22 罪は2系統? いいえハマルティアだとりべかは語った

文字数 1,955文字

 10月の第1水曜日だった。
 あたしとりべかがその日は一緒に帰ろうとして、昇降口にいたところへ、望月が現れた。りべかを待ち伏せしていたのだろう。
 望月は、あたしを見て小さく舌打ちをした。

「なに?」
 りべかが問うと、
「罪って2系統あるんだろ」
 だしぬけに望月は切り出して、
「え、なにそれ」
 思わずあたしはつぶやいた。
 りべかはあたしと顔を見合わせ、自分もよくわからないというそぶりでちょっと小首をかしげてから、望月へ目をむけた。
「説明してくれる?」
 りべかの声に刺し貫かれたかのように、望月は身を固くした。咽喉仏(のどぼとけ)が上下に動くのが見えた。唾液を飲んだんだなと、あたしは思った。

 望月は、しかし意外にもするするとしゃべった。
「2系統の罪っていうのは、つまり、旧約聖書でアダムとエバが犯した罪と、新約聖書で人間がイエス・キリストを殺した罪だよ。で、アダムとエバのほうが原罪だろ」
 きっと、『キリスト教入門』とか、『キリスト教を知る』とか、そういうたぐいの本で知識を仕入れてきたのだろう。
 自信満々の様子で、彼はりべかの反応を待った。
 りべかはまた、あたしの顔をちらりと見てから、ゆっくり彼に視線を向けた。
「うーん、そういうふうに考えることはないと思う。現代を生きる私たちは」
「な、なんだよ」
 銀縁の眼鏡の奥に、望月は戸惑いの色を浮かべた。

「罪と訳されている元のギリシア語は『ハマルティア』といってね、的を射損じるという意味の言葉なの。だから、罪というのは的外れな状態のこと。わかりやすく言うと、自分が目指している方向が違うとか、考え方の方向が違うってことになるのかな。その意味で言えば原罪は、〝人間はもともと的外れな考え方をしやすい性質を持っている〟ということでいいんじゃないかしら」
 りべかは一語一語を確かめるように発音し、丁寧に語った。
 望月は当てが外れて焦っている様子ながらも、にやけたりはせず、目を白黒させてりべかの言葉を聞いていた。
 案外、真面目なヤツなんだな、と、なぜかあたしはそのとき感心したのを覚えている。

「禁断の果実を食ったのが原罪じゃないのか」
「聖書は、書いてあるとおりに読むだけでは、わからないものだよ」
 りべかは微笑した。
 望月の耳が、みるみるうちに赤く染まった。
「だって、アダムとエバが知恵の実を食べたから、人類は罪を負いましたと言われても、ピンとこないでしょう。それより、〝太古から人間は的外れなことをしやすい〟っていう、戒めをこめた比喩なんだって思って読めばいいんじゃない?」
 りべかは、なんだか楽しげだった。
「じ、じゃあ、イエス殺しの罪のほうは、どうなんだ」
「イエス様が十字架にかかったのは、あたしたち人間に、望月くんの言うような罪を負わせるためじゃなくて……(ゆる)しを与えるためだったって、私は信じてる」
 望月ははっとした顔をして、黙った。

「私たちは間違いを起こしやすい。それを自覚しているのが大切なのであって、イエス様を殺した〝罪〟がいまもあると考えるのは、イエス様の望まれることではないと私は思うから、そういうのは的外れじゃないのかな」
 望月の両腕はだらりと垂れ、両手は学生服の裾を握りしめていた。
「俺が読んだ本には、そう書いてあったんだ」
「キリスト教の外から、キリスト教を定義している本でしょう。私はまだ受洗していないから、信徒ではないけれど、キリスト教を外から見ている人の考えと、実際の信仰者の考えは、けっこう方向が180度逆だったりするんだよね」
「どういうことだよ」
「なんのための信仰かってこと」
「わっかんねえよ」
「たとえば、この話で大事なのは、望月くんがなんのためにその本を読んだのか、どこを向いていたのか、目的はなんだったのかってことじゃない? 望月くん自身にしかわからないことだけど。ただ、『誰のほうがどれだけキリスト教を知っているか』という方向で知識を求めても、そこからは、目の前で苦しんでいる人を助けるための言葉は出てこないと思うんだよね」

 口を挟むべきではない気がして、あたしはただ立っていた。望月はたぶん、好きな歌手とか映画とかスポーツとか、そういうノリで聖書やキリスト教を共通の話題にしたかっただけだろう。
 それこそ望月に、罪はない。と、あたしには思われた。
 むしろ。
――りべか、(にぶ)いよ、目的はなんだったのって、望月に問うのは、残酷だよ?
 そう言いたい気持ちだったけれど、胸の内にとどめておいた。
 8年間も、あたしたちの避難所になってくれている聖書のことで、安易に妥協できないりべかの気持ちも、ないがしろにはできなかったのだ。
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