1、蒼い銘仙

文字数 10,878文字

蒼い銘仙

比較的落ち着いた、過ごしやすい日だった。多くの人は、どこかへ出かけたり、何かの行事に参加したりして、それぞれ思い思いの、リフレッシュに励んでいた。でも、休みたくても休めない人も、少なからずいることはいた。

「水穂さん、ご飯だよ。」

杉三は、また水穂のいる、四畳半へやってきた。由紀子が、スープのはいった皿をもって、一緒にやってくる。杉三がふすまを開けると、由紀子は枕元に、スープの皿を置いた。

「水穂さん、ご飯だよ、ほら起きろ。」

杉三は、そういって、眠っている水穂の肩をたたいた。しかし、反応はない。ちょっと強くたたいてみると、ん、んと言ってやっと目を覚ました。由紀子は、水穂さんの枕が汚れたりしないように、しずかに、枕の上にレジャーシートを敷いた。

「今日はな、僕の知り合いからカボチャをもらってきた。それでカボチャのスープを作ってみたぞ。色もきれいなカボチャのスープ。そして栄養満点。」

と言いながら、杉三は、スープをぐるぐるかき回した。そしてお匙を横向きに寝たままの水穂の口元へもっていく。

「食べてよ。」

杉三が催促した。こわごわではあるが、それを何とか口にしてくれる水穂さん。問題はここからだ。ここでうまく飲み込んでくれるか。由紀子は、水穂さんの後ろ側について、なにかあったらすぐにてを出せるようにしておく。

「頑張って飲み込んでね。」

由紀子はそういったが、予想した通り、水穂さんはスープを飲み込めずに、咳き込んで吐きだしてしまうのであった。

「やっぱり駄目かあ。また吐き出しちまった。水穂さん、ご飯食べないと、大変なことになるよ。」

と、言い聞かせたって駄目なものはだめで、いくら食べさせても吐き出してしまう事を繰り返すのである。さすがにダメな人という言い方はしたくなかったが、いつもいつもご飯を食べさせるのに、こんなことを繰り返して、いい加減にせい!と怒鳴りつけてやりたくなる事はあった。

「あーあやれやれ。これでは、どうやって栄養をつけてくれるんだろうか。口でたべれないなら、ほかにやりようがないよ。だったらよ、食べることを商売だと思ってよ。無理をしてでも食べないと、お前さんは本当にたいへんなことになってしまうぞ。」

「之のせいかしらね。」

杉三がそう愚痴を言っていると、ふいに由紀子がそういう事を言い出した。

「は、これって何だよ。」

「これよ。」

由紀子は水穂の着ている着物の袖を引っ張る。たしかに、青い色の、白で大きな十文字を書いた袷の着物を着ている。

「之ってなんのことだ?」

「この着物の事。これのせいで水穂さん、ずっと自分の事責め続けて、委縮しているのではないかなって思って。」

「そんなもの関係ないよ。銘仙の着物着ているからって、少なくともここでは、人種差別には会わないさ。もちろん、外へ出たら、また変わってくるだろうがな。」

「でもね、水穂さんの一番のコンプレックスというか、根っこはやっぱりそこだと思うの。だから、食べるきがしないというか、生きる気にならないというか。」

由紀子は、どうもそういう気がしてしまって、根拠にならない話をしてしまった。

「だから、そんなものはどうでもいいってば。いくら社会的には低い立場かもしれないと言ったって、ご飯を食べるときは食べるんだ。それをして何が悪い?それは、だれでもすることじゃないのかい?」

「そうかしらねエ。」

由紀子は、ちょっと不安そうに言った。

「だって戦時中じゃないんだし、穢多の出身だからって、ご飯を食べてはいけないなんていう法律は何処にもないよ!ほら、頑張って、一口は食ってみよう。ほら、もう一回。」

杉三がもう一回口元へお匙を持って行ったが、やっぱり飲み込めず吐き出してしまったのであった。

丁度この時である。

「こんにちは、浜島です。右城君いますか?」

と、玄関先から声が聞こえてきた。インターフォンのない玄関は、来客が自分で用件をいう必要があった。

「今頃誰だよ。」

杉三はそういったが、由紀子はこんな時に、来ないでもらいたい人物が来てしまったなと思って、一つため息をついた。

「すみません。ちょっと、右城君に用があって、来させてもらったのですが。」

もう一度、用件をいう客。

「もうしょうがないなあ。今ご飯を食わしていて、手が離せないの。悪いけど、上がってきてくれる?」

杉三が玄関へ向かって、でかい声で言うと、わかりました、お邪魔しますといって、客は入り口の戸を閉め、それではと部屋の中に入ってきたのであった。

「こんにちは。確かこの部屋でしたよね。右城君いる?」

はいってきたのは、例のフルート奏者の浜島咲である。

「なんだ、食事してたの?もう食事の時間は終わってしまっている時間なのに。」

「そうなんだよ。ご飯食わせるのにも、一苦労なのよ。」

杉三はにこやかにそういうのであるが、由紀子はこういう言い方をさせる咲が気にくわなかった。どうも彼女の言い方は、水穂をバカにしているというか、けなしているような響きがあるのだ。それが本人の意思でそうしているのかいないのかはよくわからなかったけど、由紀子はそういっている様に感じてしまうのだった。

「水穂さんお願い。何とかして、一口食べてよ。」

しまいには、杉三からお匙をひったくって、水穂さんの口の中へ無理やり突っ込んでしまう由紀子。中身を飲めない水穂は、また激しく咳き込んで、鮮血と一緒に吐き出してしまうのであった。

「由紀子さん、其れはしないでくれ。水穂さんが可哀そうだ。いくら人前で見栄を張って、食べさせようとしたって、どうしても、だめなときはあるよ。それは、しょうがないよ。」

杉三がそういって、由紀子を引き留めたが、由紀子はそれでも、なぜか悔しいという感情に支配されてしまうのだ。どうもこの目の前の女性の存在は、由紀子をそういう気持ちにもっていってしまう様にしてしまうらしい。なぜか、由紀子は、この女性を見ると、彼女には負けたくないというか、そういう気持ちになってしまう。

「そんな状態じゃ、やっぱり駄目ね。下村先生の予言が当たったわ。」

ふいに咲がそんなことをいった。

「下村先生の予言?」

杉三が聞く。

「一体お前さんは何の用で今日ここに来た?」

「ええ、私たちのグループの、単独公演のチラシができたから持ってきたのよ。」

と、咲は答えた。

「あの時、お世話になったから、右城君に見てもらおうと思って。下村先生は、うちの薫よりひどかったんだっから、受け取ってはもらえないと言っていたんだけど、でもあたしはそうじゃないと思って、持ってきちゃったのよ。」

「薫さんね、こないだ亡くなった。」

「そうよ。少なくとも薫さんの様に最悪の事態まではいっていないんだから、私は、まだ大丈夫じゃないかと思ったのよ。」

と、咲は答えた。

「まあ、ごらんのとおりだ。下村先生の予言が当たったと思ってよ。今日はあきらめてくれ。ご飯も満足にくえない有様では、とても、単独ライブ何て行ける状態ではないよ。まあしょうがないことだから、また後で、良くなってから来てくれや。」

杉三がそういう事を言うと、

「そうなのね。でも、右城君、いったいどこが悪いのよ。今の時代、そんな病気にかかるきっかけなんかどこにもないと思うけど。どこか、発展途上国でもいって、そこでもらってきちゃったのかしら?」

咲は耳の痛い話を始めた。

「まあ、それはそういう事なんだろうが、どこかで貰ってきたという事は、まずないよ。日本のいたるところに居れば、必ずかかるだろうよ。瘧熱は撲滅されたというが、まだそれを媒介している蚊は存在するって、聞いたことがあるよ。」

「でも、普通に生活していれば、かかるきっかけなんてほとんどないんじゃないの?日本にはそういう汚い場所なんてほとんどないじゃないの。それがあったのは昭和の初めくらいまでじゃないの?」

「それと頼むから、そういう事は比較しないでよ。そういう事必ず言われるけど、その説明には、非常に一苦労するんだよ。」

咲と杉三がそう言い合っているのが、由紀子は本当に嫌な気持ちになる。そのようなことをわざわざ口論しなければならないほど、水穂さんの事を理解してくれる人は誰もいないのだろうか。

「もうやめて!水穂さんの事をかわいそうだと思わないの!そういう発言をするのは、水穂さんのいる前じゃなくて、外でやって!」

由紀子は、思わず声を上げた。同時に水穂さんがまた咳込んだ。本当に苦しそうに見えたので由紀子は急いで、その背中をたたいてやったりする。

「もう、しっかりして。ほら、ゆっくり吐き出して。いきなり全部吐き出そうとしちゃだめよ。苦しいのは分かるけど、ゆっくり吐き出すの。」

今回はうまくいったらしく、水穂は咳き込みながら、中身吐き出してくれたのでよかったと由紀子は思った。急いで口もとにタオルを当てて、出したものをふき取った。

「よかった、うまくいったわ。」

由紀子は、タオルを口元からとった。杉ちゃんが、洗濯しておくよ、といって、その血まみれになったタオルを受け取った。

咲はその一部始終をただ見ていたが、どうも府におちないところがあって、納得できない顔をしていた。

「ねえ、由紀子さん、一寸聞きたいことがあるんだけど。」

杉ちゃんでは、こういうとき正確な答えは得られないので、咲は由紀子さんに聞いてみることにする。

「ちょっと、ここではいいにくいことだから、外に出てもいいかしら?」

「わかったわ。」

と、由紀子は、立ち上がって、咲と一緒に、そとに出た。杉ちゃんは、もうちょっと待っていると言って、その場に残った。

由紀子は咲と一緒に、廊下へ出て、製鉄所の食堂へ行った。食堂は、まだ利用者たちが返って聞いていない事もあり、しいんとしていた。

「ねえ由紀子さん。水穂さんはどうして、あんな風に病臥しいているのかしら。あたしはどうしてもわからないのよ。杉ちゃんもあなたも、どうして放置しているの?それでは、何もしないで、放置しているだけで、何も変わらないじゃないの。だって、今となっては、十分治療は可能なはずなんじゃないの。多少、あそこまでひどいとしても、手術をするとかそういう事で、何とかしてやることだってできるはずじゃないの。」

咲は、由紀子に不思議そうに尋ねた。由紀子も答えをいっていいものかどうか、それでは迷ってしまう。

「由紀子さん、もし、彼の事を何とかしてやろうと思うんだったら、ちゃんと昔ほど怖い病気じゃないってことをしっかり伝えてやって、ちゃんとした病院に入院させてやるなりすればいいじゃないの。それでは、病気を放置して、悪くなるのを速めているようにしかみえない。」

「咲さん、、、。」

由紀子は、答えを言いたかったが、答えをいったら、咲におかしな反応をされるのではないかと思われて、どうしてもいえなかった。

「由紀子さん、これは大事なことよ。もし、なんとかしてあげれば、水穂さんも、助かるかもしれないわ。杉ちゃんは知ってるの?水穂さんの病気の事。ちゃんと言い聞かせてあげて、入院させてあげる事が大切だと思うの。そりゃ、住んでいたところを離れるわけだから、多少嫌がるのかもしれないけれど、時には、心を鬼にしていう事も必要なんじゃないかしら。水穂さんに、ちゃんと専門病院に行けば治るって伝えてあげることの方が大切だって事も、しっかり教えてあげることよ。杉ちゃんには、そういうところがないというか、そういう知識を持っている可能性は少ないでしょうから、あなたが、なんとかしてあげなくちゃいけないのでは?」

咲は、一般的な話をしたつもりだったが、由紀子は落ち込んでしまった。がっかりとした顔で、そっと下を向く。

「由紀子さん。どうしたの?伝えることくらい、簡単なことじゃないの。そうでしょう?」

「咲さんがそう思っても、どうしても、伝えられないことってあるわよ。」

由紀子はそれだけを言った。其れしか、他人には伝えることは出来ないと思った。由紀子は、咲さんのような高尚な人物に、水穂さんの苦しみなどわかるはずがないと思った。

「それでは、水穂さんをああしておくしか方法はないとでも?」

咲は、もう一回聞いた。

「ええ、其れしかないのよ。」

由紀子はそう答える。

「しかし、どうしてそんなに。だって普通に生活して居れば、普通に治せる病気じゃないの?明治から、昭和の初めのころは、確かに怖かったかもしれないけど、今はそんなこと恐れる必要は、まったくないのよ。其れなのになんで?」

どうしても咲はそこがわからないのであった。

「咲さんお願い。もうそういうのはやめにして頂戴。水穂さんはもう何も手の施しようがないのよ。例え咲さんが言っていることが正しいとしても、そういう事はすべての人ができるのかというと、そういう事はないんだっていうことくらい、知っておいて。」

由紀子は、それだけ言うのに精いっぱいで、咲には本当の事を、伝えることはできなかった。もし知らせてしまったら、水穂さんに対して、敵がもう一人増えてしまうのではないか。そして、敵を増やしたら、また水穂さんが可哀そうな目にあってしまうからだ。そんなこと、由紀子には、させることは出来なかった。

「ねえ由紀子さん。どうしてそうこだわり続けるの?水穂さんは、そんなに大変な人なの?あたしから見たら、ただ今では治療可能な病気に甘んじて、やる事を怠けている様にしか見えないわよ。そりゃあね、昔は、致命傷だったかもしれないわよ。そういう文献だってたくさんあるから、かかった事が発覚したら、ちょっと落ち込むことはあるかもしれないわね。それは認めるわ。でも、今はそういう事は、一切ないし、する必要もないの、医療関係だって充実しているのよ。それを伝えてあげてと私は言っているだけよ。それが、どうしてそんなに、躊躇することなのかしら?」

どうしても、由紀子は、其れをいう事ができなかった。答えを言ってしまったら、もうおしまい。いまいることもできなくなってしまうのでは、、、。

「水穂さんは悪い人ではない事は私だって知ってるわ。ああして細やかな気配りができて、人の話を聞くのが上手で、みんなからそのことで頼りにされている。これからも、そういう人でいてほしいと私も思ってる。だからこそ、現在では治療可能な病気で最期という形にはしてもらいたくないのよ。きっと彼の事を頼ってくる人は、一杯現れると思うわ。そのためにも、いましっかり病気を治してほしいわ。演奏も再開してほしい。そして、これからもいろんな人を癒してやってほしいの。」

「咲さん、お願い。それ以上、言わないで。もう無理なものは無理なのよ。これ以上、彼に、負担をかけることはしないで。もうこれ以上可哀そうなことはさせないで。」

咲は一生懸命説得にあたったのだが、由紀子はどうしても答えをいう事は出来なかったのだ。それでは、どうしても敵を増やしてしまうということばかり考えていて、、、。

「由紀子さん、お願い。あなたは水穂さんのそばにいる人だし、私よりずっと、用件は伝えられると思う。だから、水穂さんに伝えてあげて。それは大事なことだから。ね。」

「そうね、咲さん。」

由紀子は、しずかに言った。

「あたしには答えなんて言えないわよ。水穂さんにあたしが、口を出せるような事は言えないわよ。あたしは、そんなかわいそうなことはできるはずもないわ。」

「どうして由紀子さんはそんなに、、、。」

咲は理由がわからないという顔をして、由紀子にもう一度尋ねたが、由紀子はきっとした顔で、咲をにらみつけた。

「もう、これ以上、こんなかわいそうな真似をさせないで上げて。あたしは、もうこれ以上敵を増やすような真似はしたくないのよ。もし、咲さんが、本当の事を知りたかったら、銘仙の着物について、勉強してみて。それをちゃんとわかってから、もう一回説得に来て頂戴。」

「由紀子さん。」

このセリフを言われても、咲は何の事だか分らなかったが、由紀子はそれ以上意思を曲げる気はないようだった。とりあえず今日は、もう彼女を説得することは無理とあきらめて、ごめんなさい、もう帰るわと、食堂を出る。由紀子は、其れを、申し訳ないような、或いは勝利したような、複雑な気持ちで、見送った。

そのまま、水穂さんに簡素な別れを告げて、咲は家に帰るつもりだった。でも、あの時、由紀子に言われたセリフが、まだ頭の中に残っていた。それを自分でも何とか解いてみたいと咲は思った。もちろん咲自身は、着物という物について、全く知識はなく、着物を着る時があっても、そこいらに売っている、化繊の着物で十分だと思っていたのだが。

それではいけないなんて、着物というものはどうしてそんなに面倒なものなんだろう、くらいしか考えていなかった。

それでも、由紀子さんに言われた答えを聞いてみたかった。別に重い事情というわけでも無く、其れよりも、好奇心というか、一寸聞いてみたいというか、軽い気持ちだったのである。まあ、銘仙という着物についても、たいした事はないだろうと思っていた。

いつも歩いている道路を歩くと、そこは工事中だった。あれれ、ここ、工事していたかしらと思ったら、今日の夜間から工事を始めるので、回り道をしてくれと、旗振りのおじさんに言われてしまった。それはしかたないから、旗振りさんに言われた通り、回り道をして、別の道路を歩き始めた。

「あら、こんなところに呉服屋があった。ちょっと寄ってみようかな。」

と、咲は、ちょっと声を上げた。たしかに、看板には「増田呉服店」と書いてある。カールおじさんの店だ。咲はそんなことを知らなかったが、増田カールさんは、杉三の親友と言える人物であった。

「こんにちは、、、。」

咲はその店のドアを開けてみる。

「いらっしゃいませ。」

中は、着物の正絹の匂いが充満していて、ものすごいむさくるしいくらいだった。古い着物ばかり売っているせいか、正絹の匂いだけではなく、保管していたしょうのうの匂いも充満しているのだった。

「着物を買いにいらしたんですか?」

カールさんはそう聞いてくるが、咲は答えることは出来なかった。

「何にいたしましょうかね。訪問着ですか?小紋ですか?それとも、紬とかそういうのかな。まだ、紬を着るには年齢的に早いですかね。」

カールさんはそう聞いてくるのであるが、そういわれても、咲は、訪問着と小紋の違い何て全く分からなかったのである。これでは、外国人のカールさんに、バカにされているような気がした。

とりあえず咲は、店の中を一通り見渡す。何も知りませんということは出来ないので、とにかく着物を一枚買わなければという気がする。

「あら、この着物は水穂さんのとおんなじ柄だわ。」

咲は、一枚の男性物の着物をとった。

青色の着物で、やっぱり十文字柄が、独特の入れ方で入れられている。

「ああ、誰か好きな人に着物をプレゼントでもするんですか。」

と、カールさんは言った。ちょっと確認させてくださいと言われたので、咲は、其れをカールさんに見せた。すると、カールさんは変な顔をする。

「これは、銘仙ですね。失礼なお話ですが、プレゼントする彼に確認を取ってもらいましたでしょうかね?」

「銘仙?それなんですか?」

咲は、カールさんの話に、その名称をもう一度言った。

「ああ、知らないんですか。それでは、銘仙をプレゼントするなんて、見方によっては相手をバカにすることにもなりますから、これはやめた方がいいのではないでしょうか。もし、すきな人にプレゼントするのなら、銘仙はやめて、羽二重とか、黒大島とか、そういう高級なものをプレゼントするべきだと思います。」

と、カールさんは言い始めた。

「こういう着物のことを銘仙というのですか。どうして銘仙をプレゼントするのはやめた方がいいとおっしゃるのでしょうか?」

咲はもう一度聞く。

「そうですねえ。お客さんは、日本の身分制度というものを知っていますか?」

「身分制度?」

「ええ、そうです。ほらよく言われるのが士農工商というのがあるでしょう?着物の柄や生地も、士農工商から、起因するものがたくさんあるのです。例えば、紬何かはその代表例です。黒大島を含めて紬の着物は、お百姓さんたちが、作業をするために発明した着物ですね。地方によって、さまざまなブランドがありますが、結城紬とか、牛首紬とか、いろいろあるでしょう?」

そういわれても咲はよくわからなかったが、とにかくお百姓さんの着物として紬という物があるんだなという事は何となくわかった。

「それ以外に、羽二重というものがありますが、こちらは武家とか公家とか、そういう人のための生地としてもてはやされたものでした。今は、大体の人が、羽二重を着られるようになりましたが、むかしは、いわゆる普通の人は着用できなかったブランドの一つですね。」

カールさんは、別の着物を取り出して、咲に見せてくれた。なんとも言えない綺麗な生地でてかてかに光っている。この方が、水穂さんには、とても似合うのではないかと、咲は思った。

「わかりました。銘仙という物はお百姓さん以外の人が着ていたものでしょうか?」

咲はそう聞いてみたが、カールさんは、

「違います。」

といった。

「じゃあなんでしょうか?」

と咲は聞く。

「それはね。」

カールさんも口に出して言おうとするが、目の前に水穂さんの顔が浮かんで、ここで水穂さんの身分の事をばらしてしまうのが、怖くてできなかった。そんなことをしたら、自分まで、水穂さんの事を裏切った一人になるのかもしれない。

そんなことをいったら、杉ちゃんに何と言われるだろうか。矢鱈、水穂さんの身分について、しゃべってしまう物ではないような気がする。

「ねえ、おじさん、其れはどういう物ですか。銘仙の着物というと、なにか事情があるのでしょうか?」

咲は又カールさんに聞いた。

「ああ、有るんですよ。とてもとても重い事情が。それはもし、外国の人権団体などに話したら、日本では、何てひどい事をしていると批判が飛び出るでしょう。だけど、日本の歴史を語る上では非常に重大なことでもある。だから、歴史的な事情という訳で。」

「何ですか、その歴史的な事情って。」

カールさんは、咲がその歴史的な事情というものをはっきり知らないという事を知って、いうべきか言わないべきなのか、大変まよってしまった。でも、日本人が、自分の国の歴史をあまりにも知らな過ぎて、のらりくらりと生きているという事で、憤りを感じたこともしょっちゅうあった。だから、歴史を知っているのなら、教えてやるべきだと思って、カールさんは一つの覚悟を決める。

「あのね。お教えしましょうか。農民や町人、職人、商人よりも、低い身分と言われた人たちがいたんです。その人たちは、動物の革で鞄とか、靴とかそういう物を作っていたんですよ。そういう人は、住みにくいところに無理やり住まわされて、そういうところを今の日本語では同和地区というんです。その同和地区に住んでいる人たちが、着ていた着物なんですよ。銘仙っていうのは。だからそれを、普通の人が平気で着用してしまうのは、おかしいというわけです。そういうわけです、歴史的な事情というのは。」

と、カールさんは、しずかに答えを出した。

「つまりそれを着用していた右城くんは、つまりそこの人であるというわけですか。」

咲も静かに反応する。

「ええ、そういうことなんです。だから僕も彼にたいしては、本当に慎重にやらないと。彼も銘仙の着物を着続けていたせいで、本当に傷ついていますからな。」

カールさんは、そういって、ちょっとため息をついた。咲が、何を考えているのか、それがちょっと心配だった。

「大丈夫です。あたしは誰にも言いません。」

咲はしずかに言った。

「多分彼にとっては、言わないでおいてあげることが一番だと思います。銘仙の着物も、歴史的な事情を知らないほうが、喜ぶんじゃないかしら。私はそう思います。きっと、これからも目立つ柄ですから、銘仙を欲しがる人がいると思います。でも、その時には、歴史的な事情は話さないほうがいいんじゃないかしら。そのほうが、着物だって、新しい使いかたがまたできるわ。そのほうがずっといいわよ。」

そう理解してくれれば、水穂さんも少し楽になってくれるのではないかなと、カールさんは思った。咲も、黙っていたほうが、同和問題について、一番理解していることになるという事を確信し、それではと考え直して、

「あの、この銘仙の着物買っていってもいいかしら。」

と、カールさんに言った。

「はい、どうぞ。一枚千円で結構です。どっちにしろ、これ、さほど人気のあるものでもありませんでしたのでね。」

と、カールさんは、急いで領収書を書くためにペンをとった。咲はカールさんに千円札を渡した。カールさんは千円を受け取って、咲に領収書を渡す。

「右城君は喜ぶかな。」

と、咲は小さな声でつぶやいた。

「ええ、喜ぶと思いますよ。多分羽二重の着物を与えられるよりも喜ぶでしょう。」

カールさんは、しずかに答えた。

「ねえ、女性ものの銘仙ってあるかしら。」

ふいに咲がそんなことをいいだした。カールさんはまたそんな真似をして!と驚いた顔で見るが咲の顔は真剣そのものだ。

「でも、それでは、あなたまで馬鹿にされることになってしまう。それはとてもつらいことです。それはやめた方がいいのではないですか。」

カールさんはそう注意したが、咲の決断は変わらないようだった。

「それではこの青い銘仙ならどうですか?こちらも千円で結構ですから。」

と、一枚の着物を取り出した。青に、白いバラを入れた、かわいらしいものだ。

「わかりました。じゃあ、買っていきます。とりあえず今日は着物を買って、帯はほかのときにまた買いに来ます。」

咲はもう一度千円を手渡す。カールさんはもう一度領収書を書こうかといったが、咲はそれはしなかった。

「それではまた。」

咲は、銘仙二枚を入れた紙袋を受け取って、しずかに店を出ていく。

「ありがとうございました。」

カールさんは、その後ろ姿を黙って見送った。
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