第13話 ママチャリ300kmの旅 その7(山岳地帯・後編1)

文字数 1,532文字

 人は普段から『死』を考えて生きてはいないだろう。
 私も考えないし、皆様も特殊な環境に置かれていない限りはそうだろう。
 朝起きて太陽光を浴びたら死ぬかもしれない、コンビニによってパンを買ったら死ぬかもしれない、夜にビールを飲んだら死ぬかもしれない……可能性の話をしたらないこともないが、そんな微生物よりもごく小さな可能性を気にして生きていてはキリがない。
 

 ただ、そのときばかりは、その“可能性”があった。 
 

 山岳地帯のトンネルを前にしてペダルを踏む足が止まる。すくんでいたかもしれない。

「これ、やべえな……」

 自分に忠告するように言葉を漏らす。

 スマホのマップは最短ルートを提示してくれる。たとえその道がどんなに険しかろうが。
 
 そのトンネルは、狭いながらも車だけが通る分には問題なかった。
 だが、歩行者や自転車が通るには、


 数パーセントの『死』を覚悟して進まなければならなかった。


 そのトンネルには、まず、走れる場所がない。
 歩道なんて便利なものはトンネル内になく、ないのであれば白線の外側を通行することになる。内部を確認すると古くなって汚れてはいるものの、たしかに白線は塗られていた。

 しかし肝心の、白線とトンネルの側壁との幅が、まったくないのだ。
 
 その幅、20cmあるかどうか。 
 
 どうなっているんだこれは。
 こんな幅を自転車が走れるわけがないだろう。

 白線の存在意義がまるでなかった。しかも、トンネルの形はかまぼこ状である。
 素直にそんな狭いところを自転車で走れば、頭部が壁にこすれて左脳が削れる。
 しかしこれだけなら『死』なんて大層な連想はしない。そうならないよう、白線の内側を少しはみ出して走ればいいだけのこと。……それが、できないのだ。

 時刻は朝の9時~10時あたり。
 前回にも登場したが、そこも通るのだ。大量の大型トラックが。上り下り絶え間なく。
 無論、その道は高速道路ではない。だが信号もなければ歩行者も通らない山道、そして運送業は時間との勝負。彼らも急がなくてはならない。トンネルの前で様子を見ていたが、速度の遅いトラックなんていなかった。

 そんな大型トラックに横切られたとき、風が強く、私を引っ張った。

 これは……危ない。

 足を地につけたままでも体を引っ張られるのに、もし自転車に乗った状態で、しかも、ただでさえ走る幅もない狭いトンネルで、あの風に引っ張られたら……。

 そのトンネルは、そう長くなかった、と記憶している。
 500mくらいか。いや、どうだろう。詳しくはわからないが、トンネルの奥に出口の光が小さく見えるくらいの距離だったと思う。

 そんな距離ですら、事故を起こさないで通過する自信が持てなかった。
 あまりにも不安要素が重なりすぎている。
 走れる幅がない。
 車やトラックは途切れない。
 暗いトンネル内。
 歩行者や自転車がいない前提の車の走行速度。
 大型トラックによる風の巻き込み。
 
 それに事故を起こすとなれば、大型トラックとの接触が想定される。くわえて事故現場は閉鎖空間であるトンネル内。重傷で済めば幸い。

 ここまで負が合わさると、今まで気にもしなかった『死』が、頭の片隅で輪郭を得る。
 
 とはいえ、小さい可能性だと思う。
 トラックの運転手だって気づけばよけてくれるだろうし、必ずしも事故になるわけでもない。
 それでも、小さくとも目に見えるようになってしまった『死』という可能性は、私の心を十分に怖気づかせる。

 ここでまた選択肢を迫られる。
 あのトンネルを進むか。ここまでの道のりを引き返すか。

 空気入れが壊れたときの選択肢とは比べ物にならない、どちらも重い選択。
 
 私は、



 ――あのトンネルだけは、通れなかった。


 つづく
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