第1話

文字数 4,996文字

 別れというものは大抵事前通告なくやってくるものであって、不意打気味にさようならを告げられたとしても、それは世間一般的には珍しいことではない。
 しかしながら、告げられる本人にしてみれば、それは空前絶後の大ニュースである。本当に。例えそれが職場の異動という社会生活の中のありふれた一イベントであれ、その個人にとっては天変地異に等しい。いや天変地異の方がまだマシかもしれない、少なくともハリウッド映画よろしく、二人の関係を進展させてくれる可能性はあるのだから。
 
 さて、私もまた、このありふれた天変地異に遭遇した無数の人間の一人である。片思いをしている相手に突然さよならを告げられて、なぜかと聞き返すと異動だと言われたわけだ。
「異動、そりゃいきなりですね」
「ええ、本当に」
 これが私と彼女の最後の会話である。あまりに事務的すぎるじゃないかと思われるだろうか。しかし残念ながら私と彼女は特別親しかったわけではなかった。喋ったりはするけど友達かと問われると首を傾げたくなる、そんな間柄だった。まあ、身も蓋もない言い方をすれば他人だった。もしも私が彼女の異動にショックを受けていることを彼女が知ったとしても、「え、なんで?」と困惑される、そんな関係だったわけだ。最後の会話も、会話があっただけマシと言えるかもしれない。
 ともかく、そういう別れがあった。ちなみに彼女が異動になったのは自転車で五分圏内の場所。歩いたとしても十分もあればつくような場所だ。遥か彼方への別離を期待していた方には全く申し訳ないが、距離的には相当な近場。コンビニ感覚で出かけるにはちょっと遠いくらいの距離である。そりゃあそうだ、別に退職したわけでも転勤になったわけでもなく、ただ単に異動というだけなんだから。彼女にしてみれば、通勤時間が余分に数分かかるようになっただけの話だろう。
 「それじゃあ何がショックなのさ?」人によってはこういう疑問を抱くんじゃないだろうか。気軽に会いに行けばいいじゃないかって。だがまあ待ってほしい。その意見を言う前に、まず自分の胸に手を当てて考えてはくれないだろうか。そしてこう想像して欲しい。そう、つまり自分に好きな相手がいて、そしてその相手の居場所がわかっている状態。そしてその相手と自分はそれなりに顔見知りという状態。言い換えれば、自分がそこまで出かければ、「何しに来たんです?」ってきっと尋ねられるような状態だ。そんな状況に自分が置かれたらどうするか。
 「あなたに会いに来ました」なんて気軽に言いに行けるというのなら、きっと私の苦悩なんて理解できない。「あなたが好きです」なんて恥ずかしげもなく言えるなら、きっと私のことなど鼻で笑うだろう。だがまあ、それは仕方ない。これは個性の問題であって、世の中にはそういう恥知らずな精神と、後先を全く考えない知性を持った人間もいるというだけの話だ。ああ、もちろんいい意味で。
 しかしそういう人間がいる一方、世の中には引っ込み思案の人間というのも存在しているわけだ。奴らは自分からは全くと言っていいほど行動しないで、それを、「機会を伺っている」とか何とか言ってウダウダと正当化し続ける。そして「待てば甘露の日和あり」の名目の元に好機を逃し続けて、結局、最後にはとりかえしがつかなくなってしまう。いわゆる「オクテ」な人間だ。そういう人間が「何しに来たんです?」なんて聞かれたらどうなるだろうか。おそらくその場で卒倒することになるだろう。本当のことなんか言えるわけがない。だけど嘘だって吐きたくない。そんな二律背反の状態に脳みそがショートして、その場でバタリ。それでおしまい。
 そして残念ながら私という人間が属しているのはこの後者なわけだ。だから、たかだか数百メートルの距離に世の終わりとばかりに嘆いている。正論としては、「とにかく会いに行って告白なりなんなりするべきである」というのは理解しているが、しかしオクテな理性がこれにノーを突きつける。「成功率はどれくらいだ?」とか「いきなり押しかけたら迷惑だろう」とか、そういう御託をつらつら並べ立てるわけだ。それで私はがんじがらめにされて、身動きひとつ取れない。「会いにきたい」「会いにいけない」「会ってどうする」「どうにもならない」。それで相変わらずの待ちの一手を決め込んで、幸運が転がり込んでくるのをただひたすら待っている。そんなうまい話はあり得ないって、よくよく分かっているクセに。

 で、そんなこんなで別離を、いや、失恋したと言ったほうがいいのか。まあともかく、精神状態が爆心地よろしく荒涼とするようなイベントを経験してしまった私は、その荒んだ精神の発露の口を求め始めた。平たく言えば、八つ当たりの相手を探し回ったわけだ。駅前のビラ配りみたいに手当たり次第に当たりをつけて、それでコレはというものに当たり散らそうって算段だった。
 それでその怒りの矛先が、不甲斐ない自分の現状にでも向かってくれれば、まだそれなりに格好はついたかもしれない。だけど悲しいかな、私という人間はそうではなかった。多分、私は向上心に欠ける上、相当に短絡的なのだろう。自分のことは完全に棚に上げて、異動を決定した人事部を呪い殺さんばかりに恨んだ。本当に呪い殺してやろうと、『呪』と『殺』というもじがデカデカと表紙に書かれた本を本屋で買おうとしてくらいだ。幸運にも、この散財の試みは店員にその怪しげな本を見せなくてはならないという、心理的な苦難に耐えかねて頓挫したけれど。
 こういった事情で、私の人事部への怒りは外部には一切発露せず、狭っ苦しい心のうちに押し込まれる形になった。なんだか健康に悪そうだって思うだろうか。その通り。これは相当健康に悪かった。想像してみるといい。「どうして彼女を異動させたのか」とか「別に他の人でもいいじゃないか」、なんて生産性の一切ない愚痴を延々に聞かされる自分を。もしも酒の席で友人なり同僚なりがいつまでもこんな風に愚痴っていたら、以後の誘いは全て遠慮させていただくことになるだろう。だけど簡単に絶縁できる他人と違って、自分ってヤツは分離不可能らしい。ネットでどれだけ調べてもそんな方法はヒットしない。だからこいつは、生涯付き合わなくてはいけない同居人ってことなんだろう。好むと好まざるとによらず、上手くやっていく以外に方法はない。たとえ、仕事中も睡眠中も一切気にせず声をかけてくる厄介な相手だとしても、とにかく構ってやらなきゃいけない。たとえそのせいで食欲不振になって、体重が3キロ減るとしてもだ。
 だけど今になって思えば、人事部に怒りの矛先が向いてるうちはまだマシだった。いや、爆弾を作ってビルの窓へ投げ込む想像が健全かと聞かれたら答えはノーだけれど。しかし、少なくとも現状に対して何かしてやろうという気概みたいなものはあったし、陰湿さとか合法性とかはさておいて、ある意味前向きであったのは確かだった。
 とは言え、人事部なんて姿形もハッキリとしないものを、いつまでも恨み続けるというのはちょっと無理があった。まるで透明人間の容姿を貶すようなものだ。何を言っていいやら分からないし、自分の発した悪口が妥当なのかどうかさえ分からない。チビとかデブと言ってみたら、その実相手は背高ノッポのハンサムかもしれないのだ。だから三日も経ったあたりで、この無色透明な相手への八つ当たりは断念される結果となった。
 ああ、もしも私が賢明な人間なら、きっとこの辺りで八つ当たりなんてやめようという気になっただろう。そして今回の教訓をバネに、今度はチャンスを逃さないようにしようなんて言って、それから涙を拭って立ち上がったに違いない。そして朝焼けを背に受けてカメラは徐々に引いていき、オーケストラサウンドのBGMとともに、スタッフロールが流れ始めて幕引きと相成るわけだ。しかし私は決して賢明な人間などではなかった。むしろ無知蒙昧のバカな人間。その上失恋してからまだ数日しか経っていなかった。たかだか徒歩十分の別離に、世界の終わりのごとく嘆いている最中だったのだ。
 だから私には八つ当たりの相手が必要だった。悲しみを怒りに変えてくれる相手。そして怒りをぶつけている限り悲しみを忘れさせてくれる相手。鬱々として眠れない夜の代わりに、爛々と見開かれた目で復讐を計画させてくれる相手。それをどうしても見つけなくてはならなかった。
 それでよせばいいのに、私は気まぐれに怒りの矛先を別方向に向け始めてしまった。そしてその偶然狙いをつけた方向が最悪だった。もうこれ以上ないってくらいに最低の方角。つまり過去だ。過ぎ去ってしまった、もう取り返しのつかないかつての現在。私の拡大鏡はそれを捉えてしまった。
 これがどれだけ良くない傾向かというのは誰にでもわかるだろう。「歴史にイフはない」って金言はきっとこういう場面のためにある。過去というのは存在しないものなのだからどれだけ考えを巡らせても無意味だと、そんな分かり切ったことをわざわざ教えるために作られた言葉なのだから。しかし、そんな当たり前の事実に私は気づかなかった、気付こうとさえしていなかった。そして夢中になって過去の自分に言い立てるわけだ。「もっと前からこうしていれば」「あの時がチャンスだったんじゃないか」、こういう呪いの呪文みたいな文句をいつまでも、飽きることなく。ドロドロとした底なし沼みたいな、どれだけもがいても浮き上がれない自己嫌悪に自分から胸まで沈み込んで、それで勝手に溺れ始めたわけだ。
 それでどうなったか。そりゃあ、どうにもならない。なるわけがない。過ぎ去った過去の幻影に文句を言ったって、存在しない唇が返事をしてくれるわけがない。そもそも聞く耳すら持っていないだろう。要するに私が始めたのはただの独り言だったわけだ。過去の自分の粗を探して、そしてそれを責め立てるマゾヒスティックな一人遊び。「後悔先に立たず」ってことわざがどれだけ正しいかを、一人で寂しく確認し続けながら、際限なく溢れ出す後悔に沈んで窒息していく。ただそれだけの作業。もちろん、心の中ではやめないといけないことは理解できていた。今だって、ちゃんと理解しているつもりだ。いい加減次のステップへ進まなくちゃいけない。そんなのわかりきったことじゃないか。
 
 さて、それじゃあこんな状況をどう打破すればいいだろうか。どれだけ色々と考えて見たって、結局のところ選択肢は二つしかない。彼女のことを諦めるか、好きだということを伝えに行くか、だ。前者は、まあ不可能だろう。それができるならとっくに諦めているし、諦められないからこそこんなにも悩んでいるのだ。それならどうする。もう後者しか選択肢は残っていない。だけど私はあえて言いたい。
 それができるなら誰も苦労はしないのだ。好きな人ができて、その人に無神経に好きだなんて言えるようなら人間世界はおよそ平穏だ。だが現実はそうじゃない。そううまくはできていない。人間ってやつには理性がある。そして理性には極めて不完全な未来予知能力が備わっているのだ。
 ああ、どれだけの人類がこの中途半端な機能に泣かされただろうか。「うまくいかないのではないか、いやきっとうまくいかない」「そうだもっと何かが、そう何かキッカケがいつか訪れるハズだ」、そんなことを脳内で囁く、厄介な予言者。こいつのせいで我々はいつまでも二の足を踏み続ける。まるで足踏みをするみたいに。地団駄を踏むみたいに。
 だけど、だけど数多くの人間存在がこの厄介者を跳ね除けてきたことも疑いようのない事実だ。だからこそ私は、そして彼女はこの世界に存在している。私もそんな先人たちに続かなくてはならない。過去の自分にいつまでも恨み言を言っている暇はない。過去の自分に「絶対に許せない」なんて宣言している間に、彼女の元へ出かけ行って「好きだ」と堂々と言ってやらなくてはならない。それが全てじゃないか。その返答がどうであれ、サッパリとカタをつけるのが正道というものだ。そんなこと、分かり切ったことじゃあないか。

 それで割り切れないってことも、分かり切ったことだけれど。
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