第1話

文字数 155,942文字

大事なのは芸術家の仕事ではなく芸術家がどういう人かということだ。
セザンヌが、もしジャック=エミール・ブランシュのような生き方や考え方をしたならば、彼の林檎がたとえ10倍美しかったとしても、私は全く興味を持たなかったろう。


                  パブロ・ピカソ
























 現代における文明社会において、その人身供養という名の生贄が姿を消しているのは、実に嘆かわしいことだった。これだけ自殺者の数が増えているにもかかわらず、これほど世界では戦争による犠牲者が、今だに出ているにもかかわらず。しかし、それとは別で、いったい、何故、そうじゃない生々しい死のほうは、徹底的に洗浄された国や都市や機構システムにおいて、表面的に削除されてしまっているのだろう。世界は混沌としている。しかし、棲み分けがスマートになされているのもまた確かだった。
 人は混沌とした原始社会への回帰など、これっぽっち求めてはいないだろうが、精神の躍動は、そんなことじゃ収まらない。抑圧されたエネルギーは、その出所を闇に求めるのだろうか。地表の下へと追いやってしまうのか。人身供養が人目につかない自分だけに向かって、突き進んでいくのか。あるいは、特定の他者か、不特定多数の他者に向かって、突き進んでいってしまうのだろうか。
 選ばれる人間。選ぶ人間。それを承認する人間。見守る人間。痛烈に批判する人間。一笑にふす人間。公の場。好奇の目にさらされる。
 神聖。荘厳。ファルス。喜劇。カーニバル。興奮。何が見たいか?見せたいのか?誰が。誰に向かって。何を。いったい・・。見たいのは・・。生贄。わたしの代わり。
 生命体。超越。断ち切る。復活。預言者。再生。破滅。堕ちてゆく。天使・・。



























 ジェラシカ リパブリカン




















 スタジオ・アマルガムのAルームでは、人体実験の準備が進んでいた。注射器、点滴、メスなどの手術道具、吸引マスク、ホース、さまざまなライトが並んでいて、分厚いカルテ、処方箋の束が置いてある。
「所長!ちょっといいですか」
 他のすべての人間が白衣を着用し、顔には大きなマスクをしているというのに、そのスタジオの所有者Xだけは、一人、真っ黒なスーツに身を包んでいた。黒いサングラスをしていて、長髪の金髪をなびかせている。手術室にこんな無防備な男がいて、いいのだろうか。
「で、それで、だから、何なの?」というのが、この男の口癖だった。
「所長、この患者さんは、精神分裂病なんですって。病院でそう診断されたんですって。いろんな薬を処方されていたんですって」
「へえぇ。それで?だから、何なの?」
 あいかわらずの口調だった。
「僕だって、昔はいろいろと勝手に判断されたものだよ。なんとか病、なんとか病、なんとか病、って・・。もう、うんざりするくらいに、いろんな名前をつけられた。どれが本当に自分の属性なのか、わからなくなってしまうくらいに。でも、もういいよ、そんなの。すきに判断すればいい。どんなふうに捉えるかなんて、人それぞれなんだから。そんなのに、いちいち、振り回されたりはしないよ。診断書なんて、ほれ、この通りだよ」
 Xは束に積上げられた空欄のカルテをつまみ上げ、ばらばらと床に落としていった。
「ちょっと何をなさっているんですか」
「僕はいろいろなところで、病気のオンパレードだと言われたんだ。だから、もう、うんざりしてしまった。それならと、自分で、スタジオを買ってしまった。ここで心置きなく、検査をするよ。実験もする。あらゆるデータをとる。これからは、僕の命令がすべてだ。言うことをきかない奴は、みな、解雇だぞ」


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再会




















 2007年、音楽でソロ活動を始めようとしていたファラオは、ある知り合いを通じて一人の男と会う約束をした。その男は、あるバンドを所有していて、彼もまた、新たなるメンバーを必要としていた。ファラオはもともと、ソロ活動がしたいわけではなかった。バンドを組みたいわけでもなかったが、とにかく目標を同じところに設定する男と、活動を共にしたいという強い気持ちが芽生え始めていた。
 自分は激しい性格だ。そのとき、よく目撃したバンドの多くに、ファラオはまるで情熱を感じなかった。意識的にしろ、無意識的にしろ、なんて大衆に迎合している生ぬるい奴らばかりなのだろう。これが本当に命をかけてまで、やろうとしていることなのだろうか。こんなバンドなら初めからやらないほうがいい。先が見えている。だが俺は、お前らとは違う。もっと血生臭いんだ。この文明との断絶感は凄まじい。しかし、世界は広い。複合的だ。内輪に向かうだけの、狭まっくるしい場所は、俺にはいらない。俺をノックアウトさせるくらいの強烈な個性を放つ男が現れてくれと、本気でそう願っていた。
 だがそれも、この自分次第なのだろうと、ファラオは思った。
 自分が何かに向かって、この身を投げ出している人間にならない限り、俺よりもさらに強烈な力のある人間など、現れるわけがない。自ら発信しなくてはならない。自分と言う存在を、広く知らしめなくてはいけない。そのためのソロ活動だった。だが、始めた矢先に、その男と出会うことになる。

「なあ、マヤ。君がこのバンドを作ったんだろ。なぜだ」

 なぜと訊いてきた男は初めてだった。他にやることがなかったからだと、mayaは答えるしかなかったが、口にはしなかった。これとこれだけはやらなくてはと、思った最初の瞬間があったのも確かだし、大きな力に引きずりこまれたというのもある。名前もコンセプトもイメージはできあがっていた。これは、自分固有のバンドなんかじゃない。自分の趣味や嗜好に、こだわりぬく場所でもない。むしろ、プロジェクトだと思った。自分もこの巨大なコンセプトの中の一員として、参加するくらいの気持ちだった。
 確かに、いろんなことを考えていた時期ではあった。今までとは、まったく違う新しいバンドを模索し始めていたのは、確かだった。しかしだからといって、音楽のことだけを考えていたわけではなかった。むしろ、音楽以外のことを、深く瞑想するようになっていた。
 何故自分は、今ここにいるのか。存在そのものを疑った。自分は生まれてきた。生きている。どこに向かって。何のために。この違和感は何なのだ。存在していることへの違和感。わからない。
 どんなことがしたいのかなんて、まるで分からない中、この疑問だけが頭の中で、奇妙な回転体を形成していた。回転しているくらいなのだから、当然中心があった。その軸にはいったい何があるのだろう。そればかりを考えていた。自分は人間なのだろうか。そこまで行ってしまった。生命体なのは、間違いないと思う。自分には家族がいた。いや、今でもいる。でもそこだけに、自分の魂のルーツを求めるのは酷だ。何の解決にもならない。むしろ、自分は幼いときから、あの家庭の中でさえも、強烈な違和感を抱いていたものだ。学校に行ってもそれは変わらない。街を歩いていてもそれは変わらない。地に足がついていないのだ。その『地』が欲しいのだ。
 そこに気づいたとき、mayaの頭の中には、新しいバンドのイメージがすっと生まれてきたのだ。すっといっても、そこまでが長かったのだ。あっというまの出産だったのだが、胚胎していた時間は、驚くほど長かった。それは、自分が生まれたときからその時までの長さに、ぴったりと比例していた。
 このとき、本当の意味で、自分は生まれたのだと思った。


 ファラオはあのときのことを、いつも思う。mayaという男は、警戒心の異常に強い男だった。心の中には、常に秘密を持ち、そこには誰も足を踏み入させないという、強固な壁を設け、それをけっして崩さないような男だった。
 ここに、俺が立ち入ることはできるのだろうか。ファラオは不安になった。いったい誰が出入りをすることができるのだろう。ヒロユキはそこでの繫がりを持てたのだろうか。女はどうだ?誰かいるのか?バンドにその心のすべてを、深遠を、反映させているのだろうか。そこに見える形として、具現化しているのだろうか。
 それなら今後、活動を通じて、彼のことを知ることができるようになる。ただし、あくまで、バンドとういう名のもとで、活動することにおいてのみだ。不思議な男だ。これがなかったら、まるで、そのきっかけすら与えない、隙のない男なのだ。打ち解けることのできる人間が、他にいるのだろうか。

 その後、ヒロユキを伴ってのドライブに出たのだが、三人はまるで口を聞こうともしなかった。嫌な沈黙が続くなか、(ファラオは運転中、音楽をかけない。ラジオも入れない)首都高速を延々と走り続けていた。
 極度に人見知りな人間が、三人。展開など、あるはずもなかった。
 しかし、何がきっかけかは忘れたが、急に音楽の話に火がついた。そういえば、このヒロユキという男もまた、実に奇妙な人間であった。彼はファッションをはじめ、見るたびに、別人なんじゃないかと思わせるほどの演出を、意識的にか、無意識的にかは、わからなかったが、自らに施していた。
 天性のアーティストなんだろうと、ファラオは思った。この男の演出能力は群を抜いている。一瞬でそう見抜いた。こいつがバンドを煌びやかにもすれば、暗黒の使者にもする。ただのアイドルにもする。変幻自在に動かしていく原動力になる。そう確信した。
 この俺はフロントマンとして、バンドの顔になる。そして人をひきつけていく。そんな対外的な役割を担う。バンドの中においては。そう。この所帯を軽やかに、激しく、前へと動かしていくエンジンのような存在になる。
 一方、ヒロユキは、ビジュアル的なイメージをはじめ、彼の曲はまだ聞いたことはなかったが、きっとその音も幅が広く、まるでタイプの違う変化に富んだ楽曲が、たくさんあるに違いない。この男が発する道化にも似た役者的な匂いが、自分の一部と重なった。
 ファラオは、バックミラーに視線を移しながら、そんなことを考えていたのだ。みなそれぞれが、別の思惑を抱きながら、乗っていたのだろう。そして、ファラオはまた思う。こいつらは、みな、一人でできる男たちなのかもしれない。いつの日かそんな時が来るかもしれない・・。

 自分の居場所というか。身の置き場所のようなものを確保することで、強烈な個性を出したいと思う反面、自分という存在を消したい、希薄にしたい、と、切実に願う人間もまた、ファラオの中に存在していた。
 誰かの持ってきたイメージの中に、この自分の身を置くことで、まさに、自分自身から逃れることができるかもしれないと思ったのだ。他人に憑依する。成りきる。mayaとヒロユキに対しては、そうするだけの価値があると思った。
 あるいは、そうやっていくことで、逆に、俺は、mayaの心の闇、いちばん真底にある何かを、この手で掴みたいのかもしれなかった。


オペレーションルーム・x

「次の人間を入れてくれ」
 キリコは、助手たちに命令した。
「仮死状態でいい。髪の毛は、すべて剃れ。毛という毛を、排除しろとは言わない。しかし、頭部にあっては、まずい」
 助手は、無言でやってきた人間の頭部の毛を剃った。
「すぐに、手術の用意だ」
「執刀医は誰が」
「誰でもいい!早くしろ!データを取り出すんだ。流れ作業なんだぞ。開けて、取り出して、閉じる。そしたら、早く引き渡さないといけない。ここは、ほんのつかの間の、窪みのような場所なんだ。滞在時間は、一時間以内。本当は、検問のように、数秒で終わらせられれば苦労はない。だが技術の進化がまだ足りない。でもこれ以上、単純化してしまったら、その残った時間を、今度は何に、急き立てられなくてはならないのか。わからなくなってしまう。まあ、それでも、時間が短縮されて悪いことは、何もないな。情報を盗みとる我々にしてみれば、何も悪いことはない。さあ急げ」
「薬を使いすぎた人間に特化しろ。あとは流すんだ。用はない。それと、ひらいて、データを取ったあとで、アドレスを組み込め。しばらく経ってから、アクセスできるようにな。特におもしろい反応を示した脳に、後でアクセスできるようにな」


「劇ばっかりやっていないで、ブランドバンクを探しなさいよ!あなた、どうやって生活をしていくのよ。もう蓄えは、底をついてしまったのよ。わたしの家に転がり込んでいるのも、もう、おしまい。探しなさい!バンクを」
「仕事に就けってことだな」
「違う」
「銀行員になれと」
「違う」
「盗め!のほうか」
「近い」
「おいおい」
「そういうバンクがあるって話は、聞いたことない?」
「気でも狂った?」
「狂うわよ。あなたと一緒にいるんだから」
「わかったわかった。ツアーを廻りながら探すよ。全国ツアーも近いんだ。発見できるチャンスは、たくさんあると思うよ。そのへんの会社に勤めるよりも、よっぽど、見かける機会はあるさ」
 目標物を明確にイメージできない以上、何の進展もするわけもなく、ツアーから帰れば、エリカいう女にヒロユキは罵倒される。
「持って帰ってきた?お金。男はお金を持って、家に帰ってくるものでしょ。さあ、出しなさい!」
「儲けがないことくらい知ってるだろ?」
「じゃあいい。ブランドバンクでチャラにしてあげる。手がかりは見つけたわよね。手がかりよ。ほら、はやく、出しなさい」
「ああ、手がかりね。あるさ、あるさ。もちろんあるさ。ボーカルの実家が、そうだった。・・、資産家なんだよ」
「はっ?」
「ボーカルの」
「ねえ、その人。やめたんじゃなかった?」
「いや・・まあ、その、今回のツアーで脱退」
「どうして」
「合わなかった」
「あなたたちに」
「自らやめていったよ」
「・・情けない男・・あんたらごときに、ついていけなくなるなんて。女じゃあるまいし」
「女?」
「そうよ。女は、誰一人、あなたたちには、ついてはいけないわよ!マヤちゃんの彼女だって、そうでしょ!」
「マヤは違うさ。あそこの女は違う。マヤちゃんとは、高校時代からの同級生らしいんだけど、それ以来、付き合ったり離れたりを繰り返しているものの、まだ、続いている」
「もう呆れているわよ」
「だとしても、一緒にいるよ。ウチのバンドにも、いろいろと、協力してくれてる」
「まあ、ご立派なことですこと!さぞ、いい女なんでしょうね!」
「野性的で大胆な人だよ。でも、繊細で控えめでもある」
「それはそれは。けど、そういうのが一番、危険なタイプでございますね」
 エリカは毒ついてきた。「何て、お名前でしたっけ?」
「夕顔」
「あれまっ」
「たぶん、本名だよ」
「それは雅なことっ!まぁ、いずれにしろ、あなたたちのそのお遊びも、いずれは終わることでしょうし。そうなれば、その夕顔さんも、喜ぶんじゃないですかね。そのときには婦人会でも作りますわ。そこで、わたしと夕顔さんは、初対面。男の悪口を共有できるってわけ」
「好きにしろよ」
「けど、そのボーカルの人って、なんて、名前の方だったのかしら?今からでも、連絡とれないかしら?やめて、正解よね。わたしだって、そうするわ。実家に帰ったのね。資産のある」
「さあね。また、違うバンドで歌ってるんだろ。声はいいんだが、人間的にはあまり、ぱっとしないやつだったよ。このバンドを別の次元に導くようなカリスマには、まだ出会えていない!僕らには、それが必要なんだよ。マニアックなカルト音楽に、ポップで扇情的な歌詞を乗せ、野太く、甘い歌声を響かせて、みんなを引張っていくような男がね」
「まあ、素敵。とても、幻想的なお話!叶うといいわね。叶うといいわね」
「早く潰れろって、思ってるくせに」
「いえいえ。その、カリスマボーカルさんさえ、入ってきてくれれば、バンドは飛躍的に、おっきくなるんでしょうから。まさに、恵みの雨だわ。雨雨降れ降れ。お金もいっぱい・・・」
「いいかげんにしよ」
「現実的には、唯一無二の、無一文バンド。さらには、資産家のボーカルは脱退。活動は休止状態。さあどういたしましょう。わたしも、どういたしましょう」
 前にも、別の女の口から、ブランドバンクのことを聞いたことがあった。
「なあ、その銀行は、今、流行っているのか?」
「なに、それ」
「噂になっているのか?君ら、女の子の中では」
「どうしたの、急に。さっきまでは、まるで、興味がなかったくせに。変な人」
「いいから答えて」
「噂になんて、なってないわ!だって、あくまで、私の妄想なんだもの。私の頭の中で、勝手にこしらえた銀行なんだから。これだけお金の稼げない男と、一緒にいるんです。そりゃあ、莫大なお金を夢みなくては、現実なぞ、乗り切ってはいけません」
「地道に会社員やって、金を貯めてもいいんだぜ」
「いや!嫌よ!それに、あなたには、無理よ!あなたには音楽をつくる、へんてこりんな才能が、何故かあるんですもの!放棄なんてできない。そんなヘンテコリンな音だって、誰にもできるものじゃないのよ!私だって、いいとは思わない。気分をよくしてくれる音楽でもないし、心が高揚するような音楽でもない。どちからと言えば、心を閉ざしてしまうというか、落ち込んでしまうようなものばっかり。そんな歌を、誰かが聞きたがるとは思わないわね。せめて、アレンジを変えてみることね。そのくらいの努力は必要よ。あなたは、自分の能力を扱うことに関しては、まだまだ幼稚園児なの。ありのままのドロドロ状態で、ポンと目の前に置いていくだけの、あなた。マヤちゃんだって、割とそうなんじゃないの。あの人は舞台そのものの方をね。舞台装置をどこかからかボンと出現させてしまう天才ね。あなたと、あなたの音は、その舞台の上で踊り続けるってわけ。そういうバンドでしょ?演劇バンド。コンセプトバンド。その世界にぴったりとハマる人間も、確かにいることはいる。でも、少人数もいいところね。笑いものになることのほうが現実的」
「新しいボーカルを探さなくちゃいけない」
「いいひとが見つかるといいわね。働かなくても、たくさんお金を持っている人が見つかるといいわね」
「新しい風が必要なんだ」
 ヒロユキにはエリカの言葉など、全然、耳には届いてなかった。
「俺たちは、今、切実にそれを求めている。茶化すな!俺だって、真面目に考えるときくらいはある。いつも七変化な、道化師なんかじゃない!」
「ふふふふ、あははは。舞台だけで、いいってことですか。でも、あなた!私生活からして、まるでピエロみたいじゃないの」


 西谷くんは、代官山の服屋の店員だった。だったというか、今もそうだ。
 私のすべての服を、彼がコーディネイトしてくれている。毎月、最後の週の月曜日に店に行くと、私の専属のスタイリストになってくれるのだ。細身の、あまり背は高くない色黒の男の子といった風貌で、目がくりっとした青年だった。二十代の半ばくらいだった。
 私と西谷くんは、週に一度だけ、代官山のカフェモッツアレラで待ち合わせをした。本当に新しい雑誌を立ち上げようとしている編集者と、彼が知り合いなのかどうか。そして、彼の案が採用されるのかどうかを、確かめたかった。
「間違いありませんよ。もう、いつでも、準備には取り掛かれます。でも、まずは、プレテストからやりましょう。音楽バンドの、メンバー同士の対談とかはどうですかね?」
「ルナシーとか」
「あのねぇ、そんな大物に、何の実績もない雑誌が、オファーをかけられますか」
「今年のクリスマスイブに、一夜限りの復活ライブを、するらしいよ」
「なおさら、無理じゃないですか」
「いちおう、声をかけてみてよ。まあ、それはそれとしてさ。現実的にはどうしよう。インディーズバンドで、そこそこ、名前の知られている奴らがいいな。まだコアなファンしかいなくてさ。でもシーンでは、けっこう目立っている。要するにさ、この雑誌とバンドが、共に、知名度を獲得していくようになれば、いいと思うんだけど」
「けれども、今は、インディーズシーンでも、大物はみな、大手のビジュアルロック専門誌に載っかっちゃってますからねぇ。こんなのには、見向きもしないでしょうよ」
「ということは、暇なバンドだな」
「活動の存続が、危ぶまれているような」
「そんなの、誰が読むんだ?」
「でも、こう、ガッといく雰囲気のある感じの。ああ、一つ、心あたりがありますよ。あれ、なんだっけな。メタフィズィック。ああ、たしか、そんな名前だったような。三鷹の方のライブハウスで、一度、見たことがある」
「連絡は、取れそう?」
「でも、今、そのバンドはあるのかな。最近、どうも、聞かないんですよ。解散してしまったのかな」
「とにかく、そのバンドでいいから、早く対談集を出そうよ。メンバーは何人なの?」
「たしか、五人だったような」
「じゃあ、まずは、その、中核となる何人かを呼んでくれよ」
「ここでいいですかね」と西谷くんは言った。「来週の待ち合わせの時に、連れてくるって感じで」
「いいよ。それで」
「じゃ、そういうことで。また来週!」
 私と西谷くんは、その日も、五分と一緒にいなかった。


 現代における文明社会において、その人身供養という名の生贄が姿を消しているのは、実に嘆かわしいことだった。これだけ自殺者の数が増えているにもかかわらず、これほど世界では戦争による犠牲者が、今だに出ているにもかかわらず。しかし、それとは別で、いったい、何故、そうじゃない生々しい死のほうは、徹底的に洗浄された国や都市や機構システムにおいて、表面的に削除されてしまっているのだろう。世界は混沌としている。しかし、棲み分けがスマートになされているのもまた確かだった。
 人は混沌とした原始社会への回帰など、これっぽっち求めてはいないだろうが、精神の躍動は、そんなことじゃ収まらない。抑圧されたエネルギーは、その出所を闇に求めるのだろうか。地表の下へと追いやってしまうのか。人身供養が人目につかない自分だけに向かって、突き進んでいくのか。あるいは、特定の他者か、不特定多数の他者に向かって、突き進んでいってしまうのだろうか。
 選ばれる人間。選ぶ人間。それを承認する人間。見守る人間。痛烈に批判する人間。一笑にふす人間。公の場。好奇の目にさらされる。
 神聖。荘厳。ファルス。喜劇。カーニバル。興奮。何が見たいか?見せたいのか?誰が。誰に向かって。何を。いったい・・。見たいのは・・。生贄。わたしの代わり。
 生命体。超越。断ち切る。復活。預言者。再生。破滅。堕ちてゆく。天使・・。


「なあ、劇もいいけれど、ブランドバンクを探そうよ」
 ヒロユキは、執拗にそれを言い続けた。
「必ずあるんだよ」
「銀行襲撃か?」ファラオが反応した。「なら、その辺でいいじゃないか。お前、一人でやってくれよな」
「盗賊団にでもなれって?」
「ちょうど、五人もいる。紅一点なら、俺の女を出してやってもいいぞ」
「女?」mayaが言った。「女って、いったい、どれのことだ?今は誰なんだよ?それとも、過去の女か?これから、引っ掛けようとしてる女のことか?まあ、いい。俺はそんな、お遊びには付き合わないからな」
「あんたはいいさ」ヒロユキは言った。

 ファラオを得たメタフィズィックは、そのスケールを拡張し、より大きな可能性の萌芽をバンドの内部にも、外部にも、今後は見ることになるだろう。流麗な立ち振る舞いをするあの男が、今まで開拓しきれていなかった人の群れにまで、その手を伸ばしていく。
 来年、再来年へと続く流れが、ここで一気にわかってしまったのだ。まだ、どのメンバーにも打ち明けてはいなかったが、ファラオは瞬時に、理解してくれるに違いない。彼も同じような流れを見ている。ここに関しては、ファラオと進めていくことで、最も絶大な成果が得られるとmayaは確信していた。
 mayaにとって、唯一見えなかったこと。それはライブファイナルの絵であった。そこだけが、真っ黒に塗りつぶされていた。実に不吉な予兆を感じたものだ。それから先、いったい、どのようなことが起こるのか。それはこれから、一つ一つ壁をクリアしていくことで、見えてくるものだろう。感じてくるものだろう。しかし、眼鏡をかけ忘れたような、焦点のあわない茫漠とした風景が、普通はあるものだ。
 それは、真っ黒ではないはずだ。
 ライブファイナルにかけられたその黒いフィルターは、まるで、意図的に挿入された悪魔の予告状のような激然さで、今は遠い、その場所に立てかけられている。青空の先にある一塊の漆黒の雲のように、あるいは、時間が経てば消滅してしまいそうな小さなスケールで、そこにぽつりと浮かんでいる。

 mayaには究極的な目標があった。その観念はほんの欠片であったにせよ、バンドの大元のコンセプトに反映されてしまっている。反映させたのではなく、してしまっている。無自覚に。それは、自分でもまだ、うまく掴みきれていない事にまで。
 他のメンバーには、決して知られるまいとしていることだった。だがそこに、mayaの本性が見事に現れ出てしまっていた。
 彼の秘密主義というか、秘匿主義というか。決して、核心には触れさすまい。悟られまいとした、確固たる意志のようなものが。夕顔も言っていた。彼は掴めないのよ。一緒にいればいるほど、わからなくなってくる。混乱を引き起こしたかと思えば、もう次の瞬間には、別の話題に移っている。わたしは思いました。彼の曲が何でこんなにも、展開が激しいのか。変則的だし。でもすっと、聞けちゃうんですよね。何か巧妙にかわされているような、それでも、深遠に向かって、突き進んでいくような感覚。それがあります。きっと、自然に展開していってるんでしょうね。無理やり捻り出したものじゃない。だから、惑わされながらも解決する方向へと、終息していくのでしょうね。そう思いたいですよ。そうじゃなかったら、一体誰が救われるんです?一緒に居て。

 mayaは、自分が目指す究極的な目標を、常に手離すことがなかった。ときには漠然と浮かび上がり、またあるときには、断片的な記憶の欠片のように、バラバラと散らばっていた。写真のように、ぱっぱっと映像が現れては、消えたり、点滅したり。さらには、繰り返し繰り返し、自分の体が時間の微妙な間隔のなかで、浮遊しているようなときもあった。重力のまるで感じない空間に、置き去りにされているときも、多々あった。
 けれど、mayaはそこから降りる意思もなければ、放棄してしまうような投げやりな気持ちの持ち合わせもなかった。この螺旋状に捻じ曲がってゆく、記憶の海においては、その先にある、静かな世界のことをmayaはいつも想った。
 もしこの海を越えていければ、その先には、今まで感じたことのない、安らぎに満ちた異次元の世界が、あるに違いない。そう考えなければ、人生なんて全くやりきれないじゃないか。その最後のイメージに到達するために、音があり、曲の構成があり、それを立体化するライブがあり、ツアーという一本の大河があるのだ。
 ふと、このとき、mayaは肌で感じとってしまった。その、真っ黒に塗りつぶされた部分を埋める、新しいイメージだった。それは、客席の中から一人の人間を選び出し、ステージに連れてくるという絵だった。何故そのような絵が、突如として、思い浮かんだのかはわからない。だが、今度は、その人間に対しても、黒いフィルターがかけられてしまった。男なのか女なのかもわからない。年齢もわからない。どういった背格好なのかも、わからない。そこで、映像は途切れてしまった。メンバーの中の誰が選んだのか。誰がステージから降りていって、客席から引っ張ってきたのか。あるいは自ら、ステージに上がってきたのか。何もわからなかった。
 単なる気まぐれだなと、mayaはこのときも、何かの霊魂のようなものを掬い取ってしまっただけだと思い込んだ。これは、バンドとはまるで関係のない、ツアーとはまるで関係のないことなのだ。このときは、意識の中から除外することにした。


「目ぼしいバンドなんてそうはいませんよね」
 翌週の夜カフェで、西谷くんは、そう切り出してきた。
「しかし、根気よく探しますよ」
「何で、それに、こだわるんだ?何も、音楽活動をしているグループに限らなくたって、いいじゃないのか?」
「金ですよ」と西谷くんは言い切った。「金になるんですよ。売れればね。メジャーデビューしたら、一気に、利権バンドへと変身してしまうんです。だから、その過渡期を見逃してはいけないんですよ。常に目ざとく、意識のアンテナを、おっ立てておかないといけないんですよ。見つからないからといって、早々に、引き上げていいんですか?みすみす見過ごすことに、なるかもしれませんよ。過渡期に立ち会えるのには、やはり、そのだいぶん前から、目をつけておく必要がありますからね。彼らと波動を、共にするんです」


オペレーションルーム・x

「まだ、004が、戻ってきておりません」
「誰だ?」キリコは叫んだ。
「002です。まだ、004が、回収から帰ってきていません」
「遅いな。発信機を確認して来い。ベルを鳴らせ。電話をかけさせろ!」
 002は、部屋から出ていった。
「どうだ?新しい実験に、使えそうな人体は、あったか?」
 コンピュータのモニターの前の椅子に座っている001に、キリコは声をかけた。
「まだ、わかりません。これから何ヶ月もかけて、精密な検査をしていかなくてはいけませんから。そういえばですね、所長!昨日、おかしな訪問客がありましたよ。自ら、ここの門を叩く人間が、いたんです。自分の体を、使ってほしいと申し出てきたんです」
「それで?」
「もちろん、追い返しました。でも、どうして、ここがわかったのでしょうか。外部に秘密が漏れていることは、ない、と思っていたのですが」
「極秘だからな。それに、対象者は、一人暮らしの三十歳以下の男女。寝ているあいだに仮死状態にさせて、その夜の間だけ、失敬する。翌日の朝になるまでには、すみやかに、元通りにして返す。それ以外に、ルートはない。お前たちの誰かが、リークするなんてことは考えられないしな。そのメリットもない。ここから、一歩も出てはいないのだし。外部との通信手段だって、何もないはずだ」
「所長、あなたじゃないでしょうね」
「いいかげんにしろ」
「つい、ってこともあるでしょう」002は食い下がった。
「それさえ、コンピュータで、制御がかけられているんだ。情報のすべては、この研究室から、外に出ていくことはないんだ。ぽろっとも、クソもない!何も、出て行くことはないんだよ!」
「所長。それでは、研究した結果を、どこかに提出するということはないのですか。外に送り出していく、ということはないのですか。それでは、溜まる一方ですよ」
「排泄物のように扱うな!」
 キリコは、怒鳴った。「そんなに知能の低い助手を、生み出した覚えはないぞ。自分で考えるんだな。ここで循環している唯一のこととは、何だ?答えてみろ」
「人体です」
「そう。人体だ。ならば、簡単じゃないか。研究の成果は、ある一体の人間に、その遺伝プログラムを組み込むことで、この部屋から、外の世界へと送り込む。いわば、一度、解体したものを再度、生産、再構成して、人体は、日常の世界へと戻っていく。他の情報を取り出しただけの人体と、同様、脳に照射したアドレスを打ち込めば、いつでも、この部屋に連れ戻すことができる」
「なるほど。では、あなたが呼び寄せたんですね。今朝の、その、訪問客を」
「誰も呼んではいない」キリコは答えた。「自ら、帰ってくることもないだろうし。そもそも、まだ、新しい人間を、外には送りこんではいない。いや、過去に一度だけあった。もう十年以上も前の話。あれは、・・しかし、まだ、実験の途中だった・・。再構成したプログラムはまだ・・、完璧に機能してなかった。しかし、自らの意思で、その人体は、いなくなってしまった。その後は、必死で探索してみたものの、姿を突きとめることができなかった。もうすっかりと、忘れていたよ」
「そいつが、訪問してきたのですか?」002は訊いた。
「場所も内容も、当時とは全然違う。ここがわかるはずもない。紛れ込んでしまった奴に違いないさ」
「しかし、高度なセキュリティーに、守られています」と002は言った。「この地底に潜り込んでこられる人間は、誰も、いないはずです。ゴンドラに乗って、数十分かかり、やっとのことで、研究室の入り口の扉の前に、立つことができるんです」
 002は深く息を吐いた。「そこまで来てしまった人間がいるんです。ふらっと、紛れ込んだ人間ではないですよ!」
「調査しておくよ」
「お願いします。用心するんですね。過去に蒔いた種が、今、発芽しているってことも、あるんですから。今現在が、どれほど、厳重なテクノロジーに守られているからといって、原始的な力には、逆にもろいものですからね。そこのところを、お忘れなく。所長」


 mayaは女に、ファラオのことをしゃべった。バンドのことをメンバー以外の人間に報告したり、相談したりすることはなかったのだが、夕顔は特別だった。バンドを金銭面で支えていたのは、他でもない彼女だった。彼女は、資産家の家で育ち、その資金をバックに、自分で事業を展開をしている実業家でもあった。詳しいことはわからなかったが、その事業の一つに、音楽事務所を組み込むことができていた。
 そのおかげで、初期のレコード製作においては、かなりの費用を負担してもらっていて、出世払いというのが、暗黙の建前となっていた。そして、もちろん、ライブやレコードの販売で入ってきた金銭は、すべて、夕顔の会社のほうに、無条件に渡ってしまっていた。
 それでも、会社は、かなりの赤字を計上していた。他に、所属するバンドは断続的にではあったが、常にいくつかは存在していたのだが、この三年が過ぎ、メタルフィズィックが活動休止へと追い込まれると、なぜか、それを見越したかのように、すべてのバンドが契約の解除を求めることなく、忽然と姿を消してしまったのだ。夕顔もmayaも驚いた。それまでも、形式上においてだけ、所属させていたバンドではあったが、こうも同じ時期に重なりあってしまうと、何か陰謀めいたものを、感じずにはいられない。しかし、横のつながりはまるでなかったわけで、あまり深く勘ぐる必要もなさそうだ。
 しかし、これで見た目がかなり悪くなった。今までは、この終始決算のあまりに多いその分を、他のバンドを数多く所属させておいたことで、あまり目立たなくさせていたのだ。ほぼ九割八分、これは、メタルフィズィカルの借金だった。一つのバンドが創出させた金額としては、相当なものだった。これを、十のバンドが創り出したことにしていた。
「来年の頭に、レコーディングがしたいんだけど」
 mayaは、何の躊躇もなく、切り出した。
「どうしたのかしら、急に。珍しく顔を出したかと思えば、自作のCDの話ですって。たまには、わたしくの相手だけをしに、来てくださいよ。他の用件は抜きにして。わたしたちは、これでも、付き合っているのよ。十代のときから」
「悪いな。それはまた、今度にする。今度は、今までで、一番すごいことになる。空白になっていたボーカルの部分に、ある男が加入した。無名だ。インディーズシーンでは、まるで名の通っていない男だ。大阪の方で、バンドをいくつか、渡り歩いたらしいんだが、最初はドラムで、次がベースだったらしい。一つ前のバンドで、初めて歌うことになったらしいんだが。うちと同じで、ボーカルが脱退してしまったから。それで、任されたらしい」
「もう、決定したの?わたしには、すべて、事後報告なのね。いったい、誰が、管理監督をしていると思っているの!」
「その話も聞きたくない」
 mayaは、不機嫌だった。口もあまり開かずに、眉毛を右手の親指で、何度も擦りつけていた。
「今度の方は、いつまで、もつんでしょうね」
 夕顔はボールペンを右から左へと持ち替え、メモ用紙に、文字を書き始めていた。
「いつだって、自ら、去って行ってしまうんですからね。あなたたちとは、歯車が合わないんですよ。最初は合うのかもしれませんけど」
「何が、いいたい?」
「いえ、別に」
 夕顔は、左手でも右手でも、どちらでも文字を書くことができた。横書きの時には、右手を、縦書きの時には、左手を主に使うことが多かった。
「ちゃんと、契約してもらわなくては困りますから。すぐにやめられて、また、活動が停止状態になっても、知りませんからね。それにあなた。もうバンドはやらないつもりだったんじゃないですか?数週間前には、そう聞きましたけど。あなた、本人の口から。そして、ヒロユキさん。彼も続けるのは、もう、やめると言っていましたよね。それが何故に、また、突如として、レコードの話が舞い上がってくるのでしょう。不思議ですね」
「不思議なのは、僕の方だ」とmayaは言った。まだ、不機嫌な口調のままだった。「募集もかけていないのに、その男はふらりとやってきた。誰か知り合いに紹介されたわけでもないのに、こっちからアプローチしたわけでもないのに、そう、あの男がやってきたんだ。この欠けた1ピースの隙間に、ピタリとはまるためだけに。そう。直っすぐに、やってきたんだ」
「へぇえ。ずいぶんと、都合のいいお話ですね」夕顔は皮肉たっぷりに言った。「わたしのことなんて、まるで考えてはいない。これまでだって、一体、どれほどのお金を使ったと思っているんですかね?その上、また、無駄遣いをしようっていうんですね。懲りないひと。うちの会社で働いてもいいと、この前は、言ってくださったじゃないですか」
「状況は、刻々と変わる」mayaは無表情だった。
「株価のようにね。でも大暴落。呆れて、何も言えないわ」
「来年の頭だ。あと、三ヶ月ある。それまでに、曲のアレンジとツアーの構想をまとめる。演奏や演劇の練習にも入る。もう、他のメンバーにも、このことは伝えた。今日の報告は、とりあえず、それだけだ」
 mayaは、そう言い終えると、部屋の扉に、近づいていった。
「ちょっと待ちなさい。何なのよ!突然、来たかと思えば、言いたいことだけを言って、去ってしまう。実に、あなたらしい」
「そうだよ。いつもと、何ら変わりはない」
 mayaは、平然としていた。
「今までの分だって、今度の活動再開で、すべてが取り戻せるんだ。倍になって返ってくる」
「その言葉には、もう騙されないわ」夕顔は、表情をまったく崩さなかった。「その男、とにかく連れてきなさい。わたしが、この眼で見て、判断します。それでいい?」
「そんな必要はない」
 mayaは、面倒くさそうに家具の上に置いてある猫のオブジェを、ぼんやりと眺めていた。
「いちいち、君と議論なんて、しない」とmayaは言った。「いいとか悪いとか。好みだとか、そうでないとか。実現性。可能性。方針。そういう話を、いちいちしたくはない。そんなことで、気分も時間も浪費したくはない。確かに、今までは、そういったものが多少なりとも、必要だったことは認める。でも、今度は違う。議論なんていらない。もう加入したんだ。活動も、共にやっていくことに決定したんだ。早い段階で、今までのように、脱退することなんて絶対にない。彼がこのバンドを引っ張っていくんだ」
「初耳」と夕顔は、必要以上に、驚嘆の声を上げた。「今までは、俺の言うことが、絶対だ。少しでも考える方向性の違う人間は、すぐに解雇だ。あなたは、そういう人だったじゃないですか。あなたが、すべてを引っ張っていく、リーダーだった」
「今でも、リーダーには変わりはない」
 mayaの低い声が響き渡る。「けどね、これからの僕は、一歩引いたところから、全体を操っていくことにした。あえて、自分が、先頭を切って歩いていくこともない。それは、彼がやっていくんだ。彼のほうが性に合っている」
「そういう人なの?」
「あれは、生まれながらの、霊感持ちだな」
 mayaの声が、少し穏やかになった。「気流を変化させることが、自然に出来てしまっている。側で見ていても、それを感じる。彼の感情ひとつで、気流が変わってしまうんだよ。わかるか?内的なものと、その外的な周辺部分とが、見事に呼応している。驚くほど、それは、一体化している。その気流に、僕は、危うく飲み込まれそうになった。まだ、歌も楽器も演奏していないのにね。ステージにも上がっていないのにね」
「まだ、歌も聴いていないの!・・・呆れた」
「そんな必要が、どこにある?あの男の、あの空気の纏わりつき方を見ただけで、ただ者じゃないことがわかる。鳥肌が立った。一晩ずっと、その男と、一緒の部屋にいたんだ。人生がひっくり返ってしまうぞ。人生観が、明らかに変わってしまった。僕は震えてしまったね。いや、震え上がってしまいそうだった。飛び上がってしまいそうだった。
 でも、僕はもともと、無表情だろう。感情が表に出にくいタイプだろう。それが功を奏した。誰よりも内的な発露は抑えられた。だから、あの男が受け取った僕に対する印象も、ずいぶんと、不可思議なものだったんじゃないだろうか。まあ、それはいい。その話はどうでもいい。とにかく、僕はリーダーでありながら、一歩下がった場所に身を置く。それが一番ふさわしい。今までは重荷だった。何で自分がそんなことまでやらなければならないのか。代わりにやってくれる人間がいなかったからだよ。僕は自分の持ちまわりを超えて、様々な役割を背負うことになってしまっていた。それが、役不足に見えてしまうことも多々あったはずだ。そうには見えなくても、やっぱり、全体としては、いささかパワーに欠けていたはずだ」
「あなたの独演会は、もう、けっこうよ」夕顔はメモ用紙を破り捨てた。「本人をここに、連れてきなさい。明日。いいわね。彼、一人で来るようにいいなさい」


 ファラオは、20※※年の10月16日、人生の賭けに出た。仕事をやめ、それまでの人間関係(特に一緒に暮らしていた女性)を清算して、家財道具をすべて売り払った中での上京だった。まだバンドに加入するわけでもなく、メンバーとは会ってはいない状態の中での決断だった。彼はよく勝負に出るとき、先に自分が丸腰であることを天に向かって示すことがあった。だがそれは、自分の覚悟を表すための単なるパフォーマンスなんかではなく、むしろ、そうなるに決まっているんだという心のあり方を、自然に反映させたものだった。
 彼は、何の疑いもなく車を走らせた。女はすでにそのことを予感していたため、彼の申し出をすんなりと受け入れてしまった。彼は事あるごとに、女にある言葉を繰り返し、吹き込んでいた。自分は絶対に、結婚することはないのだ、と。ましてや、子供だって作る気はない。そんなことを期待しているのなら、すぐにでも、僕の周辺からは去った方がいい。それに、君を中心に、ものを考えるということもないし、二人の生活を基盤にして、人生を考えるということもない。
 ファラオは、自分がごく一般的な普通の家庭など、持てるわけがないと思っていた。生い立ちが影響していることもあるのだろう。これまで付き合ってきた人間の影響もあるのだろう。しかし何より、自分が家庭を中心とした半永久的に続いてゆく単調な生活に、耐えられそうになかったからだ。自分は一人でいい。闘い続けるのだ。一体何と?敵がいるのか?己のことか?わからない。だがずっと前から密かに感じていたことが、今さらながら強烈に表に噴き出してきそうだった。皮膚の外側に生まれ出ていきそうな雰囲気を、感じ始めていた。
 ふと、自分という卑小な個体が一つ、空から地上に向かって投げ落とされたことで、始まった人生なのではないか。いずれ、自分は、空へと還っていくに違いない。それまでのあいだに、やり遂げなくてはならない使命が、いくつか存在するのだ。この五年、自分は、水商売を中心とした闇の地底生活をしてきた。それはそれでいい。何の後悔もない。だが、とファラオは思う。
 女はすでに、繰り返し聞かされていた。ファラオの、その、他の人間との付き合い方に、すでに犯されていた。洗脳されていた。ファラオは次第に、自分が支配者になることができた。付き合いが長くなっていけばいくほど、彼は自分の思想で、他者を操ることができた。自分の世界観が、絶対的なものとして、女の前に経ち聳えることになるのだ。そうなると女は言いなりになるしかない。しばらく会いたくないと言えば、女はファラオの元にはやってこない。何日もセックスがしたいと態度で示せば、その要求に、女はけなげに愛を持って応える。一人の女と付き合っているときに、他の女と付き合うことはほとんどなかったファラオだったが、女に対して優しさを見せたことは、一度としてなかった。
 上京するときも、捨てるように女を足元から払い、非情にも、もう二度と会うことはないだろうとだけ言い残して、去ってしまった。女の脳の中から、今までの記憶のすべてを毟り取るかのように、髪の毛をぐしゃぐしゃに掴んだだけで、別れの言葉も何もなかった。
 握手も、見つめる眼差しも・・、何もなかった。

「あなたが、夕顔さんですね。マヤから言われて、ここにやってきました」
 夕顔はうまく、反応することができなかった。確かにmayaの言うとおりだった。
「あなたは、誰なんです?」
「マヤには、何も言われてませんか?」
「ただ、行ってみてくれと。顔を合わせるだけでいいと」
「ぶっきら棒なひと」
 しかし、このあまりに華のある男に、あのバンドのボーカルが、つとまるのだろうか。
 いや、逆に言えば、この男が、あのバンドにうまく納まるのだろうか。収まり続けるのだろうか。
「どうかしましたか」
 ファラオは、夕顔の顔をじっと見たかと思えば、すぐに窓の外へとそらした。余裕だな。この場にすっかりと馴染んでいる。居座っている感じがする。自分に、自信のある男だ。だからこそ、どこに居ようとも、この、どっしりとした腰の座りようなのだろう。何も飾ってはいないのに、動きの一つ一つが、いちいち絵になる。ひょっとすると、と夕顔は思った。
 しかし、いったん呼びつけたものの、何を話したらいいのかわからなくなってしまった。
 おそらく、この男が話のきっかけを与えてくれるものだと、思っていたのだ。最初のコンタクトは、必ず向こうからの質問で、始まると思っていたのだ。矢継ぎ早に、質問攻撃されるものだと思い込んでいた。
「何か飲みます?」夕顔は言った。
「車で来たから酒は駄目なんです」とファラオは答えた。
「じゃあ、コーヒーでも」
「コーヒーは飲みません」
「紅茶にしましょう」
「紅茶も飲みません」
「お茶」
「飲みません」
「水」
「それなら、もらいますよ」
 夕顔は席を立った。そして、ミネラルウォーターを持って戻ってきた。
「あなた、音楽の経験は?」
「幼いときから、ピアノを。それから、バイオリン。ドラムス。ベース。あとは、ビオラかな」
「どうして、バンド活動を?」
「もうやめようと思ってました。正直。でも、このバンドなら、天下が取れる。そう直観したんです」
「あなたは、天下が取りたいわけね」
「取りたいんじゃない」
「というと?」
「取れると、言っているんですよ」
 いつのまにか、ファラオは、グラスを片手に窓辺に寄りかかっていた。
「取れると思ったことを、なぜ、隠さないといけないんですか?取れると思ったものは、確実に取れる。だから、口に出して、取れると言う。それが何か?」
 ものを断定的に言い切る男は、嫌いではなかった。
「それは、何といっても、メンバーの人間性から出てくるものでしょう」とファラオは言った。「いけると思った。僕が探し求めていたものかどうかは、分からないが、しかし、今の僕を、完全に興奮させるだけの何かは、持っている。それは間違いない。これからは、もっと、その震える瞬間がやって来るはずだ」
「そうでしょうか」
「あなたが。一番、わかっているでしょう」
 ファラオは、不敵な笑みを浮かべた。
「バンドを支えているのは、あなたなんでしょう?わかりますよ。期待を持たせるだけの潜在的なもの。それはすごく感じる。でも、決定的に足りないものもある。これは見る人がみれば、すぐに見抜けることです。でもそれは、自分たちが何かをするとか、変わっていくとか、埋め合わせをするとか、そういったものじゃない。だいたい僕は、引き算が嫌いなんですよね。欠点を解消するために行動するとか、考え込むとか。そんな時間があったら、欠点を前面に押し出すことを考えたほうがいい。そこに、新たなものを取り入れ、化学変化をさせるといったことを、目指したほうがいい。言ってることは、わかりますよね。つまりは、誰がどのタイミングで参加していけばいいのかってことです。僕だって、ボランティアじゃない。むしろ、僕の方が得るものが大きいんですよ。すでに、バンドという母体はあるんですからね。僕のスタートラインは大幅に前進する。そして、その母体自体も、かなりの完成度を誇っている。もちろん、技術的なことだったり、装飾的なことに関しては、まるで駄目でしょう。僕の言っていることは、核になる部分があるのかどうかということです。荒波のなか、航海をし続けるわけですからね。ぶれない軸を持っているのかどうか。僕はそれが非常に完成されていると感じた。完成されすぎているくらいの完全なる姿を、僕は、そこに見ますね。これを、埋もれさせておくのは惜しい!何としても、僕が引き出してやらなくては。広い世界へと、導いてあげなくては。僕はね、もともと、カジノのディーラーもやっていたんです。勝負師の血が流れているんです。だから、どこがポイントなのかが、すぐにわかるんです。流れを大きく展開させる一点というものは、必ず存在する。そこが分かれ目だ。チャンスはそこにしかない。そこに全精神をかける。解き放つ。裏に置かれたカードのすべてが、そこで一気にひっくり返る」
「マヤとはもう、だいぶ話をしたの?」
 夕顔は不思議に思っていた。mayaと、この男の、一体どこが結びついたのか。
「二人で、一晩話しましたね」
「そうなの?」
「酒はいっさいなし」
「飲めないからね」
「酒なんて、まるで、考えもつかなかったってことですよ。むしろ」
「音楽の話?」
「そりゃあそうでしょ」
「あとは?」
「あなたに、いちいち話さなくてはいけませんかね。そのために、今日、僕は呼ばれたんですか?」
「違うわ」
「じゃあ、何故」
「あなたに会いたかったから。マヤが引きこんだ人間が、どんな男なのか。バンドを引っ張っていく男が、どんな人間なのか。実際に、この目で、確かめてみたかっただけ。話なんて、何もないわよ」
「じゃ、僕は、帰りますよ。しばらく住むことになる家も、探しておかなくてはいけませんからね。いくら、ツアーに出て行くとはいえ、いちおう帰る場所は、確保しておきたいですから。それに、ミーティングやレコーディングを、これから重ねていくことになります。拠点は、この辺にしておかないと」


オペレーションルーム・x

 助手の002を、キリコは、呼び出した。
「なんでしょう」すぐに、002はやってきた。
「次の実験室に、情報を伝えてくれ」
「どこでしょう」
「メインスタジオⅡだ」
「了解です。では、言付けをどうぞ」
「概略を、説明している暇はない。デスマスクの準備を、してほしい。石膏だ」
「わかりました」
「外観のコピーをしたいんだ。その後、同じ顔を、いくつも作りたい」
「理由は訊きません」
「当たり前だ。お前たちは、俺の言うとおりに、動いていればいい。思考は、去勢されているんだからな。それ以上は、深入りしても無駄だぞ。いいか。スタジオⅡは、ハイテクな機械はどれも入れることができない。変わりに、棚を作っておけ。デスマスクを置いておくためのな。コレクションだよ。ふふふ」
「手配しておきます」
 002は、ゆっくりとお辞儀をした。「そういえば、004はまだ、回収から帰ってきていません」
「まだか」
「どうしたのでしょう。途中で、命令に背いて、脱走してしまったんですかね」
「余計なことは考えるな。いずれは、帰ってくる」
「訪問客は、あれから、誰も来ていませんよ」
「当然だよ。やめてくれ」
 なぜ、デスマスクをつくり、そこに、何百種類のアミノ酸を加えた擬似的な皮膚を持つ仮面をつくろうと思ったのか。その被験者は誰なのか。今度、人体実験のためにやってくる人間を拝借して、鋳型を取ろうとしているのか。

キリコの研究室は、全フロアに渡って、DNAの採取によるヒトゲノムの解読のために機能していたのだが、それはとてもとても、退屈なものだった。DNA至上主義が脆くも崩れた今現在にあっては、より柔軟に富んだ不定形で、不安定な、しかも、その働きにおいては無限の可能性のある、RNAの研究にシフトをしていたのだ。しかしそれはそれで、限りがなく、しかも輪郭さえもがこれっぽっちも見えてはこなかった。ただの混沌とした状態へと突っ走る、暴走列車のような気がして、キリコはなかなか本腰を入れて足を踏み込むことができなかった。一度、探求に手を染めてしまえば、もう後戻りはできない。細分化を止めることはできない。知りたいと願ったばかりに、逆にやればやるほど、進めば進むほどに、状況が見えなくなってくる。そういう意味でも、DNA至上主義はわかりやすくていい。それで、すべての説明ができてしまうという状況を作り上げたのだ。やはり、人間は、本能的にシステムを構築し、マニュアル化し、安定した心の平穏さを作り上げようとするものなのかもしれない。そこで安穏としていれば、何も新たな不幸が、始まることはない。だが、とキリコは思ってしまう。

 そんな苛立たしさもあってか。しかも、複製のことばかりを考えていたために、ふと、同じ顔の人間をたくさん作りたくなってしまったのだ。複製というよりは分散してしまうことに興味があった。同じもののコピーを繰り返していれば、いずれは、その濃淡が低下してくる。薄くなってくる。同じ脳みそを、コピーすることで、いくつもの頭蓋骨に照射していくことで、本当に薄れていくのかが、試してみたかった。
 だが、まずは、顔の表面をなぞって見るのも、おもしろいかもしれない。あのメインスタジオⅡにずらりと並べてみるのも、壮観かもしれない。これは、単純に、個人的な趣味であって極秘に行いたかった。
 何故そんなことを突如やろうとしたのか。このときのキリコには、まるで理解することができなかった。しかし、キリコがこの研究所の外においては、すでに、戸籍が抹消していたという事実を思い返したとき、彼は合点がいくような気がした。


 夕顔はその夜も、mayaと過ごすことはなかった。しかし今日に限っては、寂寥感のほうはまるでなかった。それよりも、じっと、ベッドに横になっていることのほうが、耐えられなかった。胸の奥に、疼くものがあった。性器の周辺は、熱くほてっているようにも感じた。今すぐにでも、誰かに、この体を抱いてもらいたかった。こんなにもただ訳もなく、発情することなんて、今まで経験したことがない。一体、どうしたというのか。ぱっと、目の前に浮かんだ男の顔は、ファラオだった。
 なんということだ。夕顔は、mayaの恋人になってからというもの、他の男と寝たことは一度もなかった。寝る可能性すら考えたことがなかった。mayaの対応がそっけなく、泊まりに来てもくれない日々が、どれほど続いたとしても、夕顔は文句一つ言わなかった。
 どうして自分が、mayaにこうも執着するのか。今もってわからなかった。別れようと思ったことは、何度もある。しかし、他の男と付き合うというイメージがまるで湧かなかった。ある時期、夕顔は、その空白に、出会う人出会う人を当てはめてみたのだが、ピンとくる男は、誰一人としていなかった。そのうち、mayaは会いにきてくれる。私のことを、さんざん放置しておいたあげくに、絶妙なタイミングで会いにきてくれる。私は、無抵抗に服を脱がされる。時には、彼の性器を、口で愛撫することもあったが、たいていは、二度目のセックスのときだけであった。私の中にたまりに溜まった性液が、彼の口の中に、指の皮膚に、性器に、一気に解き放たれる。mayaは、真夜中、帰宅してしまう。朝まで同じベッドで過ごすことはほとんどない。強い雨が、窓ガラスに当たる音で、真夜中、起こされてしまう。
 しかし、隣には誰もいない。

 翌朝、発情のほうは、収まっていた。
 mayaがやってきた。
「どう?調子は」
 すぐにでも、飛びつきたかった。この机の上で、裸で抱き合いたい。
「え、ええ・・、そうね。いいわね」
 昨日よりは、確かにマシである。
「今日は、ずいぶんと、おかしな車ばかりを見たよ」
 mayaはいつもと変わりないがないように見える。
「ダンプカーを、二まわり小さくしたような車。あんな車が、今は、市場に出回っているとはね。しかも、カップルが乗っていたんだぜ。あれは仕事じゃない。プライベートで買った車だ!」
 mayaの顔を見上げることができなかった。ふと、また、昨日見たあの顔のほうが、mayaより先に、立ちのぼってくるのだ。
「ミニチュアの、ダンプカーだよ」
 mayaは、私のことなんてお構いなく、話を続けていた。私の微妙な心の動きになんて、まるで関心はないのだ。
「どうした?なんだか、顔が火照っているみたいだぞ」
 ちゃんと感づいていた。
 mayaは、私の唇にキスをする。その先まで行くの?
 mayaはすでに、私の背後にいて、乳房を揉み始めていた。私は抵抗しなかった。短いスカートを履いてきていてよかった。mayaの手は太腿にあった。撫で回すように何度も肉の感触を楽しんでいる。彼の指先は、なかなか私の中心に触れようとしない。早く。早く。下着はもう、びちょびちょじゃないの。わかるでしょ。mayaはそれでも、執拗に太腿を愛撫していた。私は天井を見上げている。意識がもうろうとしてくる。瞼を閉じる。うっすらとだけ、下着が剥ぎ取られていく感触が、伝わってくる。腰を浮かせるような手つきで触られている。スカートも取られてしまったようだ。昨晩の発情がまた、蘇ってきた。私の中に入ってくるものがある。そんな、もう?しかし、ここが、自宅のベッドではなく、オフィスであることを思い出して、早く、早く、の焦燥感に変わった。誰か来てしまうかもしれないから。男の自慰よりも、素早く、イってしまいたかった。そうかもしれない。この発情の仕方は、女のそれではなく、男のそれなのかもしれない。私の中の未発達な器官が、どういうわけか、作動を始めてしまっている。なぜ?んんっ。早く、来て、来てっ。夕顔は、イッた。目を恐る恐る開けてみると、そこにいたのは、なんと、ファラオだった。

「どうしたんだよ」
 やはり、mayaだった。
「いきなり、こんなこと」
「何?」
「されたことが、なかったから:」
 服は着ていた。スカートのほうも、捲れ上がってはいない。
「あれ。何の話だっけ」
 夕顔は、事態がよく、飲み込めていなかった。
「・・なんで」
 そんな行為など、まるでしてなかったのだ。
「ファラオは?」
 夕顔が、口にした言葉だった。
「ファラオ?昨日、会ったんだろ?」
「え、ええ。そうよ。そのとおりよ」
「で、どうだった?」
「・・・」
「それを、訊きにきたんだぜ」
「・・・」
「どうした」
「・・・」
「失語症?」
 mayaは、うっすらと笑った。乾いた笑いではない。微笑んでいた。そんな顔など、いままで見たことがない。
「ファラオのことだよ。第一印象は、どうだったの?」
 なぜ、彼のことを話す、mayaの様子が違うのだ?
「なんか、変だぞ」
 そうなのだ。変なのは、この私なのだ。ファラオに会ったことで、一番動揺しているのは、この私なのだ。ベッドのシーツをすべて、体液で濡らせてしまうほどに、興奮しているのだ。
「体調悪いの?」
 mayaだけには、悟られてはいけない。
「そういえば、車の話をしてなかったっけ」
「そうなんだよ」
 こうもあっさりと、別の話題にそらすことなど、付き合い始めて以来あっただろうか。
 それから彼はずっと車の話を続けていた。中身はさっぱり頭に入ってこなかったものの、何度も繰り返されるキーワードだけは、しっかりとキャッチしていた。トランスフォーム。車体の上半分。ブルドーザー。ダンプカー。着せ替え人形。ステーション。
「よく目を凝らしてみると、何百台に一台。同類のような、おかしな雰囲気の車が、目についたんだよね。共通点は上半部分。ミニチュア。付け替え可能な感じに見える、車たちの到来。街をじっと見ていたのも、ずいぶんと、久し振りだったよ」


オフィシャルサイトAMALGUMからの情報メールです。会員のみなさまに送らせていただいています。長らく停止ししたままのメタルフィズィックでしたが、この度、新しいメンバーを向かえての、復活ライブを行いたいと思います。なおそれに伴い、先行シングルの発売を、12月に予定しております。さらには、3月末には、アルバムの発表。4月からは、全国ライブハウスツアーへと出奔する予定です。なお、新メンバーは、その楽曲の発表をもっての正式加入とし、ライブイベントをもっての、初のお披露目、ということになると思います。
 
 
長らく待たせてしまって申しわけなかった。しかし、今度の復活に関しては、僕らメンバーは、かなりの自信を持っている。バンドが一つの大きな壁にぶち当たり、乗り越えようとしていることを、感じている。ここに集まりし人間は、ある、おおきな使命のために導かれた勇士なのかもしれない。お互いを覚醒し合う、戦士なのかもしれない。そして、あなたたちは、その邂逅を目の当たりにする、最初の人たちなのかもしれない。僕らは一心胴体だ。今までも、今も、そしてこれからも、ずっと。永遠に。強い絆で結ばれている。それではライブで待っている。会場は、また追って発表をする。それでは今から、レーコーディング作業へと入る。みんな、待っていてくれ!
                                   maya




















































始まり




















 五人のメンバーが初めて顔を合わせたのは、ヒロユキとmayaとファラオの三人で、ドライブをした日から数えると、すでに一週間以上も経っていた。メンバーの『ニセイ』は、伊豆に旅行に行っていて、しかも、電波の届かないところに始終いたので、合流には時間がかかってしまった。『逆玉』は、体調を崩して入院していた祖母を見舞っていたため、合流に遅れた。
 カフェ・デ・モツァレラでの邂逅は、そのときも、五人というよりは三人が中心となって、会話は進行していた。
 ニセイと逆玉は、相槌を打ったり、首を捻ったりする動作を、繰り返すばかりで、主張はほとんどしなかった。この二人が、新メンバーなのかと思うくらいに、控え目で、ビジョンの主導権を握ることは、まずなかった。
 それでいいんじゃないの。マヤちゃんが、そう言うのならそれで。珍しく意見を言ったときも、ここにこれを加えると、もっとよくなると思うよ。とか、あまり派手にやらないほうがいいと思うよ。くらいであった。存在感を、前面に押し出してくる男たちではなかった。自己主張は弱かった。
「この前、また、別の女といたな」
 酒も進んできた頃に、ニセイはヒロユキに言った。
「どこで?」
「吉祥寺」
「ああ。先週だろ。知り合いだよ」
「ヤッたんだろ」
「ヤッたよ」
「あれ、高校生じゃなかった?」
「高校生だね。それが?」
「いや」
「でも、別れたよ。ヤルために付き合ったんだから」
 バンドのミーティングに、そんな話を持ち出してくるなよとmayaは思ったが、ヒロユキの女癖は、今に始まったことではなかった。
 ファラオの方を見た。彼はそんなことなど、気にもなってないようだった。大きな方眼紙を広げ、設計技師のようにじっと、まだ何も描かれていない鉛筆の跡を眺めていた。
 なぜ、こんな方眼紙を持ってきたのか。mayaはまだ、何も聞かされてなかった。
「この前付き合っていた、あの、金髪のハーフはどうしたの?」
「ヤッたよ。それが?曲を作りすぎてて、頭が熱くなりすぎてたんだよ。だから、冷ましたかったの」
「店の女?」
「違う。知り合いの彼女。呼び出して、口説いた」
「それで、頭は冷えたの?」
「そうだよ。あ、でも、また、あの後、メロディが浮かんできちゃってさ、すぐに、家に帰って、自宅でレコーディング作業をしてた。あと、衣装のイメージが浮かんできちゃって。それも、紙にスケッチしてた」
「それで、その女とは?」
「時々、会ってる。一回で切るのは、もったいない」
「いい女だったよ」ニセイは言った。
「でも、自分の女にしようとは思わないな。誰かの女でいいんだ。そのほうが気が、楽だ。気が向いたにときだけ、会ってくれれば。向こうだって、そのつもりなんだから」
「好都合だな」
「僕は煮詰まっちゃうんじゃなくて、放出過剰になっちゃうの。きっと、精子のほうも、そうなんじゃないのかな。だから、どんどんと、外に出してあげないと、痛くなっちゃう。音と一緒だよ。前もm、ayaちゃんに言ったことがあるけど、この、どんどんと排出される音に舞台がないと、それこそ、狂気の奔流が決壊したままに、いずれは、この僕そのものがその海に溺れて、死んでしまうんだからね。ダムのようなものが、ずっと欲しかった。僕にとってのバンドは、そういったダムのような存在なんだ。mayaちゃんは、湖のような人」
 ヒロユキは、酔っているのか素面なのかわからなかった。じっと白紙を見つめていたファラオは、何の反応も示さなかった。
 mayaは、外の暗闇をぼんやりと見ているだけだった。
「彼女はいないのか」ニセイとヒロユキの会話は続いている。
「いないよ、今はね」
 一番大きな設計図を持ってくるのは、mayaだった。そのコンセプトを具体化していくのが、ヒロユキだった。そしてそれをどう表現していくのか。アレンジしていくのか。この大きな所帯を、どう敏速に移動させ、展開していくのか。
 ファラオだった。
 ニセイと逆玉は、その求心力に引っ張られるかのように付いてくるだけだった。演奏能力や細かい表現能力に関しては申し分なく、彼らは小さな穴を埋めていく、きめ細かな作業のできる男たちだった。こういう男たちは、確かに必要だった。
「最初のシングル曲を、どれにしようかと考えているんだ」
 mayaが口を開いた。
 ニセイはおしゃべりをやめた。
 逆玉は閉じていた目を、ゆっくりと開ける。
「候補は四つほどある。ヒロユキのほうは、とにかく、曲数が半端じゃない」
「方向性が、いまいち、はっきりしないんだけどね。俺のは。でも、マヤちゃんのコンセプトに合う音を、引っ張り出してくるのは、いつだって、可能なんだからね」
「バンドの方向性に関しては、最初の夜に。ファラオとだいぶん話しあった」
 mayaは言った。「とにかく、基本の路線は今、までと同じだ。軸も変わらない。しかし今回、大きく変わるのは、ファラオが加入したということだ。ここには一体、どんな意味が隠されているのか。そこが、今度のアルバムの、テーマになると思う」
「つまりは、どういうこと?」
 ここで、逆玉が入ってきた。
「拡大だ。進出といっても、いいかもしれない。新しい誕生。確実に、現世に存在させたいってことだ」mayaは、力強い口調で言った。
「確かに、観念バンドだとは思うよ。精神世界を重視して、生まれる前から、死んだあとにまで繫がっている、不変の時間の流れのなかから、世界を引っ張りだしてくる。現在、ここに存在している意味を、魂の深遠に降りて行って、その答えの欠片を求め続ける。それは、変わらない。でも、それをもっと広い、この今という時間の中における場所で、最大限、やってみるというのはどうだろう。ファラオとは、そんな話をずっとしていた。縦に広がり続けた時間の軸を、今度は、そっくりと、そのまま九十度回転させて、横にしてしまったらどうか。世界はぐんと、横への広がりを獲得する。
 なあ、俺は、このバンドに今必要なことは、この拡がりだと思うんだ。曲は、俺とヒロユキが持ってくる。それを、どう立体化させ、どう展開させていくかを、今度のミーティングでは、確立させたいんだ」
 ファラオは、相変わらず、設計技師のような格好で微動だにしなかった。


 今は、仮にも音を出す舞台がある。
 mayaちゃんとの出会いが、そのきっかけを作ってくれた。
 今までは、あらゆる人に排除の命令を受け続けてきた曲たちのいくつかが、こうやって、バンドのサウンドに乗っていくという機会を得ているということは、ヒロユキにとって、限りない喜びだった。だがそれも、いったい、いつまで続くのだろう。バンドはどこに向かっていて、何を成し遂げようとしているのか。そこに、俺はいつまで含まれていることが可能であり、その後はいったい、どんな末路をたどってしまうのだろう。
 俺は、末路のことばかりを考えている。どういう終わり方を、してしまうのだろう?
 俺の曲はいずれ、バンドからは離れ、行き場を失った音たちは、この頭の中にだけ、閉じこもり、激しいハウリングを起こし続けることになる。鏡の部屋に迷い込んだ人間が、発狂するかのごとく、暴れ回っている。そのイメージは鮮烈だった。きっとそうなるのだろう。ならばと、ヒロユキは全然、違った角度から物事を見ようとする。じゃあ、その発狂した俺は俺として、その鏡の部屋に、ずっと居てもらうことにする。閉鎖しちまえばいい。さあ、そこで問題となるのは、音のなくなった俺のほうだ。その発狂と引き換えに、その抜け殻を、一体どう始末していけばいいのだろう。金だと、ヒロユキは思う。金さえあれば、音を失った俺でも、生きていくことができる。すくなくとも、野たれ死ぬことはない。


 キリコオフィシャルサイトAMALGUMの一般公開ページには、人体の提供を呼びかけるような広告が、仰々しく掲載されていた。ドナー登録のような印象も受けたが、これは明らかに、人体実験に違いない!と私は思った。何度か、この広告には出会っていたような気がする。記憶の欠片に、マイクロチップのように埋め込まれた何かが、疼くのがわかった。今までの人生のなかで、何かしら、関わりがあったような気がする。
 悩んで躊躇している暇があるのなら、行ってしまおう。私は連絡を取ろうと、電話番号を控えた。だが、何度かけてみても、応答はなかった。住所は記載されてはいなかったが、とにかく、訪問しなくてはならなかった。電話口に誰かが出るまで、何も事が進まないという受身の状態は、心地が悪い。こっちから働きかけなければ、何も進展はないのだ。扉を叩いてしまえば、向うだって、もう逃げ道はないのだ。
 その場所を、正確に探しあてさえすれば。


 妊進館でのミーティングを提案したのは、mayaだった。
 こうして五人が集まって、次の構想を練るというのは、いったい、いつ以来だろう。
 ヒロユキは、ニセイと逆玉を連れてやってきた。
 ファラオとmayaは、それぞれ別々に、一人きりでやってきた。二人とも徒歩だった。
「電車で来たのか?」
 ヒロユキは、mayaとファラオに訊ねた。
「まあ、ね」
 mayaは、素っ気無く答えた。二人で話すとき以外で、mayaが表情豊かに話すところを、見たことがない。
「ファラオも?」
 ああ、と、こちらも無愛想に頷いた。
「車は売ってしまったから。いや、車だけじゃない。家具もバイクもすべて」
「しかし、二人が、電車で来るっていうのも、妙な話だね」
 ニセイは、ヒロユキに言った。
「目立つだろう」逆玉が言った。
「ずっと俯いているんだ」とファラオは言った。「サングラスをして、イヤホンをして。耳栓代わりだよ。音楽は流れていない」
 しかしファラオはともかく、mayaはいかがなものか。ステージに立つわけでもないのに、濃いメイクに黒い帽子を被っている。眼もばっちりときめているし、素顔などわかったものじゃない。髪は、腰に付くくらいに長い。
「俺は、見られるよ」
「そりゃあそうだよ、マヤちゃん」
「それにしても。あの二人」
 ニセイが、逆玉に小さな声で話しかけた。「すごいよな」
「ああ」
「何なんだ、あれは。まるで、世界が違うよ」
「威光が放たれてる」
「近づき難い」
 ファラオとmayaは、必然的に、窓際に押しやられた。
 真っ白なカーテンがそよいでいて、時おり、ファラオの肩にふわりとかかる。
 ファラオは、振り払おうともせず、外の景色を眺めていた。顔だけが窓辺に向かっていて、首から下は、他の四人のメンバーの方に向けられていた。長い足は組まれていた。
「別世界だ」
 三人は、そう心で呟いた。
「ところで、最近はどうしてた?」
 場の凍りつきそうな雰囲気を和らげる役を、ヒロユキが買って出る。
 そうしないことには、二人は、自分の世界に沈潜していってしまいそうだった。
 いや、初めから、意識の半分以上は、いってしまっているのかもしれなかったが。
「ああ、僕?」
 ファラオが、最初に反応を示した。
「そうだな。上京するわけだから、いろいろと準備をしたり、今ままでの環境を、完結させるための作業をしていた。切ったり、捨てたり、新しいものを購入したり、いろいろと出入りが激しかった。ようやく落ち着いたところだ。あとは、mayaと電話でしゃべっていた。ちょうど、いろんなことの整理が、ついたところでね。それで、ミーティングに至ったってわけ」
「なるほどね」
 しかし、ヒロユキはこの二人が、かなり親密に連絡を取り合っていることに、心地のよさを感じることはできなかった。
 以前は、自分がmayaとの連絡を、頻繁に取っていたのだ。
「mayaちゃんは、何を?って、訊くまでもないな。構想を煮詰めていたんだろうから。それを、今日、発表するわけだ」
 mayaは、ファラオの方をちらりと見た。どうする?っていう、タイミングを計るような目線を送った。
 ファラオに任せるよ、といった伝心のようにも、ヒロユキには見えた。
「それにしても、二人の周りには、光が集まっているようだよ」
 ニセイが逆玉に囁いた。さっきから、そのことばかりだなと、逆玉は思った。
「だけど、ほんとうにそうだ」

 ファラオは、mayaとは違って、メイクなど普段はまったくしていない。
 そんなものなど、まるで必要のないくらいに、彼は美しかった。背は高く、スレンダーなスタイルを保っていて、肩にかかろうかという髪の毛は、硬い印象こそあったが、まとまりがよさそうだった。前髪も長く、上にふわりとあがったかと思うと、顔の輪郭に沿って、そのまま耳の横へとするりと流れていく。黒いスーツのような生地の服に、白いハーフのコートを羽織っている。今はサングラスはかけていない。燦然と輝く茶色の眼は、哀しげな未来を見つめていて、薄い唇は、寂しげな過去を、回想しているようにも見える。
 一方、mayaは、メンバーもその素顔をほとんど見たことがないほど、徹底したメイクの仮面を被っていた。mayaの自宅に遊びに行ったときでさえ、彼はメイクをして出迎えてくれた。これにはさすがに、当時のメンバーは笑ってしまった。しかし、当のmayaは大真面目で、エレガントな仕草で、メンバーを部屋の中へと招き入れた。そして、香りのいい紅茶まで出してくれた。ヒロユキがかろうじて、結成初期に、その素顔を見たことがあるくらいで、その後の彼は、まるでプライベートなことはすべて、遮光カーテンの向こうに押しやってしまうかのごとく、家族のような親密なメンバーに対しても、ほとんど隙を見せなくなってしまった。ニセイはその頃のことを、ヒロユキに訊いてみたのだが、そのヒロユキ自体が、何故かしら、mayaについて多くのことを語ろうとしなかった。

 ヒロユキは、mayaのメイクのことを思った。
 最初に会ったとき以外、ほぼ素顔を隠しているこの男に、強烈な共感を持った。
 自分はこんなにも、濃いメイクはしない。しかし、服や髪型は、ほぼ毎日変えている。イメージが一つに固定されてしまうことを、俺は極度に恐れるのだ。常に、移り変わっていないと落ち着かない。逃げ回っている脱走兵にも似ていた。捕まりたくない。俺という人間の、変わらない何かを、掴まれたくはない。そんなものは、生来、持ち合わせていないのだと、自分に言い聞かせているのだろうか。それに比べると、あのファラオという男は、なんと無防備なんだと、ヒロユキは思った。メイクもそこそこに、何故、あの美麗が保てるのだ?もともとの顔立ちからして、中性的だった。眼の輝き。すらりと伸びた鼻筋。薄い唇。スレンダーな体。そういえば、彼の車。オープンカーだった。完全に外に向かって開かれている。舞台に上がる時は、おそらく、mayaちゃんの世界観を表現するわけだから、濃いメイクはするのだろう。だが、この男は、ほとんど、このままの顔を生かしたほうがいい。俺なんかとは違う。俺は変形させないと、とてもじゃないが、表現者として舞台には立てそうにない。新しい顔を、外側から取り付けてからでないと、それこそ仮面のように密着させてからでないと、自分という人間を超越させることはできない。


 ヒロユキは、復帰に向けての初めてのミーティングの後で、珍しく一人で過ごす時間ができてしまっていた。たいていは一人で過ごすことなど、大嫌いなこの男は、手持ちのリストの中から、手軽に調達できて、しかも、深刻な気分にさせない女を選ぶのだった。
 ヒロユキにとっての音楽も、あるいは、同じようなものだったのかもしれなかった。内奥に抱え持つ深刻な闇を、気軽に回避したり、ほんの少しだけ、逸らしたりするために、音に変換してしまう。自分は、mayaのように、深刻な闇を全面的に引き受け、そのすべてと向き合うことなんて、できやしない。その闇を、三次元の空間にまで引き上げ、別の装置に変えてしまうなんて、芸当、とてもじゃないができなかった。
 おそらくmayaは、その空間に自らが含まれることで、さまざまな現象に出会うのであろう。あらゆる局面で、どう対処していくのか。いかにして乗り越えていくのか。思い切りぶつかっていくときもあれば、動くことなく、様子を見守るだけの時もある。そうやって場面は、いくつも変化していく。しかし、含まれている空間は、広大な世界なのだ。
 だが、この俺は違う。
 毎回、行き当たりばったりなのだ。
 それも巧みに深刻さから回避するための仮面の付け替えを、高速で行うといった術を身につけることで、やり過ごしていく。俺の衣装やメイクが、それこそ、怒涛のごとく転調していくのは、その精神性を見事に反映しているからだ。だがそれも、mayaに出会ったおかげで開花した。彼を見ていると、自分の立ち位置が、明確になってくる。彼との違いが、自分の個性となって、反射して返ってくる。前のバンドでは、そんな現象など、起こることはなかった。
 mayaはmayaで、それまで数々のバンドのリーダーとして活動してきたものの、なかなか思うような表現スタイルを、確立することができなかったらしい。自らイメージは持っていたものの、それを実現するために何か、アクションを起こすたびに、それは過去にあった何かに誰かに、似てしまうということがほとんどだった。似ること自体は、全然悪いことではない。そもそも、芸術家の初期においては、誰だってそのスタイルは借り物なわけで、むしろ、積極的に同化していくことを、本能的に進めていくことのほうが多い。おそらく、そのときのmayaは、その段階から抜け切れるのかどうか、といった時期だったのだ。
 俺との初めての邂逅から一年経ったある日、二人は今までにない、まったく新しいバンドをつくろうといった意気込みのもと、運命を共にする決意をする。
 あれもすでに、三年前のことだった。
 今は、ファラオという新しい風が入ってきている。
 それはきっと、mayaにしてみれば、俺との接触とはまた違った次元での、衝撃だったのかもしれない。俺とmayaも、確かに、個性は異なる。しかし、共に作り上げていくという意味では、非常に近いところにいた、人間同士だったのかもしれない。趣味が似ていなくもない。メイクは濃く、ベネチアのカーニバルに登場するような仮面の出で立ちに、初めからなっていた。それが、ステージに見事に反映することになる。音のタイプはまるで違うかもしれないが、バンドの核であるビジュアル面においては、それこそ、何の違和感もなかった。お互いが、補完し合える関係だった。
 しかし、ファラオとmayaとでは、補完がどうだとか。そんな、レベルの話ではなかった。きっと、前世では恋人だったに違いない!互いにとっての、最後の一つのピースが、ガチャンと嵌るような印象を、俺は持った。
 mayaにとって、最も欠けているピースが、なんとファラオを特徴づける、最たる鋭角になっている。そう考えると、mayaが女性器で、ファラオが男根ということにもなる。まあ、素顔でいえば、完全に、ファラオのほうが女性的ではあったが。メイクをとったmayaの方は、きっと、完全なる男なのだろうけど・・・。しかし逆に、ファラオの最も欠けた部分を、mayaが先鋭的に持っているということもある。
 まだ、ファラオのことは、何一つ知らない。
 あの男に欠けたものなど、何一つないようにも思える。
 けれど、このバンドへの参加を決意した彼には、明らかに焦燥の色が、その美しすぎる素顔の下には、隠されているような気がする。
 あっ、と、このとき、ヒロユキは思わず声を上げてしまった。そうか。あの素顔が、彼にとっては逆に、仮面のようなものなのだ!あの美しすぎる顔の下には、本心の滲み出てしまった、血どろみの皮膚が、あるのだ。そうだ。きっとそうだ。あの素顔こそが、彼を隠すための最大の武器なのだ。これは、最も強力な仮面なのかもしれない。俺のように、あくせくと、違った顔をつくる必要など、まるでないのだから。確かに、その時々の強烈な感情が、表面に浮き上がってくることには違いない。しかし、それも、あの美貌にすべては回収される。それを、魅惑のオーラとして変換してしまうことで、人々の視線を、その表面だけに釘付けにする。
 そんなことを考えていると、女の子を呼び出す気など、まるでなくなるのかと思いきや、気がつけば、すでに、電話番号がいくつも用意されていて、後は、順番に掛けていくだけだった。俺は前世がカップルだった二人の人間と、今から、同じステージに立とうとしているのかもしれない。なぜかしら、婚礼を司る神父のように、二人を見守る役目が俺には与えられているような気がしてくる。それも見守るだけではなく、そこに、多彩な装飾をもたらすことで、その舞台をさらに引き立ててやる役割;;。あるいは、トリックスターのように、時には、すべてをぶっ壊し、台無しにして、そして・・・。


 現代における文明社会において、その人身供養という名の生贄が姿を消しているのは、実に嘆かわしいことだった。これだけ自殺者の数が増えているにもかかわらず、これほど世界では戦争による犠牲者が、今だに出ているにもかかわらず。しかし、それとは別で、いったい、何故、そうじゃない生々しい死のほうは、徹底的に洗浄された国や都市や機構システムにおいて、表面的に削除されてしまっているのだろう。世界は混沌としている。しかし、棲み分けがスマートになされているのもまた確かだった。
 人は混沌とした原始社会への回帰など、これっぽっち求めてはいないだろうが、精神の躍動は、そんなことじゃ収まらない。抑圧されたエネルギーは、その出所を闇に求めるのだろうか。地表の下へと追いやってしまうのか。人身供養が人目につかない自分だけに向かって突き進んでいくのか。あるいは、特定の他者か、不特定多数の他者に向かって、突き進んでいってしまうのだろうか。
 選ばれる人間。選ぶ人間。それを承認する人間。見守る人間。痛烈に批判する人間。一笑にふす人間。公の場。好奇の目にさらされる。
 神聖。荘厳。ファルス。喜劇。カーニバル。興奮。何が見たいか?見せたいのか?誰が。誰に向かって。何を。いったい・・。見たいのは・・。生贄。わたしの代わり。
 生命体。超越。断ち切る。復活。預言者。再生。破滅。堕ちてゆく。天使・・。


 カフェバーで、を整理していたヒロユキに、声をかけてくる女性がいた。
 その日はたまたま、一緒にいた女性の体調が悪くなり(生理になってしまったので)先に帰ってしまっていた。そこに、アイリスという女性がやってきた。暇になってしまった時間を使って、ブラインドバンクの存在を、もっと明確にしておきたかった。
「彼女に、フラれでもした?飲み直そうよ」
 店内のテレビ画面には、同じ顔が、映っていた。
「あれも、私」
「タレントなの?」
 化粧品のCMだった。
「うん。まだ、出始めたばっかだけど」
「本名?」
「ええ」
「博愛のアイに、クリのネズミで、リス。合わせてアイリス」
「ひどいな」
「そう?芸名使わなくても、これでいけるのよ」
「なんで、声をかけてきたの」
「あなたが、何か、熱心に紙を広げていたからよ。何なのかしら、これ」
 アイリスは、身長160センチくらいの細身で、色白でスタイルのいい、割と育ちのよさそうな女だった。今まで、ヒロユキが関わってこなかったタイプの女だった。女子大生のような雰囲気もある。
「よく来るの?芸能人なのに」
「来るわよ。友達に会いに。ここの経営者なの。それに、彼にも会える」
「彼氏?」
「そうね」
「いるんだ?」
「いないと、思った?」
「声をかけてきたから」
「そういうつもりじゃないわよ」
「彼氏は、どこ?見られちゃ駄目だろ」
「今日はいないの。だから」
「どんな人?何をやっている人なの?」
「最近、上京してきたそうよ。先週だったかしら。横浜から」
 横浜?上京?ファラオじゃないか、とヒロユキは思った。
「付き合って、どのくらいなの?」
「ええっと、一週間ね。先週、ここで会ったの」
「そうか。そういうことか」
「あなたにも、会ったわ」
「いつ」
「今日」
「ねえ、君は、芸能人なのに、自分から、男に声をかけたりするの?」
「いやいや。そんなことはないって。たまたまよ。その彼と、あなたに限っては」
「その彼っていうのは、かなりの、美形なんだろ?」
「どうして、わかるのよ」
「それに比べて、この俺は」
「あら、けっこう、目立っているとは思うけど」
 女は、ヒロユキの足から頭へと、視線を撫で上げていた。
「共通点は、あるわ」
「共通点?君の声をかける共通点?」
「ええ。それを感じる人には、興味が湧くの」
「じゃあ、俺と付き合う?」
 いつもの軽薄な面が、覗いてきた。
「ええっ?でも、まだ付き合ったばかりだし」
「いいだろ?この後、家で飲み直そうよ」
 あっけなくアイリスの体は、ヒロユキのものになってしまった。
「まだ、彼ともしてないんだけど。その彼ね。名前も教えてくれないのよ。何かね、仕事の都合で、別の名前を持っているらしいんだけど、横文字の。でも、それさえも、教えてくれないの」
「何をやっている人なの?」
 ヒロユキは、ファラオの私生活が覗けるチャンスだと思った。
「さあ。夜の人じゃないかしら。でも、何か、新しいことをこれからやるんだって」
「ほんとに彼氏なの?」
「いえ・・・」アイリスは口を噤んでしまった。「その、わたしが一方的に、そう思っているだけ・・・。とても手が届かないわ・・・」
「芸能人の君でも?」
「すごく、雰囲気のある人なの。話せただけで、興奮してしまうし、それに、それ以上は、わたしが耐えられそうにない」
「ねえ」
 ヒロユキは、ベッドの中で、女の尖った先をいじりながら、支配的な物腰で話をはじめた。
「その共通点って、何?それが訊きたいな」
 アイリスは、少し間を置き、今から話すことを、頭の中で整理しているようだった。
「お金の匂いがするの」
「お金?」
「ええ。あなたと、その彼からは」
「俺は、全然持ってないぞ」
「今、現在、どうなのかって、ことじゃないのよ。過去のことなのかもしれないし、この先のことかもしれない。とにかく、お金の匂いが、ものすごく漂ってくるわけ。私、敏感なのよね。犬みたい。お金のことに関しては」
「見当違いだよ」
「あの人は夜のお仕事で、だいぶん、儲けてたらしいのね。でも、それをやめて、一文にもならないかもしれない無謀なビジョンに、挑戦するんだって言ってた。それ以上は、訊けなかったけれど。やっぱり、過去に相当なお金を手にしたことがあるのね。その匂いが消えてなかったのね」
「俺は?」
「あなたは、どうなのかしら。過去にそんな経験は?」
「まったく」
「今もないのよね」
「そう」
「じゃあ、これから、なんじゃないの」
「それは、素直に喜べばいいのか」
「さあ」アイリスは、尖った先端をいじられていることに、まるで気付いていないようだった。
「何かに、打ち込んでいるとか。それが時間が経った後で、お金となってあなたに返ってくるとか」
「そんなことは、何もしていないような。努力とかコツコツとか、そういうのが一番嫌いだからな。その場その場の、場当たり的な主義主張は、昔から変わってない」
「そうなんだ・・・」アイリスは何故か、哀しげな顔を見せた。「何かしらね。何に反応してしまったのかしらね。じゃあ、あなたと寝ても、得になることは、何もなかったのかしら」
「もう一回する?」
「そうね。せっかくだし、それはしようかな」

 ヒロユキは、あのアイリスという女の嗅覚が、ずっと気になっていた。連絡先を強引に交換させられたので、彼ともこうだったのかと訊ねてみたところ、彼からは連絡先を拒まれたのだと彼女は答えた。アドレスと番号だけを、一方的に持っていかれたのだと。
「俺は、誰にも言わないようにしているんだ」と、そう、はっきりと言われたらしい。
 そういえば、メンバーの俺だって、ファラオの居場所はわからなかった。mayaちゃんだけが知っているのだろう。あの二人は、頻繁に連絡を取り合っている。ほとんど、あの二人が今後のスケージュルの取り決めをしている。いつの間にか、俺は蚊帳の外だった。音を生み出し、あとは、そのへんの女とヤッていることくらいしか、俺にはやることがなくなってしまった。
 しかし、同じ街にメンバーがいると、おかしなこともあるものだ。同じ女に、手を出すってこともあるんだからな。
「私の事務所にね」とアイリスは言った。「ものすごく、かわいい人がいるのよ。わたしよりも、二つ、年は上なんだけどね。まだ、世には出ていないの。ちょうど二日前に入ってきて、だから、わたしの方が先輩。でも、デビューするのかどうかは、わからない。スカウトされたんだけど、まだ、気持ちが固まっていないみたい。わたしからも説得してくれって、言われているんだけどねぇ、何て、言えばいいのかしら。でも、何か秘密があるらしいのよ。社長も、何とか探りを入れようとしているみたいなんだけど、・・駄目みたい。それが、クリアにならないと、表舞台には出せないって。何なのかしら。噂では・・・」

 その噂は、さっそく、ゴシップ雑誌に掲載されていた。仮の名を、聖塚亜矢子と打ってあったが、本名は限りなく、これに近いということだった。
『十九歳の聖塚は、まだデビュー前にも関わらず、各出版社の芸能デスクのほとんどが、その噂を聞きつけているという、近年にはまるでない上玉のアイドルとして、マークされていた。というのも彼女、実は、女優としての活動も、同時に開始される予定なのだが、どうも、元は男性なんじゃないかという噂が、ちらほらと噴き出してきているのだ。情報は、彼女の大学の学友や出生の地、いわゆる地元で起こり始めたのだが、なんと、奇妙だったのは、その場所がいくつも存在することだった。出身大学のほうは、まだ公式に明かされてはいなかったが、もうすでに、有名国立大学や、東京都内の私学、あわせて十五校の出身者たちが、すでに名乗りを上げていた。そしてそれに引きずられるような形で、出身地だと主張する人たちが、増えていくのだった。実際のところ、怪情報ばかりが、のさばっている昨今ではあったが、各事務所との太いパイプを有する、我が《Weakly》が、その真相の、もともとの出所であるのだ。ここからは、袋とじとなっているため、購入者自らが、その真相を確かめてみるとよい。なお、転写転売は、営利目的以外においても、固く禁止する』

 聖塚亜矢子が、今冬、所属したと見られるスターブレードプロモーションは、一切の取材を拒否している。事務所の社長とは、かなり懇意にしている本誌のデスクさえも、そのガードの固さには、ほとほと参ってしまったのであるが、あくまでそんな状況に置かれたからといって、めげるような《Weakly》ではない。
 聖塚亜矢子に関する情報は、あまりに多すぎた。しかしここにきて、忍耐強い我がスタッフの取材によって、新しい情報を得ることができた。彼女の『妹』の存在が次第に明らかになってきたのだ。ここも、仮に聖塚亜紀子としてしまうが、彼女は十七歳の女子高生であるそうだ。姉は卒業してから、一年が経っていた。いずれにしても、十代の女の子だ。そして、この《妹》の方は、正真正銘の女だという。女子高に入学しているくらいなのだから、DNA的にも申し分ない。然し《姉》の亜矢子のほうは違う。共学ならまだしも、男子校にいたというのだから。もちろん、出席の方は、あまり芳しくなかったらしい。いちおう申し訳程度の卒業証明は、発行されていたが、どうも登校した痕跡のほうは、ほとんどない。この話のすべては、推測の域を超えないし、《妹》を不意に取材してみてもよかったのだが、彼女の人権を侵害してしまう恐れがあったために、迂闊に近づくことができなかった。そうなのだ。この聖塚亜紀子という《妹》は、確実に、この都内に実在していたのだ。しかも、来年には、進学届けを高校に提出する予定なのだ。だからこそ、我々は、彼女の進路を台無しにしてしまうような喧騒に、点火をしてしまうことだけはできなかった。
 しかし、だ。このことから考えてみたところ、聖塚亜矢子の芸能界デビューは、この妹の進学が叶った来来春の時点で、正式に発表されるのではないかということだった。そして、スターブレードは、この一年以上もの間、情報を完全に漏洩させることなく、堅固に保持することで、さらなる怪情報をも、煽ろうとするのかもしれない。これは単なる、演出にすぎないという噂もあるし、その男性であるんじゃないかという情報も、スターブレードが自ら、スキャンダラスな白闇に包んでしまおうという、策略なのではないかとも言われている。真実は男性ではなく、正真正銘の女。
 そんな憶測が飛び交う中、現在のスターブレードプロモーションの所属タレントは、ゼロだった。毎月、三人ずつが、別の事務所への移籍を発表していき、先月、その最後の三人が、ちょうど契約を打ち切ったところだった。それなりに名の売れた大物も含まれていたために、これは聖塚がどうだとか言う前に、スターブレードがもう潰れてしまったのではないかと言われた。その「あと整理」のようなことを、始めているのではないかと言われた。しかし、当の事務所は、まったくそんなつもりはないと、閉鎖については完全否定している。事実、財務状態は、芸能界でも抜群によい方であって、金銭面でのトラブルもまったく抱えていない。その事実についてだけは、社長も口を開いてくれた。ならばと、聖塚亜矢子のことを口にした途端、あっけなく、受話器を切られてしまった。このスターブレードの活動休止状態に対して、何かと、周りは理由らしきものを創作し、報道してみたのだが、どれもあまりに非現実すぎて、誰からも相手にはされなかった。そんな下等な想像ならば、各個人がそれぞれに思いつきを巡らせていたほうが、断然楽しいものだった。
 ということで、我々の今後の方針は決まった。
 来来春の、亜紀子の卒業まで、毎月のように、特別発行の雑誌を刊行することにする。そしてあくまで、推測を押し付けるのではなく、読者の一人一人に、それぞれの想像力をかき立てるといった構成に、随時していくつもりだ。一般紙にするのか。会員制の雑誌にするのか。ネット限定発売による宅配システムを使ったものにするのか。コンビニにまで置くような雑誌にするのか。今はまだ、検討中だ。来年にはその報告をする。
 確かに言えることは、事態は、来来春、必ず起こるということだ。
 その時期に合わせて、周りはいかに、立ち振舞っていけばいいのか。それが今、最も求められていることでもある』
 その噂はさっそく、ゴシップ雑誌に掲載された。
 仮の名を聖塚亜矢子と打ってあったが、本名はこれに限りなく、近いということだった。


―昨日決まったんだー

 西谷くんは、突如しゃべりだした。
「ええっ?そうなの?」
―すぐに連絡ができなかったけど。今夜にはって、思ってたー
「そうか、それは、よかった。君のところに電話してよかったよ。連絡を取ることなしに、家を出ていかなくてよかった」
「来週の金曜日。夜七時。三鷹駅の南口で、待ち合わせをしている。あるバンドのリーダーと」
―名前は?―
「まだ、詳しくは知らない。けれど、名前をあらため、復活しようとしているバンドらしい。ずっと活動休止を余儀なくされていたんだ。ボーカルが見つからなくてね。それがやっとのことで、目ぼしい人間が見つかり、加入した。それより、体のほうは大丈夫なの?他人の俺には、よくわからないことだけど」
「かなり、正常ではないね」
「出てこられるのか?」
「それは、問題ないと思う」
「インタビュー中に、耐え切れなくなっても知らないぞ」
「君もいるだろ」
「対処の仕方がわからない」
「問題はない。放っておけば。一人にさせてくれれば。そうか。決まったのか。じゃあ、来週まで、何とかもってくれればいいな」
「何かあったら、いつでも連絡してこい。できることがあるかもしれないから」
 私は眩暈がひどくなったので、受話器を置き、右肩を床と垂直に立てるように横になると、そのまま静かに、回転がおさまるのを待った。そして一時間後、私は、運動用のプーマのジャージに着替えて、家の側を一時間近くランニングした。


「全部聴いたよ、マヤ。実に素晴らしい曲ばかりだった。自宅レコーディングにしては、ずいぶんとクォリティーが高いんだな。それと、造りがとても複雑だね。一見、ごった煮のように思うけど、よく聞き込めば、どれもただの、気まぐれじゃないことがわかる。実にユニークだよ、マヤ。それに曲と曲の間にも、見えない糸が張り巡らされているみたいでさ、全然、関係のない話なのに、どこか心理的に結びついているような気がする。あのさ」
「なに?」
「バンドの名前も、変えてみないか?」
 ファラオが提案してきた。
「いや。それはどうだろう。俺だけのバンドじゃないし。みんなの意見も、訊いてみないと」
「マヤ、お前に、訊いているんだ。これは、君のバンドなんだろ。君の意見がききたい」
「名前は重要だ。候補でもあるのか?」
「まだない。でもいずれ、浮かんでくるような気がする」とファラオは言った。「でもそうなると、今までの名前の浸透力は、放棄することになる」
 mayaはすぐに、首を縦に振ることはできなかったが、考えておくとだけ言って、とりあえずは、留保した。即答してもよかったのだが、一晩置いてから、結論づけるというのが、mayaのやり方だった。
「メタルフィズィックは、バンドの名前じゃなくて、何枚目かのアルバムに付けたらいい」
 何枚目かというファラオの発言に、mayaは驚かされた。すでにこの男は、ずいぶんと先のことまで、イメージができているのかもしれない。
「アルバムを出す前に、シングルを、先行リリースするんだろ?その曲はもう、決まっているのか?」
「そうだな。何となくはね」
「dark neo warmだろう」ファラオは力強く断言した。「それとさ、君の楽曲に、とても長い、組曲みたいなものがあっただろう」
「一つね」
「あれは何なんだ?どうして、あんなに半端のないスケールの曲が、できたんだ?一時間近くはあるだろう」
「五十分くらいだな。まだ、ラフスケッチだ」
「あれはバンドでやるようなものじゃない。それに楽器だって足りないだろう」
「現実的にどうこう考えて作った曲じゃないよ」とmayaは言った。「それにあれは、自分でもよくわからないんだ。気づいたらできていた。しかもあんな量のものがね。あれは、俺が創ったものじゃないのかも。自分を越えた、何か別の作用が働いてしまったんだよ。怖ろしい。その前後の記憶が、ほとんどないんだから。白い霧に覆われてしまったようにね。でもあれにも、君の声を乗せたいと思っている。君に解釈してもらいたい。そして、表現してもらいたいんだ。純粋にそう思う。バンドとして、どうこう言うよりもね、君があの曲に深く関わってほしいんだ」


 ファラオが、自宅で歌詞の作成に取り掛かっていると思われるこの二日間を、ヒロユキは女と過ごすことで埋めてしまった。もう、自分の手元を離れていった楽曲に対しては、特に、どうこう固執するようなことはなかった。それに曲を作れといわれてから、作るものでもなかった。あくまでそれは、勝手にできるものだった。作曲について、誰かと議論するようなことはなかったので、他の人がどのように組み立てているのかはわからなかったが、mayaちゃんとは、明らかに違うだろうなと思った。俺のようにぽっかりと空いてしまった時間を、何人もの女で埋めあわせするようなことは、しないのだろう。

 エリカの表の顔は、会社員ということにはなっていたが、(というより裏で何かやっているわけでもなかったが)付き合っている男の数は、半端ではなかった。セックスも単純に好きらしかった。いろんな男を知ることが、この上なく快感なのだと言った。彼女のセックス後のトークによると、彼女は二十歳を超えるまでは、ほとんど人とは会わない生活を送っていたらしかった。学校にはかろうじて行っていたようだが(大学まで出ている)友人はいなく、学校でも一人屋上で過ごすことが多かったという。授業が終われば、すぐに屋上。昼休みになれば、すぐに屋上。屋上は街が見下ろせる。ずいぶんと遠くまで、風景が見わたせる。理由はそれだけだった。狭い狭い教室の、狭い狭い人間関係。狭い狭い考え方に、狭い狭い貧弱な発想、想像力。窒息しそうだった。しゃべればしゃべるほど、視野が狭くなっていくように感じた。いろんな人種と関わることのないこの人生が、ひどくコンプレックスだった。狭い世界の、狭い人間たちとだけ関わることで、息苦しくなるくらいなら、逆に、誰とも関わることなく所属することなく、じっとしていたほうがずっとマシだと思った。物心ついたときから(特に十代は)そういった考え方に凝り固まってしまっていた。だが、内向的になればなるほど、その反動は、逆に外へ外へと噴き出していくパワーをも内包してしまうわけで、エリカは就職を機に、その鬱屈した堆積物を、男という生き物を標的に、炸裂させてしまう。
 何でもよかったのだと、彼女は今でも考えていた。自分にはそれほど大きくなく、有名でもない企業に就職することくらいしか、道が開けなかったのだ。だからそのことでいちいち、愚痴を言ってもいても仕方がない。今この環境を、最大限に生かすこと以外に、自分の生きる道はない。彼女の外へ外へと向かっていく推進力は、社内の男に向けられることは、まずなかった。たとえ同業であっても、他社の人間へ。さらには、他業種の人間へと食指は伸びていった。さらには、他民族へと発展していった。酒を飲みにいく場所も、できるだけ種類の違う人間が出会う可能性の多い場所を、事前に選定してから出かけていった。エリカは同僚との飲み会にも、ほとんど参加しなかった。昔からクラス内だとか、部活内だとか、家族内だとか、そういった内輪で凝り固まっていく繫がりを、毛嫌いしていた。どういうわけかわからなかったが、その閉鎖性が嫌いだったのだ。
 そうなのだ。
 あるときエリカは、霧が晴れていくように、しっくりとその感覚を持つことになったのだ。私には、コンプレックスという名の資産があるのだと。エリカは自分の閉鎖性を逆に、解放的な空間に自ら解き放つことで、雲散霧消させようとした。というよりは、この閉鎖性を持ったままで、自由に動き回りたくなった。会社には、ネットにハマった人間がいたり、新興宗教に入っていきそうな雰囲気を持った人間が、たくさんいたのだが、エリカには、この閉鎖的な空間に、自ら足を踏み込んでいく人間が、まるで理解することができなかった。
 自分の生来持ち合わせているこの閉鎖性だけで、たくさんなのだと、エリカは思った。いろんな考え方、価値観、発想を持った人間が、ごった煮している場所こそが、自分には必要なのだと、エリカは強く感じた。しかし自分には、特に目立った才能もなければ、容姿だって際立ったものはいない。勤勉でもなければ、何かを探求していくような粘り強さもない。じゃあ、どうするべきだったのか。男しか思いつかなかった。男が、そのわたしにはない才能だったり、お金だったりを、所持していればいいのだ。
 そしてわたしは何故か、モテることに気付いた。スタイルが抜群にいいということに、このとき初めて気付いたのだ。胸の形はかなりよく、張りのある大きなタイプであったのだが、体の線はその割には細く、高校のときからひたすらストレス解消のため、柔軟体操とランニングをこなしていたのが、功を奏していた。そのときは何の目的もなく、計算していたわけでもないことが、今になってこうやって、役に立つときがくるというのは驚きだった。そして、私の体を抱いた男は決まって、運動をし始めるという、おかしな現象をも誘発していた。ぶよぶよのメタボリック寸前の男が、半年後には見違えるような筋肉質になって現れたり、フルマラソンを走れるまでになりましたと、帰還してくる男まで現れた。そして、男たちは進んで、わたしに還元してくれることになった。
 ときには、現金だったり。高価なプレゼントだったり。または、性行為で返してくれたり。私がいろんな男と付き合っていることを、どの男も知ってはいたのだが、嫉妬による、いざこざに発展することは、これまで一度もなかった。
〝私は社会の中にはいたものの、精神的には引きこもっていたのだが、この時代にはかなりの本を読んだ。映画もかなり見たし、演劇や、歌舞伎、バレエなどの舞台、コンサートなどにも、進んで足を運んでいった。そのときはただ、時間ばかりがあり、やることが他になかったから、とりあえず、自分の心の赴くままに動いていった。それがたまたま、二十代の半ば以降になって、思わぬ効果を発揮するとは、そのときは思いもよらなかった。
 そういえば、私の人生。
 与えられた課題を、必死でこなすとか、自らが打算的な目標設定のために、他のあらゆることを犠牲にして物事に集中するといったことが、極端に少なかったような気がする。そして、何の理由もなくただ引き付けられたことに、その瞬間瞬間を没頭することで、逆に、現実を乗り越えてきたような気がする。本当に、その瞬間瞬間が崖っぷちだったのだ。だが後になってみて、そのときにやっていたことが、何故かしら、役に立っていることが多いのは不思議なことだった。いや、むしろ、そういったやり方でやってきたことくらいしか、自分の武器にはなっていない。エリカは薄々、何かに気付きはじめていた。
 そんな男の周遊期のなかにあって、ヒロユキと出会ったのだった。
 たまたま見に行ったライブハウスで出会うことになる。他にもいくつかのバンドが出演していたのだが、その一つに彼がいた。終わったあと、関係者だけで打ち上げをしてたところに、私も紛れ込んだ。こんな人種に会うことなんて、今までなかったのだから。実に興味深かった。そのときのヒロユキは、まだ今のバンドには所属してなかった。言ってみれば、ヒロユキの下積み時代だったわけで、修行時代だった。伝記にはならない、いわば人知れずの時代だった。空白の時代。
 彼は私と関係を持つようになった、ちょうど半年後に、mayaという名の男と出会う。
 そしてすぐに意気投合し、新しいコンセプトを持ったバンドを結成する。その後、何度か、ライブハウスにも足を運んでみたのだが、ヒロユキはそれまでのバンドの頃とはまるで違っていた。装いも、全然異なっていた。金もないのに派手な格好で、しかも一つのライブで何変化もしていた。それは視覚的にも楽しめるものだった、むしろそれは、バンドというよりは、一つのショーを見ているような感じだった。舞台だった。
「ねえ、ヒロユキ。あの衣装はよかったよ」
「知り合いに安く作ってもらったんだ」
「ねえ、とってもよかったわよ。あれは、もっと、全面的に押し出していいと思う。わたしね、あなたのその視覚的な才能を、とても買っているのよ。でも、今までは、なぜか、隠れてしまっていたのよね。わたしには分かる。あなたは、自分の容姿だったり、ものの考え方だったり、発想にも、とても強度なコンプレックスを抱えていると思うのよ。これまでは、自分の中に押し隠してしまっていた。でも、あなたはmayaと出会って、そこをくすぐられた。無意識にね。あなたは、mayaを見ることで、自分には決定的に欠けているものの存在に気付いた」
 この舞台空間へのアドバイスが、逆に今度は、音の多彩性にも影響を及ぼし始め、今までにはない(特にmayaとはまるで違ったサウンドが)次々と生まれていった。
 エリカは自分もそうであったように、ヒロユキにも、いろんな女と付き合えばいいわと言った。あなたは、そういう人よ。
 エリカは、今でも、ヒロユキと不定期に会っていた。別の人と会う約束をしていても、ヒロユキから呼び出しがかかると、すぐに飛んでいった。逆に自分から彼を誘うようなことはしなかった。エリカは常に、誰かからの呼び出しによって動いていた。自分は男に声をかけてもらえる環境に身をおくこと。手を出したくなるような装いを施し、余念のない準備をし続けていくことが、自分の役目なのだと、どこかで決めていた。


 ヒロユキが、エリカと別れた数時間後、カフェバーでアイリスという名の女と再会した。意図したことではなかったが、予感はあった。むしろ、会うつもりで行ったのかもしれない。エリカとはエッチ出来ずに別れていたので、このまま帰宅するにしては、体は火照ったままだった。彼女はカウンターで、誰か別の男としゃべっていた。
 ヒロユキは逆隣に座ってビールを頼んだ。アイリスはすぐに気付き、体ごと振り返ってきた。
「あら、いらっしゃい。この前の続きがしたくなった?」
「さあ、どうだろう」
「私はそのつもりで来たのよ」
「あい変わらず、軽いね」
「そんなこと言ってると、向こうの男のほうに、なびいてしまうわよ」
 アイリスは小声で耳打ちしてきた。「出よっか」
 ビールはまだ運ばれてきていない。ヒロユキは札をカウンターの上に置いて、立ち上がった。隣の男のほうは、一度も見なかった。すぐにアイリスの部屋に行き(そこはヒロユキの家からは、ほんの徒歩十分の距離だったことが後でわかった)すぐにシャワーを浴びた。彼女は後ろからすることを好み、イクときは何故か彼女が上だった。
「ねえ、CMに出てる芸能人なんだろ?」
「そうよ」
「こんな、私生活なの?」
「悪いかしら」
「いや、単純に、可能なんだなと思って」
「まだ私のこと知らないでしょ?」
「誰が?」
「一般人よ。知名度もないし。だから、やりたいことを、好きにやってられるの」
「でも、そういうのって、後から、大変なことになるんじゃないの?」
「あとのこと?そんなこと、知らないわよ。知らばっくれれば、それでいいでしょ。週刊誌が騒ぎ立てても、そのときは広告料だと思って、言わせておけばいいわ。写真とかメールとか、そういう後に残るものにさえ、手を出さなければ、問題はないわ」
「ずいぶんと、無防備なんだな」
「いいのよ。多少、スキャンダラスな女の方がいいわ。それに、誰でも彼でも、寝ているわけじゃない。ちゃんと選んでるの。私の基準で。前にも言わなかったっけ?」
「金がどうだとか、言われた」
「そう。お金よ」アイリスはつらっと言いのけた。
「でも僕からは、何も取れないよ。貧乏の境地にいるからね。自分だけ生活していく分には、貧窮はしてないけど、君のような女の人に、性行為の報酬を上げるほどには、まったく稼げてないんだから」
「あなたは、いいわよ」
「でも金の匂いがするんだろ?」
「ええするわよ」
「前にも言っていたホストの男のほうは、どうなったんだ?」
 今だに、ヒロユキには、それがファラオのように思えてならなかった。事と次第によっては、同じ女を抱いたことにもなる。
「あれっきり」とアイリスは哀しげな声を出した。「だいたいあの人とは、セックスもしていないのよ。ただ、お店で一緒に飲んだだけ。私が目で訴えても、彼はずっと冷たい目で、優しい言葉をかけてくるだけ。私のことなんて、まるで眼中にない。だからよ。余計に燃えてしまうの。女なんてどうでもいいって、そういう目なのよ。本当にどうでもいいのかもしれないけど・・・。水商売から足を洗ったから、これからは、経済的にひどいことになるよって。でも、お金の匂いはぷんぷんしたわ。もう、一生分、稼いでしまったんだわ、きっと」
 何だかこの女は、自分とよく似た境遇にあるような気がして、居心地が悪くなってきた。
 今、女は売り出し中なのだ。そして自分も、バンドとしての過渡期に立っている。音楽活動の舞台が、これから一気に広がろうとしているところだった。二人とも黎明期だった。
 そこに追い討ちをかけるように、彼女が矢を放ってくる。
「わたし、来月から、連続テレビドラマに出演することが決まったのよ。放送は来年。だから、こんな生活は、もうできないかもしれない。禁欲、禁欲な毎日よ。撮影スタジオに入ったきり、あとは、雑誌のインタビューやら、番宣やら。テレビ出演をしたり・・・。きっと、私生活も、自由な今からは、ほど遠くなってしまうんだわ。あなたが最後かもしれないわ」
「一般人では、っことね」
「そう。あなたは、芸能界の人じゃない」
「訊かないんだね」
「ええ。訊かないわ」
「これから、どうなるんだろう」
「連絡先は交換してもいいわ」
「それに、家は意外にも近所だった」
「そうなの?」
「十分くらい」
「なら、いつでも、行き来できるじゃない」
「君も芸能界で、だいぶん稼ぐことになるんだろ?」
「さあ」
「君自身が、一番、お金の匂いがするんじゃないの?要するに、人のつけてる香水よりも、自分のつけている香水の方が、匂いが強いっていう」
「そうでもないわよ。この前の、あの男。あれは強烈よ。でも、けっして下品じゃなかった。きっとお金まみれな生活をしていたのに、どこか内面的には潔癖だったんでしょうね」
「そんな気はする」とヒロユキは言ってしまった。
「はっ?」
「何でもないよ。そういう男とは、違うんだな、この俺は」
「あなたはまだ、貧乏なんでしょ?」
 アイリスは笑った。「私だって、お金はないわ。今は」
「そっか」
「近所だから、また遊びに来るわね」とアイリスは言った。「でも有名になったからって、悪し様に、冷たくならないでよ」
「きみもね」

 エリカとアイリス。
 どちらの女も、自らの部屋に招くことはなかった。
 なので、訪問者はいつも自分のほうだった。自室には音楽機材がたくさんあり、そこでロマンチックな行為などできるわけがなかった。ベッドの上にも、書きかけの楽譜が散乱していたし、レコードが、そこらじゅうに乱舞していたのだ。それに、この部屋は、ヒロユキにとっての唯一の牙城であり、脳の中でもあった。この部屋に、一歩、足を踏み込めば、それは、音符の海の中なのだ。そこには刃物のような電子が、びゅんびゅんと飛びまわってもいれば、のっぺりとした緩やかな風が、そよそよと吹いていたりもする。誰にも踏み込まれたくはなかった。性行為など、もっての他だった。一度、エリカが行きたいと言ったことがあったのだが、ヒロユキは機材ばかりで足の踏み場もないと、正直に断った。そういうことに、はまるで不向きなんだよと。
 いいわよ。そんなことできなくても。ただ、あなたの部屋を、この眼で見てみたいのよ。そこで、ぼうっとしてみたいのよ。あなたといると、いつも落ち着かない気分になってくるから。何かに急かされているような。性欲を炊きつけられているような。犯されたくなってくる。あんなこともこんなことも、したくなってくる。
「すぐ帰るからさ。ね。いいでしょ」
 ヒロユキは譲らなかった。決して頑固な性格ではなかった。むしろ、節操もない男だった。何の信念もなければ志もない。地道に努力するタイプでもなければ、それこそ、女だったら、たいていはオーケーな男だった。スタイルがよければ。目鼻立ちがよければ。何か秀でた能力があれば。頭がよければ。エッチがよければ。どれかはある。だから、タイプに限定されることはない。誰でもいいわけではなかったが、この人じゃなきゃ駄目だという思いは、何もない。もちろんアイリスも、部屋に呼ぶつもりはなかった。
 しかし、よくよく考えてみたとき、一人だけ、ここに足を踏み入れていた女性がいた。
 その日は、mayaちゃんと一緒に、夕顔の姿もあったのだ。足のないmayaちゃんを運んできたらしかったのだが、ちょっと部屋を覗いてみたいんだと、彼女は言ったらしい。目が合ったか合わなかったかくらいで、すぐに身をかわすようにいなくなってしまったのだが、このとき、ヒロユキは完全に部屋の中を見られたことを、真夜中まで、気にしてしまっていた。恥ずかしくてたまらなかったのだ。mayaちゃんやファラオをすんなりと家に上げる自分が、あまりに無防備だったことに、今さらながら気付いたのだ。


 mayaからの招集連絡が入った三回目の今日も、場所は妊進館だった。
 建物の中にあるカフェの女の店員には、すでに顔を覚えられていたらしく、何の会合なのだろうと、不可思議な目で見られていた。恋する眼差しにかなり近かった。五人が集まると、不思議と、口数の多いメンバーもあまり発言しなくなってしまい、静まりかえってしまうことがよくあった。この日もそうだった。
「バンドの名前が変わるのが、最初の報告だよ」
 mayaが口を開いた。
 その意外な発言にも(ファラオは前もって知っていたのだが、というよりも、彼がそれを提案したのだが)他のメンバーは、驚嘆の色を示すことはなかった。
 ニセイは新しい名前を問うた。
「いや、まだ、決まってはいないんだ」
 mayaは、ファラオの方をちらりと見る。
 この妊進館ではファラオは必ず、窓ぎわの席に座る。今日に限っては、その窓も開いてはいない。風が前髪を靡かせることもなかった。
「告知のチラシも、作成しようと思っているんだけど、そこにも、まだ、バンドの名は入れていないんだ。もしかすると、最後まで、入れないのかもしれない。新しい名前を入れてしまっても、誰も知らないんだ。それなら、いっそうのこと、空白にしてしまえばいい」
 メンバーからの反論は出なかった。


 mayaは、夕顔との関係が、ぎくしゃくし始めたことを察知し始めていた。
 夕顔の意識の半分が、ファラオに行ってしまっていることもわかっていたが、それは恋愛感情というよりは、また別のものであるのだろうと思った。憧憬にも似た、なつかしい感情にも思えた。以前、あの二人は、どこかで、あったことがあるのだろうか。
 だがそう思ったのはむしろ、夕顔の方だった。
 夕顔は、ファラオという男の魅了に、すぐに引き込まれはしたものの、それはファラオとmayaの関係が、尋常ではない結びつきをしていることを、瞬時に読み取ったからだった。精神的に結ばれた絆にも見えた。あきらかに性別を超えていると、彼女は思った。私とmayaも、性別を超えた一心同体性を感じたものだが、もちろん肉体関係もあったし、恋人といって、差し支えはなかった。周りにもそう認知されていた。
 でも体をあわせていると、自分があるときは男になっているのだと、感じることは多々あった。とすぐに、女に戻っている。あんなことは初めてだった。それまでは疑いようもなく、自分は女であり、相手の人は紛れもない男であった。だが、mayaは違う。その都度、お互いが性別を変え、役割を変え、関係性を変えていくのだった。恋人であることがほとんどだったが、時には、その性別が入れ替わり、時には親子、師弟、同志、戦友と、ころころと入れ替わってしまった。
 その変わりようは、見るたびに衣装が変わり、メイクが変わり、付き合う女が変わり、音が目まぐるしく変わっていくヒロユキを、見ているようだった。mayaとの関係について、思いをめぐらしているときに限って、必ずヒロユキが、事務所にやってくるのがおかしかった。何か呼び寄せてしまっているのかしら、と夕顔は微笑んだ。ヒロユキにとっては、そんな笑顔であったなんて、思いもよらなかったはずだ。

 mayaはそんな夕顔の心境など知る由もなく、それよりも、自分の心そのものが段々と夕顔から離れ始めているような気がしてならなかった。それは単に、ファラオが来たから、という問題でもなさそうだった。自分が夕顔との関係に限定されるのを、嫌った結果なのかもしれない。別の女性を、とっかえ引き換えしたいという欲望とは違った、確かに別の刺激を得たいということはあったが、夕顔と別れるつもりもなかった。人生全般に渡って、何かしら関わり続ける二人であるような気がしていた。
 それは、恋人であり続ける関係なのかもしれないし、どこかでけじめを付けて、一緒に暮らすという関係に、発展するのかもしれない。あるいは、音楽活動を通じて、アーティスト、事務所の社長という関係が、このまま、続いていくだけなのかもしれない。それは誰にもわからない。今まさに、心が揺れはじめているのも、今後、繰り返されるであろう兆しの一つにすぎなかった。
 今、バンドが大きく変わろうとしていることも、重大な要因だった。


 そして、金曜日はやってきた。
 寝起きのすこぶるよかった私は、その勢いで、ストレッチとランニングをこなし、その日のインタビューに備えた。
 午後七時に、三鷹駅の南口に待ち合わせた私と西谷くんだったが、彼からは何も聞かされていなかった。
 我々とメンバーがどこで合流するのか。インタビューをどこでするのか。メンバーは、メイクをガンガンにしてやってくるのだろうか。それとも、ラフな格好で来るのだろうか。
 私は着ていくものに困ってしまった。
 しかしとりあえずは、黒っぽい服を着ていけば、たいして浮かないだろうと、水商売ともビジネスマンともとれる黒のシャツに、黒のパンツ。やや赤みのかかった茶色の皮の靴を、履いていった。鏡を見て、ちょっと決めすぎたかなと思ったので、パンツの方は、破れたジーンズに履き替えた。
 だが、七時を過ぎても、メンバーはおろか、西谷くんの姿もなかった。
 メールをしてみた。だが、『宛先には送信できず』という、ぶっきらぼうな返信が、かえってきてしまう。電話をかけてみても、繫がらない。
「あの」
 そこには、メイクをばっちりとした女性のような格好をした男がいた。
「あなたが西谷さんですか」
 私は、その男がバンドのリーダーであることを確信した。
「いえ西谷の連れです」と私は答えた。
「そうですか。あなたがそうでしたか。初めまして。mayaです。取材してくれるそうで、どうもありがとうございます」
「他のメンバーは?」
「今日は、僕一人だけですが」とmayaは言った。
 その口調からは、初めから、一人で来る予定だったらしい。
「西谷はまだ、来ていないみたいなんですよ」
 私は再び、電話をかけてみた。
「今日は来ないんでしょ?」とmayaは言った。「たしか、自分は行けなくなったから、代わりの人間を派遣するとか、そのようなことを言っていましたけど」
「西谷が?」
「ええ」mayaの格好は、ホステスのようにも見えた。髪は腰まであり、ところどころにブリーチがかかっているらしく、メッシュのような感じだった。靴は底の厚いブーツを履いている。顔には大きな黒のサングラスだ。背はそれほど高くない。
「ということは、僕とあなたの、二人だけってことですね」
 mayaは、どこで始めましょうかと、すでに次の行動に移っていた。
 しかしこれでは、話がまったく違う!頭の中は軽いパニック状態だった。描いていたイメージは、メンバーの五人、それに、私と西谷くんを加えた七人の絵であった。それが、蓋をあけてみれば、メンバーは一人しかやってこない。西谷くんも、どっかに雲隠れしてしまっている。
「場所のほうは、お勧めのところがあるんですよ」と彼は言った。「写真撮影にも、十分耐えられると思いますし。メンバー全員そろったところで、広さ的にも、まるで、問題はないと思います。コーヒーも出てきますしね」
 mayaが連れていってくれたのは、妊進館という公共施設だった。
 しかし、公共とは名ばかりで、その建築には、多くのドイツ人デザイナーが関わっているらしく、それは郊外にある建物としては考えられないくらいの古風で、荘厳な佇まいだった。近代的な無機質さは感じられず、かといって、日本家屋のような風情もない。
 こんな建物は、ヨーロッパに行けばたくさん見ることになりそうだ。しかし、逆になさそうでもある。
「ね。なかなかいいでしょう」とmayaは悪戯な微笑みを返してきた。「どうしてこんな建物が、こんな場所にって、感じですよね。誰が何の目的で建てようと思ったのか。かなり、強烈に切望したんですかね」
「ほんとですね」
「映画の撮影にも、使われたことがあるみたいですよ。・・あれは、なんだっけな。僕らのミーティングも、いつも、ここでやるんですよ。五人集まったときにね。二人か三人のときは、自宅で行うこともあるんですが、五人もいるとね。さすがに、むさっくるしいですから」

 妊進館という建物は、ちょうどローマ帝国の剣闘士が見世物を行う円形競技場のような構造だった。その競技場を、ちょうど半円だけ削りとったような格好だった。要するに、バームクーヘンを半分に切ったような感じで、その空洞部分が、野外空間となっていて、卵の生地の部分が建物になっていた。茶色ベースの、所々に淡い紫色の交じった外観で、窓ガラスも三角形、長方形、正方形、ひし形、と様々な形に分かれていて、屋根もピカソのキュービズム時代のような複雑な直線が、いろんな方向から伸びているような外枠であった。
 建物には、蔦が裸体を覆い隠すように絡まっていた。野外には、梅や桜の木が埋められていて、今は冬だったので、花は咲いていなかったものの、枝が小気味よく、四方八方に伸びていた。そのバームクーヘンの空洞の中心に向かっていけば行くほど、だんだんと地形は下がってきていて、建物の一番外の枠のある所が、最も高いところであった。野外ライブが行えそうな場所だなと私は直観した。
 建物の中も、ステンドガラスを見繕った天井の高い廊下があり、細かい粒子を反射している光が、十分に取り込まれている。かと思えば、階段を下っていくにつれて、淡い照明へと変わっていき、ほとんど真っ暗な廊下が現れる。迷路のように縦横無尽に走っていた。会議室や美術室、事務室などが曲線状の廊下に沿っては、現れる。階段を登っていくと、そこには光が、ふんだんに取り込まれた広い空間が現れる。窓、窓、窓である。野外が見える。丘のような場所だ。その空間には、大小様々な机や椅子があり、いくつかのソファーも用意されている。端のほうには、十畳ほどの畳の空間がある。そのだだっぴろい開放的な空間の真ん中には、カフェがあり、コーヒーをひく機械と、フルーツを搾る機械とが並んでいる。クッキーやパンのような軽食も並んでいる。

「あのソファーのところ。あそこで、二度、ミーティングをやりました。僕らの自宅って、みんな暗くて、妖しい雰囲気のある部屋ばかりなんですよね。だから、みんなで集まるときは、光がふんだんに入った場所のほうがいいんですね。下の会議室のようなところでは、ちょっとね。それでも、うちのファラオっていうボーカルは、ここに来ると、全く無口になってしまうんですけどね」
 mayaという女のような格好をした男は、意外に男気のある人間なんじゃないかと、私は直観した。
 さらには、取材する側の私のほうを、丁寧に案内する様子からは、面倒見のよい母性的な雰囲気さえもが感じられた。人柄のよい人だなと思った。親切な男だった。
「僕らは、新しいバンドとして復活するわけですよね。あなたの雑誌もこれから、新しく創刊するわけですよね。ちょうど、リンクしてるなと思ったんです。何かが起きるときっていうのは、必ずいろんな物事が、シンクロしてきますからね。やっぱり、そういう雰囲気は感じますよ。今のボーカルのことだってそうですし。楽しみです。でも、やることはやっぱりいろいろとありますよね。以前とは、だいぶんやり方が変わりました」

 mayaは、ソファーに座ると急に、饒舌にしゃべり始めてしまった。
 私はすでに、取材が始まっているのだと、はっと気付き、慌ててノートを広げ、メモを取り始めた。あっ、違う違う。バックからICレコーダーを取り出して、セッティングをした。
 この男はすでに、ペースに乗ってしまったようだ。乗れば、ノンストップだった。
「どうしますか。今後、五人でのインタビューをしますか?全然、しゃべらないですよ、彼らは。これが、びっくりするほど。僕だって、けっこう無口になってしまいますし。ファラオなんて、ほとんどしゃべりませんからね。その窓辺からぼうっと、外を見てるだけですからね。空を見上げて。何かが、見えているんでしょうかね。ニセイと逆玉は、よく世間話をするほうかなぁ。一番、親しみやすいかもしれませんね」
「でも一度は、その、沈黙する五人、っていうのも見てみたいですよ」
「そうですか」mayaは笑った。「じゃあ、一度くらいは」
「ええ」
「そうですね。アルバムのレコーディングが始まったらどうでしょう。あるいは、ツアーの始まる直前とか。全員が同じビジョンを共有してからのほうが、いいと思うんですよね」
「それは、もちろん」
「それまでは、単独インタビューか。あるいは、二人か三人っていう形式のほうが、いいと思いますね。今日のところは、まず、リーダーの僕ということで」


「最近、連絡なかったけど、元気だったの?あなた、忙しいみたいね」
 エリカの部屋に入っていったヒロユキは、以前とは、変わった匂いがすることに気付いた。
「鼻がいいわね。相変わらず」
「新しい男の好みだな」
「ねえ、どうしてたのよ」
 あの地図の分析をしていたと言うと、話がややこしくなりそうだったので、「別の女と付き合い始めたんだ」と言った。
「あら、どんな子なのよ」
「芸能人」
「まあ」
 エリカには何故か、的外れな嘘をつくことができなかった。
 誤魔化すことも、自分の周辺にある事柄ばかりだった。
「どうしちゃったのよ」
「まだ売れてないよ。名前も出ていない。ちらっと、CMに出てくるくらいの子だよ」
「わたしと似てる?」
「君と?」
「ああ、芸能人って言ったわね。それじゃあ、似てないわね」
 エリカは煌びやかな服を着て、メイクもかなりしっかりとする方だったが、素顔でも、かなりいい方なんじゃないかと、ヒロユキは思っていた。
 一度、スッピンで外に出かけたときにも、友人たちはみな、それでも美人だと言ってくれた。
「何て、名前なのよ?」
 エリカは、その都度、ヒロユキの交友関係を訊いてくるような頭の足りない女ではなかったが、今回は違った。いつもとは異なる何かを、感じ取っていた。
「アイリス」
 ヒロユキも、素直に言ってしまった。
「アイリス?それ本名なの?」
「違うだろうね。本名でも、芸名でもないだろうな」
「電話をかけたら、やたらと短いスカートを履いた女の人が、家に来るのかしら?」
 エリカは、からかったつもりだったが、今日のヒロユキは全然乗ってこなかった。
「アイリスって本人が言うんだから、アイリスなんだよ」
「ちょっと怒らないでよ」
「アイリスなんだから、仕方ないだろ。俺のせいじゃない」
「アイリスねぇ」エリカは天井を見上げた。「わたしには、あれしか思い浮かばないわね。ゴッホの絵。ゴッホの絵に、アイリスって作品があるのよ。知ってる?画面いっぱいに青色の花をつけたアイリスが、緑の葉をつけながら咲き誇っている。
 あれを初めて見たのは、確か、ロサンゼルスだったかしら。ゲッティ美術館って所だった。財閥トップのゲッティさんのプライベート美術館だったような気がする。でも、あれは不気味だった。画面いっぱいに、アイリスが咲き誇っているの。とにかくおっきいの。おっきすぎなの。もう目の前に突き出されたような感じなのよ。だから焦点がまるで合わない感じだった。慌ててわたしは離れたわよ。他の絵と同じように見て移動していると、急に、ボンって現れるんだから。この目の前に。それで、ずいぶん、下がって見るんだけど、でもどうも、それは私だけではないみたいだった。みんな、そのゴッホの絵がやってくると、ぐぃーんと遠ざかるの。でも、私は恐る恐る絵に近づいていった。
 するとね、その青い花はなんだかくたっと、下向きに萎れているのよ。水が先端まで届いていないように、今にも腐って、ポロッと、地面に落ちそうなの。でも、ぱっと、その他の葉っぱや茎を、見てみると、それは異様なほど勢いをつけて、天に向かって伸びていこうとしているの。びっくりしてしまった。何なのよ、このギャップは!まるで違った、魂が、そこには同居していたの。
 一方では・・。一方では・・。強烈よ。両極端よ。でね。話は、それで終わらなくて、私はその後家に帰ると、画用紙と鉛筆を取り出して、そのアイリスを再現しようとした。でも、私は、逆に花を生き生きとさせて、葉っぱのほうを、草臥れさせて、描こうと思った。どうしてそうしようと思ったのかは、わからない。単なる好奇心で、逆にしようと思ったのか。ゴッホに何らかの、精神的な反発を抱いてしまったのかは、わからない。
 ねえ、あなたは、どう思うかしら?あなたのせいなのよ。あなたがアイリスって名前を出してくるものだから。あ、でも、あなたと会うかぎりは、その名前は避けて通れない・・・。
 やだわ。あなたを見るたびに、あの、アイリスの絵が、浮かんできてしまう・・・。
 どうしよう。あなたが帰った後には、また、あの絵を打ち消そうとして、別の絵を描き始めるのかもしれない」


 次の集合の声がかかった日、まず、妊進館に最初に着いたのがヒロユキだった。工事が始まっていたことに彼は驚いてしまった。庭の端の部分の土が抉りととられていて、断層になっていた。ブルドーザーが進入しており、それを囲むように、今は進入禁止のロープが張られていた。白いストライプの入った赤のコーンも、置かれている。
「僕が、お願いしたんだ」と言い始めたのはファラオだった。
「ここを拡張しようと思って。よく調べてみたんだけど」
「拡張?」
「ここは、非常によくできた建物だよ。そのまま、ライブに使えそうなくらいだ。だから野外ライブの一発目は、ここに決まった。ここからツアーが始まる。最初の五人が揃ったのもここだろう。ここしかないんだよ。ライブハウスのように、お客さんはすべて、立ち見だ。ほら、この傾斜がいいよね。建物が、小高い丘のようなところに、立っていてさ。だから、芝生を登っていって、建物の中に入ろうとしたら、ちょうど二階部分なんだな。一階は、別の扉から入るようになっている。その扉は、全部閉めて、野外に通じる入り口だけを、開けることにする。僕らは、その一階の部分で、着替えをしたり、出待ちをしたりする。機材も全部、そこにしまっておけばいいし。ここは、とても便利な場所かもしれないね。もっと改装して、このバンド専用のホールに、してしまったらいい。お客さんも、七百人くらいは、余裕で入る」
「あのさ」とヒロユキが口を挟んだ。
「その改装のお金は、いったい、いくらかかるんだ?それはどこから、出てくるんだ?」
「夕顔」とファラオは、さぞ当たり前のように答える。
「もう話は、ついている」
 驚いたのは、mayaのほうだった。
 夕顔からは何も聞かされていなかったのだ。確かに、ここをライブ会場にしようという彼の提案は、ずっと前から、聞いてはいた。しかし、具体的な段取りが、すでになされていたとは・・・、全然知らなかった。
 mayaは、その間も、ずっと考えていた。
 夕顔とは、昨日会った。事務所ではなく、プライベートで。だから、何も話さなかったのだろうか。彼女は久し振りに、趣味の料理を振舞ってくれた。そのことで、バンドの事務的なことは、頭から吹き飛んでしまっていたのだろうか。しかし、あのお金にうるさい夕顔が、ポンとキャッシュで支払う約束でも、したのだろうか。ファラオとの話の中では、構想レベルにおいて、ほとんどの考え方を共有していた。
 現実的に、どういう空間を作っていくのか。広げていくのか。どこをどんなふうに辿り、日本中を駆け回らせていくのか。そういう細かなことは、全部自分が動くから。あとで、意見があったら言ってくれ。修正するからと言われていた。そのあいだに、mayaは音源をさらに強固にしていってくれ。細かな音を詰めていってくれ。大幅なテコ入れ作業もあった。ブロックごとに、入れ替えてしまうこともあった。しかし、全体が見えていたので、その大幅な移動でさえ、短時間で終えることができそうだった。
 ファラオとmayaは、そんなふうに、二人で共有した構想の実現を目指すべく激しく動いていた。


 ファラオの幼い頃の記憶の中では、『書斎』が一番鮮明に写り込んでくることが多かった。彼は、ほとんどのことを覚えてなかったが、この書斎だけは、いつだって、すぐに意識の表層に引っ張り出してくることができた。恣意的に操作することが可能だった。たぶん、このことが、彼を表舞台の創作者として、現実の拡大者として、障害物に怯むことなく、突き進んでいくことのできる原動力に、なっているように思われた。
 これは、正確に言うところの、記憶ではないのだと思った。
 このは、実際に、自分の体験したことではないのだ。実家にこんな部屋はなかったし、誰か知り合いの家に、こんな感じの部屋があったわけでもない。映画か写真で見たことを覚えていただけなのだろうか。いや、どれも違う。この書斎は、意識を集中したときに限って、すっと自分を取り囲むように現れてくる。その場に自分がいるのだ。その薄暗い部屋の天井は、高く、木のアーチがかけられていて、本棚もやはり木製であり、椅子や机も、重厚な木でできている。すべての本が、豪華な装丁の角張ったものばかりではない。新書や文庫のような現代的な軽いデザインのものも多い。本棚にはびっしりと、詰まっている。いくつもの本棚が重ねられていて、奥へ奥へと繫がっている。プライベートの図書館のようだった。だが、このスペースには限りがある。ファラオはだんだんと不愉快になってくる。圧迫されてくるのだ。そういえばそんな感覚。常日ごろから、ずっと続いていた。呼吸しているだけで、だんだんと、息苦しくなってくるのだ。生きれば生きるほど、自分に纏わり付いてくるものが、増加してゆき、しまいには、この息を止めてしまうのだ。そうやって死んでいくのが自分なのだと、ファラオは思いこんだ。たとえば、自分の読んだ本がこうして積み重なっていく。これは恐怖だ。自分が脂肪だらけのブヨブヨな人間になっていくように思えてくる。本は読めば読むほど、いいなんて言う、人間の気持ちが、これっぽっちもわからない。
 あのの本たちは、実際のところ、増減はあるのだろうか。増えていく一方なのだろうか。書斎自体が拡大しているのだろうか。拡大、拡大、この言葉が、ますますファラオを追い詰めていった。この自分の精神の根本に宿っている核が、それなのだ。拡大なのだと思った。圧迫恐怖症というか。だんだんと、物で自分自身が埋めつくされていくような気がして発狂しそうになる。ファラオは、この書斎を拡張することに奔走することで、なんとか、バランスを取るしかないと考えるようになっていった。これは好都合だった。彼はこの書斎から出たいとは、これっぽっち思わなかったからだ。圧迫されることが恐怖なだけで、この本や、本棚自体は、むしろ、心地よい安心感を、紙の匂いから嗅ぎ取ることができる。ファラオは、彷徨い歩いた。一度手にした本を開き、目を通しながら、終わればまた、別の棚にポンと置く。場所なんて、どうでもよかった。ただ心を無にして、本能の赴くままに、棚を見上げてみる。そこには脳を捉える本がある。手を伸ばして引き抜いてみる。
 一度、その書斎で、女の人を見かけたことがあった。
「わたし、学校さぼっちゃった」
 髪の長い東洋人のようなメキシコ系の女の子だった。日本の高校の制服を着ていた。
「どうしても来たかったの。読みたい本は、ここにいっぱいあるんだもの。ねえ、一生のあいだに読むことができる本って、どのくらいなのかしらね。もう、あらかじめ、そのリストは出来あがっているのかしら。そのリストに気付くかどうかなのかしら。それとも、そのリストは、その人の意識の変化だったり、物の見方、考え方の変化によって、絶えず改竄されているものなのかしら。出会う人だったり、実際に体験したことによって、書斎はずいぶんと、改装されてしまうのかしら。あなた、司書さんなんでしょ?そういうことを、ちゃんと知っているのよね?だからここで働いているのよね?教えてくれないかしら。わたし、何にも知らないのよ。こんなことは、こうやって、やっとの思いで、辿り着くことができた場所でしか、知りえないことだと思うのね。ずいぶんと、時間をかけて来たのよ。なかなか雑音を取り除くことができなくて。まさか、私が、こんな自分の神経の奥のほうに、興味を持っているなんて、思いもよらなかった」
 ファラオがその女の子を見たのは、一度だけだった。
「でもね、僕は、この場所が、心の底から好きだって思うと、同時に、とても憎しみが、こみ上げてくる。それはやっぱり、圧迫感だよ。いつか、この部屋が本でいっぱいになり、その下敷きになることで、自分は死んでしまうのかもしれないっていうイメージが、ずっと抜けきらない。だから、この書斎の記憶は、いっさい排除して、ただ、拡大することに、脇目も振らず、突き進むことで、悪夢を振り払おうとしている。自分でも、それがよくわかる」
「わかっているのなら、大丈夫じゃない」
「僕はね、あの、mayaという男の目を見たときに直観したね。あの、冷たすぎる眼球は僕を見ている。見抜いている。僕が何かに取り付かれたように、動きだそうとしているのを、あの無表情な顔はちゃんと捕らえている・・。そして、その二人の男を離れた場所から見ている男も見える。さあ、誰だろうな。そして、その三人をさらに外側から眺めている男たち・・。さらにさらに・・。僕ら五人の男たちを、凝視している大勢の人たち・・・。観客・・・」
「考えすぎよ」
「君とは、別の場所で会ったことがあるね」
 ファラオは上京して来た日に、部屋にやってきた女の子のことを思い出した。
 だが、時間の流れが狂っていた。このときファラオは、まだ上京もしてなかったし、バンド活動だって、やっと始めたくらいの頃だった。
 あのメンバーとの出会い。あのバンドに入ることになるのは、ずっと後になってからのことだ。
 じゃあ、今、俺はどこにいる?今はいつなのだ?
「考えすぎなのよ」
 過去に遡って見ている夢なのか。それとも、未来を予知した映像だったのか。
 ファラオは、この女の子に触れてみた。両腕を掴んでぐっと引き寄せてみた。シャンプーの香りがした。腰まで引き寄せてみる。彼女は抵抗しなかった。ワイシャツの上に白色のセーターを着ていた。そういえばあの時はシャツだった。季節が違う。でもどちらが前で、後なのか。巡り来る円形状の四季のなかにあっては、時間の記録が混乱してしまっている。
「考えすぎなのよ」と彼女は繰り返す。名前は何だっけ。名前は循環しない。
 順序がわからなくなることもない。強く抱きしめたときに浮かんでくる名前を、ファラオは信じるしかなかった。


 mayaは、私のことを西谷さんと呼び続けていた。彼はずっと勘違いしたままだった。私もそれで特に不都合なことがなかったから、そのままそう呼ばれ続けた。二回目のインタビューも、mayaは一人でやって来た。「ちょうど、レコーディングの合間で、気分転換になるよ」と彼は言った。
―今日は、その、アルバムの中身については、まだ教えてくれないんですよねー
「ええ」
―では、バンドのことですね。いつ、結成されたのですかー
「三年前かな。ねえ、こんなことを訊いてもつまらないでしょ。それよりも、あなたのことを知りたいな。何故に、また、このお仕事を?」
 逆に質問されてしまった。
 西谷という男に間違えられていたことが災いだった。彼は車のボディデザインをやっていて、衣料品の店に立ち、新たなる雑誌を創刊するという役目を、担っていた。
 それに引き換え、この私はいったい何なのだ?体も精神もボロボロで、強烈な眩暈は影を潜めているものの、錠剤の服用は回避できているものの、頭部の発熱は、頻繁に起こっている。そのたびに、アイスノンを当てなくてはいけないのだ。
―私はですね。新しい音楽を聴きたいって、ずっと思っていました。その、本でも何でもいいんですけど、舞台でも、そう。今まで見たことがないものの出現を、待ちわびているんですよ。実は。この命が膨れ上がるっていう体験ですか。そう、私は、アレなんです。鬱。鬱。とにかく鬱。もう極度の鬱状態。この命をどこに向かって解き放てばいいのか、わからないんです。この全生涯が何のためにあるのか。私は今何をするべきなのか。この全精神をかけて、この今という瞬間を、乗り越えてみたいんですよ。探しているんですよ。たとえ頭が発熱で壊れてしまおうが、痛みにのた打ち回ろうが。そのすべてを捧げる一点を持つことができたとすれば、その苦痛もすべて、快楽へと変わっていくでしょう。確信がありますよ。そんな気持ちにさせてくれるバンドを、私は本気で求めているんです。求め始めたんですー
「僕はね、この現代文明における『生贄』っていうことを、よく考えるんですよ」
 mayaは、囁くように話し始めた。
「この分業化された職能主義の世の中においてですよ、均質化が進み、目先の利益や効率を求めて突き進む偽装社会においてですよ。自然を無視し、文化を無視し、精神世界を嘲け笑い、魂なんて、あっけなく捨てていくような人間たちの中にあってですよ。だからこそ逆に、強烈に、物質よりも形而上なるものを求める傾向も、急激に上昇していますよね。とにかく、全精神を燃焼させたい。燃焼しつくしたいって具合に。僕は人間の全体性を取り戻したいだけなんです。宇宙という意味においてもね。この荒廃した屍だらけの街の中で、生贄の儀式がしたいんです。カルトじゃありませんよ。閉鎖的な世界は絶対に駄目です。だってそうでしょ。人を集めまくって、それで閉鎖的になるなんて、おかしいじゃないですか。人はそれぞれがとても閉鎖的で、秘密主義ですよね。誰も他人の心の奥底のことは知りえませんよね。何にもしなくたって、人っていうのは、閉鎖性の強い生き物なんですよ。存在そのものが、閉鎖しちゃってるんですよ。だからそれをあえて閉鎖的なままに、解き放とうというのが、音楽であり、ライブなんです。この現代においてですね、魂を解き放てる場所っていうのが、とても重要なことだと思うんです。僕は音にその魂をかけているし、その楽曲たちを、ライブで演奏することによって、さらに解き放つことができる。僕はね、自分の内側で深く掘ったものを、そのままにしておくわけにはいかないんです。ほら、書庫だって、そうじゃないですか。溜まっていく一方ですからね。吐き出さないといけませんよね。外に出していかないと。体だって、そうでしょ。老廃物は溜め込んじゃいけません。デトックスですよ。僕にとっての音楽とは生贄なんです。公開処刑みたいなものなんです。人前で十字に掛かるわけです」

―メンバーの間では、そういった話はするんですかー
「そうですね。神とは何か。人間とは何か。自分とは何かみたいな話は、けっこうすると思いますね。そうですね。そこから来るコンセプトっていうのは、確かにありますね。だからどんなに個人個人が持っている世界観が違おうとも、最終的には見ているところは一緒というか。根源的だし、普遍的だと思うんです。ただ」
―何でしょうー
「そう言った話は、本来、僕も、突き詰めて考える方なんですけど、最近はどうだろう。あまり深刻に考えないようにはしてるのかな。その自分の中に沈潜する時期のピークというのは、とりあえずは過ぎたと思うから。これからは、それを広げる作業、まさに外に向かってどこまでも解き放つ作業が、メインになるでしょうから。意識は確実に外に向かっていっていますよね。メンバーの音とか、表現方法とかも、とても刺激になりますしね。何だろう。伝えたいって気持ちが、芽生えてきたんですかね。伝えたい?いや違うか。わかってもらいたいとか、理解してもらいたいって気持ちは、少しもないな。いや、あるか。でも難解で抽象的なものであっても、全然いいやって感じだし。でも、たくさんの人には見てもらいたいですよ。何かを感じてもらいたいし、反応もほしいです。そう思い始めたことは、確かです。今までは、そんな気持ちなんて、これっぽっちも湧かなかった。変化といえば変化なんでしょう。最後に加入したメンバーも、そういう意味で、とても刺激的な人なんですよ。すごいですよ。一目で見ただけで、卒倒してしまいますよ。その眼差しに、一発でやられちゃう。エネルギーが違う」

―それは、楽しみですね。音源も、ビジュアル的なことも、コンサートも期待していますからー
「ところで、次の取材では、僕以外の、誰か、別の人間を連れてきましょうか。僕も、スタジオにこもりっきりになる時期だと思うから。他のメンバーも、まあ、そうでしょうけど」
―それなら、私が、スタジオの控え室かどこかに、お邪魔するっていう形は、どうでしょうー
「ああ、それはいいですね。それだと助かりますよ」
―いつ窺えばー
「その、さっきから思っていたんですけどね。あなた、ずっと、我々に同行してみたらどうですか?」
 思いもよらないリーダーの提案に、私は乗ることになってしまった。
 どうも、私は知らぬ間に、別の世界へと足を引きずりこまれていくようであった。
 バンドの名前を、まだ訊いてませんでしたよねと言ってみたが、それだけは発表できないんですよと、丁重に断られた。おそらくは、アルバムの名の方が、先に公表されることになるでしょうね。無表情の顔が、ほんの少しだけ、緩んだように見えた。

 そういえば、様々な症状の転調に目を奪われていたために、借金がその後も膨れ上がっていた状況を、しばし忘れていたみたいだ。
 この前のインタビューの時、ふと、mayaに漏らしてしまったのだが、彼は「行き着くところまで、行ってしまえばいいんじゃないですか」という能天気な回答を、よこしてくるだけだった。
「気にせず、一つ一つ、やるべきことをこなしていけばいいんじゃないのかな。僕らの専属ライターになる道だって、これからは、開けてくるじゃないですか。それまで待ってもらったら、どうです?ちょうど、今は十月でしょ。来年はずっとツアーだろうし。アルバムも出すし、その他のアイテムも、いろいろとリリースしていくつもりだから。だから、この二ヶ月のあいだに、いろいろと、お金の算段をつけておいたほうがいいと思うよ」

 mayaが、次に送り込んできたのは、ギターのヒロユキだった。
 妊進館で会うことになったのだが、その日は工事が中断されていた。日曜日だったこともあって、近所の家族連れが芝生に寝ころがっていた。ボール遊びやバドミントンをしていた。のどかな公園のような雰囲気になっていた。恋人同士が、段差になっている場所に腰掛け、何やら楽しそうに話をしていれば、向こうでは縄の外された犬が、縦横無尽に走り回っている。
「そのうち、ライブが行われることが告知されたら、吃驚するだろうね」ヒロユキは言った。「あの人たちの何人かは、来てくれることに、なるかもしれないよね」
「ちゃんと、ポスターも貼っておかないと」
「市も巻き込むよ」とヒロユキは言った。
「ここの前には、市役所があったね」
「そうそう」
 二人は、芝生を登っていき、開いている二階の窓から、建物の中へと入っていった。
「そういえば、聞いた?アルバム」
「いや、まだ、デモもらってないもん」
「明日から、レコーディングだよ」
 ヒロユキは、不可思議な顔をした。
「そうか。まだ、デモをもらってないのか。あれ。そういや、mayaちゃんが、渡しておけって、言っていたような・・」
「おいおい」
「ちょっと、取りにいってくるよ」
「家に?」
「すぐそこだから。十分くらい待っててよ。今日は、その話をしておいてくれって、mayaちゃん、言ってたし」
「あのぉ。全部すっぽり抜けたまま、やって来たんじゃ・・・」
「へへへへ。実は・・・ね。考ごと考えごと。他に、ちょっとした構想があるんだよ」
「ツアーに関する?」
「バンドとは、あまり関係ないものだけどね」
「個人的な?」
「まあ、そうだね」
「創作に関すること?」
「ああ。インタビューは、すでに、始まっちゃったのかな。プライベートの会話と、繋ぎ目がわからなくなってくるな」
「ずっと、同行する可能性が高くなってきたから」と私は言った。「西谷くんがいなくなってしまったんだ。本当に、どこに行ってしまったのか、知らない?」
 ヒロユキは口笛を吹いて誤魔化した。
「なんか、実家の方が、ゴタゴタしているらしいよ」
「え。そうなの」
「いや、俺もよくは知らないんだけど。そんなことを、ちらっと言っていたような。口から漏れてしまったような感じでさ」
「そうなのか。いろいろあったのか。人に言えないような事情が」
「しばらく、放っておいたほうがいいよ」

 ヒロユキが、デモテープと楽曲名の書かれたリストを取りに行っているあいだ、私は妊進館にあるカフェの中に入っていた。
 注文を取りに来た女の人が「あの方、演劇か何かを、やっている人たちなんですか?」と訊いてきた。「あなたも?いや、でも、格好は、全然、違いますよね。普通な感じで。五人で来られることもあるんですよ。何か話し合いをしているみたいで。耳をそばだてちゃいけないですから、遠くから見ているだけで」
「ああ、何度も、来てるみたいですね」
「今日は、お二人で?あなたも、劇団の方なんですか?」
「僕は違いますよ。その、友達ですよ。メンバーは、あの五人ですから」
「そうでしたか」
「お名前は?」
「聖塚です」
「珍しい名前ですね」
「芸名ですから」
「ああ、何か、表現活動をやられているんですね。表舞台で」
「あなたは?」
「西谷です」と私は咄嗟に嘘をついた。みな、芸名ばかりな人間の中にあって、自分だけが本名を言うのは、何故かしら、後ろめたいものがあった。「西谷です」
「あら、名前のほうも、普通なんですね」
 聖塚という女は笑った。メイドのような格好にも見えたが、そこまで凝っているわけではなく、シャツやスカートの先端に、さりげなくフリルがあしらわれているだけだった。
「そういう服、何ていうんでしたっけ?」
「ロリータですか?ゴシック・ロリータ。でも、たいしたことないでしょ。ほとんど気付かない」
「そういうカフェでもなさそうだし」
「私服でいいのよ。でも、やっぱり、どんなお客さんが来るのか、わからないし」
「公共の施設だしね」
「そう」
 彼女はまだ、復活ライブの一回目が、ここで開かれることは聞かされてないようだった。
 行政レベルでは、まだ正式な許可が下りていないのかもしれなかった。口に出すのは憚
られた。
「遅くなってしまって」
 ヒロユキが帰ってきた。店員の女の子は、水をもう一つ持ってきて、すぐに奥へと引っ込んでしまった。
「あれ、誰かと、話してた?」
「店員の子」
「なんだ。さっそく、声をかけていたのか」
「君たちのことを、演劇集団だと思ってるみたいだね。劇団員のような」
「まあ、ほとんど変わらないよ。そこに、バンドの要素が加わっているだけだから。はい、これがセットリスト」
 とりあえず、原本をコピーしたものだった。
「で、これが、告知ポスター」
「おう」
「あとは、何だっけ?」
「デモテープだよ」
「あ・・・」
「まさか」
「驚いた?ははは」
「まさに、一番肝心な・・・もの・・・ですよ」
 ヒロユキは、バッグから取り出した。
「はいっ、CD―Rに焼いたやつ。絶対に口外しないでよ。自宅でひっそりと聞いてよ」
「わかったよ」
「そんなところかな。あとは、これをレコードに落として、全国ツアーの日程を、報告するだけだね。ところで、その告知ポスターは、何のだっけ?」
「ええと」私はチラシを見た。「ああ、ライブ初日の時間と、それと、最初のシングル曲の発売日みたい」
「どれどれ。11月16日に、第一弾シングルdark neo warm。で、11月25日に、ここ、妊進館で新生、ええと、何で、ここだけ、空白なんだ?      ああ。そうか。まだ、バンド名が告知できないんだっけ。ここまでか」
「アルバムはいつ発売なの?」
「1月の頭じゃない?で、ツアーは後半から。どうして?」
「いや、同行するから。スケージュルを調整しておかなくちゃ」
 本当はスケージュルのことじゃなくて、体力づくりの方だった。とにかく途中で倒れては、彼らにも迷惑がかかる。
「じゃあ、俺は、これでいなくなるよ。ちょっと、これから連絡をとらなくちゃいけない所があってね」
 ヒロユキは、帰っていった。
 すぐに店員の女の子が現れ、ヒロユキの残していった水の入ったコップを片付けていく。
 私はすでに、手持ちのポータブルCDプレイヤーで、音源を再生させていた。




 ファラオに異変が起こったのは、工事中の妊進館に、一人で様子を見に行ったときのことだった。ブルドーザーが土を掘り返して、そこに少数の客席を設ける作業を見たあとで、街を散歩している最中に、それは起こった。彼はたしかに、北の方、北の方へと、妊進館から遠ざかっていたはずだったのだが、気付けば、目の前に、その妊進館は現れていたのだ。ファラオは戸惑った。自分は館の南側から現れたのだ。真っ直ぐ歩いていたにもかかわらず、ずいぶんと、迂回してしまったのだろうか。さっき歩いていったはずの道路を、眺めてみたが、カーブしている様子など、まるでない。どうやって、ぐるりと一周してしまったのだろう。
 ファラオは、もう一度、北に向かって歩きはじめた。次第に、意識は薄れてゆき、気付けばまた、館の南側から自分は現れる。わけがわからず、叫びたかった。すぐに、誰かに連絡を取りたかったが、なんと説明をしたらいいものか。いや、説明にならない。一緒に歩いてもらえばいいのだ。だが。もう一度、ファラオは試した。
 北へ向かう道路を歩き始めた。
 今度は、意識をしっかりと保つことで、景色をすべて、覚えておこうと思った。だが、館はいつになっても現れてはこない。しまいには、その道路は道幅を広げ、大型車もびゅんびゅんと側を通過していくようになる。もう国道になっていた。もっと歩けば、それは、四車線の道路と合流してしまうことになる。ファラオは車で試してみようと思った。だが、スポーツカーはすでに売り払ってしまっている。仕方なく、彼は、同じ道路を南に向かって歩き始めた。すると、妊進館は突然現れた。
 ファラオは、頭痛を期待した。
 自分の身に、今、なにが起こったのか。頭痛のせいにしてしまいたかったのだ。
 体の不調が幻覚を誘発したのだと思い込みたかった。だが、ファラオは生来、病気一つしたことがなく、風邪だって、めったにひいたことがなかった。常に体を鍛えることが趣味であり、精神的な鍛錬を積むことも怠らなかった。精神的に薄弱だった過去と、霊感の強かった幼年時代に対するコンプレックスから、立ち直ったのだ。セックスもずいぶんと早くに経験していた。十歳くらいだったと思う。相手は女子大に通う学生だった。音大の生徒で、週に一度、ピアノのレッスンのために家にやってくる人だった。彼女は初めから、実にセクシーな服を着てきた。デニムの短いスカートに、黒のカーデガンのようなものを羽織っていた。まずは、自分が演奏のお手本を見せるからといって、弾き始めたのだが、そのときもずっと、下着が見えていた。そのあいだ、ファラオはずっと立っていたので、彼女の胸の谷間も、くっきりと確認することができた。彼女はその後、一年にわたって、家に通ってくることになるのだが、レッスンの日は必ず、両親のいない日を指定してきた。彼女の体に初めて入ったのは、レッスンが始まってから、三ヶ月目のことだった。お互い何も言わず、彼女はただ、ファラオのズボンを脱がせ、性器を包み込むように撫でながら、大きくさせていった。彼女はファラオの手をとり、自分の性器へと導いていった。下着の上からファラオは指を動かした。彼女は小さな溜息をつくようになり、ファラオは下着の横から、指先を中に摺り込ませた。その日、彼女は、薄手の黒っぽいスカートを履いていたので、そのまま下着を取ったまま、ファラオは彼女をベッドに押し倒した。ファラオも彼女も、上半身は、服をきちんと着たままで、事に及んでいた。初めての性行為で、ファラオは彼女の中に射精した。
 もう一度だけ、北に向かって歩き始めてみた。
 今度、南側から妊進館に戻ってしまったとしたら、いよいよこれは問題であった。メンバーの誰かに相談するしかない。メンバー以外に、この街での知り合いは、誰もいなかったし、頼りにできる人もいなかった。あの後、ピアノのレッスンは、淡々と続けられていったのだが、すでに、彼女の体の中には、自分がいるのだ。自分から分裂してしまった一部が、他人の、しかも、女の人の中に入り込んでいるのだ。それ以来、落ち着かなくなることが多くなっていった。自分の一部が、他人の体の中に今もいるのだ。その事実が、情緒を不安定にさせていった。厳格な両親の前では、少しも、態度には出さなかったものの、学校で授業を受けているときは、そうはいかなかった。性器がむずむずとし始め、彼女の中でさらに膨張していくこの性器が、未知なる暗闇の中を切り裂いていくように思えて、興奮してしまった。
 だが、その結末がよくなかった。自分の一部が、彼女の中に入り込んでしまったのだ。ファラオは慌てて引き抜いた。性器そのものが、そのまま、暗闇の中に捥ぎ取られていってしまうかのように感じたからだ。しかし、あれ以来、自分と彼女の関係は、少しもぎくしゃくしなかった。ああなったのは、当然の結果なのだとでもいうような雰囲気で、ピアノのレッスンはその難易度を増していくだけだった。そして、彼女がショパンの速弾きの曲を夢中で演奏するのを、横で見ているときなど、自分が彼女の中で、クライマックスを迎えたときのような、性的な陶酔感さえ味わってしまった。
 もしかすると、あの体験も、ピアノのレッスンの一部だったんじゃないだろうかと感じ始めた。特に恋愛感情もなさそうだったし。それに、あのとき以来、彼女からはそのような体の関係を築こうという雰囲気が、窺えなくなってしまったのだ。短いスカートはパンツへと変わり、胸元の開いたデザインの服は、タートルネックへと変わり。一層無口になってしまった。お譲さんのような品のある格好から、普通の大学生へと、急速に戻ってしまったのだ。ファラオの性的関心は、次第に薄れていった。

 ふと振り返ってみたが、妊進館の姿は、すでに見えなくなっている。道幅が増えた様子もない。大型車が、裏から迫り来ることもない。そもそも、人通りがまるで途絶えてしまっている。うっすらと霧が立ちこめてきてもいる。ファラオはふと上京してきたときにやってきたジェラシカという女が、十六年も前に、あの女子大学生の体の中に放出してしまった、自分の一部から生成された女性なのではないかという強迫観念に、襲われてしまった。あの子が突然現れたときも、妙に違和感がなかった。すっと、何の前触れもなく自分の前に現れてくる人というのは、以前から、血か何かの繫がりがあった人間のではないかと、思ってしまう。登場の仕方が、あまりに霊的だったからだ。ファラオは幼い頃の、あの、霊能力のようなものが復活してきたのかと思った。
 だが、あの女子大学生との関係があった日以来、不思議と霊感が薄れていくのがわかった。
 この霧の向こうからやってくるのは、ジェラシカ。
 バンド名は、ジェラシカ以外には考えられない。そう思った。この名前をつけることで、ジェラシカは、きっと、足を運んできてくれる。ジェラシカが有名になれば、彼女の耳にも届くことになる。そのためには、バンドを大きくしていかなければならない。知名度を上げていかなければならない。僕が、このバンドに導かれてきた理由は、きっとこれなのだ。根っからの憑依体質なのだ。役者なのだ。真っ白な自分でいることによって、どんな人間にでもなることができる。表現したい自分の想いを、誰かの体を借りて、表にさらけ出すことができる。mayaと、他の三人が作った舞台を演じるのは、この自分しかいないのだ。

 妊進館が、前方から現れた。中世の城壁のような佇まいに驚いた。改装はもうそこまで進んでしまっていたのか。だがそれも、霧が演出した自然の現象が、そう思わせただけだった。赤茶けた外壁に、紫色の円柱やら直方体やらの煙突のような柱が、何本も立っている。まるで、天からの電波を受け取るために聳え立った塔のようにも見える。この幻想的な光景の中で、ライブが敢行されたら、どんな感じになるのだろう。ファラオはステージとなる建物の方を、客席側から眺めていた。ここなら、素晴らしい野外ライブができる。まさに、我がバンドのために、建てられたような場所だった。ライブハウスでもホールコンサートでも、まずこんなセットなんて、組めやしない。似せたものなら組めるかもしれないが、これは、本物の建物なのだ。比較にもならない。柱も実にしっかりしているし、公共の建物として、何十年も機能しているのだ。あとは、照明をどう使うか。建物をどのように扱うかだった。
 ファラオは思った。ライブ会場はとりあえず、ここ一つに絞ってみたらどうだろうか。機材車に乗り込み、セットも作れない中で全国を回るのは、まだ時期尚早なのかもしれない。まだ、音だってロクに固まってはいないのだ。演奏も完全でない状態で、全国を回ったとしても、不評が喧伝されていくだけだ。すべてのことを、一気にやってしまおうとした自分は、間違っていたのかもしれない。
 すべてが急進的すぎた。ファラオは何度も遠ざかってはまた、目の前に現れ、避け続けては目の前に現れる、妊進館を見上げながら、これは、何ら不思議な現象ではないのかもしれないと思い始めた。時空それ自体が、生き物のようであるというのも、何ら不可思議なことではないような気がしてきた。ときに、ある局地的な場所が、歴史的にも閉ざされた空間として、置き去りにされてしまうことはよくある。それが、あるいはなのかもしれない。時流は歪み、空気も変則的な気流を描き始める。霧が発生し、雷鳴が空を切り裂く。雨が流れ落ちてくるかもしれない。永遠の鐘の音が聞こえてくる。幕が上がる。そこには、五人のメンバーが、黒いシルエットだけを見せて立っている。オープニングの楽曲が、不吉な闇の中で鳴り始める。そのとき、妊進館は、この宇宙でたった一つの、時流の止まった空間となる。そこはどこでもない。ただ、永遠に続いてゆく深遠との契りを交わすためだけの、婚礼の場となる。


 翌日、mayaと会ったファラオは、このことをすぐに提案した。全国ツアーの見送りは、mayaにとっても驚きであった。あの、拡大路線一辺倒なファラオが、突然、方針を転換したのだから。
「どうしたんだ」としか訊けなかった。
 ファラオは、あの不思議な体験を、ありのままに話そうかどうか、迷った。
「なあ、maya。君はこの人生を、いったいどんなふうに考えている?この時代に生まれ、この国に生まれ、そして今は、この地にいる。これはいったい、どういうことなんだと思う?俺らはこの時代に、この場所で生まれ、これからも命の続く限り、生き続けていく。そこに、何らかの意味があるわけだよな。それはいったい何なのだ?僕は時間の感覚がまるでなくなるときがある。すっと霧が立ち込めてきて、辺りは暗くなってくる。当然、陽の光は、なくなる。月が唯一の灯りだ。雷鳴が聞こえ、雨が降ってくる。空は稲光で切り裂かれていく。大地が揺れる。そこは、いったいどこなのだろう。僕にはまるで、自分が誰なのかわからなくなってくる」
 mayaはずっと、無表情で聞いていた。
「ところで、それとツアーの中止とは、どんな関係があるのだろう」
「場所と時間の感覚が、乱れているってことだ」
「君の?」
「いや、俺一人じゃないと思う。mayaはどうだ?」
 無表情の中にも、その冷たい目の中にも、少しの感情の乱れも見当たらないこの男は、本当に人間なのだろうか。ファラオは脅えた。この男の眼は、あまりに哀しく、そして深かった。この瞳の奥に吸い込まれていってしまうと、そこには、あの妊進館があるような気がしてくる。
「この街は、どうも変だ」とファラオは言った。
「やっと気づいたか」
「やっぱりそうだったのか。ずっと眠っていたままの自分の中の能力が、なんだか疼き始めているような気がする」
「何度も、足を運んだわけだしな」とmayaは言った。
「それに、ここに来て、もう一ヶ月になる」
「それで?」
「ライブはしばらく、ここで、やり続けるのがいいんじゃないかと思った」
「いつまで?」
「来年いっぱいは」とファラオは答えた。「ツアーを敢行するとしたら、再来年以降に、しないか?まだ、音も、ステージでの演出法も、何も固まってはいない。今は動くことに労力を使うよりも、ここでやり続けることで、基盤を強固にしていったほうがいいと思うんだ。多彩な演出方法も、いろいろと試せるだろうし」
「ねえ」とmayaは言った。
―その、君の中に閉ざされてしまった力はさ、ここにいれば、また、湧き上がってくるのだろうかー
 ジェラシカのことと、十歳の頃の記憶とが、すっと結びついたあたりから、ファラオは目に見えない未知の力が、ふつふつと沸いてくるのを感じていた。街が違って見えはじめ、その構造までもが、生き物のように変化していくのがわかった。
「君がそういうのなら、それでいいよ」とmanaは言った。「それに、改装のほうも、すでに始めてしまったんだろう?」
 本能では、初めからこの建物に執着することが、わかっていたのだろうか。
 ファラオはふと思った。
 一度きりのライブのために、夕顔に借金をしてまで、改装を頼んだのだから。それに夕顔も快く引き受けてくれた。mayaも同じだった。彼ら二人に、精神的な根っこを操られているのだろうか。なんだか自分が解剖のための実験台へと乗せられ、メスで脳を開けられていくような気がしてくる。
「僕も、この街で何かが起こると思う」とmanaも言う。
「いや、起こせる条件が、いろいろと揃ってきていると思う。この建物は、その重要な目印だと思う。だって変でしょ。公共物なのに、あの近代的で、無機質感な、薄っぺらい建物たちとは、まるで違う。とても重厚なつくりだし、存在感がある。僕はこの建物がいったいどういった経緯で、誰の手によって作られたのか。そっちのほうも気になる。何の目的もなく、こんな違和感のある建物を、街の真ん中に置くわけがない。何かあるな。行政的なことではないし、企業的なことでもない。何か、研究所のような雰囲気もしない?あるいは、礼拝堂のような。聖堂のような背丈はないんだけどさ、修道院のような趣もある。一般公開はしているものの、そもそも、何をやる場所なのだろう?それに快く、うちらのような化粧バンドにも、場所を提供してくれる。これも変だ。改装だって、あっさりと受け入れてくれる。怪しいとは言わない。でも、何か陰謀めいたものを感じないわけでもない。確かに君の言うように、しばらくは、ここに留まっておくのが、一番の得策かもしれないね」


「なあ、聞いているのか。さっきから」ファラオの声が聞こえてきた。
「・・ああ、なんだっけ?」ヒロユキは、我にかえった。
「だから、ツアーはなくなってしまったんだよ。でも変わりに、妊進館でのライブが、しばらくは続くことになる」
「続く?」
「そう。ずっと、そこでやるんだ。一年間」
「何本くらい?」
「五十本はやるだろうな。いろんなパターンを試してみよう。百本はやらないかもね。その間くらいかな」
「でも、よくまあ、同じところでやろうと、決意したよな」とヒロユキは言った。
「俺は、まあ、いろんな場所に移動したいとは、あまり思わないタイプだけど、君は違うだろう。今までだって、そうだったんじゃないのか?」
「ここが、とりあえずの、行き止まりだったんだよ」とファラオは言った。「グラウンドクロスは、ここで起こる。ここで必ず起こるんだ!」
 ファラオの熱弁に、ヒロユキは、受話器を少し耳から離さなくてはならなかった。
「何なんだ、そのグラウンドクロスっていうのは。大地がクロスするわけ?交わるって意味なの?」
「十字架ってことだ」
「宗教?」
 信仰心の持ち合わせなど、まるでなかったヒロユキは、身構えた。
「縦の時間と横の時間とが、その一瞬にだけ、交わるんだ。そこですべてが見える。すべての原子が見わたせるんだ。人間とは何か。神とは何か。自分自身とは何か。そこが、誕生なんだ。俺自身の誕生なんだ。もっと言うと、このメンバー五人の誕生。バンドの誕生だ」
「なんだか、話がでっかくなってきたぞ」
「いいかヒロユキ。この街は、ただごとじゃないんだ。確かに都心からは離れた、平凡な土地ではある。どこにでもあるような、半分さびれていて、半分近代化したような街かもしれない。災害もそれほど起こらない平穏な土地だ。だがな、あの建物は絶対に変だ。あきらかに調和していない。現代建築の中にあって、機能性もなければ、均質性も何もない、戦力にならない建物なんだ。気まぐれな形状が続いている。でも、誰かが何らかの意味を込めて、設計した建物であることは間違いない。それに協賛して、協力した人たちも、大勢いたわけだ。でもそれは、はたして行政レベルだったり、経済的なことだったりするのかな。俺はもっと、違った理由なんじゃないかと思う。それが、このグラウンドクロスの時期に、解明するんじゃないのか。まさに俺らは、その瞬間に、立ち会うことができるんじゃないのか。なぜなら、俺たちが、ここでライブをやるからだ。野外型のライブハウスで、ね」

 ここを動かないと決意させたものが、あの体験によるものだということは、自分だけの秘密にしていた。北に向かって伸びる道を歩いていると、しだいに意識が遠のき、別の思考が始まり、霧に覆われる。そして、気付けば、妊進館が目の前に現れる。南側が現れるのだ。これはかつて、ガリレオが、地球は丸いと主張したことを、実践で証明したかのようだった。向こう側には淵があり、そこを超えれば、真ッ逆さまに落下してしまうというフラットな世界の否定だ。だが、何故、自分はそんな体験を、何度もしてしまったのだろう。この街そのものが、小惑星だとでもいうのだろうか?
 それに、毎回、必ず戻ってきてしまうわけではなかった。北に北に、いつまでも歩き続けることの方が、圧倒的に多かった。

 ヒロユキは受話器を片手に、自分がファラオと何か通じ合ったものが芽生え始めたと思ったことも、勘違いだったのではないか。そう感じ始めていた。
 お互いタイプは違っていたものの、移り変わりの激しい性格に、共通項を見出したと思ったのに・・・。その内訳は、実に異なる次元だった。俺には宗教心の持ち合わせなんてないからな。ヒロユキはそれ以上、ファラオが熱弁を振るう前に、さっさと話を切り上げてしまっていた。


11月16日発売
 1st SINGLE   dark Neo worm

11月28日
 1st LIVE ~改竄の序章~
           妊進館野外ライブ  17:30開場 18:00開演


1月16日発売
 1st ALBUM   METALPHYSIC

 Ⅰ   F・bоx
 Ⅱ   D・I・A
 Ⅲ   neo
 Ⅳ   spell
 Ⅴ   Metalphysic
 Ⅵ   dress
 Ⅶ   MARY
 Ⅷ   E・G

2月1日
  5日
  7日
  9日
  13日
  16日
  17日
  21日
  25日
  26日
  28日
 妊進館野外ライブ 11公演決行

 1stALBUM METALPHYSIC リリース記念講演 
【groundcrossの国】


「そうですね。今回は、ヒロユキの曲を多く取り入れていますね。半分以上かな。ポップなものから、デジタル的なサウンドのもの、ダンスミュージックのような軽快な曲まで、入っていますね。僕の作る曲は、けっこう、ダークなものが多いですからね。それだけを組みあわせてしまうと、誰も聞いてくれないくらいの、暗い曲ばかりになってしまうんですよ。選曲はファラオと相談して決めました。彼がボーカリストですし、歌詞も書くので。ええ。それでも、わかりにくい曲が多いと思いますよ。ああ見えて、ヒロユキもけっこう、得体の知れない人間だったりしますからね。そうです。人間がテーマです。人間の心の奥底に眠っている感情だったり、情景だったりが、テーマです。ときには、事件だったりすることもあります(笑)
 とにかく、僕らは、その闇に沈み込んでしまった記憶を、引っ張り出してきたいんですよ。その過程が、こうして、音として産み落とされるわけです。その見た景色を、そのまま音に置き換えていきたい。音で表現したいんです。それを、三次元に、より立体的に見せるためのライブを、行いたいんです」

―女性関係は、どうなのですかー
「いきなり、そんなことを聞きますか!」
―ええ。インタビュアーも、女の人がよかったですかー
「まあ、ね(笑)」
―女性っぽいメイクをしていらっしゃいますけど、中身は、男なんですよね?ー
「さあ、どうだろう。精神的なことを言ってしまえば、究極的には、どっちなのかわかりません」
―僕って言ってるのにー
「女の人の意識になっているときが、たまにありますもん。たまに」
―ええっ。ほんとですかー
「ありません?誰にでもあると思うけどなぁ。ほら、ずっと、同じ性を輪廻しているわけじゃないでしょ?それは入り乱れてますよ、絶対。だからその切り替えが、肉体とうまく一致していない人が、たまにいるじゃないですか」
―けれど、日常においては、完全なる男なんですよね?ー
「恋愛だって、時にはしますからね(笑)」
―現在進行形ですか?―
「ご想像に」
―謎ですよね。たぶん、付き合う人も、結局、あなたのことは、何だかよくわからないままなんでしょうねぇー
「そうみたいですよ。あなたとは、付き合えば付き合うほど、わからなくなってくる。見えなくなってくるって、よく言われますから」
―でしょうねー
「だから、あまり近づかない方がいいんですよ(笑)。あ、そうそう。女性といえばですね。あの妊進館には、女性の宿ができるそうですよ」
―宿?へっ?何の話です?―
「女郎宿(笑)っていうのは、嘘ですけど、あそこの、部屋の一部を改装して、住宅にするみたいなんですよ」
―なんですか、それはー
「ファラオとヒロユキが、決めてしまったんです。僕が楽曲に、かかりっきりになっているあいだに」
―二人は仲がいいんですねー
「最近ね。よく、一緒に遊んでいるって、逆玉から、聞いてますよ。僕が、ほら、とっつきずらい感がありますから」
―その女郎宿の件。ばらしてしまっていいんですか(笑)―
「いやいや。活字にはしないでください。カットですよ、もちろん。いずれはいいけど、今は駄目(笑)あの二人に怒られてしまいますから。でも本当なんですよ。ヒロユキの付き合ってる女を、住まわせるみたいですからね。僕も別に、構わないって言ったんです。そのね、あの場所というのは、すごく、ごった煮な感じが、いいと思ったんです。
 もともと、僕は、相反するような事象が同居してる状態っていうのが、とても好きなんですよ。壁一枚隔てているだけで、まるで、対立するような概念が、並存しているみたいな。紙一重っていう感覚が、たまらなくいいですね。例えばストイックなものと、快楽的なものとが同席していたり、綺麗なものに、汚い場所が接合していたり。だから、あの妊進館っていう場所も、あるときはライブスペースだったり、あるときは、芸術作品の常設展だったり、あるいは、時間帯によっては、公園だったり、それこそ女郎宿だったり(笑)全然、かまわないと思うんです。本当は、レコーディングスタジオも、あの中に、作ってしまいたいくらいなんです。
 時間によって、物事って変化していきますよね。それは一年を通してだったり、一ヶ月を通してだったり、一日のなかであったり、もっと言えば、人間の感情や意識なんて、その瞬間ごとに、たえず変化していきますよね。だから、その建物が、ある一つのイメージで、一つの目的で、一つの役割しか果さないというのは、おかしいと思うんですよ。刻々と変化していく。同じ瞬間でも、様々な出来事が同時に進行している。ごった煮ですよ。それがいいんです。ヒロユキもファラオも、大いにやりたいことをやってくれたらいいんです」


 ヒロユキがエリカと疎遠にならなかった理由の一つに、彼女とのセックスが嫌ではなかったことがある。女なら誰でもいいというわけでもなかったが、かといって、これじゃなきゃ駄目ということもなかった。それは、自分の属性なのだろうと、彼は薄々勘づいていた。
 エリカは、服飾関係の会社に勤めていて、普段の着るものから、部屋のインテリアデザインまで、自らの趣味が行き届いたもので身を固めていた。
 ヒロユキもまた、見た目の鬱陶しい派手なデザインや、まるで、無頓着な配色、組み合わせには、まったく耐えられなかった。街を歩いていると、その趣味の悪さは、至る所に満ち溢れていたため、エリカと会うのは、もっぱら彼女の部屋か、出ても、照明の雰囲気のいいカフェかレストランで、食事をとるくらいだった。お互い、昼間が大嫌い。陽の光が苦手だということも、共通していた。
 ただ、唯一、エリカが鬱陶しかったことは、たえず金の話をしていたことだった。
 何かあると、財産がどうだとか財力がどうだとか。かといって、金銭面に細かいのかといえば、そうでもない。口癖のように聞いていたのだ。何か過去にトラウマになるようなことでもあったのだろうか。それは病的なほど口をついて出てきた。セックスの時に漏れる声にも、いつか登場してくるんじゃないだろうか。ヒロユキはセックスの時も絶えず、その警戒心を強めることになった。
 レコードは発売していないし、ライブだって行われてはいない。告知はしたが、収入源はどこにもない。バンドの中で、金の話をするやつは、誰一人いない。mayaは夕顔の事務所にサポートされているし、ファラオは、水商売で溜めたかなりの額の貯金がある。ニセイはアルバイトがメインの生活サイクルであり、逆玉は、どこかの企業で契約社員として籍を置いている。俺だけだった。何の後ろ盾もないのは。全国ツアーに出れば、生活費もかさんでいく。俺は何としても、他に収入源をつくっておかなくてはならなかった。でもそれも、今考えてみれば、単なる気持ちの弱さから出てきたものだったのかもしれない。逃げ道が欲しかっただけなのかもしれない。このバンドが、今までにない音楽性と装飾性とを兼ね添えることで、見る人の五感を震撼させ、心の奥底をひっくり返すインパクトを、与えることができるとしたら、どうして、別の道などを模索する必要があるだろう。特に、あのファラオとmayaは、絶対的な確信を持った眼をしているときがある。
 俺はどうして、あの二人のようにはなれないのだろう。
 だから女だって、そこそこの可愛いモデルの卵くらいにしか、手を出せないのだ。相手の女の心の奥底を、震撼させてしまう何かを、俺は持っていないのだ。すべては同じことなのだ。俺の音は、それだけではまるで影響力のない、ただのノイズなのだ。しかし、mayaの土壌に乗ったときに、それは、異様な輝き方をする。それをおそらく、あのファラオが歌い上げることによって、胸をかすめる音源へと変わる。だが、この俺だけでは、まるで通用しない。そうか。俺だけでは通用しないのなら、バンドとは別の道を一人模索したって、全然無駄じゃないか!ここで腹を据えてやりぬくしか、道はないじゃないか!
 ヒロユキは、妙なことを考え始めていた。
 エリカと二人っきりになるのは鬱陶しい。かといって、そこでアイリスの家に行ったり来たりするというのも、何だか面倒だし、気がひける。自分のアパートの家賃も、もう払えなくなる恐れもある。なら、いっそうのこと、三人が同じ場所にいたらいいじゃないか。ヒロユキは、妊進館に住むことを決意する。市にその申請を出すために、ファラオを呼んだ。
「大丈夫なんじゃないか」
 彼は、能天気に答えた。
「もう、買い取る算段は、ほとんどついているんだ。来年の終わりには、完全に、僕らのものになっている」
 mayaには、その後、しばらくしてから報告したのだが、特に何の異論も出てなかった。
 アイリスはすぐに、隣の部屋にやって来た。
 彼女はモデルの駆け出しだったので、やはり金銭的に逼迫していた。先の見えない生活に、不安を感じていたので、すぐに応じてきた。
 意外だったのは、エリカだ。彼女もすぐに了解した。
 ただ、彼女の場合は理由が少し違っていた。この妊進館という建物のデザインに、惚れこんでしまったのだ。エリカには、金銭面にこだわる反面、やはりアートにこだわる眼があった。金は溜まる一方で、何かと矛盾だらけの女だった。とことん、趣味に走らなければ最終的には成功しないのよ。大事なのは自分の感性なの。わかる?かと思えば、大事なのは財力なの。お金がなければ、好きなことなんて何もできないの、と力説する。するとまた、まずは何をしたいのかなのよ。何に惹かれるかなのよ。その理想に突き進んでいけば、お金なんて、後から付いてくるものなのよ。わかる?
 そういうとき、彼女の相手をするのは、ほとほと疲れた。
 仕事をばりばりにこなす女ではあった。アイリスのほうはというと、これがまったくの違うタイプだった。エリカは身長が高く、肉付きもわりとしっかりとしていて、眼も切れ長ぎみの髪の長い美形であったが、アイリスのほうは、白いワンピースやネイビーピンク、薄い色の服がとても似合う「一見上品そうな」女だった。細身の体型ではあったが、胸はあった。性行為は大好きで、少し淫乱ぎみだった。こんなかわいらしい顔立ちをしている表面からは、まるで伺い知ることのできない素養だった。眼は大きかった。CM栄えする顔だった。あまりインパクトが強くない分、ふんわりとした香り高いシャンプーのような柔らかさがあった。
 もしかすると、この優しい雰囲気が、業界関係者をひきつけ、あるいは国民的なアイドルブームに火を起こしてしまうような、何かを持っているのかもしれなかった。泣かず飛ばずで終わる可能性も、当然、大だった。時代がこんな女の子を求めているのかどうか。それが鍵だった。しかし売れた後には、大きな落とし穴の種を、自ら蒔いてしまうのだろう。その淫乱気味な素養が、私生活でも全開になってしまう恐れが、当然あった。今は俺とあと何人かの男に、その範疇は納まっているようだったが、そっちのほうも、大ブレイクしてしまう可能性があった。


 ファラオは、まさかをヒロユキに燃やされるとは思わなかった。犯人がヒロユキであることを知ったファラオは愕然とし、膝から崩れおちたまま、どうしていいものか、心の整理がつかなかった。ぱっと意識が戻ったときに、書庫は燃えていた。慌ててお手伝いさんを呼んだが、長い廊下には、自分の声ばかりが響くだけで、誰も助けにきてはくれない。仕方なく、書庫を離れるしかなかった。長い廊下の一番突き当たりの扉を蹴り上げ、玄関のところにある受話器を、手に取った。119番にかけて、消防車を呼ぶ。初めは焦って、110番に掛けてしまった。お手伝いさんはどこからも現れない。職業放棄か!ファラオの怒りは、彼女一点に集中した。
 ファラオは、とりあえず家から脱出するしかなかった。ずいぶんとでかい家だなと思った。これじゃあ、お屋敷じゃないか。噴水のある庭園があり、蔦に絡まった赤茶けた壁には、大きなステンドグラスの窓が取り付けられている。バルコニーもある。中世のお城の中に舞いこんでしまったような錯覚に陥る。これが自分の家だったとは。しかもたったの一人で住んでいるのだ。お手伝いさんが、朝と夕方にだけ来てくれて、身の回りのことをすべてやってくれる。
 消防車は、いつになってもこなかった。書斎のある部屋の窓からは、すでに煙がもうもうと出ている。本は焼き尽くされ、壁は真っ黒こげになってしまうだろう。そのとき、裏の門から一人の男が出て行こうとしているのを目撃する。鍵のかかった門をひたすらいじっていたのだ。男はファラオの視線に気付いたため、扉と格闘するのをやめ、ひょいっと跨ぎこそうとする仕草を、繰り返すようになった。シュミレーションをしているのだろう。だが、一っ飛びで乗り越えられるほど、低い生垣ではなかった。その男の顔こそが、ヒロユキだったのだ。ファラオはそこで、頭を思い切り殴られたような衝撃を感じた。急いでまた、家の中へと入っていった。長い廊下を走り抜け、黒い煙がもうもうと出てくる、書斎へと飛び込んでいった。
 あの、男め!ちくしょう!
 俺が、この本をすべて読み終えたところを見計らって、燃やしてしまったのだな。一体、どういうつもりなんだ!前々から、燃やして、消去してしまいたかったのか。ヒロユキが何故、うちの書庫を燃やしたりなどするのだ?俺への嫉妬からか?あてつけからなのか?一体、何なのだ?
 ここで、ファラオは眼が覚めた。
 ファラオは、そんな両親のいない屋敷に住んでいたこともなければ、そんな書庫で本を読み漁っていた過去もない。少年時代は、ごく普通の二階建ての住宅に、両親と姉と共に住んでいた。
 だが、この夢はよく出てきた。
 書庫は確実にその夢のなかでも重要な登場人物だった。今回、不思議だったのは、そこに、ヒロユキが現れたことだった。確かに、彼とは最近知り合ったし、一緒に音楽活動も始めていたのだから、この瞳の中に、ごく新しい情報として、その画像がインプットされていたとしもおかしくはない。それが、自分の中にあるよくわからない記憶の夢とダブってしまったとしても、何ら不思議なことではない。
 じゃあ、何なのだ。なんで書庫を燃やしてしまったのだ?いや、彼が燃やしたと決め付けるのはよくない。実際に、その現場を見たわけではないのだ。裏門から出ようとしていた彼が居ただけだ。火事になったために、彼も逃げ出そうとしていたのかもしれない。
 じゃあ彼はいったい、あの屋敷の中で、何をしていた?
 その屋敷の外観の印象が、ほんの少しだけ、妊進館と似ていることを発見するのに、たいした時間はかからなかった。今までは、書庫の中に閉じこもっている絵しかなかったのだが、この火事をきっかけに、外に出てきてしまっていたのだ。自分が包み込まれていた建物の外観を眼にしたのは、このときが初めてだった。
 それにしても、何故、彼は書庫を燃やしたりなどするのだろう。
 俺は、あの本たちをすべて読んだらしいのだ。そう、夢の中の俺は思った。それを見越して、彼は、屋敷の中に進入してきた。あそこで、映像が途切れたのにも、何か理由があるのだろうか。外の道路には、小さなエンジ色のライトバンが止まっていた。ファラオは、その事実に笑ってしまった。
 いよいよ、混線してきているぞ・・・。それに、妙な喪失感が残っていた。
 確かに焼き払われてしまったような感覚が、体内には残っているのだ。


 mayaはレコーディングの最中も、絶えず、新しい楽曲の譜面を書き続けていた。やはりヒロユキと同じで、今の感情や、想い、心の状態を、何か別のものに変えて、体外に排出しないことには、息苦しくなってしまった。彼は、譜面にそれを起こすことで解消してはいたのだが、その楽曲も、いずれは、自宅レコーディングで形にしていかなければならなかった。
 mayaは、レコーディングスタジオのソファーに座り、気分の転換を図るために、このまだ形になっていない譜面を、新聞を眺めるようにぼんやりと見ていた。よく考えてみると、レコーディングというのは、曲を生み出す作業ではなかった。そして、もしこの作業がなければ、世の中には自分の音楽が出ないという、そういった商品作りのための作業でもないことに、このとき気付いた。
 じゃあ、一体なんなのか。
 これはあくまで、自分の近辺に溜まっていく楽譜を、一掃するためだけの行為だったのだ。要するに、自室が楽譜で埋め尽くされてしまうのを防ぐ、唯一の手段だったのだ。レコードにしてしまえば、そこで、自分から遠ざけることができる。解放してやることができる。追放といっても、いいくらいだった。とにかく、自室からは追い出すことができる。
 だから創作というのは、自分にとって、無から何かを生み出す行為というよりは、有を消去してしまうために行う、儀式のようなものだった。誕生ではなく消失。追放。焼き払う。レコードに入れてしまえば、楽譜はなくなってしまっていい。ある意味、自殺行為だった。自殺の身代わりだった。音が自分の変わりに、死をもって償うのだ。
 そう考えるれば考えるほど、このレコーディングスタジオと言うのが、自分にとっての、火葬場のようなものに見えてくる。


 スターブレードプロモーションからデビューが噂されている聖塚亜矢子は、実は、過去に歌手として活躍していたアーティスト***ではないかという話が、業界内に広がり始めている。国籍は、アメリカ人なのだが、日本の両親から生まれている。しかし、祖父母にアメリカ人、さらに上に辿っていけば、メキシコ、カナダ、あるいはイタリアからの血も入っていた。
 この***は、2005年に結婚し、二児を出産して、芸能活動からはしばらくのあいだ遠ざかっていたのだが、2007年離婚。さらには、飲酒運転。ドラッグ中毒。暴行。売春行為。深夜の街で、肌を露出していたことによる淫行での現行犯逮捕。その***が日本の芸能界に復帰するのではないかという噂が、流れていたのだ。日本での本格的な活動は、今までに一度もなく、来日という形で東京、名古屋、福岡のドームツアーを成功させただけだった。かつては、世界ツアーまで敢行していた***ではあったが、日本の化粧品メーカーのCMには、ずいぶんと長く出演していたことがある。しかし、この復帰の噂に関して、かつて、彼女の所属していたアメリカの芸能事務所は、完全に否定をしている。契約のほうは、一連の事件の後に、すべて解除してしまっていたようで、彼女は今どこにも所属してはいなかった。消息も知れていない。合衆国内には、すでにいないのではないかと思われる。二人の子供の親権は、すでに剥奪されている。夫もヤク中ということもあり、どうやら、双方の親たちが、その面倒を見ているらしかった。かつて新婚を営んだとみられる豪邸は、すでに競売にかけられている。その***が、まさか聖塚亜矢子という日本人の名で、再デビューするというのは、確かに考えにくい。顔立ちは完全に日本人ではない。エキゾチックなその雰囲気を、消し去ることなどできない。そもそも彼女は、日本語を話せたのだろうか。それとも、かつての***を丸出しに、聖塚亜矢子として公然と活動を始めるのだろうか。かつてあれほどの、歌唱力と切れのあるダンス、セクシーなファッションスタイルをもって、全世界を震撼させたエンジェルシンガーが、その上昇気流そのままに、堕ちゆく姿をさらした光景が、今でも人々の目に焼き付いていた。その堕ち方もまた、誰にも真似できないほど、派手でもの哀しいものであった。同情さえ抱く人もいた。自暴自得だという見方が、大半ではあったが。
 これを機に、私たちは、***の調査を開始するべきか。検討している。
 聖塚亜矢子とは、何の関係もなかったとして、それでも、***に興味を抱く読者が、今もかなり多いのではないかと推察するからだ。***は今どこで何をしているのか。消息がピタリと絶たれてしまった今、彼女の今後の展開は?そう、あれほど類稀なる才能に恵まれた歌い手、踊り手は、他にはいなかった。
 天性のアーティストが、その後も輝き続けることは稀であるということは、みな承知だ。本人も業界もファンも、その才能を乱用し、食いつぶし、そしてあとには何も残さず、そのまま使い尽くされる。洗練された自我を育てることを知らなかった彼女は、才能がただただ、消費されていく様を眺めているだけだった。ただただ、商品として流通していく様子を眺めているだけだった。そこに、自分はいない。誰か別の人間の出来事のように見ている自分がいるだけだ。しかし、そんな稀有なアーティストも、堕ちた天使になれば、誰も相手はしてくれない。だが、そこにこそ、真の才能が芽生えるチャンスがあったのだ。先天的に与えられた能力を使い尽くした彼女は、自らの内部に潜在的に眠ったままの金鉱を掘り当てるべく、自らの心の闇の中に、手を伸ばしていく。闇に引きずりこまれ、彼女は芸能界から、世間から、姿を消す。もう二度と、浮上してはこないという予感だけを、周りには残して。彼女は、本当に堕ちてゆく。時間を超え、空間を越え、彼女は、彷徨い歩く。過去に遡り、さらには、過去の記憶へと遡り、未来に先回りし、歴史全体を眺める。宇宙を感じとる。
 私たちは、聖塚亜矢子と共に、***の動向も、平行して追っていきたいと考えている。


―それでは、レコーディングを終えたばかりの五人のメンバーに、来てもらいましたー
M「僕は、つい先日、会いましたけどね」
ヒ「俺は、久し振りだよね」
M「レコーディング中は、五人とも、同じ建物の中にいるから、顔は会わすけれども、なかなか、五人全員で話し合うって機会は、なかったから」
―ニセイさんと、逆玉さんは、もっぱら、演奏に集中ってわけですねー
ニ「そう。僕らはね」
―告知も、すでに、しているんですよねー
フ「ライブハウス、業界関係者、レコード店に、ポスターを配っていますし、音楽雑誌にも、広告を打っています。あとはホームページに、リンクを張っているし」
―そうですか。見えないところで、着々と進んでいるんですね。では、そのシングル曲のことに、話を移したいのですがー
M「ええどうぞ」
―dark neo warmですが、これは一体、どういう意味なのでしょう。それと、今回、復活の第一弾シングルとして、この曲が選ばれた理由を、教えてくださいー
M「今回、復活って考え方が、あまり適当ではないと思うんですね。こうやって、ファラオが加入したことで、バンドは大きく、その軌道を変えてしまった。もちろん、大元は全然変わりません。だけど、表現のスタイルとしては、まったく別ものです。ライブハウスを、ずっと回っていて、まあ、そのときは演出よりも、演奏ばかりに熱をいれていたのですが、正直、そういう時期だったんですね。まだ楽曲を固めている時期だったんですね。核を見つけ出したかった」
―そして、ファラオさんの登場ですー
M「不思議な縁ですよね。この第一弾のシングル曲も、今回、初めてリリースします。これは、ファラオが加入したあとで、僕が書き下ろした曲です」
―バンド名も、違うんですよねー
M「今まで知っていた人も、ぱっと見、わかりませんよね(笑)メイクはもっと派手になっているし」


 スターブレードプロモーションの動きを追うと同時に、かつてのスーパースター***を調査していくにつれて、なんとも皮肉なことに、こっちの情報の方が加速度的に集まり始めてしまった。
 ***は離婚後、かつての恋人と再会をしていたのだ。その様子は、写真誌にキャッチされているので、文句のつけようがない。カリフォルニアのビーチで仲睦まじく抱き合っている姿が報じられた。大きなサングラスは掛けているものの、変装したり、隠れるように行動したりすることは全然なくて、堂々としたものだった。一般人に交じっていても、まったく違和感がなく、かつてのオーラはどこにいってしまったのかと思いきや、やはり、彼女に気付く人たちは少なからずいた。サインや握手を求められたらしいのだが、もう芸能界からは退いているからと、丁重にお断りしたという。その***に、海岸で接触したという女性は、***がかつて報道されていたような肥満体ではなく、かなり引き締まった体を披露していたことに驚いたという。全盛期を彷彿とさせる肉体を漲らせていたというのだ。離婚した後、ドラック中毒に陥っていた女性には、まるで見えなかったというのだ。一緒にいた男性も物静かで、二人はとてもリラックスしているようだった。邪魔しちゃ悪いなと思い、すぐに離れていったのだという。
 そのかつての恋人というのは、***が歌手としてデビューすることになる、ちょうど前の年まで付き合っていた、学生時代の同級生だった。彼女のデビューと、別れたことの因果関係はわかっていないし、その後、連絡を取り合っていたのかどうかもわからないのだが、現に今、離婚し、芸能界を引退し、親権まで奪われた堕ちた天使の前に、再び姿を見せていたところを見ると、彼女に対する気持ちはずっと変わらずに持っていたのだろう。
 ***はかつての男の元に戻っていたのだ。十年ぶりだった。その後も何度か食事をしたり映画を見たりと、普通の恋人同士のような姿がキャッチされていたのだが、それも今年に入って、ピタリとやんでしまったという。***が、住んでいた家は売りに出され、姿も見られなくなってしまった。どこかに引っ越してしまったようなのだ。そしてそのかつての恋人の姿も、同時に見られなくなった。本誌はロサンゼルスのゴシップ誌に、問い合わせをしているのだが、彼らも、何の情報も掴めなくなってしまったらしく、困っているというようなコメントを送ってきた。もしかすると、日本に行っている可能性もあるから、注意深く見ていてほしいとまで言ってきた。そしていつのまにか、連携をとることになってしまったのだ。
 私たちは了承するかわりに、元恋人との仲が、かつてどのようなものだったのかを訊いた。しかし、ハイスクールが同じであるという以外に、何も知られてはいなかった。彼らが教えてくれたことによると、彼女たちはかつて、同じ大学に進学することを約束し合っていた。***が芸能界にいて、デビューを強く望んでいたことを、男も知っていたが、そんなことは、現実的ではなかったし、それにデビューしたとしても、大学に籍を置いていて何が悪いのだろうと思った。だが、その進学を前にして、皮肉にも彼女の全米デビューが決まってしまう。そうなれば、話はひとりでに進んでいく。***だって、このチャンスに乗らない理由は何もなかった。付き合いはこれからも続けていこうと、固く誓ったものの、それこそが、ひどく現実離れしたお伽話のようになってしまった。彼は大学に進学し、***は毎日のようにテレビで、その姿を見かけることになる。どちらが別れを切り出したわけでもなく、彼は同じ大学の女の子と付き合うようになっていく。
 その頃の***は、意外にも浮いた話がない。それどころではなかったのだろう。仕事に忙殺されていたのだろう。浮いた話はまるでないのだ。当時は、ゴシップ誌や芸能デスクが絶えず彼女のプライベートを狙っていたのだから、何か些細なことであったとしても、でっかく拡大して報道するのが、日常的であったのたから、本当に何もなかったのだろう。
 でっちあげはたくさんあったが、その裏がまったくとれなかった。写真も撮れなかった。彼女が男性と会っている様子など、まるでなかったのだから。彼女が突然の結婚宣言をするまで、ずっと。その頃の彼女は、もうすでに、疲れ果ててしまっていたらしい。鬱の症状が頻繁に露出してきていて、仕事の現場での奇行も、目立ってきていた。わけもなく、喚いてみたり泣いてみたり。楽屋から出てこなくなってしまうこともあれば、スタッフに怒鳴り散らす場面も見られた。取材中、まるでしゃべらなくなってしまうとか、うつ伏せに寝っころがったまま、意識を失ってしまったり・・・。
 プロモーション撮影で、パンツを履いてこなかったこともあった。全裸で歌わせてくれ。ポルノ映画のオファーが何で来ないんだ!止めに入ったスタッフに胸を揉むよう、命令することもあった。等身大の人形を持ってきて、それに火をつけたりすることもあった。そんなことには、なるべく外部に漏れないよう、内輪の騒ぎで納めようと、関係者は苦心していた。そこに、突然の結婚報道が挟み込まれてくる。

 mayaが最初のシングルの二曲に込められた想いを聞けば聞くほど、その壊したあとに現実が歪み、浮遊していくような感覚とはまるで異なる、内面の奥底でふつふつと沸き起こる、もう一つの現実のことを、私は考えずにはいられなかった。
 mayaは、その分裂する上澄みの方の曲を、ヒロユキの曲と共に並べ、アルバムに収録する予定なのだろうが、肝心なのは、その下に沈んでいる部分だった。そのことに、mayaは触れようとはしなかったし、メンバーの誰かが、そこを突っつくわけでもなかった。


 ヒロユキが妊進館に住むようになってから二週間が経った、ある日、寝坊して正午近くに起きた彼は、カーテンをおもいきりいつものように開けてしまった。廊下を通っていた三十代くらいの女性は、びっくりして、こっちを振り返った。ヒロユキは黒のジャージの上下を、すでに着ていたのでよかった。女性のほうは、そのカーテンを開けた勢いに、驚いてしまったのだ。
 もうすでに妊進館は近隣に開かれている時刻だったのだ。十時の開館の前には、必ず、起床しなくてはならなかった。布団を干すのも、その前にしなくてはならない。開館と共に、彼はここを出ていった。それまで、自宅にあったレコーディング機材はすべて、スタジオに置かせてもらっていた。他のメンバーがレコーディングを始める前に、彼は自分の機材で、かつてとった音を、編集し直しておかなければならなかった。その辺は神経質だった。
 自分がつくったものを、放置しておくことだけは耐えられなかった。メンバーがどう扱っても構わなかったが、その前の段階においては、やることはやっておかないといけなかった。
 あの『第三の部屋』に女を連れ込んだときでさえ、深夜になると、ライトバンを改装した通称『カブトムシ』でその女を家まで送っていった。けっして、妊進館に泊めるようなことはしなかった。ヒロユキは女と一緒のベッドで、夜を明かしたことがなかった。たとえ、アイリスやエリカであっても、それは同じだった。彼女たちの部屋を訪れ、そのあとは、自分の部屋へと戻るのが常だった。寝るのは一人きりでいい。朝起きるときも一人きりいい。朝起きたらすぐに、音と向かい合う。そこに、自分以外の人間などいらなかった。
 ヒロユキは、この時間に限って、誰かと接触することは避けたかったのだ。
 女はみな、そんなヒロユキの殺気を感じとっていたのだろうか。誰一人として反論することはなかった。ねだってくる女もいなかった。ここが崩れたら、俺は本当に駄目な人間になってしまう・・・。この作業が、この時間が、あることで、俺はかろうじて自尊心を保っていられる。
 バーッと慌ててカーテンを閉め、外出する準備を始めた。もう便所も洗面所も自分たちのものではなくなっていたので、外から来る一般人と同じように、慎ましく使用することになる。外付けされた洗濯機も、使うわけにはいかない。布団も干せない。シャワールームも使えない。
 ヒロユキは洗面所で顔だけを洗った。バッグには、昨晩、メモをとったノートだけを突っ込んで、妊進館を後にする。mayaはすでに来ていた。

 次の日も、ヒロユキはどういうわけか寝坊してしまった。目覚ましが鳴らなかったのだろうか。また、正午近くになってしまっている。今度は、そおっとカーテンを開いてみた。すると、そこにはやはり、女性が廊下を右から左へと、通過している様子がある。左の突き当りには、男女のトイレがある。そこが行き止まりだった。使用したあとは、また、廊下を逆に辿ってくるしかなかった。だが女はみな、右から左へと通過していくだけだった。ニ、三分おきに、トイレに向かっていく女性を見た。
 ヒロユキは一センチほど、カーテンを開くだけで、その様子を片目で観察した。
 だが、一方通行なのは全然変わらない。彼はそっとドアを開け、自分も廊下を伝って、男子トイレへと入っていった。そして、用を足して出てくる。やはり廊下には、それ以上、進むことのできる扉はどこにもない。長い廊下は行き止まりになっている。ヒロユキは反対側からやってくる女とすれ違う。だが、後ろを振り向いても、戻ってくる人間は、まるでいない。
 もしかして、女子トイレだけは構造が違うのだろうか。出口が別にあるのだろうか。反対側に、抜け出る道でもあるのだろうか。
 ヒロユキは、機会を見て建物の外観を調べてみる。トイレがあるであろう、あたりの壁を、じっと見つめてみた。だが、ドアは設置されてはいない。窓も何もない。エリカに訊いてみる。だが、彼女は、ポカンとした顔で、また同じ廊下を、逆に戻ってくるだけよと言った。変な人ね。見間違えよ。寝ぼけてたんじゃないの。寝坊したんでしょ。何をやってるのよ。彼女たちも、十時前には起きて、それぞれの仕事に向かっていたので、彼はすでに一般公開となった『公共施設』の中に、一人取り残されてしまっていた。
「なあ、もし、俺がさ、九時までに起きてなかったら、声をかけてくれよ。ノックしてくれよ」
「なに、言ってるのよ」
 エリカは呆れた顔で答えた。
「それなら、一緒に寝ればいいじゃないの。真夜中なのに、一人でそっと、自室に戻ってしまうからよ。わたしは、ほら、した後、すぐに眠ってしまうじゃない。それを見計らっていなくなるなんて、あなた、ずるいわよ。起きられなくなったのなら、同じベッドに寝ればいいじゃない。それで解決よ。いいわね。今晩は泊まりなさい」
 アイリスにも、同じことを頼んでみたのだが、返ってくる答えは同じだった。


 mayaを除く、四人でのインタビューが初めて行われた。
―この組み合わせは、珍しいですねー
フ「もう、後にも先にも、このパターンはないんじゃない?」
ニ「だよねぇ。リーダーがいないんだから」
―レコーディングでしたよねー
逆「そうそう」
フ「彼は、最後の仕事をしているんです。エディット作業をね。みんなの演奏はすべて、取り終えていますから。あとは、彼がこもって、仕上げるだけです」
ヒ「僕らは、ライブの準備とか、いろいろと戦略を練ったりすることに、移行しているんです」
―その、レコーディング作業というのは、mayaさんが納得するまでやるんですかねー
フ「そうなんだろうか。どうなの?」
ヒ「キリがつくまでやりますよ、彼は」
フ「けっこうしつこいんだね」
ヒ「凝り性なんだよ」
フ「まあ、気の済むまでやってくれって、感じだよね。俺たちはもう、次のことで頭がいっぱいなんだから。なあ、ヒロユキ!」
ヒ「衣装のこととかで、僕は頭がいっぱいだな・・・」
フ「イメージは、どんどんと膨らんでいくし、湧いてくる。つまりはリーダーのいないうちに、どんどんと進めてしまおうってわけなんですよ。この後も、ここで引き続きミーティングをして、明日にはもう、すべてを固めてしまおうと思ってるんです。彼がこっちにやってくる前に、あらゆることを終わらせておかないとね」


 ヒロユキが見たトイレの謎は、いつまで経っても解決しそうになかった。夜中しかチャンスはなかった。女子トイレに入り、自ら確認するしかなかった。午後五時。一般公開の時間は終了し、六時をもって閉館となる。この日、エリカからは、珍しく仕事が早くきりがつきそうだからという連絡が入る。八時には帰宅するから、部屋に遊びに来なさいよ。
アイリスはいったい、いつ帰ってくるのか。とりあえず八時に、エリカの部屋をノックしてみる。
 彼女は、すぐに出てきた。
「おじゃまします」とヒロユキが言うと、エリカはすぐに抱きついてきた。
 しばらく、男の人の匂いを忘れていたの。二人は激しく体をさぐりあった。結局、十一時くらいまでいたのだろうか。ヒロユキは、すやすやと寝てしまったエリカを横に置き、真っ暗な回廊に出た。いつもなら、そのまま自室へと戻る。だがこの日は違った。いつもと決意の程が違った。まず、アイリスの部屋をノックしてみる。反応はない。今日も、深夜の帰宅なのだろう。あるいは、別のところに泊まっているのかもしれない。ヒロユキは女子トイレへと向かった。男子トイレの、さらに奥にある回廊の突き当たりだ。ドアを開けて中に入ってみる。電気が自動で付く。天井はとても高い。昔の銭湯のような造りだった。敷居は完全に上まで到達していなくて、その上は、男子トイレとの行き来が、自由な空間になっていた。薄い紫色に塗られた壁が、いつもよりも濃く見える。ヒロユキはいったい自分が何をしにきたのかわからなくなった。とりあえず個室に入っていた。立ったままで用を足して水を流した。洗面所で手を洗っているとき、鏡に何か映っているのではないかと、びくびくした。鏡に映った自分の背後に、焦点を移すことができなかった。
 結局、抜け穴は見つからず、一方通行に消えていく女の謎は、深まるばかりだった。
 ヒロユキは男子トイレから出ると、廊下を逆方向に向かって歩き始めた。だがふと、このまま自分の部屋に行くことを、心が阻んでいることに気付いた。ヒロユキはそのまま、二階へと通じる螺旋階段を昇り始め、二階に着くと、戸締りのきちんとされた大小さまざまなガラス窓越しに、庭園を見た。扉に手をかけると、何故か、開いてしまった。庭園には淡くて薄暗い蝋燭のような光が、等間隔に並べられた照明がついていて、本当の火が灯っているように見えた。何かの儀式めいた匂いがした。密教かカルト宗教か。鐘の音が聞こえ、装束に身を纏った匿名の人間たちが、棺を掲げて入場してくる。棺の側には、無数の松明を持った人間が囲んでいる。ゆっくりとゆっくりと、庭園の中へと入場してくる。棺は下ろされ、縦に向きを変えられ、地面に置かれる。蓋は自ら外れ、中からは、十代と思われる女の子が現れる。ヒロユキと同じくらいの背丈があり、チャック柄のスカートを履いている。女はホックに手をかけ、スカートをハラリと地面に落とした。パサッと音がしたような気がする。いつも、部屋で女のスカートを脱がせるときに、ヒロユキは女を立たせたままにしていた。下着姿にさせた後で、ベッドに倒した。装束の一人が近づき、女の子をまた、棺の中へと横たえさせる。ヒロユキは、このスカートがパサッと床に落ちるその瞬間が、たまらなく好きだった。昔から幕が好きだった。幕が落ちる瞬間が好きだった。ライブハウスでは、自分たちもその幕を多用していたし、十代の頃、初めて見た武道館でのライブでも、開演前はずっと、ステージには白い幕が張られていた。インストラメンタルが始まり、一曲目に移るその瞬間に、幕は落とされた。
 そこには、太腿の付け根までをあらわにした女性が立っている。棺の中に戻された女の子はまた掲げられ、そのまま来た道筋を逆に向かって、辿り始めていく。松明を持った人間も、それに合わせて移動する。庭園には誰もいなくなった。
 ヒロユキも、その後を追って庭園を下っていった。だが、彼らの姿は、敷地の外にはなかった。往来する道にも、車は通ってなかった。信号の輝きだけが、ヒロユキの目をくらませただけだった。さっきの淡い光を目の当たりにしていたために、デジタルな光が、目の奥を妙に刺激する。彼は外周をぐるりと周り、不審な人間がいないかどうか、確認してから、正面の一階入り口を通じて、建物の中へと入る。アイリスの部屋には電気がついていた。
 今さっき帰ってきたのだろうか。ノックしてみようと思ったが、躊躇した。ヒロユキは自分の部屋へと戻った。アイリスが寝るまでに、トイレを使用するのではないかと思い、自室を暗くして、廊下の様子を窺った。しかし、午前三時を過ぎても、アイリスはトイレに立とうとはしなかった。廊下に出てみると、すでに彼女の部屋の電気は消えていた。
 こうしてヒロユキは真夜中、何の成果もだせないままに、日の出を迎えてしまった。この日も寝坊をしてしまったが、午前九時半には何とか目をさまし、洗顔し、トイレをすませ、布団は干せなかったものの、部屋を整理し、十時までには、自室を後にすることができた。だが、不思議なことに、この日のアイリスとエリカの部屋の扉は、ずっと閉まったままだった。珍しく、二人ともまだ部屋にいた。ノックをしてみたが、返事は返ってこなかった。まだ寝ているのだろうか。何度かノックをしてみる。携帯にかけてみたが、すぐに留守電に繫がってしまった。仕方なく、ヒロユキはレコーディングスタジオへと向かう。昼過ぎになって、mayaがやってきたときにもう一度、二人の携帯にかけてみた。だが、繫がらなかった。一度夜を待たずに、妊進館に戻ってみた。入れ違いだった。彼女たちは、それぞれの日常に戻っていた。


 夕顔はレコーディングの費用の負担額が、あまりに増えていたことに、驚愕してしまった。これに、全国ツアーの出費が重ならないで助かった。妊進館でのライブに費用のほうは、ほとんどかからなかった。改装にはだいぶかかったが、ファラオが、その大部分を補填してくれた。
 夕顔は、ファラオが頼もしかった。意見をストレートにぶつけてくるだけでなく、理路整然とわかりやすく、説明までしてくれるからだ。現実的な実利だったり、スケージュルだったり。そうなるには、何をどうしたらいいのか。明確なビジョンを伝えてくれる。夕顔は、mayaの閉鎖性に対して、次第に、懐疑の念を募らせていくことになる。
 mayaのエディット作業は、予定よりもはるかに延びてしまっていた。その間に、ファラオとヒロユキが中心となって、別の作業が構築されていった。mayaはこれまで、いつまでに作業が終わり、どのくらいの費用がかかるのかという明確なものを、夕顔に示したことはなかった。いつだって、確信めいたものは、自らの心の内にだけ潜め、周りには気紛れな要求ばかりを突きつけてきた。その物言いに、支配的なところはなかったし、何か従わずにはいられないような気持ちにさせられた。彼を中心に、すべては動いていた。
 夕顔は、自らの人生にビジョンのようなものを抱いたことは、これまで一度もなかったから、mayaのような男に惹かれた。何かを持っている。大きくて懐の深い核のようなものを持っている。ただそれだけのことで、彼が何かとんでもなく偉大な人間のようにも思えた。男としても、それが最も魅力的な部分だった。彼を支援することが自分の生きがいであり、もっと言うと、使命感のようなものまで感じていたのだ。自分は先祖の資産を受けついだだけの人間で、他の人たちよりも、環境はとても恵まれている。だが、この資産をどう使うか。どのように関わっていくのかが、夕顔にはわからなかった。どうしたら最も効果的な使い方ができるのだろうか。今後もこのように資産を食い潰していくだけの生活でいいのだろうか。ただ単に、寄付のようなことをしても意味がない。そこに自分の目指す何かが存在しなければ、たいして効果をなさない。人のために何かをする。何か理想の社会のようなものを創るために、私個人が最大限にできることをする。いや今は、それよりも、自分が精神的な充実を獲得することのほうが、大事であった。荒んだ心しか持たない自分がやることに、いったい誰の心が、潤っていくことになるのだろう。
 mayaと出会ったのは、そういったタイミングでのことだった。
 彼には何か、とてつもなく深い、精神の在り処を探しているような雰囲気が常にあった。
 謎めいてはいたものの、その姿勢には共感できた。恋人関係になってからも、彼の活動を、全面的にバックアップしようと思った。まずはここから始まるのだ。ここから始めなければ駄目なのだと、夕顔は思った。それはきっかけだった。入り口だった。そのときの自分は、もしかしたら、淡い期待のようなものも抱いていたものかもしれない。
『彼が私を、どこか別の世界に運んでいってくれる』と。
 お伽ばなしのような幻想だったが、この荒れ果てた心の闇は、いつしかすっかりと晴れ渡るときが、来るに違いないと信じた。そこに私の存在意義がある。この世に生まれてきた意味が、そこで初めてわかる。明確に、自分の進むべき道がわかる。そう信じた。
 自分は、そういった心の闇に自ら降りていくことができなかった。やり方もわからなければ、そもそも、精神的な苦痛にも耐えられそうになかった。私はずるいのかもしれない。mayaにそのすべてを、請け負わせてしまっているのだから。代わりに。身代わりに。彼が発見してくれる。彼がすべてを見せてくれると。

 だが、それにはあまりに多くの時間と金とが費やされた。片鱗ばかりが見えるものの、肝心な姿がちっとも見えてはこなかった。アルバム制作においても、その概要をちゃんと説明してくれたのは、ファラオだった。彼がここに来て、わかりやすく解説してくれたのだ。ファラオが主導権を握っているかのような口調だった。彼が枠組みを創り、レコーディングスタッフにすべてを伝えていた。mayaが中心となるのは、そこからの作業だけなんだよと、いう具合に。だが、レコーディングの最中は、夕顔は近寄らせてはもらえず、おまけに、ファラオが示した期間をはるかに超えて、延々とレコーディングは続けられていた。その負担も、夕顔の事務所がした。mayaは何にも語らず、ファラオがそのすべてを代弁していた。
「mayaも、もうすぐ片付くと思うから。ほんの少しだけ、待ってくれないかな。音源は、最も重要な部分だから。これがないと、バンドも、その他の事業展開も、何も進まないんだから。ちょっと、かけ過ぎかなとも思うんだけど、ここは目をつぶってくれないかな」
 ファラオは、mayaを擁護し続けた。
 しかし、インタビューの依頼が入り始めると、次第に、彼の口調が変化をきたし始める。
「なあ、夕顔さん。どうしてあの男は、ああやって、一人で閉じこもってしまうんだろう?みんなで、相談したらいいじゃないか。僕らは音源が上がってこないあいだ、何をしていればいいんだ?ただ、待っているだけなのか?
 メンバーは、みな、今までもそうだったと言っていたが、俺はこの間に、できることがたくさんあると言った。特に、ヒロユキにね。あいつは、すばらしい才能を持て余している。mayaは、人の才能を開拓したりするようなことは決してしないからな。自分を閉ざし、人からは、多大な影響を受けてはいるくせに、相手を変化させるようなことは、何ひとつしようとしない。だから、バンドとは口だけで、実際は、彼のソロプロジェクトのようなものになってしまう。他のメンバーは、彼に追従するだけの、ね」

 夕顔は、自分のことを言われているようだった。今までの私。ただ言いなりになっているだけで、私自身、何も開拓しようとはしなかった。mayaという男はそういう奴なんだよ。相手のことはどうでもいいんだよ。いつまでも、彼の支配下に置かれている、それだけでいいのか?ファラオは、自らにもそう言い聞かせているように、力を込めて言った。
「確かに、彼の個性は強烈だ。彼がいなかったら、自分はこのバンドには入っていなかったと思う。一緒にやっていこうとは思わなかったはずだ。そうなんだよ。初めて、彼と話をしたときに一緒にやろうと、俺はそう言ったんだよ」
 夕顔も同じだった。
 やってくれとか、そう言った物腰で要求されたことはなかった。あくまでも、一緒にやっていこう。共に新しいことをやろう。そう誘われたのだ。以前、mayaが言っていたことを思い出した。「僕はね、パートナーを選ぶ才覚が備わっているんだ。この人だ!ってすぐにわかる。別に、誰と組んだらこうなるとか、そういう打算的な発想は、したことはないんだけど、わかるんだよな。この人となら、何かがやれそうだって。精神的に成長できるだろうなって」
 ここでも、精神的な話だった。
 夕顔はそのような話題が嫌いではなかった。
 しかし、すべては彼中心の話であった。彼が誰と組むかで、どう変化していくのか。どう成長していくのか。そのことがメインだった。それに伴って、相手がどうなっていくのか。こう言っては、いいすぎかもしれないが、それはどうでもいいことのように思えた。使い捨てのような扱いを、今まで関わった人はされたのかもしれない。露骨にではなく、間接的に。さり気なく。ポイッと。本人にも、さほど自覚がないのかもしれない。私は利用するだけ利用されて、あとは、ポイッとされてしまうのだろうか。急に自虐的になってきた。そうされることを、私は付き合った当初から、自覚していたのだろうか。案外、心の底では、それを望んでいたのかもしれない。そうされることを、今でも望んでいるのだろうか。
 ファラオが気付かせてくれた。


 ヒロユキは、その夜も、うまく寝付くことができなかった。これで何日目だろうと、一時を回る時計を見ながら、カーテンの繋ぎ目を静かに開けて、廊下の様子を窺った。とそこに、アイリスが通った。トイレに向かっていた。するとすぐに、エリカも現れた。彼女もトイレへと向かっていた。ヒロユキはドアを開け、彼たちの後姿を見つめた。しかし、彼女たちは、トイレのある突き当りまでは行かなかった。右に曲がり、階段を登っていってしまった。ヒロユキは跡をつけた。二階には薄暗い電球が灯っていたので、人影がどこに動いていくのかを、見極めることは困難ではない。彼女たちは迷わず、庭園へと出ていった。ヒロユキもあとを追った。そのとき、パサッと音がしたので、振り返ると、窓枠にかかっていたカーテンが、端から順に、レールから外れ始めていた。ヒロユキは庭園へと出ていた。そこは、ただの一筋の光もない暗闇だった。彼女たちの姿はない。丘のような斜面が続いているのはわかる。河の堤防のような場所に、立っている錯覚に陥ってしまった。
 ちょうど、庭園の外にあるはずの国道が、河に見立てられていた。車が往来する音だけが聞こえてくる。ヒロユキは、落ちていた石を投げてみたくなった。河に投げ込んでみたくなった。

〝あなた、何をしているのよ。こんなところで。今日は集まっていたところなのよ、みんなで。あなたに関係のある女のひとが全員。集まっていたのよ。どうして来なかったのよ。みんな仕事を休んで、この日に、決めたんだから。連絡網だって、できているのよ。一人欠けても駄目だからって、わたしも出張を取りやめて、わざわざ来たのよ。あなたを囲む会合だっていうから。けれど、来てみたら、あなたはいない。女ばかりの中に、わたしも混じってしまった。誰も何も言葉を発しないの。集まろうって言い始めたのは、いったい誰なのか。みんな、心の中では、探り合っていたのよ。でも、結局はわからずじまい。
 もしかすると、あなた自身が、女の一人を使って、連絡を回したんじゃないのかしら。あなたの過去の女の一人を使って。たくさんいたんでしょうから。でも、夕顔さんだけは来てくれなかった。あの人だけは違うのね。確かに、あなたに関係のある人みたいだったけど、でも、他の女と並べられるような人じゃないのね。あの人だけは、別格。みんな、わかってる。あなたにとって、特別な人って意味じゃないわ。あの人そのものが、特別なのね。
 あなた、とっても可哀相ね。
 あなた一人が、弔いの役目を、担っているんですもの。
 ほら。あの石のような岩のような墓石が見えるかしら?たくさん並んでいるでしょう。キャベツみたいに。うふふふ。あれを、全部、あなたは弔うのよ。身に覚えがあるはずよ。いや、ないかしら。あなたに関わりのあった女性たちよ。罪深い人ね。でも、あなた。先に供養してしまったほうがいいわ。何でも先にやってしまう方がいいのよ。起こる前にやる。どうせ起こってしまうんですから。さっさとやってしまいましょう。呪文は知っている?わたしが知っているわけないじゃないの。わたしは弔われる方なのだから。
 さあ。近づきなさい。一つ一つに手を合わせて、呪文を唱えるの。呪文は一つ。さあ、わかるでしょ。それをすべての墓石の前でやるの。お手本はない。あなたがお手本になるの。あなたのその姿を見て、他の男たちは、みな、弔いのために跪く。
 さあ、見本になりなさい!あなたが先人を切って、その罪を償いなさい!罪深い魂を、慰めなさい!浄化させなさい!真夜中の、この時間しかないのよ。あなたは寝てはいけないの。ここに来て、ただただ、祈りを捧げなくてはいけないの。
 導かれたんでしょう?あなたが側に置く女の人たちに、導かれたんでしょう?
 あなたは何気なく、選んでいたんでしょうけど、でも、違うの。彼女は、あなたの周りを衛星のように飛び回り、そしてあなたを、ここへと導く役目を担っていた。あなたは、どんなことがあっても、必ず、ここに導かれることになっている。あなたに関わりのある女性によって、必然的に・・・〟
「君は、誰なの?」
「わたしは、エリカ」
「本当に?」
「アイリス」
「どっちなの?」
「どっちも」
「夕顔?」
「それは、違う」
「聖塚さん?」
「聖塚・・・」
「聖塚亜矢子さん?」
 聖塚・・・。
 そういえば、カフェの店員は聖塚という名前だった。最近は見ていない。カフェはそもそも、オープンし続けているのだろうか。
 ミーティングも以前とは違って、自ら参加するケースが多くなっていたため、周りの様子がよく見えていなかった。
 ファラオとのアイデアの出し合いに、熱中してしまっていた。舞台演出に、夢中になってしまっていた。日々の音作りに加えて、新しいイメージの世界が、ヒロユキを虜にさせていた。
「聖塚さんの、妹のほうだったのかな・・・」
「聖塚って女も、いるのね」
「一度、話したことがある」
 カフェでの記憶を追った。
「でも、それだけだから。関わりのあった人には、カウントされないな」
「いいえ。わかりませんよ。彼女が、今後、とても大きな役割に、抜擢される可能性はあります」
「抜擢って、演劇みたいだな」
「だって、演劇じゃないですか」
 ヒロユキが、ファラオに提案したのは、演劇のようなライブだった。演劇的な要素がふんだんに組み込まれたライブだった。女性の出演者を、この場面では登場させようとまで考えていた。
 彼は知り合いの女性を集め、舞台に乗せようとしていたのだ。彼女たちも舞台装置の一つになる。踊りをモチーフにした曲があったのだ。そのことを言っていたのだろうか。自分の演出するステージと、共振し始めていたことに、ヒロユキはむしろ驚いた。
「さっきから、その話をしているのだろうか」
「どの話か。わからないけど」
 この暗闇こそが、踊りの始まる直前の会場、そのものなのだろうか。
 曲が始まる前の静寂な空間なのだろうか。ヒロユキはすでに、開演したライブのなかに、立っているような錯覚に陥った。
「私が、決めたことなの。自分で、選んだんだから」
 遠くで、幼い子供の声が聞こえた。
「どうして、私が起点となったり、中心となったりして、物事が回ってはくれないのだろう」
『私が、決めたことなのよ』
「そういう人に、引き寄せられていくのね」
『自分が選んだんだから』
「そういう人に必要とされるの」
『私はジェラシカ』
「弔ってほしい。あなたとは、一度も会えなかった」
『自分で選んだのだから』
「誰なの」
『私が、決めたことなのよ』
「どうして、声だけが聞こえるのかしら。でもよく、聞き取れない」
『残念ね。けれども男の人を通して、それは、伝えられるから安心して。直接、それができなくてごめんね』
「苦しくはないわ」
『泣かないでね』
「楽になれるわ」
『ジェラシカ』
「カルテが必要なのかしら、わたし。かかりつけの医者を、見つけておくべきだった。そうね、お医者さんと一緒になれば、よかったのね。そしたら、毎日会えるし。ずっと、私のことを見てくれる人を、獲得できたのに」
『ごめんね』
 ヒロユキは、木霊する女の声が、どれも微妙に異なることに気付く。
 あっちからもこっちからも、庭園中から、女性の囁くような声が聞こえてくる。
 その中には、唯一、幼い子供のような声があった。その声だけがやけに、鮮明に鼓膜を震えさせる。ジェラシカ。ジェラシカ。ジェラシカ。
 そうだ。楽曲の名前を変えるべきだ。
 ヒロユキの頭の中に〝森の中の妊婦〟というタイトルがコールされた。これを、最初のシングルに付けるべきなのではないのか。mayaのつけたタイトルを変更するべきだと、ヒロユキは思った。いや、待てよ。〝妊婦〟じゃない。〝妖婦〟だ。〝森の中の妖婦〟だ。読み方も、ニンプではなく、ニンフだ。どうして、そうなるのかはわからない。ただ、この庭園が森の中のある一場面を、再現しているような気がしたからだ。これは、真夜中のニンフの声だ。そして、妊婦のお腹の中から聞こえる声。それはジェラシカだ。ヒロユキは、弔いの呪文を発見した。何かが変わり始めていた。そういえば、エリカとアイリスはどこに行ってしまったのだろう。
 建物の方を振り返ると、そこには、カーテンがまるでなかった。
 さっきまで、内側と外側を遮っていたはずの白の布地のカーテンが、ハラリと落ちてしまっていた。
 ヒロユキは思った。ライブの開幕の絵が、今、浮き上がってきたのだ。白いカーテンで覆われた建物に、ライトが照らされ、長いクラシカルな、シンフォニーのサウンドで、イントロが始まる。バイオリンとチェンバロ、ピアノの旋律が交じり合った複雑で、優雅なメロディに、うっとりとなりかけたその瞬間、突然、闇を切り裂く邪悪なツインギターが鳴り響く。巨大な爆発音と共に、建物の内のカーテンは、すべて落ちてしまう。内側にはガラス越しに五人のメンバーが存在する。ツーバスが入りこみ、激しいリフを刻み続けるギターと、安定した低音を放ち続けるベースとの重厚なサウンドが、妊進館を揺るがす。そして、その支離滅裂な錯綜する音の中から、あの妖艶な男、ファラオが、開かれたガラスの扉を抜けて庭園へと現れる。彼だけが颯爽と降りてくる。四人のメンバーはガラスの建物の中に閉じ込められたままだ。音は歪み、そしてその激しいサウンドは、徐々に音を潜めていく。ライトは絶えず、ファラオを強烈に照らしている。その美しすぎる顔立ちに、力強い眼差し。圧倒的な存在感が、妊進館のど真ん中へと舞い降りてくる。背後は、暗転し始め、暗闇の中にその虚構の建物は沈んでいく。曲調は、次第に緩やかになり、そしてドラムは打ち込みへと変わってゆく。シンセサイザーの追いかけっこが始まる。背後は完全に暗闇だ。するとぱっと、すべてのライトが消滅してしまう。そして、ドラムが叩かれたその瞬間、妊進館の全貌が明らかになる。真っ白なライトが、庭園の最も高い部分に位置をとった五人のメンバーの姿を、大きく映し出す。クラシカルなメロディに激しいノイズギターが交じり合い、変拍子のリズム隊が怪しく絡み合う。その半端のない破壊力に、観客たちはみな、息を呑んで悄然としてしまう。静寂が訪れる。


 私がライブの初日に感じたことは、その一曲目の興奮にすべてが凝縮されていた。そのあとの静寂が、どれほどの間、続いたのかはわからない。足は痙攣してしまっていた。いや、足だけじゃない。下半身がぴくぴくと震え続けていたのだ。私は周りを見る余裕すら失っていた。観客の一人一人は、どんな反応を示していたのか。私は後ろの方にいたのだが、とりあえず、この硬直してしまった頭から、判断した様子では、前のほうのお客さんまでもが、身動きがとれなくなっていたようだった。ただ、茫然とするしか、なかったのだろう。これほどまでに、完成された世界観を、いきなり打ち出してきたバンドを、私はこれまで見たことがなかった。メンバーは全員、白い服を着ていて、そこに、それぞれの持ち色が足された装飾が、施されていた。羽があったような気がする。よく覚えていない。ファラオにだけ、その羽がなかったような気がする。とにかく、私の記憶は曖昧だった。二曲目は、いつになったら始まるのだろうか。意識のどこかで、みな同じことを思っていたのだと思う。だが、違う次元では、このまま終わってしまってもいい。このままの状態で、ずっと、悄然としてしまっていたい。そして、事実、そのまま終わってしまった。そのときは、まさか、これがエンディングの曲だとは思わなかった。ジャン・シベリウスの、ヴァイオリン協奏曲ニ短調が、流れ始めていた。

 mayaがずっと篭っていたスタジオに、ヒロユキがやってきたのは、ファーストシングルの発売日の、ちょうど二週間前のことだった。
 ヒロユキは入ってくるなり、シングル曲のタイトルを変えるよう、mayaに迫った。強い口調だった。『森の中の妖婦』にするべきだと言ってきたのだ。mayaはすでに、アルバムのエディット作業をしていたので、今、急に、すでに納品済みであるシングル曲のことを言われても、頭の中が、うまく切り替わらなかった。ヒロユキが自ら作った曲に関しては、まるで、何の要求もしてこないにもかかわらず、mayaが作った中編の曲に対しては、堂々と、意見を述べてきているのだ。
「どうしても、森の中の妖婦にしたほうがいい。これは直観だ。頼む。今からでも、間に合わせてくれないか。まだ、ジャケットにタイトルは入っていないだろ?」
「いいや。もう、入ってるんじゃないのかな。二週間前だぜ」
「まだ、チェックは、してないんだろ?」
 mayaは、強引にレコーディングを中断させられ、電話まで掛けさせられてしまった。
「発売は決まったものの、まだ商品は、出来上がっていない。完成が遅れているらしい」
 ヒロユキの言葉通り、ジャケットにはタイトルはおろか、デザインすら、mayaの出したいくつかの候補の中から、試作品を作っているような状態だった。
「理由を言えよ」
 mayaは、不機嫌な表情で、ヒロユキに迫った。たとえ無表情であっても、機嫌がいいかどうかはわかる。
「ぱっと浮かんだんだ。真夜中にね。あの妊進館でね」
「それだけか」
「そうだよ。それだけで、十分じゃないか。場所といい、時刻といい、僕の精神状態といい、文句なしのシチュエーションだった」
 ヒロユキは、最近、自分の身に起こる不可思議な現象については、mayaにはしゃべらなかった。だが、あの夜も、庭園へと導かれ、聞こえないはずの様々な声を耳にしたときに、森の中の妖婦が、ふと浮かんできたのだ。そして、ジェラシカというバンドの名も、そこで宿った。
 だが、それは後日、ファラオのほうが口にすることになる。
 ヒロユキは、この偶然の一致に驚いた。曲のタイトルくらいは、主張することができる。けれど、バンドの名前まで、図々しく提案することなんて、自分にはできないと思っていたからだ。
 だから、ファラオが代わりに言ってくれたことに、感謝してしまった。
「特に、異論はないよ」
 mayaは意外な反応を示した。「僕も、あのタイトルが、気にくわなかった。ずっと、保留にしていたところがあった。あの曲のタイトルだけが、実は、僕が考えたものであって、ファラオはまったく関知していないんだ」
「じゃあ、受け入れてくれるのか?」
「即、採用だよ」
 mayaは、懐が広くなったのだろうか。頑なに自我を押し通すことが、以前よりも少なくなってきたような気がする。リーダーとしての役割が、以前とは、異なってきているからか。
 自ら動きまわり、命令し、すべてのプロデュースから、プレイヤーとしての立ち振る舞いまで。これまでは、彼一人が、ずっと負ってきたところがあった。だが今は違った。

 mayaは、ファラオに電話をした。
「というわけで、最初の夜は、この一曲だけで終えたい」
 ファラオは、その突然の提案に、絶句してしまった。
「いっ、いっきょく?まじ?まじなの?」
「これを、ドラマチックに演奏することで、ファーストライブは、幕を開ける。ここにすべてを、詰め込んでみたいんだ」
 ファラオは、考え込んでしまった。
「それと、タイトルが変わったんだけど」
 mayaは、追い討ちをかけるように続ける。
「森の中の妖婦っていう、名前なんだけど、どうだろう。僕は一発で、気にいってしまって、オーケーと言ったんだ。ヒロユキが、自ら何かを強く、僕にぶつけてくることなんて、今までなかったことだから」
「森の中か」
 ファラオは、右手で顎を触りながら、考え始めた。
「確かに、あの妊進館は、森で彷徨ってしまったときに、ふと、現れてきそうな建物ではあるな。街の中を歩いていると、ふと、異様な空間に出くわしてしまった。そんな感じがする・・・」
 これから一年ものあいだ、妊進館でのライブ活動に集中させようと決心させた、あの出来事を、ファラオは思い出してしまっていた。あの霧の出ていた日のことを。時空が閉ざされてしまった日のことを。妊進館を背に、北へ北へと歩いていったその先には、妊進館が再び現れる。南側が薄ぼんやりと現れてくる。何度も何度も、同じことが起こる。
「あそこは、壁もないから、外から見えてしまうね。会社帰りの通行人を、その爆音で、びっくりさせてしまうかもね。内部で見てもらうのと、外から見えるのでは、まったく違った次元での、出来事のような見え方がするよう、工夫しておいたから。改装は、そのことを主眼にしたから」
「一曲で、いいな」
 mayaは、念を押した。
「不安だけどね。逆に、インパクトはあるかもしれない」ファラオは言った。
「曲があれだから、やってみようと思ったんだ。あの曲だからこそ、意味があるとも思った」
 mayaの声は、こうして、受話器を通してみたときには、実に、力強い表情が宿っていた。
「ライブの名前は、『改竄の始まり』だろ?君が名づけた。ファラオ。そのタイトルにも、ぴったりだと思う。これは、五人になった瞬間の物語だ。過去と未来を繫げる、一瞬の出会い。約束なんだ。エンディングの曲も、すぐに、頭に浮かんできた。僕の曲は、十ニ、三分だよね。そこに、シベリウスが十五分流れてくる。僕らの姿は、もうそこにはない。突然、派手な姿で舞い降りてきた僕らは、激しく優雅な演奏をする。そして、忽然と消えてしまう。ヴァイオリンの調べだけが哀しげに漂い、最後はゆっくりと、照明が点灯していく。改竄の序章。僕らの心のなかにも、その瞬間、何かが、背中に舞い降りてくる」
「衣装も、その一回のみの、使用なんだな」
「そういうこと」mayaが答えた。「とにかく、一瞬であることが大事なんだ。一瞬の物語。過去と未来を繋ぐ、深い現在性の中に宿る翼。君だけに付いていない。他の四人は羽を持っている。君だけが持っていない・・・。現世の人間の役割を、ボーカルの君が、表現していくんだ。最も、観客の感情が移入される人物に、なるわけだ。僕ら四人は、その横に、後ろに立って、過去世と未来世が織り成す、人間のような、人間ではないような生命体を、表現していく。魂がまだ、人間の形になっていないような状態をね。その五人が、離れ離れに疾走して、そして最後には、一つになってゆく」



わたしと




















 そのたった一度のライブ、《改竄の序章》と名づけられたライブを終えた後で、彼らはあっというまに、行方をくらませてしまった。もちろん、私は彼らの居場所も知っているし、何も雲隠れなどしていないことも知っている。
 メンバーだけを見ている私としてみれば、彼らはこの会場の外にまで広がってしまった噂というか、評判というか、そういった熱の広がりのようなものを、完全に知らぬフリをしているようだった。私は、このとき、彼らとの間に、強固な壁が立っていることを初めて実感した。誰が中心となって動いているのかも、わからなくなっていたし、どんな思惑が水面下では動いているのかも、わからなくなってしまっていた。
 私は、多額の借金と、迫りくる持病に怯えながらも、研究所に人体実験として、この肉体を差し出す機会を伺っていたのだが、その望みはどんどんと、薄れていくようだった。
 私は少し、自分と向き合う事をおろそかにしていたらしい。バンドのメンバーを追っているときには、自分の内部に起こっていることや、起こりつつあることには、無頓着でいられた。こうして放り出されてみて、やはり、戻ってくるところに戻ってきたのだということがわかる。
 手元には、インタビュー原稿が、かなりの数、存在していた。
 それと、記憶の中では、あの一度きりの夜のライブが、いまだに強烈な光を放っていた。

「この度、研究所が閉鎖することになりました。永らくのあいだ、みなさまには、大変お世話になりました。引き続き、メールのチェックの方をお願いします。研究所の方は、閉鎖しました」

 私はアイスノンをタオルで頭に当てながら、パソコンを開き、インターネットに繫なげた。アマルガムの公式ホームページを開き、あたらなる情報が更新されていないかどうか、チェックをした。すると新着情報として、何故か、ジェラシカのことが書き込まれていた。

「ジェラシカは、11月28日の『1st live ~改竄の序章~ 』を持ちまして、しばらくのあいだ、表舞台からは姿を消します。なお、延期になっていた1st singleはタイトルを改竄して、12月16日、バンド不在なままに、リリース致します。なお、1月16日発売予定の、1st album METALPHYSICの発売も、延期になりました。それに伴い、2月に行う予定だった『1st albumリリース記念講演 妊進館野外ライブ11公演 groundcrosの国』は、中止となります」

「11月28日に行った、妊進館におけるライブの様子を記録したDVDが、会員限定のショッピングマップで、購入可能になりました。三十分の公演の様子を、ノーカットで収録した貴重な一枚で、期間限定で販売することになりました。特殊ブックレット付きで3980円。ファーストシングルに封入されている申し込み用紙を、送っていただいた時点で、発送させていただきます」


 私は久しく、何かに刺激を受けたことがなかった。正直、日々の出来事がつまらなかった。音楽、絵画、映画、テレビ番組、本、何をとっても、退屈なものばかりだった。突出した何かを感じない。究極に追求している人間が、どうしてこんなにも減ってしまったのだろう。
 私はまるで、規格外な芸術、エンターテイメント、人物を、心の底から欲していた。それはたぶん、私だけではなかった。周りの人間もみな、同じようなことを言い始めていたからだ。この時代に生きる人間として、何もかもが平準化されすぎてしまったのかもしれない。コントロール可能な人間を、量産させるための巧妙なシステムが、至るところに、散りばめられた結果なのかもしれない。遠隔に管理された社会に、雁字搦めにされた人間が、その檻の中での『違い』を、いくら主張したところで、そんな芸術やエンターテイメントに、一体誰がどんな魅力を、感じとることができるのか。大事なのは、自らの命だった。私が私であることの意味だった。何故、今回生まれてきたのか。何をするために舞い落ちてきたのか。そこだった。
 私は、こんなことを、平然と考えるような人間ではなかった。あのライブを見た瞬間に、今、考え始めているようなことを、突然思ってしまったのだ。彼らのあの数十分のステージは、そのことを強烈に提示するためだけに、あったのではないか。そこだけに、特化した舞台だったのではないか。どうして、今、彼らは姿を見せることがなくなってしまったのだろう。

 その頃、まだ、世にはまるで認知されていない存在であるジェラシカに、何故か、スキャンダルが持ち上がっていた。とある芸能雑誌(といっても、かなり過激なスキャンダルを報じる雑誌だったのだが)見事にすっぱ抜かれていたのだ。こんな記事を、いったい、誰が注目するのだろうと思ってみていたのだが、その中身は、彼らが誰なのかを全く知らなくても、おもしろく読めるものになっていた。私は本屋の雑誌コーナーで、たまたま、手にとっていたのだが、その日は偶然、おかしなことが重なっていた。たまたま、昼間、カフェでお茶をしていたときだった。そこに、やつれきった、どこかで見たことのある顔が、近づいてきたのだ。
「西谷くん。西谷くんじゃないか!」
 私は必要以上に、大きな声を張り上げてしまったらしい。エスプレッソを抽出している店員までもが、びっくりした顔で振りかえった。
「どうしたんだよ。どこに行っていたんだよ。心配してたんだぞ!」
 この瞬間まで、彼のことなど、すっかり忘れていたのだ。だがそれは咄嗟に隠した。
「何にも言わないで、いなくなってしまったんだぞ!それも、僕にインタビュアーの役割だけを残して。あ、そうだ。僕はずっと、今日まで、西谷くんって呼ばれていたんだよ!西谷くんは君じゃないか!なあ、そうだよな。おいおい。なんとか言ってくれよ。なあ、西谷くんだよな。そんなに痩せちまって。何があったんだ?どこか、遠くに行っていたのか?」
 西谷くんは、ジャージのようなものを上下に着ていたが、なぜか新品だった。値札まで付いていた。
「今、着替えてきたんだ。銭湯にも行ってきた」
「どうしたんだよ。どこかに、監禁でもされてたのか?髭も剃ってないじゃないか。まあ、いいから、座れ。何がいい?アイスコーヒーでいいか?」
 西谷くんは、生気を抜かれたような、茫然とした焦点の合わない目線で、遠くのほうを見ていた。仕方なく、私が、西谷くんの飲み物を買いにカウンターへと行った。
「何か、言ってくれよ」
 私は西谷くんの身に起こったことを案じた。
「俺のいないときに、何かあったんだ?すっかり、話が違うじゃないか」
「違うなんてことは、何にもないよ」と私は言った。「俺が代わりに、インタビューをしておいたから。ちょうどよかった。この原稿を、どうやって外に出そうか。悩み始めていたところなんだ。何とかしてくれ」
 彼の耳には、私の話など、全然届いていなかったようだ。
「なあ、話が違うんだ。俺は、あいつらに頼まれて、それで全国を巡らされていたんだ。ヒロユキに変な地図を渡されて、それで、このバッテン印の近くにあるライブハウスを、押さえてくれないかって言われた。何だっけ。それ以上は、よく思い出せない」
「何を言ってるんだ?どこにいたんだ?」
「よく思い出せない」
「勘違いしているのは、西谷くんの方なんじゃないのか。全国ツアーは、中止になったんだよ!しばらくは、その予定すらないんだよ!妊進館という場所を買い取って、しばらくは、そこでの公演を、繰り替えすことになったんだ。いろいろと、実験的なステージをやっていくんだよ!音源の制作にも集中できるし、今は動かないで、地盤を固めようって話になったんだ」
「何だって!聞いてないぞ。えっ・・・。そうなのか。ちょっと、待ってくれ。何で、あいつらと、連絡がとれなくなってしまったんだ!なあ、会わせてくれよ。連れてってくれよ。今すぐ!」
「それがね、俺も、今は、会わせててもらえないんだ」
「なんで」
 西谷くんは、一瞬、憮然とした表情をした。
「部外者は、立ち入り禁止になってしまったらしい」
「君を、探していたんだよ!君だけが、彼らと接触するための、最後の砦だったんだ!それが・・・。君は、部外者じゃないじゃないか。俺は違うぞ。俺は、あの人たちのことは、あまりよく知らないんだからな。かろうじて、ヒロユキと、仲がいいってくらいだ。いや、でも、あいつの私生活のことまでは、何もわからない。なあ、いったい、どうなっているんだ?俺はおつかいを頼まれて、走り回っていたんだぞ!それが帰ってきてみれば、誰ひとりとして、俺との接触を持とうとしない。なんなんだ!」
「みんな、締め出されてしまったんだよ」
「こんなことは、したくなかったよ」と西谷くんは言った。「でも、こうでもしないと、あいつらは、心を開いてくれないだろ」
「こんなことって?」
「雑誌に売ったんだよ」
「何を?」
「読んでない?」
「まさか、あのスキャンダル」
「そう、それ。おもしろかったでしょ」
「ちょっと、待て」
 私は水を飲んで、少し間をとった。意識が混線しかけていた。
「えっ、何、君が、あのネタを持ち込んだのか?なんで。なんで、あんなことを?」
「あんなことじゃなくて、ちゃんと、読んだのか?」
「全部、読んださ。今さっきだよ。君がやってくる、ほんの三十分前だよ。何なんだ。なんてタイミングなんだ。何をしにきた?そのことの確認を取りに来たのか?何がしたいんだ、君は!何が目的なんだ!そういえば、君と知り合ってから、俺は、だんだんとおかしくなっていった。頭がくらくらするようになっていったんだ!」
「ちょっと、落ち着いてよ。どうしたんだよ、いきなり!目が醒めたよ。こっちの目が、醒めたよ!今!とりあえず落ち着こう。な。落ち着こう。いいな、ほら。深呼吸だよ。吸って、吸って、吐いて、吐いて。そう。焦るな。焦るんじゃない。ゆっくり、ゆっくりと。そう、鼻から息を吸って、そう」
 我に帰ったのは、こっちの方だった。
 どうして、立場が一瞬で変わってしまったのか。
「なあ」
「なんでしょう」
「なにをしにきた?」
 西谷くんが、偶然、ここにやって来たようには思えなかった。
「狙ってきたんだな。俺の跡をつけてきたんだな。この、卑怯者!俺が、雑誌を手にとって、隅まで読みこんだところを見計らって、それで現れたんだな。しかも、茫然自失のフリまでして。演技までして。なんて野郎だ!この下衆やろう。死ね!」
 再び、エスプレッソを抽出している女の店員が、びくっとしてこっちを振り返った。
「やめてくださいよ、先生」
「はっ?なめてんのか、この野郎。お前のような、小汚い男が書いた文章を、読んでいたとはな!あんな嘘だらけの、でたらめなものを、並べやがって」
「でたらめですって?」
「そうだよ。夕顔さんが、そんなはしたない女なわけがないだろ」
「すべて、嘘だと、おっしゃるんですね」
「当たり前だ」
「もし、当たっていたとしたら?」
「貴様・・・」
「あれね」
「なんだよ」
「僕の推測ですよ」
「当たり前だ」
「でも、信憑性は、かなり高いと思いますけど。僕は、あいつらに裏切られたというか、使い捨てにされたのを機に、じっくりと考えてみたんですよ。分析してみたんですよ」
「何のために。復讐のためか?」
「いえいえ。滅相もない。ちょっとした、イタズラごころですよ」


 次世紀バンドjealoussicaが、今年インディーズシーンにデビューするというニュースが、業界関係者(といっても、ごくごくマイナーな一部の人間)の中では騒ぎになっている。
 というのも、先月の11月16日に行った史上最も短いと言われるデビューライブの衝撃が、喧伝され始めていたからだ。まだ音源も出していなければ、ツアーも行っていない、この謎のバンド。メンバーの詳細も明らかにはなっていない中、ある読者から事細かな情報が寄せられたのだ。
〝このバンドが始まったのは、おそらく、二年前くらいのことで、メンバーはmayaとヒロユキを中心にニセイ、逆玉の四人。そこに、前のボーカルの脱退に伴って、ちょうど数ヶ月前に、ファラオという男が加わっ■■■■■■■■
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
 だがここで、問題が発生し始めたというのだ。
 夕顔が、ファラオと密会しているのではないかということが、先の情報で明らかになってきたのだ。深夜、夕顔の自宅を訪れるファラオの姿が、何度も目撃されているのだ。ファラオという男は、かつては、水商売をやっていたらしく、その頃の女遊びは、たいそう派手だった。だが、バンドに加入する前にはすでに、そのような生活には、嫌気がさしていたらしく、女とは誰とも、親しく遊ぶことはなくなっていたという。自分は人生を変えたいんだとも、周囲に漏らしていたという。そして、彼は何がきっかけかはわからなかったが、ふいに上京してしまったのだ。それが、mayaとの出会いであったということは、後に、他の者が知ることとなる。ファラオのmayaに対する想いは、相当なものだったらしく、男が男に抱く感情としては、少し常軌を逸していたのかもしれなかった。
 その頃、派手な女性関係もなくなっていたことから、彼は誤解され始めていた。当初、五人のメンバーが共に、作業をするという姿はほとんどなく、ファラオはmayaの家に入り浸っていた。そこに、ヒロユキがたまに参戦するという形だったのだが、二人で会話していることのほうが、はるかに多かったという。そして、レコーディングがスタートし、ライブの準備が始まった。
 だが、そのうちに、この二人は、距離をとるようになった。■■■■■■■■■■■■■■■彼が深夜に夕顔と会っているところを、目撃されたのは、ちょうどそんな頃だった。


 そんな中、一度だけ、mayaにコンタクトが取れたことがあった。
 彼のほうが、非通知で電話をかけてきたのだ。その日は何故か、饒舌だった。
 そして、音楽のことにはまるで触れることはなかった。
「僕はね、正直、刺激がないと、日々生きていくのが、辛いんですよ」
 彼は言う。「常に新しい刺激を受けていたいんです。新しい風。新しい異物の到来。わかりますか?自分の彼女もね、誰か、別の男に犯されているシーンを想像することで、この退屈になってしまった関係が、とても刺激的なものに変わるんですよ。だから、彼女が、そう、他の男に目がいくように、わざと仕向けるんです。僕の側に、『その男』を置くんですよ。わかりますか?まず僕が惚れるような男じゃないと駄目ですからね。そこらへんに転がっているような男に、恋をすると思いますか?彼氏はこの僕ですよ。僕と付き合っているんですよ。他の人間なんて、石っころ同然に思えるじゃないですか。だから、僕と少し似たような部分は必要でしょうね。でも、決定的に何かが違う。そこが重要です。そこにこそ、彼女がふと気を許す隙が生まれるんです」
 その日のmayaは、今までに見たことのないmayaだった。
「その男はですね、僕に決定的に欠けているものを、顕著に持ち合わせているんです。これほど、強力な人間はいないでしょ。僕だって人間ですよ。欠けている所はありますよ。それが、何かは、その近づけた男を見ればわかるはずです。僕らは意気投合しますよね。だって、核の部分が似ているんだから。ときには、同じビジョンを共有することだってあります。いや、けっこう一致しているんじゃないのかな。けれど、その出所がまったく違う。表現方法が違うというか、取り組み方が、まるで違う。だから、突き詰めていけば、まるで違った世界を目指すことになるのかもしれない。同じ事を言うのに、まるで違った手法をとるのかもしれないってことです。これって、一番タチが悪いでしょ。最初から、何も相容れないのなら、お互い相手にしないはずだし、棲み分けがその時点でできていますよね。でも、強烈に惹かれあい、共感する面があるんです。だから、なおさら、そこから表出する差異が、憎悪へと変わるんです。尊敬は、軽蔑へと変わり、愛情は憎しみへと変わる。共感は反発へ。その軋轢は、互いの内面世界で、沸点に達するわけです。それをね、一番わかりやすく体現するのが、この二人の男に深く関わる女ですよ。だからね、僕はその男に犯される状況が楽しみなんですよ。退屈になった僕らの世界を、侵してくれるんですから。彼女は、その男のモノを、唾液たっぷりにしゃぶり尽くし、それから、お尻を叩かれながら突かれるわけですよ。それも、意識の中では、僕への罪悪感を伴ってね。でも、彼女も快感なんです。その愛憎入り混じった感情が、たまらなく快感なんです。これは、やみつきになるでしょ。僕はね、邪魔をしないように、しばらく彼らとは距離をとりますよね。その男だって、多少は僕のことを気にしているわけですから。
 でも、彼には、僕と決定的に異なる面がありますから。すぐに女のことなんて、頭の中からは排除しますよ。野心家ですからね。女なんかに構っている暇はない。というよりは、どうでもいいというか。ただ、僕の女は、とても経済的にも、実務的にも、有能ですからね。それを、征服しているのだという優越感が、きっと快楽なのでしょう。僕は彼女を、そんなふうに見たことはないですけど。見れないですけど。ただの純粋な少女にしか見えないですけど。僕は、その内面に宿っている少女の面影を、犯している感覚が、とても興奮するんですよ。だから、実際に、少女じゃ駄目なんです。隠された少女性のほうが大事なんですよ」
 mayaは、終始、女性についての話を続けていた。
 音源のリリースや公演に関する情報は、少しも得ることができなかった。
「わかります?隠された内面世界のほうに、僕は興味があるんです」
 そこに、ファラオとの決定的な違いがあった。亀裂の萌芽があった。


 いつのまにか、12月21、22、24、26、27、29日の六公演が決まっていたらしく、アマルガムからのメールがそのことを伝えていた。
 とにかく、是が非でも、チケットを購入しないといけなかった。一般客で構わない。ライブ会場に入らなくてはならなかった。
 ここまでの記事は、私が所有しているのだ。私だけの手の中にあった。まだどこにも出ていない言葉が、私の手の中にあった。私はどんな形でもいいから、この記事に新たな展開を積上げることで、私なりに、全貌を把握しなければならないと思った。
 もし、このバンドがほんとうに、強烈な印象を人々に与えるのだとしたら、なおさらだった。年明けには、アルバムの発売も決定したという。私はまず、インターネットのショッピングで、森の中の妖婦を購入した。そしてEプラスで、公演情報を調べた。発売はもう始まっていた。21日のチケットをとり、そのあと少し時間を置いてから、またあらためて、パソコンに向かって、残りの公演も、すべて購入した。ファーストライブの時と同様、五時の開場、六時の開演だった。
 最近は、音楽も聞いていなければ、本も読んでなかった。映画も見なければ、舞台にも行ってなかった。刺激の受ける作品に出会えることは、ほとんどなくなっていた。つまらなくて、退屈なものばかりが氾濫しているだけの、世の中だった。ゴミ同然!大量に生産されては、破棄される、ゴミ同然だった。売れようが目立とうが、ゴミはゴミだった。私は、疲れ果ててしまった。そんな大量の汚物にまみれるくらいなら、シェルターをかけて、閉じこもってしまったほうが、はるかにマシだった。
 私は、今になってみると、自分の身に起きた変化、トラブルは、すべてここに原因があるのではないかと思い始めていた。なぜなら、ジェラシカと出会ってから、彼らと話をする機会を得てからは、その私の症状は、劇的によくなっていたのだから。だが、それも、今は見放されていた。やはり、精神は塞ぎこみ、調子は悪くなっていく一方だった。だがCDと、公演のチケットを購入した瞬間には、またぐんと、頭は軽くなっていった。わずかながらも、身の内には興奮のようなものが、沸き起こってくるのが感じられた。あんな研究所に、人体実験としてこの身を捧げる前に、まずは、彼らを追うべきだったのだ。少なくとも、退屈ではない。
 私は、自分が塞ぎこむことのない、目標物を一点定められただけでも、幸運と言わなければならないのだろうか。


































妊進館ライブ




















 こうして、すべての公演を見た私だったが、この当てのない執筆をしなければならない理由に関しては、その行為を通じてしか、見出すことができないように思えた。だから、書き進めるしかなかった。霊媒師に扮したmayaとヒロユキ、ニセイと逆玉が、訪問者であり、貴公子であるファラオを向かえ入れることで、最初の夜がスタートした。
 それはファーストライブの時の圧倒的な構築力をもった楽曲による、繊細で激しい演奏とは、まるで違っていた。楽器を持っている人間が、誰もいなかったのだ。ミュージカルのようだった。様々な霊媒師がファラオの前に現れては、水晶やトランプを使い、空に祈りを捧げるようなしぐさを繰り返す。ファラオに運命を伝えようとする。しかしどれ一つとってみても、彼は受けとることができない。理解できないのだ。曲はすべて打ち込みで、ファラオはその次々と現れる霊媒との絡みのなかで、歌声を披露する。すべての霊媒が、ステージ上に現れる。そして、それぞれの解釈を披露することを、やめようとしない。ファラオは次第に混乱してくる。ステージ上を苦しそうに歩き回る。しだいに足の自由は奪われていき、その場に蹲ってしまう。それでも、歌声だけは鳴りやまない。心の奥底から、苦しそうに振り絞るように出している。霊媒は彼を嘲り、しまいには、徒党を組んでしまう。ファラオはそれでも、歌を捨てようとしない。前半が終わった。最初のステージは、建物の外のテラスであった。
 第ニ幕は、建物の上に、スポットが当たることで始まった。
 ファラオが真夜中、その屋上から真逆さまに、転落してしまうというシーンだった。
 自殺なのか事故なのか。残された霊媒たち四人が集まる。彼らは相談している。そのあいだには、歌声のないインストラメンタルが流れている。霊媒たちはあいかわらず、楽器を持とうとしない。結局、結論は出たようだ。霊媒たちの無責任な運命の伝達に、ファラオの気が狂ってしまったということになった。こんなにも、身勝手な解釈が乱交したことに、彼らは今さらながらに、気づいたのだ。ファラオは歌う。姿は見えない。霊媒たちは踊る。最初はバラバラだったものが、曲も終盤に差し掛かる頃には、すっかりとそろっている。彼らは互いにワルツを踊り、微笑み合う。しかし、ファラオは帰ってこない。歌声だけが鳴り響く。第二幕が終わる。
 第三幕が始まる。
 ライトはすべて落ちてしまっていた。さっきまでいた四人の霊媒と、建物を煌びやかに照らしていた照明は、消滅してしまっていた。闇のなか、淡い蝋燭の光の中に、ファラオの上半身がぼんやりと浮かび上がってくる。かなり転調の激しい、森の中の妖婦のような曲調で、ドラム、ギター、ピアノ、チェンバロ、ベースが妖しく絡み合う。それぞれがそれぞれの運命を伝えているかのようだ。そこに、ファラオの声がまた別のメロディを歌い上げる。バンドのメンバーの姿はどこにもない。いったいどこで演奏しているのだろうか。闇の庭園の中で?建物の中で?それとも、これは録音なのか?これはmayaが作った曲のような気がした。それまでは、ヒロユキの曲に違いない。明らかにその特徴が違った。最後になって、mayaの曲が現れた。やはり音が強い。心に突き刺さる。こればかりが続くと、確かに、疲れ果ててしまうかもしれない。衝撃がありすぎるから。結局、我々は闇の中で死んでしまったファラオの幻影を見つめながら、絡み合う演奏を聴くことで、最初の夜は、静かに幕を閉じていく。

 二日目は、医者に扮した白衣姿のファラオが現れ、その後に、他の四人の医師が建物の中に現れる。窓はすべて閉まっていて、ショーウインドウの中のマネキン人形のように、少しも動こうとはしない。ファラオだけが建物の外にいて、観客席のある庭園の方へと降りてくる。だが、閉じ込められていた人形医たちが、窓ガラスを蹴破り、(それは本当に破壊された)歌うファラオに向かって近づいてくる。タンカーを持っているニセイと逆玉がいて、mayaは注射器を持って近づいてくる。ヒロユキがファラオの顔に真っ黒なお面を被せ、mayaがファラオの腕に注射を放つ。ファラオはタンカーに乗せられ、ヒロユキはカルテをmayaへと渡す。そして、点滴を打たれながら、ファラオは建物の中へと消えていく。カルテを見ながら、mayaとヒロユキは何やら相談をしている。この日は、ライブの始まりからずっと、無言劇だった。音響システムがダウンしてしまったのではないかと思ったくらいに、ファラオも初めからずっと、アカペラで歌っていた。しかし、彼は、建物の中の手術室へと運ばれていってしまう。その部屋だけにライトが点灯される。客席からは、ものすごく見えにくい状況ではあったが、手術はたんたんと続けられていた。すると、目の前には、突如、女医に変装したmayaとヒロユキが現れ、本物のカルテが配られていく。そこには、ファラオという現代の人間が抱える病の数々が、列挙されていた。どんな処方箋が必要なのか。この病はすべて、同じ要因を伴った、別の症状なのだということが書かれていた。そして、裏面には歌詞の書かれた「曲のリスト」が乗っていた。これが、処方箋というわけだ。
 すると建物の中には、どこかの楽団らしき人間が、多数現れ始め、病室は一気に、正装した人間でいっぱいになってしまった。ファラオはいなかった。ベッドはすでに、もぬけの殻となっている。さっきまで、カルテを配っていたメンバーの姿も、どこにもなかった。病棟に見立てられた建物の外の庭に、今度は、派手なパジャマ姿の人の列がやってくる。パレードのような、へんてこりんな曲が流れ始め、彼らは客の前を、右から左へと通過していく。退院の儀式だったのだろうか。カルテは回収され、もう治療はすべて終わったとばかりに、今度は、医者の認定バッチが手渡され、観客はそれを胸につけて、会場を後にする。
 二日目の夜は、終了する。

 こう書き綴っていくうちに、私はこれが、本当にライブのあるべき姿なのだろうかと不安になっていった。確かに、その場にいるときは、妙な陶酔感に包まれているので、私もその劇の登場人物の一人になったかのような気分でいた。しかし、家に帰り、翌日を向かえ、さらには。そのときのことを思い出し、文章にするときになって、ふと、ちょっと待てよと思うのだ。
 三日目は、警備員に扮したメンバーが、この建物を守っているという設定だった。
 銀行なのか美術館なのか。とにかく、貴重で高額なものが保管されている場所には違いなかった。時計を見ながら、警棒を振り回しながら、夜を乗り越えようとする警備員たち。そこに、サイレンが鳴り響く。赤のパドランプが点滅し始め、五人の警備員は慌てふためく。そして、どこか一箇所が蹴破られたらしく、そこに五人は集まっていく。だが、彼らはそのまま建物の中に素早く身を入れ込むと、職務を放棄して、さらに奥へ奥へと、侵入してしまった。
 そして、しばらくすると、金庫を担ぐメンバーの姿が現れる。
 彼ら警備員こそが、窃盗団であることが暴露される。彼らは、金庫の中身を巻き上げ、金庫は客席へと放り投げていった。あの重厚な金庫が飛んできたのだ。観客はみな、慌ててよけようとして身を捩ったのだが、メンバーは次々と投げ込んできた。

 四日目は、殺人者と刑事が現れた。
 四人の殺人者に囲まれた、刑事役のファラオという設定で、やはり、楽器を演奏する様子はなかった。しまいには、ファラオのボーカルでさえもが、録音によって、流れるだけとなってしまい、バンドは完全に、解体されてしまっていた。客はみな幻滅し、そのまま逃げるように、去ってしまう人もいた。あざけ笑う人も数多くいた。私も、この劇に対して、どう見ていいのかわからず、周りをきょろきょろしているだけだった。しかし、メンバーは大真面目でそれをこなしている。
 だが、五日目は幻想的であった。婚礼が行われたのだ。その日の妊進館はチャペルへと様変わりしていた。大きな鐘が取り付けられ、縦の長さは、いささか足りないものの、照明の加減具合で、それは中世のお城のように見立てられていた。白い本物のウエディングドレスを着たmayaが、一人ぼっちで現れたかと思うと、タキシード姿のファラオが現れる。それを祝福する、牧師役のヒロユキが現れる。厳粛な誓いが立てられ、我々客席にいる人間が、それを見届ける証人の役目を果たした。
 この日初めて、mayaとファラオは、そのカリスマ的美貌を、前面に打ち出してきた。
 最初のライブではその断片的な片鱗を、チラりと見せただけで終わってしまっていたし、この連続講演の第四回目までは、制服や衣装に焦点がいくよう、出来ていて、メンバー個人の妖艶さは、まるで排除されていた。そういえば、医師は患者に、真っ黒な仮面を被せていた。匿名性を強要するような場面だった。目隠しをして、注射を施し、そして顔を消した。
 だが、この五日目になって初めて、その素顔を露にした。
 メイクのばっちりと決まった、それこそ、お面のような顔だったが、メンバーそれぞれに装飾性があり、私が普段目にしていた彼らでもあった。婚礼は、多数の立会い人のもとに無事終わり、その後には、披露宴が待っていた。ドレスアップした女性や、キャミソール姿の女の子、ミニスカート姿の女の子たちが、ワルツを踊っていた。そのきわどい服装に、観客たちは沸いた。ひらりと翻ったスカートの下には、下着をつけていないようにも見えた。そのダンサーの女の子の中には、アイリスやエリカも混じっていたような気がする。ヒロユキと関係のあった女性が集められた軟派なコンサートへと、いつのまにか、堕落してしまっていた。厳粛な婚礼のことを覚えている人は、ほとんどいなくなってしまった。メンバーも、その中に混じっては踊りだし、やはり、演奏は打ち込みだったものの、この日は、ファラオが生声で最後まで歌い上げてたことが、せめてもの救いだった。
 この日の噂を聞きつけ、遠ざかってしまった人たちが、また引き戻された。五日目の夜だった。

 同じ舞台には乗っていたものの、五人は互いに目を合わせることはなく、どこか別の次元で、存在しているかのような立ち振る舞いを続けていた。私にはそう見えた。何故、この瞬間、この場所に、この五人は、立っているのだろう。位相の違う人間同士が何故、同じ時間を共有できたのだろう。そう思ったのは、私だけだったのだろうか。かみ合っていないなどという、生易しいものではなかった。どれだけ、メンバーのあいだの距離が狭まる場面があろうとも、同じ曲を演奏し続けようとも、彼らは、それぞれ、別々の目的を見据えているように見えたのだ。
 だが、彼らの創り出した世界は、不思議と、空中分解してなかった。
 その世界は紛れもなく、その場所にたった一つ舞い降りた、宇宙そのものだった。
 そこが、最も強く衝撃を受けたところだった。位相の違う五人。同じ舞台。共有。調和的な支離滅裂さ。だが、その稚拙なだけの舞台劇には、ほとんどの客からは、失笑を買われた。私自身、首を傾げる場面が、あまりにも多すぎた。ちょうど、この七連続公演と平行して、ファーストライブ、〝改竄の序章〟のDVDが発売されていたために、余計、その二つの世界を見比べてしまって、わけがわからなくなってしまった。あまりに完璧で、圧倒的で、ドラマチックな展開を示し、あっという間にその姿をくらます。その豪快かつ、繊細なバンドの姿が、そこには確かに映っているのだ。そして、本人たちが発売を切望するのだから、当然、彼らもこのような凝縮した構築美に対して、かなりの自信を持っているのだろうし、それを核に据えながら、前面に打ち出していこうとしていたのだろう。
 しかし、その次の連続講演が、このあり様なのだ・・・。いったい何が起こってしまったのだ?ただの実験にしては、あまりに手が込みすぎているし、あらゆる仕掛けが総合的に機能しすぎている。だが、間延び感は否めないし、インパクトもあまりない。ただ、いろいろなことをやろうとしている、というのだけはわかる。しかし、コンセプトは難解だし、これがこのまま続いていくようなら、間違いなく、愛想を付かした観客が、この妊進館からは去っていくことになる。
 だが、この公演中、会場は、常に三分の一を割ることがなかった。
 最後まで動かない人が、三分の一以上はいたのだ。私もその一人だった。私はインタビュアーとして、記事を制作するためなのだと、自分に言い訳はできたのだが、それでも、気になる何かがあった。違和感もそうだし、異物感もそうだった。どうしてこんなことをやらなくてはならないのか。あの完成度の高いライブができるにも関わらず・・・。ただの、お遊びには見えない。あの真剣な眼差しが忘れられない。特に、フロントの三人の横顔。別の何かを見ている。目には見えない何かを見ているのだ。表現者の眼だった。
 実際、眼にしているライブと、もう過去になってしまった一夜を収録したDVDとが、並んで存在するこの現実。ギャップ。落差。ただ、この瞬間においては、目の前に存在しているものと、記憶によってのみ、焼き付けられたものとが、共存している。どちらに信憑性があるのか。今、見てきた舞台は、本当は存在していないものだったのか。あまりの世界観の違いに、私は、いや、たくさんの人たちが、困惑した。今まで見たことのない衝撃だったから、脳がまだ受け止めきれていないだろう。しばらくすれば、拒絶反応は除去されていくのだろうか。
 あるいは、彼らの意図を、正確に理解できた人間もいたのだろうか。そんな神経の使い方をしていたものだから、私は妙に、この時の映像ばかりが、記憶の大部屋にストックされてしまっていた。日常のいろんな場面で、ひょっこりと現れることが、多くなってしまっていた。
 そして、そのライブのDVD映像は、今後の発売予定がまったくないままに、音源だけがアルバムとしてリリースされることが決まった。私は後に、この作品を購入し、何度も何度も、繰り返し聞いてみたのだが、やはり、記憶の中の映像のほうが、引っ張り出されてきてしまった。それを見越しての、映像リリースなし、ということだったのか。
 そういえば、あの公演においては、音の方の記憶がほとんどなかった。音はそれほど厚みのある感じではなく、転調や変拍子もそれほどなく、なだらかな曲調だったから、あのビジュアルのイメージに完全に消されてしまっていた。あるいは、それも狙いだったのだろうか。後にファラオか誰かが言っていた。あれは音源というよりは、表現の核になるイメージを、目に見える形として、提示したかったのだと。


 六日目の夜のことを思い出すのには、ほんの少しばかりの勇気が必要だった。
 というよりは、このことを、今、口にしてしまっていいものなのかどうか。それすら、わからない状態だった。
 最終日は、それまでの五日間の公演の、混在した形だった。
 「火葬」と名づけられた公演で、楽曲も絶えず曲調を変え、途切れることのない転調を繰り返していた。衣装チェンジを繰り返し、それもメンバー全員が、同じタイミングではなく、気付いたら、誰かがいなくなっていて、再び現れるといった形で、徐々に徐々に変化していった。
 そして、終盤に差し掛かった頃、mayaがステージから降りてきて、こっちに向かってきた。誰かを指差していた。私の辺りだった。でも、私でなかった。ちょうど、私の前の列に立っていた小さな女の子の肩を掴んだのだ。そして、客席の向こう側へと、引きずり込んでいってしまった。幼い女の子が私の前にいたなんて、気付かなかった。そして、ヒロユキとニセイが、木の柱を担いで現れる。そこに、少女を縛り付けた。少女は嫌がる様子も見せない。これも演出なのだろうか。少女は黒のハンカチーフで、目隠しされてしまった。白いドレスを着ている少女は、柱に括りつけられたまま、メンバーは横たえたその木を、縦へと起こしていった。そこに、松明を持ったファラオが現れ、曲はいつのまにか、森の中の妖婦になっていた。ドラマチックな激しい展開に、燃え盛る松明。木に点火がされる。メンバーは手を離す。細長い木は頼りなく、しかしちゃんと倒れることなく、夜空に向かって伸びている。私たちは息を飲んだ。火はあっという間に、少女の足元にまで到達する。そして、彼女を焼き尽くした。その瞬間、建物が大きな音を立てて、爆発した。
 私たちは、茫然と立ち尽くしていた。
 これは、事故なのか。演出なのか。メンバーはいつのまにか、楽器を持っている。
 それぞれが、自らの演奏に没頭している。建物は燃え盛り、ふと、さっき立てられた少女の柱を我々は見る。そこには、丸焼きにされた少女の姿がある。しかし、体はこげているようには見えない。彼女の周りだけが、燃え盛っているようなのだ。建物は爆破を繰り返している。そのうちヘリコプターがやってくる。外からは、消防車のサイレンが鳴っている。救急車も到着したようだ。あたりは騒然となっていったが、メンバーはみな、無表情だった。演奏は、クライマックスへと達し、彼らの背後では建物がすでに、その骨格だけを残して、煌々と燃えている。少女は炎に巻かれて、見えなくなってしまった。楽曲は終了した。サイレンの音も消えた。暗転した舞台に、メンバーの姿はない。火も次第に、弱まり、あっと言う間に鎮火してしまう。何事もなかったかのように、ステージは静まり返り、妊進館は夜の闇に、その輪郭を映していた。だが、私の目の前の席。そこだけが、ぽっかりと切り取られたようになっていた。

 私は、このクライマックスから、最初のライブ以上の、衝撃を受けることになってしまった。後遺症が甚だしかった。大量の雨が落ちてきていたのは覚えている。エンディングにはやはり、シベリウスのヴァイオリン協奏曲が流れていた。さっきまで、赤々と燃えていた妊進館は、その雨と共に、廃墟になってしまったかのようだった。静寂が街を包み込み、観客は誰一人として動こうとしなかった。びしょ濡れになってしまった観客。その誰一人として動こうとしなかったのだ。少女を高く舞い上げた柱は、他の柱と共に、今はそびえたっていたため、どれが、「その」柱だったのかわからくなっている。カモフラージュのためだけに、他の数十本もの実用性のない柱が、立てられていたんじゃないだろうかと思ってしまうくらいに。
 ファラオの歌声が、今、この静寂の中で、私の脳裏に蘇ってくる。鼓膜を振るわせている。彼は、サビのところで、ジェラシカ、ジェラシカ、ジェラシカと叫んでいた。柱に高々と括りつけられた少女を指差して、ジェラシカと叫び続けていた。無表情な演奏者とは対象的に、ファラオだけが、天に右手を捧げながら、まるで堕ちていく天使のように、言葉を紡いでいた。四人の悪魔は、地獄への賛美歌を歌い上げ、ファラオを、その少女から引き離した。建物の爆破は、背後でずっと、続いている。そのときにはすでに、雨が落ちていたのだろうか。本物の雨が。シベリウスのヴァイオリン協奏曲は、十五分以上も続いていた。メンバーは、何の告知もすることなく、妊進館を焼き払い、少女を焼き払い、ファラオを奈落の底に突き落とすことで、六公演をすべて、終了させた。

 最後に、強烈に落とされてしまった。完全にやられたのだ。あの、ふざけたお芝居のようなステージは全部、この最後のシーンのための布石だったのだろうか。また、向こう側に引き戻されてしまった。振れ幅があまりに、大きすぎた。
 しかし、今日までの六公演は、二度と再現はされない。あの場にいた人間だけの記憶に委ねられてしまっている。アルバムの音源だけを聞くリスナーは、なんてポップでノリのいい曲なのだろうと、勘違いするに違いない。あのグロくて、意味不明な、それでいて煌びやかで、シュールな舞台劇を想像することなど、絶対にできやしない。以前の森の中の妖婦は、映像として残っていたが、きっとこの日の夜の爆破は、カメラも回っていなかったに違いない。
「次は、君だよ」とファラオに言われているような気がしたのは、私だけだったのだろうか。「次は君が、張り付けにされる番だ。今回、君を名指ししなかったのは、警告だけだったからだ。君の、心の準備のこともあったから。予告し、それが、実現するまでのあいだに、君が心の中に抱く恐怖心、恍惚、快楽、不安、激震。ずいぶんと、刺激的だろう?それを味あわせたいから、わざわざ、君の前の女の子を、選んだんだ」
 mayaが、近づいてくる。冷たい目線が、辺りを凍りつかせる。
「さあ、来なさい。怖がることは何もない。ただ、火に焼かれるだけだ。後には何も残らない。君はこの妊進館と、一体になれるんだ」


 翌日、妊進館に行ってみると、確かに、建物はあんなにも燃え盛っていたのに、また忽然と復活していた。初めから、あんな舞台などなかったかのような、のどかさだった。乱交パーティと、厳粛な儀式の両極端を、激しく報復してしまったかのような、混沌とした舞台に、私は一夜あけた今日も、なかなか受け入れられずにいた。そして、メンバーと会話をしていた自分というのも、本当に、この世に存在していたのか。自分の過去のことも、また、だんだんと疑い始めていた。だが間違いなく、これは、予告なのだとファラオは叫んでいた。次はお前だ。お前だ。お前なんだ!と。待っている。次のライブで待っている!と。


オペレーションルーム・X

「さあ、行け。いまだ!ほら。外は大混乱のさなかだ。これを待っていたんだ!」
「あなたが、仕掛けたんですか?」
「何を」
「爆薬」
「僕じゃない」
「じゃあ、誰が?」
「外の奴」
「あなたと、関係のある?」
「さあね。でも、まあ、ここの持ち主じゃないの?」
「所有者ですか。誰です?誰が、ここを貸しているんです?」
「一階、二階、そして、庭園には、いったい何があるんだろうね」
「火事になっているんじゃないですか。どうやって、出ていくんです?」
「何を慌てているんだよ。ゆっくりと行けよ」
「あっ、何か、音楽が聞こえてきましたよ」
「聞こえるねぇ」
「ライブか何かをやってますよ。野外ライブ。まさか、その、ど真ん中に出てしまうんじゃないでしょうね。なんだ。本当に、爆発したわけじゃなかったんだ」
「それは、どうかな」
「そうですよね。確かに、地下の扉は、爆破されたようですね」
「しかし、あの火はどうだろう。あの火は、その爆発と関係があるのだろうか。いや、ないね。あの火は違うね。演出だよ。僕らがいた地下を、ぶっ壊すためのさ。それをカモフラージュするために、ああやって、火を起こしたんだろう」
「カモフラージュ?何のことですか?」
「僕らは、逃がしてもらえたんだ」
「はっ?」
「僕らを逃がすために、いろいろと、策略をめぐらせたんだよ」
「ちゃんと、説明してくださいよ。全然、何のことだかわかりません」
「君はいちいち、いいんだよ。首を突っ込んでこなくて」
「もう十分に、巻き込まれています。一体、誰が、何を、目的として行った策略なんですか?あなたとの関係は?」
「すべては、有機的に、繫がっているわけだよ、君。わかるか?僕らは勝手に、一つの有機体として、ポッコリと現れてきたわけじゃないだろう?宇宙の構成物質の一部でも、あるわけなんだから。意味があるんだ。僕らは一つの破片なんだよ。僕らを逃がすために、ここでの連続の公演を行った人間がいた。ここを所有してしまうという「執着心」さえみせた。そして、この爆破にいたるまでのプロセスを、しっかりと踏んでいった。これが、完全な演出であるということを、説得させるために。要するに、僕らのために、彼らは公演を設定し、リハーサルを繰り返し、もっと遡れば、曲を作っていった。その過程で、人と人とが出会い、何人かの集団になっていった。すべては、今日、この日のために」
「じゃあ、その集まった人たちは、今日を境に、どうなってしまうんですか?この日のために、結集したんでしょう?」
「そう。そのとおり。明日のことは、何もわからない」
「僕らは、どうするんです?」
「新しい、人間造りに励む」
「データは」
「あの中」
「置いてきてしまったんですか」
「うっかり」
「取りに行きましょう」
「何?」
「取りに行きましょう」
「君は、また、あの穴倉の中に、舞い戻ってしまいたいのか?」
「ハイテクですよ」
「もう二度とは、開かないぞ。たとえ開いたとして、中には、丸焦げになった機材があるだけだ。もう、人体実験はやめたんだ。新しい人間を、人工的に造ることはやめたんだよ!生身の人間が変化していけばいいことじゃないか。そうじゃないか。あの公演を見た人間が、自らを変革させようと、次なる一歩を踏み出してくれれば、それでいいじゃないか。僕はふと思った。何かを感じたときに、意識はすっと変わるだろ。それをずっと忘れないでいると、だんだんと意識は、思考へと変わっていくだろう。細胞がどんどんと、突然変異を始める。徐々に、徐々に。そしていつかは、それが本当に、突然変異を起こすときがくる。人間そのものがね。その人間はもちろん、そうなる前と、そうなった後の両方を知っている。それが肝心なことなんだ。前と後を知っているということがね。凡人から天才になった、その凡人を知っているということがね。そして、その天才もまた、次第に凡人となっていく」
「繰り返すんですね。その、なんというのでしょうか。あ、そうか。だから、人工的に変化させることなど、やめたんですね。最初から天才を作ったのでは、それが退化していったときに、自分で潰して、また再生させることができない。そうか。そのプログラムは、自分で作らないといけなかったんだ。その過程に、ヒントがあったんですね。また、その過程を土台として、新しいプログラミングをすればいいってことか」
「結果的には、そういうことだ」
「それで、僕らは?」
「何をしようか」
「研究者は、潰しがきかないみたいですけど」
「哲学者みたいなことを言うね」
「どうするんですか?」
「仕事をしよう」
「何の?」
「もう。わかってるだろ?」
「・・全然」
「彼らの手伝いをしようじゃないか」
 002は唖然として、所長を見上げた。
 庭園には、観客の姿はすでになく、エンディングのシベリウスも聞こえなくなっていた。
 メンバーはまだ、この建物のどこかに残っているはずだと、二人は廊下をうろうろしてみたが、誰一人として、その姿は見当たらなかった。

 あの七日目の夜から、いろいろなことが派生して、起こり始めていた。
 妊進館の住人の失踪には終わらず、街は少女の失踪の話題で持ちきりになっていた。
 そして、国家から指定を受けていたという財宝が、窃盗されてしまったというニュースまで、飛び込んでくる。軍服を着た日本軍の兵士のような警備員が、五人、押し入ってきたという証言もある。
 精神病院では、患者が医師に成りすまし、勝手に薬剤を混在したあげくに、見舞いに来た人間に投与したという噂までが広がっていた。自らが、まず実験台になったのだから、次は正常な人間だと思い込んでいる人間に、試してみたかったのだと。
 霧が濃くなることが多くなり、交通事故も、多発するようになった。何の前触れもなく、現れるために、ドライバーたちは慌てて、本能的にブレーキを踏んでしまう。それが大混乱をもたらす、口火と化した。
 あの七日目の夜以来、各地でおかしなことが、起こるようになっていた。
 いや、それとこれを結びつけるのは、確かに、早計の極みではあった。
 しかし、それでも、あの夜を体験したものとして、何が起こってしまおうと、別段、不思議なことはないように思えた。あそこで、自分の意識が変わってしまったことは明らかだったからだ。
 地下に設置された墓地を、「科学研究所」にして以来、長年、生きた人間を死に至らしめるまで酷使したという、私設研究所のことも、このとき話題になり始めていた。どれも、今に始まったことではなかったが、この時期になって、一気に噴出してしまっていた。連鎖反応を起こしていた。そして、その、きっかけとなった出来事を、私を含め、そこにいた観客は、みな知っているような気がした。


 妊進館は、その後、閉鎖されてしまい、強引に入ったときも、二階のカフェがすでに模様替えをしていた。
「あら、お久し振り。しばらく見なかったわね。あ、いや、いなかったのは、私のほうだったかしら。カフェはもう、閉鎖されてしまったのよ」
 店員の聖塚さんだった。
「閉鎖されたのに、何で、いるんです?」
「ミュゼよ、ミュゼ」
「美術館?」
「そう」
「美術館にするの?」
「するんじゃなくて、なるの。もう決まったことなの。この二階すべてが、展示場。お庭にも、出られるようにして。そこにも、いろいろと、作品を置くのね」
「ここは、ライブハウスに、なったんじゃなかったっけ?」
「そう。でも、それも、昨日までのことね」
「何を、展示するんだよ」
「さあ。最初は、写真展みたいのをやるらしいわよ。ほら、この間のバンド。あのライブのときの写真を、展示するみたい」
「抜け殻みたいだな」と私は言った。「誰がそう言ったの?」
「その、なんでしたっけ。リーダーの方が」
「会ったの?」
「いえ、電話です。なんでしたっけね、ファラ、何とかさん・・・だったかしら」
「ファラオでしょ!でも、彼はリーダーじゃありませんよ」
「そうなの?でも、彼からの電話でしたよ。あの人の独断で、すべてを決めているようでしたけど。てっきり、リーダーの方かと思った」
「それで、カフェも閉鎖になったの?」
「ええ。だって、あの方が、この建物の持ち主じゃないですか。そのテナントを、私たちの店が、借りてるって状況でしたから」
「ファラオのもの?ファラオのものになったのか?ここが?」
「ええ、あの人個人の所有物になったらしいですよ。市から安く買ったとかで。そう、そうなのね。あの人、素敵だったものね。みんな言ってたのよ。そうそう、わたしも、ライブを見てたんだから。その、ファラなんとかさんって方に、チケットを頂いて。そう。六日間、全部見たわよ。ずっと、ファラなんとかさんしか、見てなかったけど。みんな、そうだったらしいわ。女の子はね。あの人の歌う姿を見ていただけよ。歌声にも、うっとりとしてしまった。他は、何をしてたんだか。よく覚えてないわ。ああ、なんだか、変てこりんな劇をやっていたみたいだったけど、その、ファラなんとかさん・・・、かわいそうだった・・・」
「かわいそう?」
「きっと、無理やりやらされたのね。一人だけ、浮いてらしたもの。バンドって大変なのね。あの人が、ほら、一番前にいるわけでしょ。だから、言われたとおりにやらなくちゃ・・・。あ、そうそう、わたしね。きっとどこかで、ファラ何とかさんと、お会いするような気がするのよ。その、芸能界でってことね。あの人、必ずスポットライトが当たる場所に、のし上がってくると思うの。わたしも同じ。すぐにって、わけじゃないんだけど、そうね、そんなに先の話じゃないと思う。その上がり方が、わたしと同じペースなんだと思うの。すごく連動しているような気がするのよ。そういうことって、あるじゃない?世の中って、わたし一人だけが、動いているわけじゃないんだからさ。もし、そうだと勘違いして、無理やり、突き進んで行ってしまっても、うまくいかないことだらけで、行き詰るのがオチなのよ。その、なんていうのかしら。まずは、わたし自身の、時の流れみたいなものがあるじゃない?それを注意深く見極めようとすれば必ず、この世の中の時流っていうの?そういうものも、同時に、見えてくるんじゃないのかな。すると、他人の流れも見えてくるわよね。まあ、みんなってわけじゃないんだけど。妙に気になる人が出てきたり、なんだか同じ場所に向かって、移動しているんじゃないかと、思うひとが現れたり。ほら。コンサート会場に向かっている人って、わかるじゃない。あ、あの人も、きっと、同じ場所にいくんだなって。そういう感じ。それを、あの、ファラなんとかさんって人に、わたしは感じるの。だから他の人が、あの人を見て、キャーキャー騒いでいるのとは違うの。もっと深い繫がりを感じるの。でもね、そうなるには、あの残りの四人が邪魔なのよ。特に、あの人の、横にいた二人。五人の中で一番メイクの濃かった、あの二人よ。一番、人間離れした、なんていうのかしら、妖怪みたいな。何なのよ。現代にはまるでそぐわない・・・さ、スタイリッシュさが全然ないわよ。誰にも受け入れられないわよ。でも確かに、あの曲はすごいわね。たしかに、うん。あの曲はすごい。でも曲だけじゃ、もちろん、駄目なんだろうけど。あれをファラなんとかさんが歌い切るからこそ、伝わると思うんだけど。うーん、そう考えると、切り話せないのかしら・・・」

 その夜、公式ホームページを開いた私の目に飛び込んできた情報は、そのアルバムのリリースに関することだった。すでに、出荷したということだった。何の前置きもなく、発売されました、NOW ON SALEだった。そっけない。コメントも出ていない。公演情報もなく、私はインターネットで、そのCDを購入した。だが、mayaのレコーディングは、終わる気配がなかった。スタジオは知っていたので、ブッキングを装って電話をかけてみた。だが、まだいっぱいだと言われた。
「ずいぶんと、長く使われているんですね」
「我々は何も申しあげられません」
「ずっと、同じ人なんでしょ?」
「ええ、まあ、そうですね。でも、お名前の方は、申しあげられません」
「プロの方ですよね。でも、ちょっと長すぎるよなあ。何か、偽ってません?本当は空いているのに」
「ちょっと、なんなんですか。失礼な方ですね。切りますよ」
 なんとmayaは、まだ篭りっきりだったのだ。
 その後、聖塚さんとは、電話で何度かしゃべった。
 話のウマがあったし、生れ持った波長そのものが、ピタリと一致しているような錯覚にも陥った。ファラオとより、むしろ僕とのほうが、同じ方向を目指して進んでいっているんじゃないの。そう、言ってしまいそうだった。共に、人生を歩んでいきそうな雰囲気があったのだ。
「今から、あなたのことを、迎えにいこうと思ったんだけどさ、車がなくなってしまったのよ。妊進館の前に置いておいたんだけど、その、帰るときになって、ふっと見たら、どこにもないのよ。おかしいわ」
「ホントに?じゃあ、僕の方が、歩いて迎えにいくよ」
「そう?」
「うん」
「そっか、じゃあ、そうしてくれるかしら?霧が発生してるといいけど」
 彼女は、妙なことを言った。
 そして、霧は発生していた。
 待ち合わせたのは、妊進館の二階だった。彼女は、庭園の柱の一つに寄りかかり、遠くのほうを見ていた。街のほうは何も見えなかった。
「あいつら、あの車で、街を出て行ってしまったのね」
「ジェラシカのアルバム、届いていたよ」
 あまりに、霧の濃い街となっていたために、私たちは、今日を最後とばかりに、街を散歩することにした。
「ねえ、知ってる?今から、北に向かってずっと歩いていくわよね。すると、妊進館が目の前に現れるの。つまり、妊進館の南側が、見えてくるの」
 彼女の言っている意味が、わからなかった。
「いいから。行ってみましょう」
 そして、歩いていった。すると、なんと言葉通りに、妊進館が現れた。「あれっ。迂回した?」
「いいえ。真っ直ぐ。ただ、ひたすら真っ直ぐよ」
「あれっ」
「まさか、同じ建物があったの?」
「さらに北に向かって歩いていきましょ」
 そして歩いていった。
「また、現れた」
「ふふふふ」
「いくつあるんだよ。並木道みたいだ」
「もう一度、試す?」
 そして現れた。
「まだ、わからないの?」聖塚は、霧の先を見ていた。「妊進館は一つ。迂回も、何もしていない。だけど、また、元に戻っている。霧の濃い日は、要注意なのよ。以前にも何度かあった。そのときに気づいたのよ。一ヶ月に一度、あるかないかって、ところね。この日は、街からは出て行くことができないの。なぜなら、時間がピタリと止まってしまっているから。道は輪を描いて、同じ場所を、循環しているだけ。こういうときは、どうすればいいのか」
「どうにもならないね」と私は言った。
「ということは、まだ、彼らは、この街の中に留まっている」
「そういうことか」
「あれっ。車があるわよ。ほら。いつ、戻ってきたのかしら」
 私たちは、二階も一階も庭園も、隈なく探してみたのだが、彼らの姿は見つからなかった。すぐに、レコーディングスタジオに電話をかけてみたが、すでにブックッキングは、可能な状態になっていた。さすがのmayaも、出ていってしまったようだ。五人は、共に行動をとっているのだろうか。西谷くんの携帯にも繫がらない。ファラオもヒロユキも、誰もいない。アイリスもエリカも、すでに妊進館を引き払ってしまっている。
「霧が晴れないうちに、燃やすわよ」
「燃やす?」
「今、このときしかないのよ。街は、今、現世との接点を持っていないの!完全に孤立してしまっているのよ。でも、時間は遡りしているし、異次元とも、繫がっている。今よ。燃やすなら、今しかないのよ!罪にはならないわ。この建物は今、現世にはないのよ。霧の濃いうちに、やらなくちゃ。さあ、早く。あなたも手伝って!」
 聖塚は、カブトムシの荷台に乗っていた薪に火をつけた。そして、建物に向かって、放り投げた。
「ほら。あなたも早く。大丈夫よ。私の言う事を信じて。ほら。投げなさい。思いっきり投げなさい。投げなさいよ!」


 現代における文明社会において、その人身供養という名の生贄が姿を消しているのは、実に嘆かわしいことだった。これだけ、自殺者の数が増えているにもかかわらず、これほど、世界では戦争による犠牲者が、今だに出ているにもかかわらず。しかし、それとは別で、いったい、何故、そうじゃない生々しい死のほうは、徹底的に洗浄された国や都市や機構システムにおいて、表面的に、削除されてしまっているのだろう。世界は混沌としている。しかし、棲み分けがスマートになされているのもまた確かだった。
 人は混沌とした原始社会への回帰など、これっぽっち求めてはいないだろうが、精神の躍動は、そんなことじゃ収まらない。抑圧されたエネルギーは、その出所を闇に求めるのだろうか。地表の下へと追いやってしまうのか。人身供養が、人目につかない自分だけに向かって突き進んでいくのか。あるいは、特定の他者か、不特定多数の他者に向かって、突き進んでいってしまうのだろうか。
 選ばれる人間。選ぶ人間。それを承認する人間。見守る人間。痛烈に批判する人間。一笑にふす人間。公の場。好奇の目にさらされる。
 神聖。荘厳。ファルス。喜劇。カーニバル。興奮。何が見たいか?見せたいのか?誰が。誰に向かって。何を。いったい・・。見たいのは・・。生贄。わたしの代わり。
 生命体。超越。断ち切る。復活。預言者。再生。破滅。堕ちてゆく。天使・・。

 妊進館は燃えていた。すべての怒りを鎮めるために。



































終焉



















 mayaがレコーディングスタジオに篭った理由の一つは、夕顔との関係が、微妙な変化をきたしていたからだった。今でも、夕顔とは恋人同士ではあったのだが、それも、そもそもの話、どこまでが本当だったのか。本気だったのか。mayaは疑い始めていた。この二人は、単なる恋人同士だけでなかった。音楽上、芸術上の付き合いも、同時に共有していた。彼女は、事務所の社長であり、mayaはそこに身を置く、アーティスト、という形でもった。
 しかしこれは、mayaが単に、夕顔に雇われているという図式でもなければ、契約関係が、強固に築かれているというわけでもなかった。金銭的なものは確かに、夕顔の事務所が負担していた。まだ音源は、何も出していなかった頃も、音楽活動をしていく上での必要な経費は、彼女が負担していた。mayaは何の気兼ねもなく、その金を使っていた。プライベートでは、音楽活動の話は一切しなかった。わざわざ、自分から出すこともなかった。だが、それは、mayaがまだ他のメンバーを集めていなかった時期のことで、夕顔もゆっくりやってくれと、それこそ、のんびりと構えていた時期だった。だが、mayaはその後、何の前触れもなく、ヒロユキを連れてくる。他の二人のメンバーも、あっさりと決めてしまう。そして少しの空白の時期を経て、ファラオが加入した。ファラオの前のメンバーは、三人くらい変わったが、夕顔は、それでもまだ、のんびりと構えていた。資金もたいして使ってなかったし(そりゃあ、音源の制作もライブも、それほどしてないのだから)、それに、特に、今後の構想を聞かされることもなかった。夕顔はたいして、期待など、してなかったのかもしれない。数あるmayaとの関係の中で、そのときは、恋人というものが最上位にきていたのだと、夕顔は当時を回想する。
 だが、mayaのほうは、その恋愛感情というものが、本当のところ何なのか、さっぱり、わからなかったのだ。彼は、人を好きになったことが、今まで一度もなかったのだ。人だけじゃない。物にも、音楽にも、芸術作品にも。一瞬、いいなと思うことは、多少あったものの、それはあくまで、断片的であり、刹那的なことであって、その後の持続性とは、まるで無縁であった。もちろん、そこでは、最大限、自分を接近させることを優先としていたし、なかなかの行動派でもあった。しかし、飽きるのも早かった。飽きるということさえ、そのときはわからなかったのだ。というよりは、今も理解できていない。一瞬だけ盛り上がり、すぐに下がってしまうのは、当たり前のことだと思っていたのだ。飽きるという概念は、飽きないものがあって初めて、成り立つものじゃないか。だが、mayaはこの世界を、宇宙を思ったときに、何千年も何億年も続いているこの世界を、宇宙を思ったときに、はっとさせられるのだった。

 mayaは、その断片的であっても、一瞬であっても、心を刺激したもの、ふっと気持ちを持っていかれたものが、いったい何なのか。何に引き付けられたのかを、知りたいと思うようになった。それが人であれ、ものであれ、自然であれ、何でもそうだった。
 夕顔と初めて会ったときも、その閃きがあった。彼は付き合うことで、その閃きが何だったのかを、突き止めようとした。音楽活動を、ちょうどしようかどうか。考え始めた矢先のことだった。それは、ほとんど、同時に起こった出来事だった。
 mayaは、その当時から、ほとんどのことに対して、無関心で、ある意味人生に対しては懐疑主義者を気取っていたわけで、どうせ、自分を満足させてくれるものになど、一生涯、出会うはずがないと思い込んでいた。このガラクタばかりが横行する消費社会において、もの、情報、芸術、すべてが、その場かぎりの、消耗品のように思えてきて、ウンザリさせられていた。すべてから、ふさぎ込んでしまいたい。産業もシステムも、人間を束縛し、魂を抜き取ることで、労働を強いているようにしか見えなかった。その結果、何が、生産されたのかを見れば、自分は、こんなことのために生まれてきたのかと、憤慨極まりない感情に、襲われてしまう。何をしようとも、その行き着く先が、見えてしまうのだ。そして、その奇怪な産業構造がどこにも行きつくことなく、ただ、この自分という肉体と精神をすり減らすだけで、何の美意識をも刺激しないということに、絶望した。そうだ。そうなのだ。美なのだ。美しいと思うその瞬間こそが、自分にとっての、唯一の喜びなのだ。mayaはそれ以来、美しいということが、もしかすると、自分の中の何かにリンクするための、キーワードなんじゃないかという気がしてきた。だが、それこそ、街の中に、でかでかと立てられた、広告に出てくるタレントの姿が、美しいわけではなかった。まるで、心は揺さぶられない。mayaは、自分の心が震えるその一瞬を逃すまいと、日々、神経を研ぎ澄ますようになっていった。それは音楽に、顕著に現れるようになった。そしてそのうちに、ただ、人の作った音楽の断片だけを聞いていることにも、堪えられなくなっていった。引き付けられることはあっても、本当に、喜びを得るための音は、自らが、生み出さなくてはならないような気がしてきた。あくまで先人は、その道しるべのような役割しか、結局のところは果たさない。mayaはここで初めて、生み出すこと、生産することの真髄が、わかりかけてきた。それは、自らを救うために、生みだされるものなのだ。誰かの処方箋では、まるで効かなくなってしまうときがくるのだ。やがては、自ら、茨の道を歩き始めるときがくる。

 夕顔に、最初に会ったとき、はっとさせられるものがあったのは確かだった。しかし、その後のmayaは、彼女に対しても、無関心になってしまっていた。それでも、その最初の衝動が何だったのか。いつまでも、気になり続けはした。やはり、自分には、誰のことも本気で愛せないのではないだろうか。虚無に覆われた井戸の底に、自分だけが沈みこんでしまったように感じるのは、異常なことなのだろうか。誰とも心を通い合わせることができないのは、何故なのだろうか。
 夕顔と付き合い続けていたのは、特に、別れる理由がなかったからだ。それまでの恋人は、すぐに、mayaから離れていってしまうか。しばらく経ってから、去っていってしまうか。その、どちらかだった。いずれにしても、mayaの側に留まろうとする女は、誰もいなかった。入れ替わる頻度は激しく、出たり入ったりの繰り返しで、自分が、回転扉にでもなったかのような気分だった。夕顔だけが、ちっとも去る気配がなかった。それどころか、音楽活動にはなくてはならないパートナーにも、なってしまっていた。こうなってくると、逃れられない宿命的なものを、感じてしまう。しかしだ。
 彼はそう思い始めたときから、夕顔と距離を置くようになってしまったのだ。このままずっと、彼女と過ごしていくという考えが、ちらっと浮かんだそのとき、mayaはぞっとしてしまったのだ。この女と生涯一緒にいるだって?とんでもない。なぜ、一緒にいなくてはならないのだ?むしろ、俺は一人でいたいんだ。この女のどこが好きなのだろう?今は、ほとんど、何も感じないじゃないか。mayaは音楽に対しても、そう思うときがあった。確かにあのとき、あの音に反応したのだ。それなのに今は、そのときの感触が、どこにも残ってはいないのだ・・・。だから、自らの音を探し始めたのだ。外部からやってくる音が、心の深遠で、いつまでも鳴り響くことなんて、ないのだから。それと同じなのか?外部からやってくる女は・・・。というか、女は、外部からしかやってこないじゃないか。自ら女を生みだすことなんて、できないじゃないか。錯乱に陥ってしまうことが頻繁に起こるようになった。だが助かったのは、このとき事務所というクッションが、より強力になっていたことだ。恋人関係だけだったら間違いなく、mayaは逃げ出してしまったことだろう。ここで、別の関係が生まれたのだ。そこが、退避所になった。むしろ、そこにいることの方が、多くなっていった。できるだけ、プライベートで会うことは避けた。仕事上の付き合いに留めておくことを、増やすことで、mayaは心のバランスを保とうとした。しかし、恋人である以上は、週に一度くらいは、一緒に過ごすことになる。セックスだって、毎回じゃないにしても、することになるだろう。何故、惰性に陥ってしまっている?嫌なら嫌と、断ればいいじゃないか。別れればいいじゃないか。何故、それをしない?事務所で繫がっているからなのか?
 だがmayaは、自分の音楽活動のためを思って、彼女との付き合いを切らないわけではなかった。それに、彼女に援助してもらっていると思ったことさえ、一度としてなかった。音楽は音楽なのだ。音楽をやり続けるということに対しては、何の後ろめたさも感じないばかりか、それを突き通すことは、当然の成り行きである。そう思っていた。誰の反対があろうとも、差し伸べてくれる手が、完全になくなってしまおうとも、続けるはずだと思った。
 ちょっと待てよ。あの飽きっぽい、何に対しても無関心だった自分が、こんな気持ちになっているなんて・・・。mayaは驚きを隠せなかった。だが、そうなってくるにつれて、ますます、対照的に見えたのは、夕顔の姿だった。彼女に対する感情はすっぱりと、鉈で切ったかのように、途切れてしまっていたのだ。残っているのは、あの最初に会ったときの残像だけであり、印象だけであった。それがあったから、体の関係を続けることができたのは、言うまでもなかった。性欲の処理だけで、女を抱くことは難しかった。その後に襲われる虚脱感が、生理的に受け入れられなかったのだ。

 このように、mayaは矛盾だらけの心を振り払うかのごとく、レコーディングに没頭するしかなかった。その頃のmayaは、ファラオの加入したバンドの活動をメインにしながらも、自分のためだけの、曲をつくっていた。そして、バンドのレコーディングにかこつけて、自分だけの曲も極秘に録ってしまおうと、内心その隙を狙っていたのだ。そうしないことには、この引き裂かれるような感情のやり場が、どこにもなかったからだ。バンドだけではとうてい、自分の心が解放されることはなかったのだ。もっと、心の闇を引きずり出したい。自分が何故、こんな思いに苛まれなくてはいけないのか。もっと知りたかった。その、自分のためだけに創作したものは、「巨大な組曲」になりそうな予感があった。メロディを少しかいてみたときに、それはわかった。あまりに多くの事柄に対して、連鎖反応が強烈に起こり始めているのがわかったからだ。そして、あっというまに、譜面は埋まってしまった。

 女にはまるで、興味がなくなってしまったmayaにとって、夕顔とプライベートで会うことは、多少の苦痛が伴った。だが一週間以上も、スタジオと自宅に篭りきりだと、さすがに、気がめいってくる。そんな時の捌け口になったのも、やはり、夕顔だった。彼女といると、確かに、リラックスした気分になれた。だがそれも、最初の数時間が限度だった。一緒に食事をし、部屋で肌を合わせあった後には、必ず、一人にさせてくれとmayaは思うのだった。楽曲のイメージが湧いてくる気配が常にあった。すぐに、神経を集中させたかった。それは一貫して続いていたことだった。寝ていても食事をしていてもセックスをしていても、その予感はずっと続いていたのだ。mayaは理由をつけては、夕顔の家を離れ、その後、レコーディングスタジオか、自宅スタジオへと身を寄せた。酸素ボンベをずっと、外されたままでいたダイバーのようであった。息を荒げながら、危うく助かったのだとmayaは思う。しかし、夕顔と過ごす数時間があったからこそ、作業に没頭できるのもまた、事実だった。
 これが、恋愛なのだろうか。絶対に違う。しかし、誰でもいいのかと言われれば、それもまた違う。でも、彼女でなくてはならない決定的な理由は、いつも見い出せない。だから、mayaは、自分は誰も愛せないのだと思うことにした。


 夕顔が、ファラオのことを気になり出していることに気付いたのは、初対面のときからだった。それはそうだ。あんな眼差しで見つめられた日には、自分が女ではなくとも、惚れこんでしまう。その魅力が、加入を要請した一番の要因だった。バンドのフロントマンはこうでなくちゃいけない。その外見で、瞬間的に、引き付けなくちゃいけない。そして、こっちに引きずりこんでさえしまえば、あとは、音楽の力だった。どこまでも深く、どこまでも、広がりのある宇宙を提供できるかに、かかっているのだから。その入り口に立つ男としては、これほど最適な男はいなかった。夕顔も、その容姿にやられた。単に顔の作りが整っているというレベルではなかった。この男は何か、深い苦悩のようなものを抱え持っている。内的な地獄の中で、いつも、もがき苦しんでいる様な目なのだ。それでも、その先にある一縷の光を求めているような、その眼差し。何かとてつもなく、巨大な愛を失ってしまったような眼差し。過去が知りたかった。mayaは、自分の曲のイメージを彼に説明するとき、彼の過去が垣間見れるような話を引き出したかった。だが、彼は頑なにそれを拒んでいるように見えた。意識的に封印しているのだろう。だがそれでも彼の歌詞には、その片鱗を隠すことができなかったし、何といっても、ステージ上で歌うときに、その隠された感情が全開に発露してしまっていた。涙を流しながら、地面を這い蹲るように歌うときもあれば、天に向かって手を翳しながら、祈るように歌うときもある。mayaは思った。彼をどこまでも感傷的にさせたかった。丸裸にさせたかった。抑圧された精神世界を、解き放たせてしまいたかった。なるほど。彼がステージにこだわる理由がよくわかる。ファラオ自身も解放されたかったのだ。それには、この曲が、この音が必要なのだ。この設定が、必要不可欠なのだった。彼は、ステージが終わったときにはよく興奮して、失神してしまうことがあった。全身が痙攣を起こして、泡を噴いてしまうこともあった。ときには、血を吐いてしまうんじゃないかと、思うこともあった。それほど彼は、一つのステージに、全身全霊入り込んでしまっていた。命がけだった。こんなことがいつまでも続くはずがないと思った。解放とは、ほど遠い状態に陥ってしまっていた。
 しかし彼は言った。「なあ、maya。僕は今まで、こんな状態になるまで、自分を解き放ったことなどなかった。ありがとう。このまま死んでしまっても、まるで後悔はしないよ。恍惚状態に陥ったときに、見えるときがあるんだ。この妊進館の夜空に、ふと、その一縷の光が見えるときがあるんだ。まだ気のせいかもしれない。でも、本当に、その光が見えたような気がするんだよ。この大空一面がね、黄金の光に、一瞬、包まれるかもしれないって、そう思っただけで、興奮するんだよ。希望が湧いてくる。この暗闇ばかりの人生の中にあって、その予感がかんじられるだけで、幸せだと思わないか?ありがとう。このバンドのボーカルになるまで、僕はそんな体験なんて、一度もしたことがなかった」

 mayaは、その男の純粋な心を一瞬、垣間見たような気がした。mayaの心も疼いた。
 だがそれも、ファラオの中の、ほんの一つの破片にすぎなかった。この男は、それとは別に何かビジョンのようなものも持ち合わせている。薄々感じていた。それはビジョンを影でいくつも持っている自分だからこそ、そういう人間を、鍵分けることができるのだ。そう。mayaの舌も、何枚もの層になっているのだ。だが、その層が、ファラオの中にあるどこかの層と重なりあったというのも、また事実だった。感動的だった。同じ舞台の上でそれが混じりあったのだ。mayaにとって、初めてセックスしたときよりも、驚愕の瞬間だった。相手は男だった。それも、何も触れていないにもかかわらず、心が共振したのだ。

 夕顔が、ファラオに気を引かれているのを利用して、この二人を近づけてしまいたい。
 ふと、mayaはそんなことを考えることがあった。この男ならいい。この男が夕顔を犯している姿を想像するのは、強度な興奮剤になる。自分の女が、後ろめたさを感じながらも、別の男に抱かれるのだ。抱かれるなんて優しいものじゃない。犯されるのだ。一方的に、強引に征服されるのだ。疚しい気持ちを抱えながら、思い切り後ろから突かれるのだ。それがファラオだ。ファラオ以外をそこに当てはめようとしても、気色が悪いだけだった。そんな気色の悪い男に犯された女が、自分の女として、これからもやっていけるわけがない。ファラオにやられた夕顔が、今度は、自分と性的な関係を持つのだ。そこにも興奮を感じる。
 そうなれば、この夕顔との恋愛関係にも、また活気が出てくるはずだった。mayaはそう考えた。そういう意味でも、自分は、レコーディングスタジオに篭り、しばらくは出てこないんだよと、アピールしておく必要があった。この間に、君たちは、そう、好きにやってくれていいんだよ、と。誰にも邪魔されることのない時間なんだよ、と。mayaは、エディット作業が延びてしまうことを、ファラオに伝えていた。しばらくは出てこれないと思うから。そのあいだに、いろいろと、事を進めておいてくれよ、と。今後のこともそうだし。身近な人との話し合いもね。
 そしてmayaは、地下の世界へと消えていった。


 ファラオは、ステージに上がっているときと、普段家にいるときとでは、まるで別人のようであった。誰でもそうかもしれないが、特にこの男は、人といるときと、一人でいるときの差が激しかった。それは単に、気分やテンションの問題ではなく、価値観そのものが、まるで違った人間になってしまうのだった。だから、ステージ上で天に向かって涙をしていたかと思えば、その夜、自室では、今後の自分の成り上がり方を、模索し始めたりする。
 そういう意味では、mayaと同じように、複雑な性格なのかもしれなかった。mayaはすべてのことを、秘密のベールで纏う。私生活も見せなければ、何を考えているのか、口に出すこともなければ、表情に出すこともない。ただ音楽にのみ、自分の本音をさらけ出しているかのように見える。だが、ファラオは、曲にさらけ出すという手段がない。矛盾だらけの心が、複雑なメロディに変換されることはないのだ。彼は、自らの方向性に、その矛盾を分散させようとしているのかもしれない。mayaとは純粋に、音楽を通じて神聖さを求めようとする一方、大きな世界で、自分の羽を広げたいという野心をも、持ち合わせていた。それには際限がなかった。どこまでも世界は広がっていった。さまざまな文化があり、社会システムがある。そのすべてを知りたい。体感したいと願う、彼がいた。そのためなら、どんなお金の稼ぎ方をしてもいいし、誰をなぎ倒してもいいと、思うことさえあった。だがそれも、夜ひとりになったときに思うだけで、バンドのメンバーといる昼間には、そんな考えは、少しも割り込んでくる余地はなかった。ファラオの価値観は、同時に、同じ舞台に、存在することがなかった。
 だから、矛盾に引き裂かれるようなこともなかったし、それはある意味、それぞれが独立して成り立っていたわけだから、純粋な人なのだと見られたとしても、なんら不思議なことではなかった。mayaだけが、何かを嗅ぎ取っていたのだ。

 ファラオは、夕顔のことを女としてではなく、一人の事業家として気になっていた。彼女の仕事ぶりは、たいした力のない音楽事務所を持っていただけであったが、そのバックボーンがすごかった。まだ本人から、直接聞いたわけではなかったが、そもそも出資してもらっているのも、その裏からなのだし、そこを探るために、彼女に近づいていったのだ。ちょうど、mayaが一人の作業に、没頭している最中だった。
 このチャンスを逃がすわけにはいかない。mayaが一度作業に集中してしまえば、しばらくは、こっちの世界には戻ってこなくなることを、ファラオは知っていた。本能的に悟っていた。自分にとってのステージで起こるようなことが、mayaにとっては、その音源の制作段階で生じることを、直観で理解していた。僕と彼とは、そこが違うんだ。発揮する場所が違うんだ。
 しかし、夕顔の方は、そうして近づいてきたファラオを、バンドのボーカルとしてではなく、一人の男として見ることになる。その視線を、ファラオは一瞬で、感じ取っていた。自分はどんな立場で、彼女と接することが、最も望ましいのだろう。夕顔は、その美貌にひかれると同時に、彼の野心的な精神にも惚れた。mayaがスタジオに篭りっきりになることを、彼女は好ましく思わなかった。制作費はかさんでいくだけだし、制限時間は、途方もなく膨らんでいくのだから。
 そこを、ファラオに突かれたのだ。
「mayaは少し、時間をかけすぎているようだね。しかも、規模を広げようとしない。自分の満足のいくことをしていれば、それでいいと思っているとことがある。僕はもっと、広い世界に行きたいんだ。どこまでも広い、この現実の世界にね」
 ファラオは、特に含みを持たせて言ったわけではなかった。夕顔と顔を合わせたときに、自然と口をついて出てきてしまったのだ。mayaから、彼女を引き離そうとしている言葉だった。

 ファラオが、夕顔に近づいたことを知ったとき、mayaはほっと、胸を撫で下ろした。
 自宅に帰っても、常に付きまとっていた夕顔の残像が、今こうして薄れたことに、安堵の念を感じる自分がいた。不在じゃなくちゃいけない。自分の帰る場所には、他の誰もが、居てはならないのだ。それが、日常というものではないか。mayaは、この三角関係が微妙な距離を保ちながらも、長く続いてくれればいいと、願っていた。ファラオに犯される夕顔を想うことで、性的な興奮が得られるし、レコーディングの途中で、彼女の影に悩まされることがなくなる。作業に没頭できる。そして、バンドで会うファラオのことを、毎晩、夕顔を犯している張本人だと思うことで、あの美貌も、醜悪さと交じり合って、さらによくなっていく。
 mayaは、こうして、いろんな電波が目に見えない形で、キューブのような立方体を形成している様子に、非常に満足していた。快楽を、どのように、意図的に作り出していけるか。仕組んでいる、その瞬間瞬間こそが、快感であった。やはり、自分の元には、誰もいない状態が最も好ましい状況だ。不在であることが、最も大事なことなんだ。mayaはそう思った。

 ファラオは、夕顔と接近するようになってからというもの、当初の目的とは、どんどんとかけ離れていく自分をも、発見していた。夕顔は意外にも家庭的だったのだ。母親のいない家庭で育ったファラオは、母性に甘えたことがなかったので、この事実に驚いた。自分がいかに愛されることを望んでいたのか。いかにふくらみのある胸に、この顔をうずめていたいと思っていたのか。夕顔は、美人の部類には入っていたとは思うが、それほど端正な目鼻立ちをしているわけではなかった。どちらかといえば、のっぺりとした印象の薄い顔だった。事務所の机に腰掛けている彼女は、その外見に、さらなる威光を身に纏わせていたため、部屋で二人きりになったときには、そのへんにいるような女の子の雰囲気になってしまった。素に戻った彼女を見たのは、初めてだった。だがファラオは、幻滅しなかった。むしろそこが、虜になってしまった。外形的なものばかりを追う、上昇志向の強い彼は、そこにはいなかった。普段は隠れていた母性本能が、見え隠れしていることに、彼は動揺した。そして一度、その胸に顔をうずめてしまった彼は、その後も部屋においては、甘えること一辺倒となってしまった。だが、事務所で会うときには、また違った関係を平然と装うことは容易だった。一人のビジネスウーマン、一人のアーティストという関係を、崩すこともなかった。他のメンバーの誰かに、怪しまれることもなかった。それは無理に取り繕った、人工的な所作ではなく、ごくごく当たり前のもので、演技的なものでもなかった。
 ファラオは、自分が憑依体質であることを、前々から感じていた。自分の意志とは無関係に、その場の空気、世界観で、彼はどんな人間にもなれた。それは、特技というよりは、自分の心の奥底に眠った本質を、暴かれたくないという自己防衛の本能だったのかもしれなかった。しかし、その体質が、バンドのボーカルとしての役所に見事にはまっていたし、夕顔と二人で過ごす夜にも、見事にはまっていた。
 だが、ファラオにとっては、どれが本当の自分であるのか、わからなかった。
 一人になれば、また、眠っていた野心がふつふつと湧いてくる。夕顔ごときの女で、満足していいのか?もっといい女がたくさんいるじゃないか。この女とは、密室になったときしか関係が持てない。どこか、公の場所には連れていけない。華がない。そう。華がないのだ。自分にはまるで、釣り合いがとれていない。俺が、このバンドで成功すると、確信している理由。それは、自分には華があるということだ。天性のアーティスト性だった。はっとさせる何かがあった。ファラオは、自分が世間に知られるようになったときに、芸能雑誌に撮られる自分の姿を想像してみた。そのとき、横にいるのが、夕顔だったらどうだろう?
 ありえない。
 美しくない。この二人は美しくない。なんて、アンバランスなんだ。しかし、自分は、夕顔との関係を、ぷつりと切ってしまうことが可能なのだろうか。部屋にいるときの二人は、誰よりも親密だった。体だけの関係なのだろうか。いや、そういうことなら、誰だっていいじゃないか。それに、特別、彼女のスタイルがいいということでもない。特別、性器の奥が、気持ちいいというわけでもない。ということは、そこには、気持ちが介在しているということじゃないか。
 ファラオは、外形的な美を求め、さらには、芸能アートの業界でトップにまでのし上がるんだという野心が、自分の中心に存在していることに気付いている。だが、家庭的な安らぎをも、同時に欲している自分を発見してしまう。しかし、不思議には思わなかった。そして、ここが肝心なことだったのだが、混同してしまうことがなかった。心が矛盾に引きちぎられることもなかった。彼は、その場その場で与えられた役割に没頭することしか、頭になかった。そこに、雑念の入り込む余地はなかった。彼はいつも、真剣に仕事に取り組んでいたし、切り替えの早い人間だとも思われていた。だから、夕顔とタッグになって、バンドの舞台を拡大していこうとするファラオも、また、自然だった。そして、部屋に二人きりになったときに甘えはじめるファラオも、また、自然だった。さらには、夕顔を捨て去り、完璧な美を擁する煌びやかな女性に一目ぼれして、そのまま夢中になって追いかけていくことも、また、自然だった。ファラオは、そのクールな美貌とは裏腹に、とても情熱的な人間だった。

 mayaにとってのバンドとは、表現活動をしていく上での重要な一つの場所だった。
 つまりは、自分の世界観を、より大きな舞台で表現していくことができるということだった。そして、それを通じて、自分のことを知ってもらうことができる。どんな人間なのか。何を考えているのか。どんな行動をとり、それが、どんな結果をもたらしているのか。影響をもたらしているのか。最終的には、音源に辿りついてもらいたかった。そのための、大きな入り口として考えていたのだ。プロモーションのような役割もあったし、また、それはそれで、舞台芸術として、完成されたものでなければならないと考えていた。しかし、そこには、ファラオの意識とのズレがあった。音源は、舞台を創るための必要不可欠な道具としてしか、ファラオは見てなかったのだ。
 ファラオは、自分が最も輝く場所が、舞台の上であることを知っていた。だから、大きければ大きいほど、力を発揮できるのだった。このエモーショナルなパワーを最大限に発揮することが、彼にとっては、最も望ましいことだった。なので、ファラオの野心は、金や名誉だけでは当然、括ることができなかった。外形的な美を求める傾向は、確かにあった。自らの体を使った、究極の美的世界を体現するためには、どんなに酷使された扱いを受けてもよかった。そういう意味で、彼は、mayaの構想した世界観に、いち早く反応したのだ。自分が演じれば、ものすごいものになる。そして、それを通じて、自分はさらなる大きな舞台へと、飛躍することができる。そのおかげで、mayaだって、居場所を得るのだ。いいことだらけではないか。その後のことは、もちろん、知らない。バンドがどうなるのか。mayaとの関係がどうなるのか。夕顔とはどうなるのか。ファラオは、その瞬間瞬間に、自分のすべてを投げ出す、そんな男だった。しかし、いかなるときでも、美意識に反する行動だけはとらなかった。mayaの美意識と、それほどかけ離れてなかったことが、実に幸いなことだったのかもしれない。
 こうして二人とも、夕顔を、別の側面で有していた。

 そんな関係には、露ほども気付いていない、ヒロユキだったが(いや、そもそも夕顔との接触がほとんどなく、初めて会ったときには、自分とはまるで相容れない感性の持ち主だと、彼は悟っているような人間だったのだが)その後も、自ら近寄ることはなく、それは、夕顔のほうも同じであった。なんといっても、夕顔には、そのヒロユキが放っている犯罪者的な匂いが、嫌でたまらなかったのだ。退廃的な、路地裏的な雰囲気が、どうしても、夕顔の頭の中から抜け出ることはなかったのだ。他のひとは、誰もそんなふうには感じていないようだったが、夕顔は、そこばかりに、目がいってしまっていた。ヒロユキの多彩な音楽性と、ファッション感覚も、けっして、いいとは思わなかった。
 確かに独特なものがあり、誰にも真似できないものがそこにあるのはわかる。しかし、それでも、あまりその辺をうろつかないでもらいたい。彼自身が、危険地帯であるような気がするのだ。だから、mayaやファラオが、土足でどんどんと入りこんで行くのが、信じられなかった。きっと、ヒロユキは、そのまま放っておかれれば、間違いなく、悪事に手を染め始め、裏の社会でしか生きていけないのではないかと思う。音楽があり、バンドがあったからこそ、浮かばれた。そんな気がする。だから、バンドのメンバーである限りは、悪さはしないだろう。飼いならしておけるはずだと、踏んだ。
 私が、その危険地帯に単独で踏み込むことなんて、到底できそうにない。ファラオやmayaに任せておけばいい。人間は単独で見たときに、その人間の、なりのようなものが、鮮明に浮かび上がってくるものだが、ファラオやmayaには、そのような退廃的な匂いはなかった。ファラオは、一般の社会でも、芸能界でも、十分にやっていける素材だった。mayaは、そんな華やかな世界は似合わなかったが、それでも音楽家として、プロデューサーとして、十分にやっていける。
 だが、このヒロユキという男が単独になってしまった場合、やはり、生きる残る道は、裏しかないような気がした。このヒロユキという男を、mayaとファラオは最大限、活用しようとしていた。初めはmayaだった。一緒に音楽をやろうと誘った。そして、彼の音楽的才能に、手を差し伸べるきっかけを作った。ファラオはもっと突っ込んでいった。彼の音楽や、服飾のセンスを前面に打ち出すことで、自らが先頭に立つ舞台を、華やかに飾ろうとした。
 ヒロユキ自体には、華やかさの欠片もないし、彼が作り出す世界にも、煌びやかさはまるでないのだが、それをファラオが扱いはじめると、突然、そのグロかったものが、輝き出すのだ。錬金術師のようなファラオが、そこにはいた。
 一度、ファラオが創作した音源や、舞台構想を聞いたことはあったのだが、毒の抜かれた無菌状態のパッケージを見せられているみたいで、なんとも貧租なイメージを抱いたものだ。そのことを自覚していたのだろう。彼はヒロユキの、その、退廃的な美ともいえない毒牙に執着した。mayaが一人、レコーディングスタジオに入っていることをいいことに、ファラオはヒロユキとの作業に、集中していった。

 ヒロユキは、mayaに居場所を与えられ、ファラオによって、その才覚が引き出されていくにつれて、人格がどんどんと変わっていくように感じられた。すでに、妊進館からは出ていて、アイリスや他の女との接触も、ほとんどなかったようだ。アイリスはタレントとして活躍し始めた時期であり、それと入れ替わるようにして、エリカはこの世からいなくなってしまった。他の女に手を出しているよりも、音楽や舞台に没頭しているほうがずっと楽しかった。しかし、もし、mayaやファラオがいなくなってしまったらと、考えることも最近はあった。
 現に、今は、mayaちゃんとは、疎遠になっているじゃないか・・・。ファラオだって、いつまで、自分の近くにいるのか。わかったものじゃない。ヒロユキは、内心焦り始めていた。彼らが、単独で行動をとるようになってしまったら、自分はどうなってしまうのだろう。自分は使い捨てにされてしまうのではないか。夕顔との縁も、ぷっつりと切れてしまうことだろう。ニセイや逆玉とは切れなくても、そもそも、あの人たちは、アーティストではないのだ。きっと、自分とは違う人種なのだ。サラリーマンになど、到底なれるものではない。そう考えれば考えるほど、自分は束縛されることを、極度に嫌う傾向があった。しかし、ファラオやmayaに命じられることは、不思議と嫌じゃなかった。むしろ、もっと、俺を使ってほしいくらいだった。音楽が関わっているからだろうか。それとも、〝彼ら〟だったからなのか。
 いや、バンドだ。ジェラシカだ。ジェラシカが、そうさせているのだ。この集団が描いていく軌道に、三人は、いや、五人はすでに、乗っているのだ。そうだ。このまま振り落とされることなんて、絶対にない。これは、運命共同体であって、どこまでもいくんだ。どんな未来にだって、立ち向かっていけるんだ。そう思いたかった。一瞬の邂逅だなんて、思いたくはなかった。俺は、ここでしか生きていけない人間だ。ここが、俺の居場所なんだ。これを失うくらいなら、死んだほうがマシだ。ここがあることで、俺は、この時代、この国に、生まれてきた意味が理解できるのだ。存在意義があるのだ。
 もうすぐ、アルバムがリリースされるじゃないか。俺の曲が、構成の半分以上を占めているアルバムが、発売されるんだよ!何をそんなに卑屈になっているんだ。mayaはその俺の音源を、完璧に仕上げているだけなんだよ!脱退や、別のプロジェクトを密かに進めているなんて、そんなことは、ありえないんだよ!彼の想いはすべて、楽曲に反映されるはずだ。そして、その舞台は、このジェラシカ以外にはないのだ。実際、彼はそう言っていたじゃないか。ここ以外にはないのだと。これが駄目だったら、あれがあるみたいな、そんな底の浅いものじゃないんだと。ここが、自分の力が、最も発揮することのできる場所なんだ。そう言っていたじゃないか。ヒロユキは一瞬だが、そのとき安堵感を覚えたものだった。
 しかしそんな気分も、すぐに萎えてしまった。感情の浮き沈みの激しいヒロユキが、このときあらたに、誕生してしまっていた。それまでは、様々な女に、意識を分散させてたいたこともあって、自分の内面を、直視することから避けていたヒロユキだったが、その一ヶ月のあいだは、誰との接触もなかった。
 その代わりに、彼は、〝誰か〟から、ずっと見られているような気がしていた。自分の行動が逐一見張られているような、そんな『視線』を、絶えず感じ続けていた。それが気味が悪かった。


 Metalphysicは、インディズチャートで五位を獲得して、シーンではかなりの話題となっていた。ちょうど、その頃、西谷氏が、インタビュー記事をまとめた雑誌を創刊したことで、その効果は倍加していた。
―今後の、ジェラシカはどうなっていくのでしょうかー
M「どうでしょう。流れに身を任せるだけですかね」
フ「もっと、存在をメジャーにしていきますよ」
ヒ「僕としては、このバンドが、ずっと続いていくことを、望むだけです」

―次のツアーや、音源のリリースが、囁かれていますがー
フ「音源は、今のところ、かなり出したでしょう。もう当分は、ライブと、他の活動に、この貴重な時間を費やしたいですね」
ヒ「ええ。幅を広げたいです」

―全国ツアーですねー
フ「そうです。この音源を使って、さまざまな視覚効果を狙った、パフォーマンスを今、考えているんです。場所はまだ、決まっていませんが、おそらく、最終的には、妊進館と結びつきの強い場所に、辿り着くのではないでしょうか。僕らは、結局、あの妊進館と、深いつながりがありますからね。森の中の妖婦は、まさに、あの妊進館における出来事なんですよ。もちろん、精神的にという意味ですけど」
M「ですから。あの曲が、すべてだと言っても過言じゃない」
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■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■そ、そうなんですか?そんなことを、言ってしまっていいんですか?いやぁ、あなたは、振られる方では、ないでしょうー
フ「一度だけ、とても、屈辱的なことがありましてね。それ以来、僕は変わったんですよ。僕は表舞台に出ようと思ったんです。まだ、それほど昔のことじゃない。とことん有名になろうと思ったんです。ある意味、復讐かもしれませんね。彼女はホステスで、かなりの高額を稼いでいました。僕も、まあ、そこそこは稼いでいたんだけど、彼女との差は、歴然としていましてね。僕はその仕事を、ずっと、していくつもりはなかったし、たいして好きでもなかった。でも、彼女はそんな僕に対して、金の稼げない男だという眼で、見るようになったんです。哀しかったですね。だって、自分の想いを形にすることなく、ただ上っ面だけを、すべっていくような、生活にですよ。その、深みなんて、まるでない生活に、ですよ。自分のすべてを、注いでいないからと言って、非難されただけでなく、馬鹿にもされたわけですからね。
 僕らのライブはよく、馬鹿にされることがありますよね。あなたも見たことがあるでしょう。わけのわからないお遊戯会のようだと、揶揄されることもありますよね。客席の後ろの方は、みんな笑っているんです。冷やかしにきているんですね。でも、恥じることは何もない。だって僕は、今、自分が表現するべきことを、僕なりに、僕たちなりに演じているわけですからね。mayaと出会ったときに、その自分の中の、隠された想いのような、情念のようなものに、気付いたんです。念ですよ。念がその人間を動かしていくんです。他人の心を、動かしていくんです。世界を、宇宙を、動かしていくんです。
 僕は、僕一人だけで、生きているわけじゃない。僕だけの金じゃないし、僕だけの生活でもない。もっと大きな、『精神の宇宙』を感じたいんですよ。彼女とは別れて、上京してきました。確かに、僕の中では、そのような精神性など、まるで無視して物事に取り組んでしまうという面があります。それが顕著に現れた、それまでの人生だったんです。煌びやかな世界。でも、表舞台じゃない。偽りの金と、外形的な美に彩られた世界。嫌いじゃない。でも、あの女にだけは、見せつけてやりたい。僕らが有名になった姿を。メディアを通じて。彼女の目に放りこんでやりたいんです。たとえ、笑われたっていいですよ。僕らは今、強い信念を持ってやってますからね。そう、僕は、変わり始めたんですよ。
 けれど、完全に、その自分の性質を覆すことなんて、できませんよね。それもわかっているんです。ときどき、抑えがきかなくなることがあるんです。表舞台で活躍しながらも、彼女よりももっと、多くの大金を獲得したい。どこまでも、広い世界に行ってみたい。華やかで、美しい世界を極めてみたい。でもそこには、単なるのっぺりとした、つまらない美はいらないんです。精神的なグロさから出たものがいいんです。僕が表現するのは」

ヒ「たぶん、ファラオ以外の人間が、僕らの表現を体現化すると、かなり引いてしまうと思うんですよね。でも、彼がやると、それが妙にポップになるんですよ。すっと入っていくようになるんですよ」
M「僕は、内向的ですからね」
ヒ「でも、深いんですよ」
M「狭いんだよね。好奇心がないのかな。広げようとしない。刺激をあまり受けないんです。どれも、先が見えてしまって。底が浅いんです。めったにありませんね。衝撃を受けることなんて。それに比べて、ヒロユキやファラオは、好奇心が強いですよ。だから、僕のところに、こうやって集まってくるんじゃないかと思います」
フ「彼は放っておくと、ずっと篭ったまま、外に出てこなくなってしまうからね。やっかいです(笑)でも、とんでもない楽曲が、たまに、ひょっこりと出てくるときがあるからなぁ。でも、もっと広げていったほうがいいよ。退屈だよ」
―リーダーは、mayaさんなんですよね。今後の方針は、どのように考えているんですか?―
M「僕ですか。いや、今は、ファラオとヒロユキに、そのコメントは託したいくらいですね。僕はもう、たいして発言することもないと思いますよ。扉は閉じかけてしまっているし、気力は、その扉の奥に、しまいこまれてしまっていますから。最後の力を、今、振り絞っている所ですけど、それも、もうじき、終わりますよ・・・。あとは、二人がやってくれます。扉はもう、閉じてしまっているんです」

―扉?なにかの比喩ですか?―

M「違いますよ。そのままの意味ですよ。扉が閉ざされる。僕は、その向こう側にいる。存在しているようで、存在していないんです。見守っているんです。隠れてしまうわけじゃないですよ。そこにはいます。でも、いないんです。説明するのが難しいな。誰か代わりにしてくれないかな。
 僕の求めているものは、煌びやかな光でもなければ、山のような財宝でもない。何かといえば、それは、愛ですよ。僕はそう、さっき、ファラオかヒロユキが言ったように、何事に対しても無関心なんです。刺激を受けない。興奮することもほとんどしないし、世界に対して、ある意味、絶望しているわけです。だから、ポジティブになんてなれないし、なりたくもない。楽曲だけが、唯一の心の拠り所なわけです、酸素ボンベなんです。だから、それを取り外そうものなら、僕は生きていくことができない。必死で抵抗しますよね。僕の心を救うものは、何か。潤すものは何か。ずっと、そのことばかりを考える、人生でした。試し続ける人生でしたよ。
 僕は、ファラオやヒロユキが言うような、狭い人間じゃない。もともとは、間口がとても広い人間なんです。でも、僕の中で愛は育たなかった。憎むことでしか、生きる気力は湧いてこなかった。でも僕は、その憎しみを撒き散らしたくはなかった。いつかは、愛に変えたい。愛に変えたいんですよ。精神的な領域で、幸福を得たいんです。駄目ですか?僕は必死で探しているんです。最後の音を。最後の言葉を。その瞬間における、最高の精神世界を。
 いいですか。今という時は、もう二度とやってはこないんです。今が、すべてなんです。
 ここに存在する意味。それがすべてなんです。だから、その思いは決して、違う時間の中では現れてはこない。だから、その思いのすべてを何かに変換して、残しておかなくちゃいけないんです。楽曲ですよ。僕の場合は。だから、それに没頭していて、何が悪いんです?それは、もう、二度とは現れない精神の塊なんですよ。僕にとっては、財産ですよ。それによって、幾分救われるわけですから。ずっと後になってから聞いても、はっとさせられることがあります。今は、なくなってしまった想いのようなものを、そこで感じとることができるからです。一種の処方箋なのかもしれません。僕自身の欠陥を癒すためには、僕自身の欠陥だらけの音楽しかないんです。それを、今この瞬間にも、製造し続けなくちゃいけないんです。他人がつくったものじゃ、代用できないんです。それが、きっと、たいして刺激を受けないってことと、繫がってくるのかもしれません。断片的には、とても衝撃をうけることはあります。もちろん、そういうメンバーが集まりましたからね。集めたんじゃない。僕の「念」のようなものに、引き寄せられてきたんです、きっと。僕ね、こう思うんですよ。自分の中で思ったことというのは、必ず現実に起こってしまう。考えていたことが、目の前に現れてしまう。もちろん、心が表層部分を彷徨っているだけの生活をしている人には、無理な話ですけどね。でも、心の位置がこう、普段から、水位が低くなっていると、自然に思うことと、考えること、感じることとが、現実に飛び交う電波と、相互作用を起こしてしまうことが、あるんです。だからそれは、決して力んで起こす「念」じゃない。ごくごく自然だし、日常的なことなんです。だから僕が、今、感じていることは、いずれ、現実になってしまうんです。怖いことですよね。でも仕方がない。それは、そうなる必然性があるんですからね。それが、運命なんですよ。避けることは、決してできないんですよ」


 mayaはインタビューを終えると、突如、一人、妊進館へ立ち寄ってみたい気持ちにかられ始めた。森の中の妖婦を最初に演奏した場所として、彼の中では定着していたのだが、ふとここが、本当に燃やされてしまったのではないかという不安に、かられてしまったのだ。立ち寄った。
 だが、妊進館は、そのままのかたちで、原型を留めていた。その日も霧が発生していたし、細かな霧雨も落ちてきていた。そのうち雨粒は太く、大きくなっていき、mayaの額を強打するようになっていた。庭園から中の様子を窺った。灯りがついているようだった。衝立の隙間から、その光は漏れてきていた。mayaは、ふと、人影が迫ってきていることに気づいた。さっと、後ろを振り向いたその瞬間、腹の下に激痛が走った。人影は二人だった。見上げようとしたが、その痛みに耐え切れず、俯いてしまった。地面を這いつくばるような格好になった。
「誰だ」
 やっと、口にできた一言だった。二人の影は、何も言葉を発しない。
「もう、用はないんですよ」
「役目は終わったんですよ」
 雨足は次第に強くなってくる。建物の灯りが、微かに漏れてきている。庭園は灰色になっている。
「痛いでしょう。痛いはずですよ。血ですか?血は出ませんよ」
 二人のうちの、どちらかが口をきいた。
「終えたんですよ」
「あなたのお膳立ては、もういらないんです」
「この世から去るときが、来たんです」
「あなただって、薄々、気付いていたじゃないですか」
「僕らは、暗黒の底からやってきた使者です」
「直接、手を下すのは僕で、この男は、それを見届けるために、ここにいる」
「僕らは、手を組んだんですよ。お互いを、今、必要としているんです」
「あなたは、いらない。あなたに、見い出された僕たちだったけど、状況は刻々と変わっています」
「今まで、どうも。あなたは、これから起こる波に、乗っていくことができない。ここまでの、人なんです」
「安らかに、眠ってください」「さようなら」
 肉体から内臓が勝手に飛び出してきそうなくらいに、血液の流れが速くなっているのがわかった。
 それぞれが、それぞれの意思を持った独立した器官のように、飛び跳ねていた。
 今まで、一つの肉体にだけ、閉じ込められていたことへの反発を繰り返するように、勢いよく。
「雨がすべてを、流し去ってくれます。あなたとの出会い。共に活動をしてきた日々の思い出。そのすべてを、流し去ってくれます」
「そして、この霧が、すべてを、覆い隠してくれます」
「僕らはもう、会うことはないのでしょう」
「霧に閉ざされた、妊進館」
「誰かが発見してくれるといいですね」
「でも、あなたの遺体は、どこからも出てくることはない」
「地下室ですね」
「実験材料ですね」
「人体実験に使ってくれますよ。いいサンプルになりますよ」
「あなたは、実に興味深い人間だった」
「尊敬していた」
「奥があった」
「でも、最後の扉は開かなかった」
「僕らの扉は、別の場所にあった」
「あなたとは、その扉を、共有することができなかった」
「闇が深すぎる」
「未来がない」
「底がないんです」
「堕ちてゆく」
「僕は、堕ちたくない」
「上昇していきたい」
「これ以上、下には、何もないのだから。死の淵が、ぱっくりと、口を開けているだけだから」
「あなたは、それでも、やめようとはしなかった」
「何度、引っ張り出してこようとしたか」
「あなたは、僕らと出会ったことで、さらに、そっちのほうに、突き進みたがっていた」
「もうここが、限界なんです」
「あなたの支配力は、とても強かった」
「消してしまう以外に、あなたから逃れる方法は、なかったんです」
「感謝しています」
「消えてください」
「これ以上、僕らを操作しないでほしい、苦しめないでほしい」
「逆に僕らが、あなたを操作したい」
「死の淵へは、あなた一人で、行ってください。あなたは、この妊進館に眠るべき人です。荘厳な墓でしょう。古代の王でさえ、こんな規模の墓に埋められることなんて、なかったことでしょう」
「しかも、殺害現場と墓が、同じだなんて、実に幻想的です」
「息絶えた瞬間、妊進館は墓石と化すんです。遺跡と化すんです。観光名所になるといいですね。他には何もない土地ですから。せめて、駅からここまでの道が、賑わうようになるといいですね。側には、たくさんの宿が、立ち並ぶことになるかもしれない」
「ここに、しばらく、居ることに決めた理由ですよ。ずっと、今日という日を、待っていたんです。あなたに消えてもらう日を。ずっと。この周辺にいたのは、僕らがパフォーマンスに関して、いい実験が繰り返せるからという、ただの、それだけじゃない。あなたから、音源を引き出したかったからです。スタジオに篭ることも、あなたの性格を考えれば、容易に予想がついた。そして、『森の中の妖婦』のあとのアルバムの中に、あなたの曲を半減させたのも、もちろん意図的に、です。バンド内のバランスを図ろうとするあなたは、おそらく、反対はしないだろうと思いました。むしろ、積極的に取り組んでくれると確信していました。でもあ、なたの創作意欲が、そんなところで留まるはずなんてない。必ず、満足することのできなかった鬱積を、別の形で、別の楽曲に放り込むだろうと、踏んだ。予想通り、あなたのスタジオでの滞在時間は、大幅に増えていった。けれど、それも長すぎましたね。制作費もかかりすぎました。夕顔でさえ、嫌気がさしてましたよ。あなたは、どういうわけか。その夕顔さえ、僕に預けさせましたね。その意味だけが、わからないんです。あなたが、夕顔のことを愛していなかったからですか?ただのパートナーだったからですか。どうして、僕とくっつけようとしたんですか?それだけは、今日聞きたかった」
 だが、mayaは、答えなかった。
「さっきのインタビューでの答えを、丸呑みしてしまっていいんですね。あなたは誰のことも愛することできなかった。どんな音楽をも、愛することができなかった。いや、嘘だ。あなたの音源には、死からの再生を、暗示するものが数多い。確かにあなたっていう人は、誰のことも、愛することができなかったのかもしれない。けれど、愛そうとしているかのように見える。人生全体を、愛そうとしていた。それは今でも、変わりがないのですか?それだけが、どうしても、聞きたかったことです。あなたの口から。あなたの考えを。教えてください」
 mayaはすでに、体を丸めて地面に蹲っていた。
「それが、答えですか。それが答えで、いいんですね。僕らは、あなたの極秘に録っていた音源を入手します。それを僕の曲として、今後、世の中で発表していきます。僕の曲として、僕の声を入れて世に出します。あなた抜きでね。あなたはただの音源メーカーなんですよ。それを外に打ち出して、世界に広げていくことには、まったく不向きな人だ!」
「役目は、終わったんです」
「このまま、死んでもらいます」
「妊進館ごと、火葬してしまわれることを、願ってますよ。最後まで、何も言っては、くれないんですね。あなたのことは、最初に会った時のあの印象しか、今は残っていません。あとはずっと分からないままだった。同じ空間にいても、同じ舞台に立っていても、すぐ横にいたあなたのことは、全然、わからないままだった。心が読めなかった。けれど、あなたのほうはずっと、僕の心を見透かしているようで、僕は怖かった。落ち着かなかったんです。ひと時も心は休まらなかった。あなたから離れたかった。もう束縛しないでほしい。妊進館にも、もう、戻りません。リリースした作品は、消し去ることができません。このバンドが一瞬でも、この世に存在していたことを知る、唯一の証拠品として、残ってしまいます。けれど、それも仕方がない。あなたと出会ったことを、僕の人生から消すことができないのと同じ理由です。僕は僕として、あなたとは関係のない人生を、これから切り開いていければそれでいいんです」

 mayaは、薄れゆく意識のなか、罪悪感にまみれた自分の生涯のことを思った。金ばかりを使いまくり、消費だけを促進していくだけの、世界に対して何の貢献もしていないその自分自身を、懐疑的に見るときもあった。何の利益も上げていない。何の生産もしていない。ファラオが加入して、何とか、CDを二枚は仕上げることはできた。しかし、無益なことには変わりがなかった。無意味で無目的な人生だった。しかしだからといって、自ら死ぬこともできなかった。他に逃げる場所もなかった。今、この瞬間を、行き抜くためには、作曲をし続ける以外になかった。その瞬間にしか、安らぎはなかった。自分を殺しにやってくる人間を切望していたのだ。その念がようやく叶ったのだ。罪悪感に苛まれた人生も、これでようやく終わる。この妊進館で秘めやかに、その生涯は閉じていく。願ってもないことだった。
 次の瞬間、地下の、どの部屋に、自分は横たわっているのだろう。


「邪魔なんだ。目障りなんだ。今の、この瞬間までは、確かに、俺には、必要な男ではあった。だが、もう用はない」
 ファラオは、ヒロユキと二人きりになると、突然叫びだした。
「音源は出せたし、それに、未発表の曲もたくさんある。俺はな、レコーディングスタジオのスタッフと、頻繁に連絡を取っていた。知ってるか?mayaのレコーディング作業の進行具合をね。何かと、チェックしていた。それと、その、音源のコピーを頼んでおいたんだ」
「そんなことを?」
「今は、俺の手元にあるのさ。あれは壮大な組曲だった。驚きだぜ。ここに、俺の歌声を加えれば完成だ。他の作業はすべて整っている」
「あなたって人は」
「君はあれだろ。一人でポンと置かれると、途端に何もできなくなってしまうタイプだろう?僕らは共に高めていける間柄じゃないか。それに、これからは、厄介者がいなくなるんだ。僕らの思い通りに好きなことができるんだよ。バンドは完全に、あいつから乗っ取ったんだ。俺の思惑通りだ。そうだ!一人、メンバーを補強しようじゃないか!それだよ。それ!」
 ファラオが、今度は、大きな声を上げた。
「それだよ、それ!ただの一つのパートだったんだよ。くよくよ考えることじゃない。きれいさっぱりと、忘れてしまったらいい。もう、彼の重要な楽曲は、すべて、ここに揃っているんだから。それに、もう、あの男から引き出せるような音源は、なかったんだ。俺は、その見極めがつく。mayaも、きっと喜んでいると思うよ。彼はもう、限界だったんだ。そこが寿命だったんだ。寿命の終わった人間がさ、その後になってからも、だらだらと生き続けていることほど、空しいものはないじゃないか。彼は彼のピークで、十分に力を発揮した。そうは思わないか?」
 そう言われると、ヒロユキも何だか、そのような気がしてきた。
 結成から黎明期に至るまでの、その過程の中にこそ、彼の最も華やかな時間が、用意されていたのかもしれない。彼はここが引き際だったのかもしれない。
「ある意味、了解済みだったのさ」


 インディーズチャートに登場したのは、たったの一ヶ月のあいだだけだった。
 だが、二週目にはすでに、バンド名はブロックにかけられてしまい、三週目には、タイトルが所々消え始めていた。電池切れをおこした液晶画面のように、その姿は、徐々に徐々にこの世から姿を消し始めていた。

 夕顔は、その日、頭痛がひどかったことを覚えている。このまま三角関係をずっと続けていていいものなのかどうか。mayaのレコーディングもいずれは終わる。
 こうなったら、彼にはずっと、篭っていてもらったほうが、都合がよかった。かさむ制作費がネックだったが、それも、ファラオと何か新しい事業を起こせれば、解消できる。
 夕顔はしだいに、ファラオと生きていくイメージを持つようになっていく。
 だが、そうなればなるほど、mayaの存在が邪魔だった。重り以外の、何ものでもなかった。彼から音楽を取ってしまえば、何も残らなかったが、その音楽でさえ、ファラオという演者がいなければ、まるで役に立ちはしなかった。
 頭痛がひどくなってきた。
 しまいには、強烈な回転性の眩暈まで、起こるようになってしまった。
 そういえば私は、ずっと眩暈持ちだった。恐怖心が募ってくると、自然発生してくる持病であった。何かの予感を捕らえてしまったときに、よく起こった。夕顔は、ヒロユキに電話をかけた。こういうときに、気兼ねなく話せるのは、彼しかいなかった。
「何も起こってはいない?」
 いきなり、こう切り出されたヒロユキは、戸惑ってしまった。妊進館で受けた電話だった。
「何も、って・・・」
「起こってないわよね」と夕顔は言った。「気のせいよね。ほら、私って、突然、異変を感じ取ってしまう能力があるじゃない?」
 夕顔はここで、自分の顔に、血の気がまったくなくなってしまったことに気付く。夕顔には、念の力があったのだ。念じてしまっていた・・・。
 原因は私じゃないの!彼を消してしまってほしい。まさか、ほんとに・・・、本当にそんなことが。
「何も起こってませんよ」
 ヒロユキは、平然を装った。
「そう?それなら、よかった。危うかった」
 夕顔の頭痛は、次第に、和らいでいった。
「どうしたんです?」
「いや、何でもないんだけど」
「体調が、悪いんですか?」
「ファラオは?」
「はっ?」
「あなた、一緒じゃなかったの?」
「彼が、何か、言ってたんですか?あなたに、何か、相談でもしていたんですか?」
 ヒロユキは、夕顔がすべての事情を、知っているのではないかと疑った。
「知っているんですね」とヒロユキは言った。
「えっ?何?何のことよ?」
「ここでの出来事ですよ。まさか、あなたの指示だったんですか?」
 夕顔にまた、眩暈が起こり始めた。
「あなたがすべてを、仕組んでいたんですか?それとも、やはり、ファラオの独断だったんですか?」
「ちょっと、何のことよ」
「惚けるんですね。ということは、ファラオも、言われたとおりに、実行しただけか。なんてことだ・・・」
「ちょっと、何をぶつぶつ、言ってるのよ。何があったのよ」
 夕顔の不吉な予感は、だんだんと、現実味を帯びてきた。
「mayaのこと?」
 ヒロユキからは、何の反応もなかった。
「そう、そうなのね?mayaが、どうかしたの?ファラオは、そこにいるの?あなたも、そこに?三人一緒にいるのよね。三人一緒に。それが、正常よ。三人は、同じ舞台に立っていなくちゃ、駄目なんだから。何を今さら言ってるのって、思うかもしれないけど。でも、三人は一緒でなきゃ」
「まだ、そんな言い訳をしますか?」
「言い訳?」
「後の祭りですよ。どっちが、あなたの本性なんですか?」
「本性?」
「本当は、バラバラにしたいんでしょ?あなたの画策なんでしょ?」
 夕顔は、突如、言葉を失った。
「あなたとファラオの、密会のことも、僕は知っているんですよ。何が三人でなんですか?そもそも最初から、僕は、除外されていたじゃないですか!ファラオが加入した後の、あなたの変化だって、僕は見逃しませんよ。あなたは、ファラオを寝取ったんです。そして、ファラオを操ることにまで、成功した」
「操るって、何よ!」
「主犯は、あなたなんです」
「主犯ですって?」
 夕顔の声は、裏返った。
「共犯は、ファラオです。そして僕は、無実だ。実際のところ、ただファラオの後にくっついていっただけだ。あなたたち二人の陰謀に、無理やり、加担させられただけだ。僕には、断る権利すらなかった。仕方がなかったんだ」
「あなた、大丈夫?」
 ヒロユキの方が、気がふれているようだった。こっちが冷静に対応しないといけない。
「今から、事務所に来なさい。わたしと二人で、話をしましょう」
「今度は、僕を誘惑する気ですか?」
 ヒロユキの声は歪んでいた。「そうか。あなただったんですか。僕のことを、ずっと影から見ていたのは。最近、ずっと、感じていた、あの影のことですよ。あなただったんですか。監視されているような強烈な視線が、ずっと、ここにはあるんです。あなただったんだ」
「いいから、事務所に、来なさい」
「あなたが、来たらいいじゃないですか。最後に会いたいでしょう。火葬される前に、一度、その目で見ておきたいでしょう」
「何を、言っているの」
 主犯?
 時間を置いて、その言葉が蘇ってきた。
 主犯なの?
 私は、mayaの死を念じた。
 だが、それは、あの時。あの時、一度だけだった。
「あなたの事務所には、ファラオが一人で、向かいますよ」
「ファラオが?」
「僕は、もう、あなたに会うことはないと思いますよ。僕は、mayaという人間を通じて、初めて、あなたと知り合ったわけですから」
 そして彼は、こんなことも言った。
「僕は、何の役にも立たない、無害な男ですから」と。
 私には、あなたが無害な男の人にはとても見えませんと、夕顔は思った。
 あなたは、犯罪者のような出で立ちです。その不穏な二十面相は、相手を戸惑わせます。毎回、印象が違うじゃないですか。あなたは、逃亡犯みたいです。何かから、ずっと逃れているんじゃないですか。素顔を晒せない理由が、あるんじゃないですか。あなたは自分に、正直になれない人です。素直になれない人です。だから、単独では行動することができません。隠れ蓑が必要なんです。あなたを守ってくれる、強力な盾が必要なんです。そしてあなた自身は、様々なお面の所持が必要なんです。そこにあなたのアーティストとしての秘密があるんです。あなたはそうやって、絶えず、自分の本質を隠すための衣装のセンスが抜群にあるんです。その行為自体が、表現活動になっているんです。あなたは、また、巨大な盾を、手に入れました。もしかしたら、あなたが一番、何か大きなものを得たのではないですか。
 次の瞬間、夕顔は、追悼コンサートの打診を、ファラオにしていた。

「代わりました、夕顔さん」独特の低い声がした。
「一緒だったんですか」
「そうです。共に作業をしていたもので」
「作業?」
「まあ、そういうことです。お分かりになるでしょう」
 あなたが、指示なさったことですからねと、言わんばかりであった。そう祈っていたでしょう。念じていたでしょう。
「追悼式ですって?いつなんです?あさって?ずいぶんと、また急な。いつだって、あなたは、突拍子もないんですね」
「観客も入れましょうよ。そのほうがいいですよ。僕らだけだと、ほら、ずいぶんと、深刻なものになってしまいますから」
「深刻になって、何が悪いんですか?」
「特に、僕ら二人は、関わりが深かったから」
 その提案は、まんざらではなかった。確かに、観客を入れて盛り上がってくれたほうが、罪悪感は雲散してしまえた。
「そういうことですよ」
 ファラオは、人の心をすべて、把握しているようなタイミングで言い放った。
「告知しておいてくださいね。ただし、情報の送り方には、気をつけてください」
「どこをどう、気をつけるんですか」
「送り方は、三通りあったでしょう」
「ありますよ」
「そのうちの、どれを選択するかで、その後の展開が、まるで変わってしまいますからね」
「一般公開のページと、会員限定のページ、それと三つ目は・・・」
「その三つ目だけを、使ってください」
「わかりました」
「送り先は、あなたが決めてくださいね。もちろん、見たことも、聞いたこともない相手ですけど。それでも、選ぶんですよ。僕らが選ばれるんじゃない。僕らが選ぶんですよ。そういうバンドだったでしょう」
「バンドの話は、もう結構です」
「そうでした」
「追悼のコンサートをやることで、すべてを、忘れてしまいましょう」
「ええ。そのために、やるんですから」
「たとえ、弔われなくとも、私たちは生きていかないと。どんなことになろうとも、私たちは生きていかないと」
「たちって言いましたね」
「ええ、いいましたよ」
「あなたと、僕も、そこに含まれているんですか?」
「いけません?」
「よく考えてみることですね」とファラオは、冷淡な声で言った。
「僕らの関係っていうのは、実は、あの男がいたことで、成り立っていたんじゃないかって、思うんですよ。その男が、葬られた今、僕らの関係も、徐々にですけど、薄れていっているんじゃないですかね。そういう感じはしませんか?あなたにも伝わっていると思うけどな」

 コンサートは、それまでの妊進館ライブと同じ時刻に、開場した。すでに冬の冷え切った夜空は真っ暗で、街の商店街の灯りも、途切れ途切れになっていた。この前のコンサートを境に、急に街全体がさびれてしまったような印象を受けた。これは、冬の到来のせいなのか。この土地の生命力が、痩せ細ってしまったせいなのかは、わからなかったが、しかし一つの魂の終わりが下されていた。
 最初の曲は、m森の中の妖婦だった。
 曲の構成は、ファラオ以下、メンバーがすべてを決めていた。
 しかしそこに、歌が乗ることはなかった。演奏を打ち込んだだけの音源が流れてくるだけであり、建物の中の光は、鮮やかに照らされたものの、そこにメンバーの姿は、誰一人としてなかった。
 そのまま、最初のライブの時のように、シベリウスのヴァイオリン協奏曲で、エンディングを迎えてしまうかのように思えた。
 だがそこで、ファラオの声が聞こえてきた。
 森の中の妖婦は、まだ終えていないにもかかわらず、そこに強引に別の曲が入ってきた。アルバムの中にあるヒロユキの曲を、引っ張り出してきたのだろう。メンバー四人が妊進館の中に現れた。
 庭園に佇む夕顔は、息を呑んだ。と同時に、ステージは暗転してしまった。
 何も見えない中で、曲はどんどんと進行していった。圧倒的な迫力を示した森の中の妖婦からは、一転していた。煌びやかな衣装を、何度もチェンジしていくメンバーの姿も、そこにはなかった。おそらく、前回のような準備が、できていなかったのだろう。楽曲も、ヒロユキのものばかりを並べてしまったために、荘厳さを欠いていた。重みのない薄っぺらな世界だった。ここには、あの視覚効果が必要だったのだ。音源だけでは、とても力不足だった。
 しかし、ここにある意味、mayaへの追悼の意が込めていたのかもしれない。
 ここにこそ、mayaを抹殺した理由が、体現されていたのかもしれない。
「なぜ、深刻になってはいけないのかしら?倦怠から引きずり出すためには、安易な調和なんていらないの。深刻さこそが、必要なものよ」
「そういう時代は、もう終わったんですよ」
 段差のある庭園に突き刺さった数十本の柱が、その夜も無意味にそびえたっているのが見える。
 異界からやってくる、電波を受け取るために、立っているのだろうか。
「わたし、もう、駄目かもしれない」
 ファラオは、そのライブの途中、客席にいた夕顔の姿を発見していた。
 なんと、やつれてしまったことだろう。もともと、たいして美人なほうではなかったが、それでも、胸の奥を掻きむしる快活さだけは、ずっとあり続けた。
 それが今はまるで、消えてなくなってしまっている。
 アルバムの曲をすべて演奏し終えると、結婚式でもないのに牧師が現れた。
 だが彼は、ステージの中央にやってくると、いきなり上着を脱ぎ捨ててしまった。中には白衣を着ていた。横には、助手の男を従えている。メンバーは、庭園の丘の一番高い所に立っていたので、見上げるように、牧師は彼らの方を向いた。
「その魂は、あなたに移りました」
 白衣の男は、サングラスを取った。
「あなたが、その使命を引きついだのです。私は兼ねてから、ずっとそれを願っていました。研究を重ねてきました。しかし、それは、人工的には作ることができなかった。何のマニュアルも、存在することはなかった。外部から、ちょっかいを出して、達成されるものではなかった。それは、あなたがた人間が、自らの苦悩のなかで体得しなければならなかった。我々は無力だった」
 ファラオは、夕顔の顔がドロドロにただれていく様子を、ステージの上から、はっきりと捕らえていた。
 初めは、泣いているのかと思った。しかしそれは皮膚だった。
 夕顔は周りの観客に同化することなく、輝いて見えた。しかしそれは輪郭だけであり、その縁取りの内部は、もうすでに終わってしまった人間のようだった。哀しかった。夕顔を失うことが、はっきりと、このときわかったからだ。ファラオは、胸を詰まらせながらも、こう宣言した。
「確かに、僕が引き受けました。僕が、その柱の一つに縛られ、本当は、高く舞い上げられるべきだったんです。僕だけでいいんです。僕は、mayaとの約束を、誰にも漏らしてはいない。あの人にも、メンバーにも、他の誰にも。でも、それは、僕の胸の中にだけ、しまっておけばいいことです。これからの僕の行動に、そのすべてが示されることになるだろうから」
 後日、mayaの訃報が、AMALGUMから公式に発表されると、その影響で、CDは飛ぶように売れていった。DVDにも羽が生え、即日完売となってしまった。
 その背後で、ファラオの声はずっと木霊していた。

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