真夏の綿菓子

文字数 1,386文字

侵食するかのように繁った木々の間のベンチに、桃色が浮かんでいる。
淡い桃色のふわふわとしたそれは、彼女は唇を添えている。質量のないそれは、絵の具でベタ塗りしたような夏の風景の中で、まんまるの形を難なく保っている。完全なる球体の綿菓子は、少女の魔法のように浮かんでいる。
近づくと、彼女はこちらに目をやり、長い睫に縁取られた瞳を三日月に変えて微笑んだ。このあたりの地元の治安の悪い女ばかりを相手にしていた俺は思わず目を反らした。
「お祭り、楽しいですね。」
けたたましかった祭り囃子と騒々しい歓声が遠くなっていく。俺は持っていた毒々しいブルーハワイのジュースを一口飲むと、ベロン、と青く染まったであろう舌を出した。少女は微笑を深くした。
「飽きちゃった。君も?」
うだるような、貼り付くような熱気で汗臭いのではと不安になりながら隣に腰掛けても、少女は逃げる素振りもなかった。
長いチョコレート色の髪は、サラサラと暑さを忘れたように揺れる。
「うん。お祭り行ってないんだけどね。」
そう言いながら、露店で買ったであろう綿菓子を頬張る。彼女が食べても食べても、巨大な球形は崩れそうにもなかった。
「ね、一口頂戴よ。」
熱気と興奮で高鳴る鼓動を悟られないように飲み込む。無邪気を装って駄目元の質問に、少し逡巡があったが、うん、と呟いた。桃色のそれに唇を寄せると、彼女は口に含んだそれを俺の咥内に受け渡した。

「クソビッチが。」
静まり返った深夜の空気に、祭の興奮が溶け残っているような寝苦しい晩だ。俺は枯れ果てた胎内を引き摺るようにベランダに出て、セッターに火を点ける。
彼女、レイと名乗ったが、とんでもない手慣れた女だった。何度も求められ、夢のようだったのは3回までだ。安アパートのベッドが壊れてしまうのではないかと思った。
白く滑らかな肌、シーツに散らばるチョコレートの髪、桃色に染まる頬。すべてを回想しても暫く元気になれそうもない。
シャワーを終えて、また求められたらどうしようか。物憂くなりながら紫煙を吐き出すと、少しずつ頭が冷えてくる。
綿菓子を持った純朴な少女の幻影は強く残り、このまま最後にするのは惜しい、という前向きな気持ちを覚えた。
どうしようかの答えのないまま、月一回くらいならいいかな、と考えながら窓を開けて室内を見ると、桃色のふわふわとした球体が浮かんでいる。
否、桃色ではなく、灰色に近い白だ。
それは、綿菓子。
シャワーを浴びたはずの彼女は、綿菓子に唇を寄せながら座っていた。
綿菓子。
ずっと気づけなかった違和感。この粒のような汗をかく空気の中、完璧なふわふわ。
「砂糖の融点ってさ。」
俺が話してるのか、彼女が話してるのか。
彼女が前に立ち塞がり、綿菓子を差し出してくる。
「すごい低いのよね。でも、これは平気なの。」
唇に押し付けられたそれ。甘くない、何やら変な匂いと共に唇に付着した。
俺はそれを見た。
黒い何かがモゾモゾと動き、それは8本の足で器用に綿菓子を紡いでいた。
喉が割れるくらいの叫びが漏れて、喉奥が込み上げてきた。
蜘蛛の巣。
真夏の炎天下、少しも溶けない綿菓子。

胃の内容が全て放出されるのを、酷く冷めた空気で見守られた。
見上げると、少女は長い睫に縁取られた真っ黒な目を三日月に細めた。
「私、気に入ったよ。ずーっと一緒にいてあげる。」
灰色の蜘蛛の巣の塊が喉奥に当たる感触が、俺の最後の知覚だった。




ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み