帰還者

文字数 1,862文字

 小さい頃、わたしには苦手な人が一人いた。近所に住んでいる中年の男。働くことなく四六時中、酒を飲んで真っ赤な顔をし、酒臭い息を吐いて一人でブツブツ何かをつぶやいていた。その男を見るたびにわたしは怖さと気味の悪さを感じて道で出会ってもなるべく避けて通った。
 ある日、友達と道端にチョークで日の丸を書いて遊んでいると突然その男がやって来た。
「馬鹿野郎!こんなもん描きやがって!こんなもん!!」
とすごい剣幕で怒りながら、意味のわからない言葉を吐き捨て、私が書いた日の丸を足で何度も何度も踏みつけた。まるで日の丸に対して深い恨みでもあるかのように。ただ楽しく友達といつものように遊んでいただけなのに、なぜ怒鳴られたのか、何が男の逆鱗に触れたのか、がわからず、わたしは怖くなって友達と一目散にその場から逃げ出した。そのまま友達とわかれて、家に帰って母にさっきのことを話すと母はしばらく無言でわたしを見つめて、仕方がないというふうに、
「忘れなさい。そういう人もいるのよ」
と言ってそれっきり何も言わなかった。わたしにはそれが不思議だった。なぜあんな人が近所に住んでいるのか。なぜわたしは怒鳴られたのか。なぜ母は多くを語らないのか。わからないままわたしは大きくなった。
 そして、それから何年かたったとある年の冬、男が死んだ。家賃の催促に行った大家に発見された男は殺風景な部屋の中、大量の空の酒ビンと酒缶に埋もれるように死んでいたらしい。末期のガンで治療も拒否して孤独死したということだった。男の葬儀に出て家に帰ってから母は初めて男のことを話してくれた。
 男は大陸からの帰還者だった。そこで結婚もして、幸せに暮らしていたという。大陸で暮らしていた日本人は
「どんなことがあっても関東軍が守ってくれる。だから安心」
と固く信じていた。
しかし、ロシアが侵攻してきて、満州国は瓦解し、関東軍は民を見捨てて我先にと逃げ出した。戦火の中に置き去りにされた民のことなど考えることもなく。軍に見捨てられたと知った民はどれだけ絶望したことだろう。どれほどの地獄を見たことだろう。
 男は軍に召集されていたが舞い戻り、身重の奥さんと一緒に逃げた。しかし、逃げる途中、奥さんが足をくじいた。
「もう歩けない、辱しめをうけるくらいなら殺してくれ」と奥さんは言ったという。
「歩けないお前を置いて一人で逃げることはできない、それなら俺もここで死ぬ」
と男は言ったらしいが、奥さんは男が少し目を離したすきに持っていた短刀で自分の喉を突き刺した。それに気づいた男に奥さんは、
「苦しいから、楽にさして」
と言ったという。男は泣く泣く奥さんに突き刺さっていた短刀を引き抜いた。そうして、奥さんとお腹の子どもの最期を看取ったという。
 それから男はたった一人で日本に帰って来た。
 たった一人で大切なものをすべて失って。
 平和な日本に帰って来ても妻子を手にかけた罪悪感が消えるはずがなく、絶望に押しつぶされそうになるたびに酒を飲んでいたらしい。そうしなければ、息をするのも苦しかったのだろうと母は語った。
「悲しいね。植民地政策も戦争も何もなかったら、今頃良い夫として、良い父として家族みんなで暮らしていたのかもしれないのにね」
貧しくとも家族みんなと日本で、と母は語った。
 どんなに恨めしかったことだろう。「助けてくれる」と信じていたのに裏切られ、戦火の中に置き去りにされたことが。
 どんなに辛かったことだろう、家族を失ったことが。
 それよりなにより許せなかっただろう、家族を守れなかった自分自身が。そうやって自分自身を責めながら生きることが罰であり家族への償いだと思っていたのかもしれない。
 もっと早く知っていれば何かできたかもしれないね、とわたしが言うと母は悲しい目でわたしを見て言った。
「いくら周りがやさしくしても、自分を許すことができない人もいるのよ」
 おそらく男は妻と子供を手にかけたことを後悔しながら生きてきたのだろう。家族を手にかけた自分を許すことができず、罪悪感から酒におぼれ、人からの援助もすべて拒絶して生きてきたのだろう。いくら他人が手を差し伸べても、それを振り払って生きることが男にとって唯一の償いだったのかもしれない。たった一人で幸せになることなく生きることが罰。それはなんて悲しくつらいことだっただろう。
 哀れな男はもういない。けれど、忘れてはいけない。
 掲げられた日の丸を複雑な思いで見つめる人たちの存在を。
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