わたしの不在。もしくはわたしの存在の軽さ。

文字数 5,436文字

 香り立つフィルターの珈琲豆。早朝五時。一杯の珈琲を飲み、今日も一日が始まろうとしている。

 茶の間の観葉植物に水をやり、珈琲と一緒に、焼いたパンをかじる。

「うー。昨日、お酒飲みすぎちゃったな」

 頭がずきずき痛む。ひとりで深夜にお酒を飲むと、ついつい飲みすぎてしまう。忘れたいことなんて普通に暮らしていれば、一日の間にだってたくさんある。思い出さないようにって理由でお酒を飲むわたしのこの習慣は、あまりよろしくない。でも、やめられないのよねー。

 テレビをつけるとテレビがわたしに直接語り掛けてくるような気分になるので、それが怖くてわたしはテレビをあまり観ることができない。代わりに、スマートフォンのニュースアプリをタップして、トップ記事をいくつか読む。パンを右手に持ってかじり、左手でスマートフォンを操作している今のわたしの姿はちょっと滑稽だ。パンを珈琲で流し込んでから、天気予報のページを見る。

 今日はこれから雨のようだ。

 食器を洗って、歯を磨いて、着替える。姿見に映るわたしは自信のなさそうな顔をしている。しゃきっとしなくちゃ。

 鍵を開けて家の外に出ると、雨特有の湿気た匂いと自動車が水をはねる音が断続的に聞こえてくる。雨の勢いは、今は弱い。さあ、出かけよう。



          *****



 わたしに足りないものはなにか、と考えるよりも、わたしが持っているものはなんだろうと考えたほうが早い。なぜなら、わたしはほとんどなにも持ち合わせていないからだ。

 わたしは絶対的な世界観自体を持ち合わせていない。絶対的っていうのは、相対的の反対の意味合いの言葉での、絶対的だ。絶対的な基準で見るセカイ。一日一日を生きるのが大変で、こだわりを持つにはわたしの頭の中は生活のことだけでキャパシティがオーバーになって無理がある。気を抜くと足りない足りないを連呼してしまうので、その点でも、持っているものを考えたほうが生産的だ。

 傘をさして、傘で顔を隠すように歩く。駅まで歩く。視線はアスファルトを向いている。

 すれ違うひとたちの息遣いが聞こえる。雨だと逆に、人間の体温を感じるものだ。接触しているわけでもないのに。

「道順間違えて生きてるなー、わたし」

「そんなことないよ」

 後ろを振り返る。

 そこには友達の一葉がくすくす笑いをかみ殺して歩いていた。

「ひとりごと聞かれちゃった。うー。恥ずかしい」

「乃理は今日も変わらず、残念な子だなー」

 咳ばらいをして、恥ずかしさを紛らしたわたしは歩調を強める。一葉はわたしの横に来て、その歩みについてくる。

「ところでさー、乃理」

 なによ、と聞く前に一葉が続ける。

「戦時中だっていうのに、わたしたち、一体なにしてるのかしらね」

 わたしは首をかしげ、立ち止まる。

 一葉も立ち止まり、わたしの顔を覗き込む。

「だからさ。乃理。戦時中にわたしたち、一体なにしてるのかしらね」

 雨の音と、自動車の排気音とタイヤが水をはねる音。

 わたしと一葉は立ち止まったままで、二人の間にだけ、時間が静止したかのようになる。

 わたしの瞳孔のピントが一瞬ぼやけ、それから覗き込む一葉の普段通りの顔に、ピントが合う。

 ここ、どこだっけ。どこに向かってるんだっけ。



          *****



 一葉と一緒に歩いていると、勤めている会社のビルに到着する。一葉は違う部署なので、エレベータでわかれる。

 わたしが部署に到着すると、二足歩行の犬たちがせっせと荷造りしていた。

 犬の一匹が、私に近づいてきた。

「終わりですよ、終わり」

 うわー、犬がしゃべってるー、と口走りそうになったが、どうにか声には出さないで済んだ。

「乃理さん。あなたはもう、終わるんですよ」

 犬は肩をすくめながら鼻で笑う。

「そうなんだぁ」

 犬の頭をなでようとして、それもやめる。

「戦時中だからかな」

「違いますよ、乃理さん。社会の問題と個人の問題はイコールでは結べないということを、あなたはもっとよく知ったほうがいいですよ」

 朝、ニュースアプリを見たときも、普段と変わらないようなニュースが並んでいた。

「そう! いつもどこかでは、平和じゃないことが起こっているもんね。戦争とか、内紛とか。わたし自身も平和じゃいられない。実感がわかないけど、それとこれは話が別だってことね」

「今、この国は戦時中なんですよ。そしてあなたは〈終わる〉のです」

 部署の中ではたくさんの物が段ボール箱に入れられ、一か所に集められている。

「うーん、犬さん。わたしはつまらない人間なんだ。それはわかってる。無理に楽しくしようとしても滑っちゃうし。でも、なんて言うのかなぁ……」

 この場に合う言葉を探す。思い当たらない。

 犬はジト目でわたしを見ながら、

「どうも噛み合ってませんね、会話が。あなたは終わるんですよ」

「段ボール運んで、なにしてるの。まだ就業の時間じゃないんだけど。それに、知らないひとばかり。ひとっていうより、犬さんたちって言ったほうがいいのかな」

「あ、な、た、は。終わるんですよ」

「ふーん。あなたたちはなんで二足歩行できるの、犬さん」

「戦時中ですよ。不要な人材はいらないのです。我々だって、役に立つように働きます。いらないのは、あなただ。終わる人間になにができるのです」

「わたしになにができるかなんて、こっちが聞きたいわ」

「もういい。帰れ」

 突き飛ばされ、部署のドアが閉められる。わたしは廊下に立ち尽くした。

「わたし、あたまおかしいな、今日は特に。犬が二足歩行でしゃべるわけないじゃない」

 部署のドアを開ける。

 中をのぞくと、そこには誰もいなかった。

 段ボールが奥の方に積んである。

 わたしは、くしゃみをした。埃っぽい。まるでずっと誰もいなかったみたいだ。そんなわけないのに。

「そんなわけ、ない?」

 わたしは本当にこのビルに入っている会社で働いていたのだろうか。

 わたしはスマートフォンをバッグから取り出し、一葉に、

「帰るわ。早退」

 と、打ち込んで送信した。

 送信した途端、雨の音が激しく聞こえだした。廊下が静かなのだ。

 誰もいない?

 ここには誰もいないんだっけ?

「つまらないな。犬さんともうちょっとおしゃべりしたかったかも。しゃべる犬なんておかしいもんね。つまらなくなったし、もう帰ろう。わたしの就労意欲なんて、その程度」

 それに、わたしは〈終わる〉んだもんね。

 スマートフォンが震えた。画面を見ると、

「今は戦時中。帰っても文句は言われない。疎開でもしなよ。わたしは残る」

 というメッセージを受信した。

「そうかい。疎開か」

 わたしは家に帰ろうと、エレベータに向かう。

「帰っても、家に誰もいない。誰も? 誰もって、誰だ。家族?」

 意識が一瞬、混濁する。

 エレベータに乗る。ふわりと浮いたあと、階下にエレベータが向かう。

 地階に着いたのでエレベータを降り、ビルの外に出る。

「実感わかないな。なにも」

 コンビニでアイスでも買って帰ろう。雨の中、傘をさして、わたしは駅まで歩く。

「電車に乗った記憶が」

 ない。なにも、ない。今日はおかしい。

 ここには誰もいない気がする。

 ここには。



          *****



 誰もいない改札を通って誰も乗っていない電車に乗る。

 自宅の最寄り駅に着く。

 瓦礫の山だった。

「誰もいない。誰もわたしなんか見ていない」

 社会と個人を同じに扱ってはならない。

 それは等価ではないからだ。

 個人は個人でしかない。だから、今のわたしの声は、おかしなことを言っていることになる。詩人ならそれでもいいのかもしれないけれども、残念ながらわたしは普通のひとだ。おかしな言い方ばかりしていると、社会から見放される。ああ、もう見放されているんだっけ。

 おかしいのは今に始まったことじゃない。

 わたしは瓦礫を踏みつけた。駅前の商店や家は、全部壊れていた。壊れているけど、まるで解体屋さんが機械で壊したかのような壊れ方だ。今が戦時中だって聞いて瓦礫の山を今、眺めているわけだけれども、全然戦争のような気がしない。自然災害みたい。

 爆撃じゃないのかな。新兵器? そういう問題じゃないとは思う。

 でも、興味が持てない。

 ただ、圧巻の瓦礫の風景。不謹慎極まりないわたしの感想。

「誰もいない……」

 傘を持つ手をぎゅっと握る。

 これじゃコンビニでアイスを買うのは無理だな。

 歩いて自分の家の前に着く。

 瓦礫の山の中、わたしの住んでいた家はぽつんと、一軒だけ建っていた。

 シュールなその光景に噴き出す。

 それからカギを開けて、中に入った。



 テレビをつけようとしたが、受信できなかった。ニュースアプリも、更新が途絶えていた。

 新聞は、消えていた。家から、ニュースというものが消えていた。

 ニュースが消えるとはどういうことか。〈今〉がわからないということだ。友達なんて、それこそ一葉くらいしか、今のわたしにはいないのだから。

 ああ、一葉にメールでもしよう。

 メッセージを打ち込んで送信しようとしたが、スマートフォンの住所録が丸ごと消えていた。

 パソコンをつけたが、回線がつながらなかった。

 誰とも連絡がつかない状態になった。

 わたしは誰とも、連絡がつかない。

 茶の間で座布団に座る。そういえば、家族ってなんだろう。家に、家族っていうのがいたような気がする。だって、茶の間だってそれなりに広いし。

 誰とも連絡がつかないのか。それとも、元から連絡をするような間柄の人間なんて存在しなかったのか。

「あはっ。わたし、これまでどうやって生きてきたんだろう」

 ここも瓦礫になるかもしれない。〈戦争〉の、なんらかの新技術か、災害か。それはわからないけれども。

 いきなり戦時中だったのかな。それって、言葉が変。

 平和って言葉自体がフェイクだった可能性だってあるわね。

 いつもどこかで悲しみが生まれているこの世界に、戦争がなくなったことはない。戦争と〈無関係〉があり得ない以上、戦争は生まれる前から当然のようにずっと続いていて、それを知らされなかっただけなのかもしれない。ずっと、戦時中だったのかもしれない。



 わたしには最初からなにも見えていなかった。

 わたしはなにも見ない生き方をしていたのかもしれない。

 頭が悪かったからかな。なにも見えない。誰の声も、聞こえない。

 いや、悪口だけは聞こえていたんだ。みんなの声。わたしは悪者で、弱者で、みんなの餌食だった。餌食。

スケープゴートだって自分に酔って、お酒を飲むと、悪い声はその時はなくなるけれども、自分の心と、現実での非難の声は別問題だった。社会と個人は違うという問題と、それは似ている。絡み合っていそうで、

「誰もおまえなんて相手になんかしないんだよ」

 という決まり文句を突き付けられる。

 蚊帳の外だった。蚊に刺されるのはいつもわたしだった。ああ、これも自分に酔った言葉か。仲間外れ。いつまでも慣れなかったなぁ。



 わたしはノートとボールペンを持ってきて、ノートに殴り書きする。

『なにも終わってないよ!』

 自分で書いた一文に笑いがこみ上げる。

 なんでそんなことを書かないとならないのか。でも、このタイミングでは、こうするのがいいような気がしたのだ。

 暗くなってきたが、電気をつけない。つかないかもしれない。

 明日なんてないのかもしれない。

 わたしのものがたりには他人という〈外部〉が存在しない。ものがたりにはならない。

「エンタテイナーにはなれないな」

 町中が瓦礫になって映画のセットみたいな風景が広がっても、そこにいるわたしはエンターテインメントとは無縁だ。日陰者は日陰で昼寝でもしているしかないのかな。一人きりで。

 あ、わたし、〈終わる〉んだっけ。終わってないよ。でも、終わるんだね。もうここがどこだかわからないや。

 自宅にいるのに、なんだかとても遠くへ来てしまったような気分になる。

 雨音を聴きながら、自分の意識が崩落していくのを感じる。落ちていく、落ちていく。静かに。わたしは。明日になったら再生するのかな。それとも、崩れ落ちたら二度と戻らないのかな。ああ、わたし今、同じ内容のこと繰り返し考えているだけ?

 いいよ。もう、これでいい。眠りに落ちよう。正解なんてないし、どこを探してもなにも見つからなかったんだから。ぶーぶーぶーぶー言って「不正解」っていうのはいつも自分じゃない誰かで、でもそのひとたちはわたしと関わらない、責任を取らない。ぶーぶー言って去っていく。他人は不在だ。他人どころか、わたしにはなにも見えないもんね。

このまま消えてしまうとしても、ゆっくり休もう。おやすみなさい。



          〈了〉
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