二十八

文字数 4,053文字


 里中が谷口と別れ、ホテルにたどり着いて眼にしたのは、ラウンジで赤い服を着て座っている女だった。
 見覚えがあったのでそれとなく近づくと、以前、原稿を引き取りに行った、目下売り出し中の流行作家の家で紹介された、稿倍舎の女性編集者とわかった。
「ああ、やっぱり小菅さんのところで、お会いした娘さんだ」
 そう言うと、女性は
「ああ、あのときの――」
 と、にこやかな笑みを魅せて言った。「こちらへはご旅行ですの」
「ええ、まあ、そんなところですが。あなたのほうこそ――」
「わたしの場合は、仕事の打ち合わせで。ここで、作家の方を待っているんですの」
「うちと違って、お宅の本は売れることで有名ですからな」
「そんなことはありませんわ。売るためには、われわれ編集サイドも色々と苦労していますもの」
「そうでしょうか。売りの稿倍舎さんが出版するといえば、どんな偉い作家さんでもオーケーをくれるでしょう。ましてあなたのように美しいお嬢さんが相手であれば……」
「ま、わざとらしい。そんな見え透いたこと言っても、なんにも出ませんよ」
 彼女は笑顔で否定したが、その奥の表情は満更でもなかった。
 脚の長い、すらりとしたボディラインが際立つ女性だった。里中は、その姿をどこかで見たような気がしたのだが、どこでかは憶い出せなかった。
 里中は、彼女の前に現れた作家を紹介してもらってから、ここに二~三日は泊まっていますので、なにかあれば、どうぞと言って彼女と別れ、カウンターに向かった。
 カウンターで名前を告げると、部屋のキーとともに、お出かけ中、来客がございましたと一枚の紙切れを渡された。そこには、今夜会う予定になっていた男の名前があった。
 谷口と伏見への同行中、携帯を切っていたので、宿泊先に電話したのだろう。里中は思った。それによると、今夜は都合が悪く、別の日にしてほしい旨が書かれていた。
 里中は、三分の一も進んでいない原稿の続きを読もうかとも思ったが、よくよく考えると、暗い気分になるのは眼に見えていた。おそらく三田もそんな気分になって、中断しているのではないだろうか……。
 それよりは、腹ごしらえが先ということで、ふらりと夜の街に出た。
 どこへ行くという当てもなかった。鬢の白くなった男が、独りぽつんと夜の食事をファミリーレストランでしている姿など、見られたものではあるまい。どこか軽いものでも摘みながら、飲めるような店はなかったか――。
 里中は考えを巡らし、一度、谷口に連れていってもらった祇園新橋近くの酒落た和食の店を憶い出した。
 和食といっても、いわゆる伝統的な京料理のそれではなく、フランス料理的なイメージの、軽い食事を主体にしている、男独り、あるいは女独りで、ふらりと入ってもおかしくない店だった。
 幸い、その店は里中の泊まっているホテルから、そうも離れていなかった。白川に架かる小さな橋を越え、南に向かって暫く歩いた露地の奥に、その店はあった。
 谷口の解説によると、いわゆる通がお忍びでくる店で、名ある版画家や有名人が、ちょくちょく顔を見せるところらしかった。
 テーブル席が空いておらず、カウンター席に座って流麗な筆文字メニュにあった適当な料理を注文したとき、オーダーを聞いていた三十代後半であろう店長然とした男性が
「ひょっとして、以前、谷口さんとおいでになった――」
 と、里中の顔を見詰めながら、遠い記憶の糸を辿るようにして訊ねた。「確か、里中さんとおっしゃったのでは……」
「ああ、そうです。よく覚えてらっしゃいましたね」
「そりゃ、覚えてますよ」
 店長風男性は、にこっとして続けた。「一応は、これでも一度おいでになったお客さまの顔は忘れないようにしてますから……」
「凄いですね」
「いえいえ。これも商売のうちです」
「しかも、名前まで……」
「いや、これには、ちょっとしたコツがあるんですよ。ただし、企業秘密ですがね」
「なるほど――。
 里中は感心した風を装って言った。企業秘密というかぎり、教えるつもりはないのだろう。これも京のもてなし技術のひとつなのかも知れない。里中は思った。「ところで、あのとき対応していただいたご年輩の方は……」
「父ですか。もう死んで二年になります。がんでしたが……」
「そうでしたか。それは、失礼なことを申しました」
「いえ。あのときは、まだ見習いの身分でしたので、あまり里中さんとは、ことばを交わしていなかったので、ちょっと自信がなくて。確かめるような言い方をしてすみません」
「あ、いやいや。こんな平凡な顔と名前を覚えていただいていただけでも光栄です」
 里中は出されたビールを一口飲んだあと、嘆息して言った。「そうですか。この店のオーナーにおなりになってから、もう二年も経っているんですか。それにしても、なにかとお寂しいんじゃないですか」
「いえ、こうやって、色んなひとが、父の面影を求めてっていうんですか、訪ねてくださいますので、寂しくはありませんね。いまでも後ろで、なにをいつまでもくっ喋ってるんだ、早く手を動かしなさいと怒っているような気がしますよ」
 里中は、その男性のいかにも気のおけない話しぶりに、亡くなったこの店の親父を見る思いがした。その笑った顔と話し方が、かつての店主そっくりであった。
 と、そのとき、里中がふと気配を感じて眼をやったドアから、見覚えのある色の服を着た女性が入ってくるのが見えた。その顔を見て、里中が「あ」という声を上げるのと、店長の「お」という声が発されるタイミングは、ほとんど同時であった。
「え、ご存知だったんですか――」
 店長は、入ってきた女性に驚いた様子の里中に訊ねた。
 ご存知もなにも、その赤い服の女性は、二時間ほど前にホテルで会ったばかりの、あの女性編集者だったのだ。
 あのときは、俄かに憶い出せなかったが、名前は確か真崎響子といったはずだ。人間の記憶というのは、実にいい加減なもので、憶い出そうとしているときは憶い出せないが、ひょんなことが切っ掛けで急に思い浮かんだりするのだ。
 この場合もそうだったが、あんな挨拶を交わしたあとで、すみません、お名前は何でしたかね――などと確かめるわけにも行かない……。
「まあ、里中さん」
 彼女のほうも驚いた風で、眼を丸くして二人を交互に眺め、これは一体、どうしたのと店長に訊ねた。その態度は、店長とも親しい間柄であることを感じさせた。
 彼女のほうは、若いだけあって、しっかり彼の名前を覚えていたのだ。里中は内心、臍を噛んだ。
「どうしたのも、なにも……」
 店長は、さきほどまでの態度をがらりと変え、砕けた感じで答えた。「きみこそ、こちらをどうして知ってるの」
「いやいや、たまたま、以前に、ここへ連れてきてくれた友人がいましてね」
 里中は、彼女が説明しようとするのを押しとどめて言った。「今夜の食事の相手役が、土壇場になってキャンセルしてしまったものですからね。どうしようかと考えているうちに、以前こちらに伺ったことを憶い出し、なにか軽いものでもいただこうかと、ふらっときてみたわけですよ。そしたら……」
「そうだったんですか」と、彼を振り返りながら。「わたしはてっきり、このひとがお招びしたのかと……」
「一日に二度も会うなんて、なにかの因縁なんでしょうかねえ。しかも選りにもよって、この京都で……」
 と、里中が言うと
「そうですね。ほとんどあり得ないことですわね」
 彼女が屈託なく笑って言った。
「でも、こうなったのも、なにかの縁ですわね」
 落ち着きを取り戻した響子が、傍らの店長を指して言った。「紹介しときますわ。こちら、フィアンセの沼田賢治さん。わたしたち、ついこの間、婚約しましたの」
「ほう。それは、それは……」
 言ったものの、里中には、つぎのことばが見つからなかった。
「それは、そうと――」
 彼の心中を察したのか、響子が明るい声でつないだ。「明日はどうなさいます。なにか、お急ぎのご用でもございます」
「と、いうと……」
「いえ。もしお時間がおありでしたら、久しぶりにお会いしたことでもありますし、食事でもご一緒しながら、色々とお話を伺いたいなと思いまして……」
「ほう。それはいいですね。ぼくが奢りますよ」
「いえ。ランチなんですけどね。このひとの友達がやっている店で、美味しい昼食を出すところがあるんです」
「いいですねぇ」
「決まり、ですね」
 彼女は茶目っ気たっぷり、片眼を瞑って言った。
「でも、いいんですか。承知しておいて、こんなことをいうのもなんですけれど……」
「いいんです。明日は、わたし、自由の身なんです。打ち合わせもちゃんと済みましたし、どうせ空いているんです」
 彼女は手を組み合わせ、軽い科を作って言った。「里中さんと会えてよかった。明日はどうして過ごそうかと思っていたんですよ」
「そうですか。わかりました。お供しましょう。沼田さん、どうですか。彼女をお借りしていいですか」
「もちろん。たまたま、わたしも用事がありまして。誘われはしたんですが、付き合ってやれないんですよ。逆に助かりました。この機会に色々と教えてやってください」
「いやいや、教えるなんてとんでもない。天下の稿倍舎さんにお教えを乞うことはできても、その逆はできませんよ」
「そんなことをおっしゃらず、こんなわがまま娘ですが、一日だけでも面倒みてやってくださいよ」
「わかりました。フィアンセのご公認をいただいたとあらば、明日は堂々とお付き合いさせてもらいます」
 里中はおどけた様子で、グラスを持ち上げて言った。「では、わたしたちの不思議な再会と沼田さんの寛大なお心に感謝して――」
 里中がそういうのと同時に、二人がグラスを持ち上げて。
「乾杯!」
 楽しい宵のひとときが始まりそうだった。
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