再びグラスを持つ。目はずっと雑誌の表面を撫でていた。私は澄人の左手に指輪を探そうとしたけれど、グラスを握っているのは右手で、左手は見えなかった。

 立ち上がって澄人の隣の席に行けば話ができるだろうか。なんと言って声をかけたらいいのだろうか。それともここから見つめていたら気づいてくれるだろうか。気づいたとしたら、澄人はどんなふうに思うのだろうか。この町へ戻ってきたのに私には連絡一つくれなかった。あの遠い日に別れて、澄人にとって私はもう特別な誰かではなくなっているのだろう。それでもいい。一つ二つ言葉を交わすことができないだろうか。

 できる気がしなかった。わたしがここで久しぶりって声をかけられるような女だったら、澄人は私を捨てなかっただろうか。私は澄人が町を出たあと、ただただ並んだ字を追いかけるみたいに暮らしてきた。内容なんてなにも入ってこない。ただ文字の上を走るだけ。澄人となにか言葉を交わせたら、欠けてしまった私のなにかを取り戻すことができるだろうか。

 そんなことを思いながらちらちらと見ていたら、澄人は急に残りのコーヒーを飲み干して立ち上がった。私に気づいたのだろうか。一度もこちらを見もしなかったのに。わたしがいるからいたたまれなくなったのだろうか。立ち上がった澄人はカウンターにお金を置くと、「ごちそうさま」と小さく言って店を後にした。私は本のページに縛られたまま背中を見送ることもできなかった。ドアが閉まったあとにドアベルの余韻が一筋の線のように引かれ、他のあらゆる音を吸い込んでしまったようだった。
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