砂漠の庭園
文字数 3,608文字
常に居心地の悪い思いをしてきた。どこにいても何をしていても、ここは私の居場所ではないと言われ続けているようだった。かといって逃げ出すわけでもなく、ただ毎日ぼんやりと、同じ景色を見ていた。
私がこの街に来たのは7歳の頃だった。母親が再婚し、この街に引っ越してきた。海と山に囲まれたこの街は、年を重ねるごとに次第に私を窮屈にした。
中学校からの帰り道、自転車を漕ぎながら空を見上げるといつも通りの青い空があった。嫌味な程に輝く空にいつも責められているような気がしていた。良い天気で嬉しいでしょ、笑ってと言われている気がして余計に憂鬱な気持ちになった。
私の家は郊外のいわゆる新興住宅地にある。細道を挟んで建つ隣の家は、私がここに移ってきたのと同時期に越してきたようだった。その隣家には小さな庭があり、その庭を埋めつくすように所狭しと植木鉢が置かれている。鉢には季節ごとに様々な種類の草木が植えられていたが、夏は特に色とりどりの花で覆い尽くされて鮮やかだった。私は毎年この季節になると、小さいが手入れの行き届いたこの庭を見るのが好きだった。
「やっぱり素敵だな」
自転車から降りて立ち止り、その庭の赤やピンクや白の花々を見て私はそう思った。
ふと見上げると、二階の部屋の窓越しにこちらを見ている男の子と目があった。隣家の前をじろじろと見ていただけに、少し気まずかったので軽く会釈をした。すると彼はふいっと顔を背けてそのまま窓から離れてしまった。怪しんだだろうな、と思ったが仕方がない。早く家へ帰ろうと自転車に乗ろうとした時、後ろから誰かが走ってくる音が聞こえた。振り向くとさっきの男の子だった。彼は私の前で立ち止まり、息を整えながら小さな握り拳を差し出した。
「なあに?」
いぶかしく思う気持ちを隠して、少し子供向きの間延びした口調で問い掛けた。
「あげる」
彼は握り拳を、今度は自転車のハンドルを持つ私の手に向けて強く差し出した。
私は自転車をその場に止め、しゃがみこみ彼の目線になったところで、
「なにをくれるの?」
と自分の手をお椀の形にして彼の前に持っていった。彼の小さな握り拳からゴマ粒みたいな黒い塊が数粒、私の手のお椀にパラパラと落とされた。ゴミか、と顔をしかめながらそれを見る。ふざけているのか、と思い彼の顔を見ると彼は真剣な眼差しで、私の手の中を覗いている。
「これはなに?」
私は不審そうに彼に聞いた。
「花の種だよ」
彼は嬉しそうに答えた。なるほど確かに大きさ、色は花の種のように見える。
「くれるの?」
そう私が尋ねると彼はこくりと大きく頷いた。
「ありがとう」
当惑しながらもそう言うと、彼は二コリと笑ってさっき来た道をまた走って戻り、家の扉を勢いよく開けて入ってしまった。
手の中の種を見ながら、よく考えもせずに子供から物を貰ったことを後悔していた。隣の家だし、何かあったら面倒だから返してこようかとも考えたが、花の種を数粒貰っただけだ。もし万が一何かあったらその時返せばいいだけの話だと思い直し、手の中の種をカバンから出したティッシュの中に包んで、スカートのポケットにしまった。
家に帰ると、私はただいまも言わず二階の自分の部屋へと上がった。そして、ポケットから丸められたティッシュを取り出した。こぼれないように慎重に開くと、ちゃんと黒い種がそこにあった。開いたティッシュをまた丸めて机の引き出しの中へしまった。そして椅子に座りさっきの少年のことを思った。
近所ということでたまに見かける男の子だ。もうすぐ小学校に上がるくらいだろうか。ついこないだもお母さんと一緒に手をつないで歩いているのを見た。彼はなぜ私に花の種をくれたのだろう。私がよっぽど物欲しそうに庭に見入っていたからだろうか。私に花の種をあげたら喜ぶと思っただろうか。
「お気楽だな」
私は思わず呟いた。彼はきっとどこにでもいる活発で優しい男の子だろう。親から愛情をたっぷり注がれて、それがいかに幸せなことかも分からずにすくすくと育っている男の子。私は花が好きだし、隣の家の美しい庭を羨ましいと思う。と同時にその庭に、そこに住む家族を透かして見ていた。仲のいい温和な両親に、素直で可愛い子供。理想の家族像だった。だからこそ、私は毎日見るあの庭を夢見心地に見ていたのかもしれない。
その日、夜更けに目が覚めて水を飲みに行こうと部屋をでると、下の階から母と父の言い争う声が聞こえた。いつものことだと思い階段を降りていくと、途中で足が止まった。
「あの子があんな反抗的なのはお前のせいだろ」
「私が全部悪いっていうの!」
母がヒステリックに声を挙げる。二人の声がより一層大きくなり、ほぼ叫んでいるような声になる。
「お前が連れてきた子供だろう。当然責任はお前にあるだろ!」
「私だって連れてきたくて連れてきたわけじゃないわ。あの時は仕方がなかったの」
泣き声まじりに母が喚く。私は降りてきた階段を黙って静かに上がった。部屋のドアをゆっくりとしめ、力がぬけたようにドアにそのままもたれかかった。涙が静かに頬を濡らした。この家に私の居場所はどこにもない。どうして私ばかりがこんな目に合わなければいけないのか。ふいに、種をくれた男の子を思い出した。私に無いものを全て持っている。あの男の子みたいに私も、ただ愛されたかっただけなのに。私は自分の部屋というシェルターに閉じこもり、攻撃から身を守るしかなかった。自分の幼さを恨んだ。早く大人になりたかった。一刻も早く。
次の日もその次の日も相変わらず良い天気が続いたが、隣家の庭の花たちは花弁を重そうに垂らして夏バテ気味の様子だった。
あの日から男の子をみかけないな、と思った。隣家の二階の窓を見上げても彼は顔を見せない。種はまだ部屋の引き出しの中にある。そういえば何の種か聞くのを忘れたな、と上の空で思った。
それから一週間程たった頃、いつもの通り夕食を黙々と食べていると、母が急に思い出したように、
「そういえば、道路挟んで向かいのお家、離婚したんですって、ちょっと前みたいなんだけどね。急だわねえ」
といきいきと話し始めた。
「隣の手塚さんに聞いたらね、なんだかずっとうまくいってなかったらしいのよ。今、旦那さん一人で住んでいるみたい。大変よね」
母の言葉に、私は耳を疑った。ついこないだ男の子と会ったばかりなのに、どうして。もやもやしたものがみるみる内に心に湧いてくる。
私は手に持ったお箸をおいて、席から立ち上がり玄関へ向かった。
「どこに行くの」
後ろから母の怒鳴る声が聞こえた。私は構わず無言で家を飛び出した。
日はとうに暮れて外は暗かったが、家々から漏れる光や街灯で明るさを残していた。空を見上げると、星は一つも見えなかった。
隣の家も電気がついていた。きっと他の家と同じように、夕飯を食べたりテレビを見たりするのだろう。でも他の家とは全く違う。もうそこには家族はいない。家という箱があるだけだ。
近づくと地面に備えつけられてある照明に照らされたあの庭があった。美しかった。悲しいほどに。
私は一歩二歩と踏み出して、家の敷地内へ入って行った。近くで見ると花達に元気がないのがわかった。もう水をあげてくれる人がいないからだろうか。
その場でしゃがみ込み、私は一つの鉢を手に取った。白い花弁を重たそうに垂らしている。何の花かはわからない。私は周りをぐるっと一周見渡してから、その鉢を抱えるように両手で持ち、立ち上がった。家の様子を窺う。窓から明かりが漏れているだけで何の音もしない。私は振り返り静かに来た道を戻った。不思議と何も感じなかった。罪悪感も何も。盗んでいるという感覚さえなかった。それはまるで私に与えられた使命を全うしたかのような達成感があった。
重たい鉢を抱えながら、男の子のことを思い出した。あの時彼は知っていたのだろうか。家族が崩壊することを。知っていたのかもしれないなと思った。知らずとも感じていたはずだ。家族が壊れる音を、空気を。子供は大人が思うより遥かにに敏感で繊細だ。笑顔で種を私にくれた彼にもう一度お礼を言いたかった。戸惑いながらではなく、きちんと彼の眼を見てありがとうと言いたかった。
家につくと、納屋が置いてある雑草が生えっぱなしの殺風景な庭にその鉢を置いた。砂漠に咲いた一輪の花のように見えた。コップに水を汲み花にやった。この花は枯らしたくないと思った。そうだ、なんていう名前の花か調べよう。そして毎日愛情をこめて育てよう。そう心に誓った。
男の子にもらった種をどうするかはまだ決めていない。でもいつか種を蒔く時がくるだろうと思う。土の中からどんな芽がでて、何色の花が咲くのか楽しみだなと、少し笑った。
私がこの街に来たのは7歳の頃だった。母親が再婚し、この街に引っ越してきた。海と山に囲まれたこの街は、年を重ねるごとに次第に私を窮屈にした。
中学校からの帰り道、自転車を漕ぎながら空を見上げるといつも通りの青い空があった。嫌味な程に輝く空にいつも責められているような気がしていた。良い天気で嬉しいでしょ、笑ってと言われている気がして余計に憂鬱な気持ちになった。
私の家は郊外のいわゆる新興住宅地にある。細道を挟んで建つ隣の家は、私がここに移ってきたのと同時期に越してきたようだった。その隣家には小さな庭があり、その庭を埋めつくすように所狭しと植木鉢が置かれている。鉢には季節ごとに様々な種類の草木が植えられていたが、夏は特に色とりどりの花で覆い尽くされて鮮やかだった。私は毎年この季節になると、小さいが手入れの行き届いたこの庭を見るのが好きだった。
「やっぱり素敵だな」
自転車から降りて立ち止り、その庭の赤やピンクや白の花々を見て私はそう思った。
ふと見上げると、二階の部屋の窓越しにこちらを見ている男の子と目があった。隣家の前をじろじろと見ていただけに、少し気まずかったので軽く会釈をした。すると彼はふいっと顔を背けてそのまま窓から離れてしまった。怪しんだだろうな、と思ったが仕方がない。早く家へ帰ろうと自転車に乗ろうとした時、後ろから誰かが走ってくる音が聞こえた。振り向くとさっきの男の子だった。彼は私の前で立ち止まり、息を整えながら小さな握り拳を差し出した。
「なあに?」
いぶかしく思う気持ちを隠して、少し子供向きの間延びした口調で問い掛けた。
「あげる」
彼は握り拳を、今度は自転車のハンドルを持つ私の手に向けて強く差し出した。
私は自転車をその場に止め、しゃがみこみ彼の目線になったところで、
「なにをくれるの?」
と自分の手をお椀の形にして彼の前に持っていった。彼の小さな握り拳からゴマ粒みたいな黒い塊が数粒、私の手のお椀にパラパラと落とされた。ゴミか、と顔をしかめながらそれを見る。ふざけているのか、と思い彼の顔を見ると彼は真剣な眼差しで、私の手の中を覗いている。
「これはなに?」
私は不審そうに彼に聞いた。
「花の種だよ」
彼は嬉しそうに答えた。なるほど確かに大きさ、色は花の種のように見える。
「くれるの?」
そう私が尋ねると彼はこくりと大きく頷いた。
「ありがとう」
当惑しながらもそう言うと、彼は二コリと笑ってさっき来た道をまた走って戻り、家の扉を勢いよく開けて入ってしまった。
手の中の種を見ながら、よく考えもせずに子供から物を貰ったことを後悔していた。隣の家だし、何かあったら面倒だから返してこようかとも考えたが、花の種を数粒貰っただけだ。もし万が一何かあったらその時返せばいいだけの話だと思い直し、手の中の種をカバンから出したティッシュの中に包んで、スカートのポケットにしまった。
家に帰ると、私はただいまも言わず二階の自分の部屋へと上がった。そして、ポケットから丸められたティッシュを取り出した。こぼれないように慎重に開くと、ちゃんと黒い種がそこにあった。開いたティッシュをまた丸めて机の引き出しの中へしまった。そして椅子に座りさっきの少年のことを思った。
近所ということでたまに見かける男の子だ。もうすぐ小学校に上がるくらいだろうか。ついこないだもお母さんと一緒に手をつないで歩いているのを見た。彼はなぜ私に花の種をくれたのだろう。私がよっぽど物欲しそうに庭に見入っていたからだろうか。私に花の種をあげたら喜ぶと思っただろうか。
「お気楽だな」
私は思わず呟いた。彼はきっとどこにでもいる活発で優しい男の子だろう。親から愛情をたっぷり注がれて、それがいかに幸せなことかも分からずにすくすくと育っている男の子。私は花が好きだし、隣の家の美しい庭を羨ましいと思う。と同時にその庭に、そこに住む家族を透かして見ていた。仲のいい温和な両親に、素直で可愛い子供。理想の家族像だった。だからこそ、私は毎日見るあの庭を夢見心地に見ていたのかもしれない。
その日、夜更けに目が覚めて水を飲みに行こうと部屋をでると、下の階から母と父の言い争う声が聞こえた。いつものことだと思い階段を降りていくと、途中で足が止まった。
「あの子があんな反抗的なのはお前のせいだろ」
「私が全部悪いっていうの!」
母がヒステリックに声を挙げる。二人の声がより一層大きくなり、ほぼ叫んでいるような声になる。
「お前が連れてきた子供だろう。当然責任はお前にあるだろ!」
「私だって連れてきたくて連れてきたわけじゃないわ。あの時は仕方がなかったの」
泣き声まじりに母が喚く。私は降りてきた階段を黙って静かに上がった。部屋のドアをゆっくりとしめ、力がぬけたようにドアにそのままもたれかかった。涙が静かに頬を濡らした。この家に私の居場所はどこにもない。どうして私ばかりがこんな目に合わなければいけないのか。ふいに、種をくれた男の子を思い出した。私に無いものを全て持っている。あの男の子みたいに私も、ただ愛されたかっただけなのに。私は自分の部屋というシェルターに閉じこもり、攻撃から身を守るしかなかった。自分の幼さを恨んだ。早く大人になりたかった。一刻も早く。
次の日もその次の日も相変わらず良い天気が続いたが、隣家の庭の花たちは花弁を重そうに垂らして夏バテ気味の様子だった。
あの日から男の子をみかけないな、と思った。隣家の二階の窓を見上げても彼は顔を見せない。種はまだ部屋の引き出しの中にある。そういえば何の種か聞くのを忘れたな、と上の空で思った。
それから一週間程たった頃、いつもの通り夕食を黙々と食べていると、母が急に思い出したように、
「そういえば、道路挟んで向かいのお家、離婚したんですって、ちょっと前みたいなんだけどね。急だわねえ」
といきいきと話し始めた。
「隣の手塚さんに聞いたらね、なんだかずっとうまくいってなかったらしいのよ。今、旦那さん一人で住んでいるみたい。大変よね」
母の言葉に、私は耳を疑った。ついこないだ男の子と会ったばかりなのに、どうして。もやもやしたものがみるみる内に心に湧いてくる。
私は手に持ったお箸をおいて、席から立ち上がり玄関へ向かった。
「どこに行くの」
後ろから母の怒鳴る声が聞こえた。私は構わず無言で家を飛び出した。
日はとうに暮れて外は暗かったが、家々から漏れる光や街灯で明るさを残していた。空を見上げると、星は一つも見えなかった。
隣の家も電気がついていた。きっと他の家と同じように、夕飯を食べたりテレビを見たりするのだろう。でも他の家とは全く違う。もうそこには家族はいない。家という箱があるだけだ。
近づくと地面に備えつけられてある照明に照らされたあの庭があった。美しかった。悲しいほどに。
私は一歩二歩と踏み出して、家の敷地内へ入って行った。近くで見ると花達に元気がないのがわかった。もう水をあげてくれる人がいないからだろうか。
その場でしゃがみ込み、私は一つの鉢を手に取った。白い花弁を重たそうに垂らしている。何の花かはわからない。私は周りをぐるっと一周見渡してから、その鉢を抱えるように両手で持ち、立ち上がった。家の様子を窺う。窓から明かりが漏れているだけで何の音もしない。私は振り返り静かに来た道を戻った。不思議と何も感じなかった。罪悪感も何も。盗んでいるという感覚さえなかった。それはまるで私に与えられた使命を全うしたかのような達成感があった。
重たい鉢を抱えながら、男の子のことを思い出した。あの時彼は知っていたのだろうか。家族が崩壊することを。知っていたのかもしれないなと思った。知らずとも感じていたはずだ。家族が壊れる音を、空気を。子供は大人が思うより遥かにに敏感で繊細だ。笑顔で種を私にくれた彼にもう一度お礼を言いたかった。戸惑いながらではなく、きちんと彼の眼を見てありがとうと言いたかった。
家につくと、納屋が置いてある雑草が生えっぱなしの殺風景な庭にその鉢を置いた。砂漠に咲いた一輪の花のように見えた。コップに水を汲み花にやった。この花は枯らしたくないと思った。そうだ、なんていう名前の花か調べよう。そして毎日愛情をこめて育てよう。そう心に誓った。
男の子にもらった種をどうするかはまだ決めていない。でもいつか種を蒔く時がくるだろうと思う。土の中からどんな芽がでて、何色の花が咲くのか楽しみだなと、少し笑った。