SEVENTY-TWO 博士と大臣どっちが偉い?

文字数 1,255文字

 末は博士か大臣か。

 これって今でもそうなんだろうか。

蓮見(はすみ)くん。もう着くよ」

 僕と縁美(えんみ)が日曜日にバスでやってきたのは隣の市にある小さなギャラリー。中学の時の美術の先生が個展をやるっていう案内が届いたんだ。

「先生、ご無沙汰してます
「ふたりとも来てくれてありがとう」

 先生はまだ若い。
 教頭先生とゴタゴタがあったのは当時から知ってたけどとうとう早期退職して絵で生計を立てる決意をしたそうだ。

「縁美。絵とか分かる?」
「好きな絵は感じられるよ」

 そっか。
 それでいいんだよね。

「あ、蓮見くん、これ」

 縁美が立ち止まったのは僕も見たことのある風景だった。水彩だ。

「蓮見くん。覚えてる?」
「うん・・・これって中学の裏の峠道だよね」
「そう。マラソンコース!」
「苦しかったなあ、あれは」
「ふふ。ほんとだよね」
「おふたりさん」

 先生が解説してくれた。

「他の絵もほとんどが中学近辺の絵なんだよ」
「あ。じゃあ、この紫陽花も」
「中庭にあった野生の紫陽花さ」
「先生、このお不動さんって」
「運動部の部室棟の裏道のお堂だよ」

 一通り見終わると先生はコーヒーを淹れてくれた。

「ほんとは絵を買って差し上げられたらいいんですけど」
「縁美さん、無理しなくていいよ。観てくれただけで画家冥利に尽きるよ」
「すごいなあ・・・先生は『画家』ですもんね」
「まあ、絵だけで食ってくのは難しいけどね。そこへ行くと絵プロ鵜(えぷろう)さんはすごいよな。プロの漫画家だもんなあ」

 出世の話になった。

「ちょっとだけ焦ってます」
「縁美さんが?」
「はい。中学を出て働くって決めて蓮見くんと一緒にいることに後悔なんてまるでありません。でも、自己実現みたいなことを仕事の面でもできたらなって。先生の決断にちょっとだけ嫉妬します」
「そうか・・・僕の場合は教師という職業から逃げ出したって部分もあるけどね。それにね」
「はい」
「ほんとうは学生時代は工学部だったんだよ」
「えっ」

 初めて聞いた。

「ほんとですか?」
「ほんとさ。でね。実は博士課程を修了してる」
「じゃあ、工学博士なんですか?」
「うん。それでね、最初の就職は文部科学省さ」
「えっ・・・」

 まだまだ驚くのは早かった。

「同期の中での出世競争に勝ち抜いてね。MITに公費留学した。将来的には科学か環境に関わる大臣になるっていう夢があった」
「どうして美術の先生に」
「病気になってね」

 縁美はその後の質問を遠慮しようとしたけど、先生は自分から全部話した。

「病名は聞かないで欲しい。まあ、精神系さ。MITも文部科学省も辞めざるを得なくなった」
「・・・お辛かったですね」
「ありがとう。実際生きているのもやっとなぐらいで、でも何か公の機関に行ってないと後ろめたいような役人ぽさから美術館を巡ったのさ。アメリカのね。もともと絵は子供の頃から描いたりしてたから」

 帰り際、僕と縁美はふたりして水彩のポストカードを10枚買ってあげた。

「先生は僕らが経験できないような幾種類もの人生を歩まれたんですね」
「蓮見くん。そうじゃないよ」
「え」
「全員、五十歩百歩さ」
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