第1話

文字数 1,896文字

 明け方の薩長軍による箱館山奇襲から始まった戦闘は、依然として我ら共和国軍が押される形となっていた。今までより大規模かつ巧妙な敵の策に、ここ五稜郭の本営はすでに敗戦の匂いが広がってきている。
「総裁! 薩長軍の箱館山からの攻撃は激しく、奪還に向かった部隊は一本木関門まで退却中とのことです!」
「大鳥君の方はどうかね」
「現在も五稜郭北方の守備のため奮戦中のようです」
「わかった、下がってくれ」
 戦闘開始時から来る伝令の報は一つとしていいものがなかった。我々は着実に追い詰められていた。幹部の中には降伏を進めるよう言ってくる者もいる。私もすでにこの戦に勝てるとは思っていなかった。せめて私の命に代えてでも将兵を守る覚悟でいた。
 しかし、一人まだその諦めない闘志を瞳に宿す男がその本営の中にいた。
「君もそろそろわかってくれないだろうか。これ以上死人を増やすのは望むところではないだろう。土方君?」
 彼はさっきまで椅子に座り目を瞑って黙っていたが、私の言葉に目を開き、その闘志を宿した瞳をまっすぐに向ける。
「榎本総裁、まだ戦は終わっちゃいない。弁天台場の仲間が孤立している。俺はこれからやつらを助けに行く」
 土方はすっと立ち上がると刀を手に持ち本営を出ていこうとするが、私は彼の肩に手を当て止めた。 
「土方君、もう弁天台場は間に合わない。むしろ彼らを救うには降……」
 そう私が言いかけると、彼は振り向き鬼の表情で私をにらみつける。
 そうだ、この男はかつて鬼の副長と言われた男。最近は穏やかになったと聞くが、今の顔はまさにその時の鬼の顔なのだろう。
「榎本さん、頼む。行かせてくれ」
 私は彼の表情に臆して黙ってしまった。そしてじっと見つめあっていると、彼の表情は徐々に変わってきた。なんとその瞳にうっすら涙を浮かべていた。
「俺はここまでずっと戦ってきた。それしかできなかった。京、宇都宮、会津、そして蝦夷……、ここでそれをやめるなんてできない」
「たしかにそうだが、君だって平和な世に生きることができるはずだ。戦い以外にも生きる道はある」
「それで何が残せる? 俺には子供も妻もいない。降伏して生き残っても、薩長の世になって何が残せる? それに俺は局長のように死ぬのは御免だ」
「土方君、君の命は私が責任をもって守る。だれも死なせはしない」
「榎本さん……俺はあんたと違う」
 そうか、この男はたしかにずっと戦ってきた。
 およそ留学などしてきた私とは違い、止まらない戦いの中で生きてきて、それが生きる意味となっていたのだろう。そして、今さらその戦ってきた敵に下るのは、死ぬのと同じ。いや、死ぬ以上の屈辱なのかもしれない。
 そんな彼をこれ以上引き留めるのは酷ということか。私はもう彼を止める言葉を持ち合わせていなかった。むしろ私ができる彼への最後の手向けは、彼をこの戦いの人生から解放することなのかもしれない。
「わかったよ土方君。これ以上は君を止めない。せめて、君を見送らせてくれ」
 私は彼の肩にのせた手を、不本意ながらもゆっくりと下ろした。
「ありがとう、総裁」
 その時彼の顔は、安心なのかそれとも諦めなのか、言葉に表せないような様々な感情が混ざった表情を見せていた。
 本営から出ていく彼を私は五稜郭の門まで見送った。門前で颯爽と馬に乗った彼は、馬上で先ほどの鬼の表情とは違う、優しい顔を私に向けた。
「俺は最後まで戦うことでしか生きた証を残せなかった。だが、榎本さん。あんたはこれからの時代に生きて、人のために何かを残せる人だ。どうか、この蝦夷の地にあんたの証を残してくれ」
「できれば私は君と残したかったよ」
 私がそう言うと、彼は微笑みを一瞬向けてすぐに振り向き、馬を一本木関門へ走らせていった。

 ほどなくして戦は共和国軍の敗北に終わった。土方は一本木関門での戦闘中に死んだそうだが、その遺体は誰も行方を知らない。私はしばし投獄された後、政府に雇われ開拓使として蝦夷の地を開拓、今は駐露特命全権公使となっていた。
 そして、私はいま鬱蒼とした箱館山の麓に、ひっそりとたたずむ石碑の前にいる。
 『碧血碑』、石碑にはそう書かれている。ここに土方の魂は眠っている。
 公使として各地を巡る中、なんとか時間を見つけてここに来られた。
「土方君、君の戦いは終わったかい?」
 彼が目の前にいるような気がして、私は語り掛けてしまった。
 私は彼の言ったように、新しい時代のために多くのものを今残している。彼の最後の願いをしっかり果たそうとしている。しかし、彼のことも私は忘れない。ここにその生き様を残す。戦って生きた証を残した男の生き様を。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み