西瓜と幽霊
文字数 2,923文字
「おじいちゃんの家に行くなら、これを持って行きなさい」
みんみん。蝉の大合唱が鼓膜を突き破る勢いで鳴り響く田舎町。ここより数倍は田舎で、あるのは田んぼと廃れたスーパーと海だけという祖父の家に泊まることになった。
本来は母親の里帰りだったのだが仕事の都合上、息子である桐耶が先に向かうことになった。高校生となれば片道二時間の電車も心配されない。桐耶も甘やかしてくれる祖父が好きなので異論はなく従順に頷いていた。
だが、当日。三十二度を超える猛暑で太陽が地上の生物を殺そうと輝く朝にて。準備を済ませた桐耶に母親が呼び止めた。
はい、と軽く渡されたものにぎょっと目をむく。
網に入った抱えるほどの大きさ、緑に黒の波線玉――西瓜である。丸々と太ったそれは、網の引っ張られ具合でが実が詰まっていてずっしり重いのが察せられる。
「なに、なんで西瓜持って行くの」
「実はね、うちのお兄ちゃんの子が、電車と西瓜が好きなんだって。だから持って行ってあげて」
「……まじかよ」
受け取れば指に食い込み予想以上の重量に、思わず乾いた笑いがこぼれた。できるなら宅配で送って欲しいものである。駅まで徒歩十分、近いが暑さもあって身軽で赴きたい。
そんな桐耶の願いも何のその。母親は手を振って「それじゃよろしく」と桐耶を追い出した。一気に熱風と勘違いしそうな外気に放り込まれて、くらくらと眩暈がする。健康体でも、この暑さは体に悪い。
とはいえ、ここで駄々をこねても頑固な母親が折れるとは思えない。致し方なく、鞄と西瓜を持ち直し、熱せられたアスファルトへ一歩踏み出した。
そもそも西瓜を持ちながら電車というのは目立つ。
ちょうど里帰り時期で混み合った電車内、好奇の目がいくつも向けられる。じろじろと無遠慮な視線は案外気力というものを奪っていくものだ。
座る場所もなく、壁に寄りかかる。西瓜が割れないように両腕で抱え込む。満員電車の熱気は冷房を凌駕して、汗がたらりと首筋をなぞり背中へと落ちた。
がたんごとん。電車の揺れに足を踏ん張って耐える。せめて二時間のどこかで座れれば良いのだが――望みは薄いだろう。里帰りラッシュ、席を予約した方が良かったのだが、どれも満席で無理だった。
今度から車で帰りたいと提案しよう。そうしよう。
心に固く決意をして、桐耶はずり落ちそうになった西瓜を落とさないよう力を入れた。
それから、やはり二時間。座るときはなかった。さすがに立ちっぱなしは辛く、足が疲労を訴えている。これからバスを乗り継ぎして二十分歩くのかと思うと、絶望感を覚える。今すぐ冷房のついた自室に戻りたい。いや滝のように流れ出た汗を消すためシャワーが先か。
溜め息を飲み込んで、人の流れに従って駅へと降り立つ。それでも乗り込む人間が多く、動き出して去っていた電車は満員のままだった。
見送ってから凝り固まった体をほぐすように背を反る。人波は急ぎ足で過ぎ去った。最近の人は無意識に目的まで急いでしまうらしい。自分も、自覚があるタイプなのだが。今回は疲れが勝ってしまった。
かと言って、ずっと駅にいるわけにもいかない。何より田舎の駅には冷房はない。じっとしているだけで死にかける温度だ。さっさと祖父の家で氷の入った麦茶をぐいっと呷りたい。
そう歩きだそうとして。
「おっきいすいかだーっ!」
「うわっ」
足下で溌剌とした少女の声が響いた。
桐耶がバランスを崩して尻餅をついたのも気にせず、少女はとてとてと近づく。黒い髪をツインテールにして、白いワンピースの裾を揺らす。ふくふくとした頬は大福を彷彿とさせる。
まだ園児だろうか。幼さ特有の元気良さと無邪気さと警戒のなさを存分に発揮して、高校生の、百九十センチある男に駆け寄り西瓜に夢中だ。
周りを見渡しても大人の姿はない。まさか迷子か、と眉をよせる。なんせ無人駅だ、駅長がいない。この場合交番に送り届けるべきだろうが、祖父の家付近の地理など知らない。なんせ毎年、里帰りしても閉じこもっている桐耶である。インドア派の代表だ。
「あー、お前、親は?」
「ねぇお兄ちゃん、すいかおっきいねぇ」
聞いてないな。
すっかり魅了されたらしい。こちらの言葉に耳をかさずに、小さな手でペタペタと西瓜を触っている。楽しそうだが、こちらは少女の身柄をどうすべきかで頭がいっぱいだ。
「なぁ俺の話聞いてくれ、お前ひとりなのか?」
「やだ。すいかくれたら、きいてあげる」
なんというか、最近の子供とは強かというか。ううむ。
とんでもない発言に桐耶は暫しの逡巡のちに頷いた。どうせ西瓜を持てるほどの力はない。どうとでもなる。……助けるのが目的だが嘘つくのは少々心苦しいのだが。
「やるから、親がいるかどうか」
「やったぁ! ありがとうお兄ちゃん」
ぴょんとはねてお礼を言う少女のまぶしさ。どれだけ西瓜が好きなんだと、がくりと項垂れた。ぽたりと汗が落ちてアスファルトの色を変えた。じゅわと音がしたのは気のせいである。
「すいかくれたから、帰るね」
「え」
握った網をするりと取られて、西瓜から手が離れる。ぱっと顔を上げて。
「……は?」
少女は、いなくなっていた。
跡形もなく、西瓜も消えて。足音もなく。桐耶は俯いていただけだ。その一瞬で姿を消すなど、あり得るのか。
頭が、すぐさま否定した瞬間。さあっと血の気が引いていくのが分かった。まさか、いやいやと思うのに昨日見たホラー番組を思い出して恐怖が底から湧き上がってくる。
幽霊。
二文字が浮かんだ途端、桐耶は情けない声を上げて走りだした。
「おかえり、疲れただろ……おや、桐耶ちゃん。どうしたんだい、そんな息を切らして」
飛び込むように祖父の家に転がり込めば、祖父が顔を出した。桐耶の尋常ではない様子に首をかしげる。のほほんとして、桐耶の慌てっぷりにも動じていないようだ。
「い、いや、ええと」
幽霊の少女に会いました。
などと言えば、認めるみたいで嫌だ。怖がりだと笑われるのも嫌だ。
白昼夢だったと思えばいいのだが、桐耶はどうにも恐怖が上回り、口ごもる。
そんな桐耶に、祖父がちらりと手元を見てにこりと微笑んだ。
「おやおや西瓜」
「あ」
乱れた呼吸が、止まる。西瓜、持って行くように言われたのに結局なくなってしまった。
どう言い訳しようかと、またもや黙り込む桐耶に祖父は朗らかに笑い、手招きした。
「ちゃんと渡してくれたんだねぇ、ほら桐耶ちゃんもおあがり」
「わたし、た?」
「うん。あの子はねぇ電車が好きで、いつまでも眺めてるもんだから。西瓜がないとおじいちゃんちにいかないと駄々をこねるから、助かったよ」
何を言っているのか半分以上理解出来ずに、夢うつつのようにふらふらと居間へと進む。祖父の後をついていくと、仏壇へと通された。
「うちの孫は二人とも親より先におじいちゃんちに着てくれたね、嬉しいよ」
お盆の飾りがある仏壇の隅には、西瓜と――先ほどの少女の写真が飾られていた。西瓜は、桐耶が運んだものと同じに見える。
「西瓜持ってきてくれたから、帰ってきてくれたよ」
電車でわざわざ西瓜を持ってくるようにお願いされた理由を、桐耶は、ようやく理解した。
みんみん。蝉の大合唱が鼓膜を突き破る勢いで鳴り響く田舎町。ここより数倍は田舎で、あるのは田んぼと廃れたスーパーと海だけという祖父の家に泊まることになった。
本来は母親の里帰りだったのだが仕事の都合上、息子である桐耶が先に向かうことになった。高校生となれば片道二時間の電車も心配されない。桐耶も甘やかしてくれる祖父が好きなので異論はなく従順に頷いていた。
だが、当日。三十二度を超える猛暑で太陽が地上の生物を殺そうと輝く朝にて。準備を済ませた桐耶に母親が呼び止めた。
はい、と軽く渡されたものにぎょっと目をむく。
網に入った抱えるほどの大きさ、緑に黒の波線玉――西瓜である。丸々と太ったそれは、網の引っ張られ具合でが実が詰まっていてずっしり重いのが察せられる。
「なに、なんで西瓜持って行くの」
「実はね、うちのお兄ちゃんの子が、電車と西瓜が好きなんだって。だから持って行ってあげて」
「……まじかよ」
受け取れば指に食い込み予想以上の重量に、思わず乾いた笑いがこぼれた。できるなら宅配で送って欲しいものである。駅まで徒歩十分、近いが暑さもあって身軽で赴きたい。
そんな桐耶の願いも何のその。母親は手を振って「それじゃよろしく」と桐耶を追い出した。一気に熱風と勘違いしそうな外気に放り込まれて、くらくらと眩暈がする。健康体でも、この暑さは体に悪い。
とはいえ、ここで駄々をこねても頑固な母親が折れるとは思えない。致し方なく、鞄と西瓜を持ち直し、熱せられたアスファルトへ一歩踏み出した。
そもそも西瓜を持ちながら電車というのは目立つ。
ちょうど里帰り時期で混み合った電車内、好奇の目がいくつも向けられる。じろじろと無遠慮な視線は案外気力というものを奪っていくものだ。
座る場所もなく、壁に寄りかかる。西瓜が割れないように両腕で抱え込む。満員電車の熱気は冷房を凌駕して、汗がたらりと首筋をなぞり背中へと落ちた。
がたんごとん。電車の揺れに足を踏ん張って耐える。せめて二時間のどこかで座れれば良いのだが――望みは薄いだろう。里帰りラッシュ、席を予約した方が良かったのだが、どれも満席で無理だった。
今度から車で帰りたいと提案しよう。そうしよう。
心に固く決意をして、桐耶はずり落ちそうになった西瓜を落とさないよう力を入れた。
それから、やはり二時間。座るときはなかった。さすがに立ちっぱなしは辛く、足が疲労を訴えている。これからバスを乗り継ぎして二十分歩くのかと思うと、絶望感を覚える。今すぐ冷房のついた自室に戻りたい。いや滝のように流れ出た汗を消すためシャワーが先か。
溜め息を飲み込んで、人の流れに従って駅へと降り立つ。それでも乗り込む人間が多く、動き出して去っていた電車は満員のままだった。
見送ってから凝り固まった体をほぐすように背を反る。人波は急ぎ足で過ぎ去った。最近の人は無意識に目的まで急いでしまうらしい。自分も、自覚があるタイプなのだが。今回は疲れが勝ってしまった。
かと言って、ずっと駅にいるわけにもいかない。何より田舎の駅には冷房はない。じっとしているだけで死にかける温度だ。さっさと祖父の家で氷の入った麦茶をぐいっと呷りたい。
そう歩きだそうとして。
「おっきいすいかだーっ!」
「うわっ」
足下で溌剌とした少女の声が響いた。
桐耶がバランスを崩して尻餅をついたのも気にせず、少女はとてとてと近づく。黒い髪をツインテールにして、白いワンピースの裾を揺らす。ふくふくとした頬は大福を彷彿とさせる。
まだ園児だろうか。幼さ特有の元気良さと無邪気さと警戒のなさを存分に発揮して、高校生の、百九十センチある男に駆け寄り西瓜に夢中だ。
周りを見渡しても大人の姿はない。まさか迷子か、と眉をよせる。なんせ無人駅だ、駅長がいない。この場合交番に送り届けるべきだろうが、祖父の家付近の地理など知らない。なんせ毎年、里帰りしても閉じこもっている桐耶である。インドア派の代表だ。
「あー、お前、親は?」
「ねぇお兄ちゃん、すいかおっきいねぇ」
聞いてないな。
すっかり魅了されたらしい。こちらの言葉に耳をかさずに、小さな手でペタペタと西瓜を触っている。楽しそうだが、こちらは少女の身柄をどうすべきかで頭がいっぱいだ。
「なぁ俺の話聞いてくれ、お前ひとりなのか?」
「やだ。すいかくれたら、きいてあげる」
なんというか、最近の子供とは強かというか。ううむ。
とんでもない発言に桐耶は暫しの逡巡のちに頷いた。どうせ西瓜を持てるほどの力はない。どうとでもなる。……助けるのが目的だが嘘つくのは少々心苦しいのだが。
「やるから、親がいるかどうか」
「やったぁ! ありがとうお兄ちゃん」
ぴょんとはねてお礼を言う少女のまぶしさ。どれだけ西瓜が好きなんだと、がくりと項垂れた。ぽたりと汗が落ちてアスファルトの色を変えた。じゅわと音がしたのは気のせいである。
「すいかくれたから、帰るね」
「え」
握った網をするりと取られて、西瓜から手が離れる。ぱっと顔を上げて。
「……は?」
少女は、いなくなっていた。
跡形もなく、西瓜も消えて。足音もなく。桐耶は俯いていただけだ。その一瞬で姿を消すなど、あり得るのか。
頭が、すぐさま否定した瞬間。さあっと血の気が引いていくのが分かった。まさか、いやいやと思うのに昨日見たホラー番組を思い出して恐怖が底から湧き上がってくる。
幽霊。
二文字が浮かんだ途端、桐耶は情けない声を上げて走りだした。
「おかえり、疲れただろ……おや、桐耶ちゃん。どうしたんだい、そんな息を切らして」
飛び込むように祖父の家に転がり込めば、祖父が顔を出した。桐耶の尋常ではない様子に首をかしげる。のほほんとして、桐耶の慌てっぷりにも動じていないようだ。
「い、いや、ええと」
幽霊の少女に会いました。
などと言えば、認めるみたいで嫌だ。怖がりだと笑われるのも嫌だ。
白昼夢だったと思えばいいのだが、桐耶はどうにも恐怖が上回り、口ごもる。
そんな桐耶に、祖父がちらりと手元を見てにこりと微笑んだ。
「おやおや西瓜」
「あ」
乱れた呼吸が、止まる。西瓜、持って行くように言われたのに結局なくなってしまった。
どう言い訳しようかと、またもや黙り込む桐耶に祖父は朗らかに笑い、手招きした。
「ちゃんと渡してくれたんだねぇ、ほら桐耶ちゃんもおあがり」
「わたし、た?」
「うん。あの子はねぇ電車が好きで、いつまでも眺めてるもんだから。西瓜がないとおじいちゃんちにいかないと駄々をこねるから、助かったよ」
何を言っているのか半分以上理解出来ずに、夢うつつのようにふらふらと居間へと進む。祖父の後をついていくと、仏壇へと通された。
「うちの孫は二人とも親より先におじいちゃんちに着てくれたね、嬉しいよ」
お盆の飾りがある仏壇の隅には、西瓜と――先ほどの少女の写真が飾られていた。西瓜は、桐耶が運んだものと同じに見える。
「西瓜持ってきてくれたから、帰ってきてくれたよ」
電車でわざわざ西瓜を持ってくるようにお願いされた理由を、桐耶は、ようやく理解した。