第2話 市立図書館鎮守直廊三人衆

文字数 2,688文字

 8月23日。高校三年生の夏休み。猫田しのぶはこの日、K市の市立図書館にいた。
 その日も天気の良い日だった。空は晴れ渡り、太陽は熱い熱気をあたりかまわず不機嫌にまき散らしている。しかし、彼女はそんな太陽の傍若無人ぶりを横目に、朝から市立図書館で受験勉強をしていた。
 図書館は市街地から少し離れた住宅街の近くの小さな森の外れにある。庭内には大きなクスノキがあり、その下にはテーブルと椅子が設置されていて、そこで本を読むことができる。勿論、芝生に寝転んで本を読んでも構わない。
 昔、ここには戦国時代の城があったと聞いたことがある。お殿様が住んでいたところで、今は寝転んで本を読めるのだからありがたいことなり。ああ、良きかな良きかな。
 彼女は図書館の庭でお昼のお弁当のサンドイッチを食べ、午後もまた勉強をした。今日は随分はかどった。閉館1時間前に勉強道具をいそいそと片付け、小説の棚のコーナーに向かった。
 彼女は小説を読むのが大好きだったが、受験勉強中なので今は我慢している。そして、帰り際に小説の棚の前に立ち、その背表紙を眺めるのが彼女のこの夏休みの日課になっていた。受験勉強が終わって、大学に入学したら好きなだけ小説を読もうと思っている。その時に読む小説のタイトルを頭に刻み付けるように彼女は背表紙を眺める。この世界にまだ読んだことがない本がこんなにあるということは本当に驚きだ。そしてタイトルを読んでどんな小説か想像する。けれども本は手に取らないようにする。一度ページをめくったが最後、読むのを止められなくなるのが怖いのだ。
 その彼女の前に立ち塞がる三人の刺客がいる。それを彼女は市立図書館鎮守直廊三人衆と命名している。
 鎮守直廊というのは中国清代に空嵐寺に学ぶ拳法家達がその修行を極めた者としての証として最後に挑戦した本殿まで一直線状にのびた廊下のことで、そこには三人の恐るべき刺客が待ち構えている。そこを通るためには、その恐るべき三人の刺客を倒さねばならない。それは極めて困難なことなのだそうだ。
 このことを彼女は高校1年生の時に、同じクラスの辻本勝彦に教わった。
 へえ、辻本は詳しいんだねと感心して言うと、ミンメイ書房の本に載っているから、男子は大概知っているよと笑いながら答えられた。ふうんと彼女は言った。
 実はこれはあるマンガの中に出てくる話で、実際に鎮守直廊というものなど存在せず、全くの出鱈目なのだが、その時の彼女は知る由もない。すっかり信じ込んでしまい、先日の日曜日など夕飯の支度をしている母親に、その中国の故事を元に三人の作家のことを、市立図書館鎮守直廊三人衆などと命名したことを得意げに話してしまった。彼女がマンガの中の話で実際にはなかったことを知り、「騙したな、辻本。」と悔しそうに、でも笑いながら呟くのはこれよりも随分後の事になる。
 ということで、17歳の彼女は今日も市立図書館鎮守直廊三人衆に挑むのだ。三人衆というのは、つまりはその作家の作品の前を素通りすることが極めて困難な彼女の好きな三人の作家のことだ。つまりはベストスリー。それでは17歳の彼女の本の趣味を紐解いていこう。
 先ず最初の刺客は綾辻行人だ。勿論問題は「館シリーズ」だ。彼女が最初に読んだのは、館シリーズ第1作の『十角館の殺人』だ。読み始めた時は、「うわあ、バカな大学生たちだなあ。」と思ったのだが、どんどん話に引き込まれていき、最後はすっかり感心してしまったのだ。うわあ、そういうことか。騙された。探偵役の島田潔の名前は、おそらくあれとあれを足したのだろうとは思ったが、それも彼女にとっては好印象だった。その後、水車館と迷路館は行ったのだが、次の館に行くのは受験が終わってからにする予定だ。
 二番目の刺客は京極夏彦。突如現れた京極堂という憑物落しと、人の過去が見えるという名探偵・榎木津。人の過去が見えるなんて反則じゃないのと思ったが、これもまた、途中で「なるほど。」とつぶやいてしまった。「頭いいなあ。」と思う。この人の作品はまだ1冊しか読んでいないのだが、とにかく1冊が厚い。辞書じゃんと思う。
 そして最強最大の刺客は島田荘司。
 初めて島田荘司の本を読んだのは、マンガ『金田一少年の事件簿』からの『占星術殺人事件』だった。『金田一少年の事件簿』のあるトリックが『占星術殺人事件』のトリックを参考にしたものだというので興味を持ったのだ。この図書館で初めて借りた本でもあった。そして彼女は出会ってしまった。御手洗潔と石岡和己に。まるでホームズとワトソンみたい。彼女は小学生の時に大好きだった『シャーロック・ホームズ』を思い浮かべた。そしてすっかり御手洗潔のシリーズに魅了されてしまったのだ。探偵とその友人に早く会いたいと思うのだが、しばらくは我慢なのだ。
 さあ、今日も無事に鎮守直廊の3人をやり過ごすことができた。だから、何故その本を手に取ってしまったのか彼女には分からない。三人の刺客を倒し気が緩んだのかもしれない。ひょっとしたら、それが運命だったのかもしれない。彼女は気付くとそっと手を伸ばしていた。目にとまったその1冊の本に向けて左手を伸ばした。そして、その本を本棚から引き出そうと手を触れた瞬間、急に横から誰か他の人の手が伸び、一緒にその本を本棚から引き出そうとした。
 「きゃあ、ごめんなさい。」と言って彼女は本から素早く手を放して両手を胸の前までぐっと引きつけた。それから図書館では大声を出してはいけないということを思い出し、小声で「きゃあ、ごめんなさい。」ともう一度つぶやいてみた。小声で言ったから、大声を出したことが取り消されるわけでは無いんだけれどね。
 辺りを見回してみる。誰もいない。夕暮れの図書館にはほとんど人影がなく静まり返っている。どこか遠くの方で子供たちの声が聞こえる。
 辺りを見回したあと、彼女は、彼女の手からこぼれ落ちた本に目を向ける。そして、元の位置に戻すために、その本を拾い上げる。
 あれ、随分軽いなあと彼女は思う。なんだか本が浮き上がっているみたい。
 その本が彼女ともう一人の人間によって本棚に戻されているという状況を彼女が理解するのは、彼女の手と違う手がその本を掴んでいたのをハッキリと見たからだ。
 彼女がその手にそって、ゆっくりと顔を上げる。黒い学生服が目に入る。そしてその学生服の上にはびっくりした表情の男の子の顔が見えた。
 その顔に彼女は見覚えがあった。「ドナルドダック。」と彼女は呟いた。
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