文字数 3,553文字

「お帰りなさい」 
 玄関のドアを開けると、一秒もかからず母がリビングから走り出てくる。
「お風呂にする?それともお夕食?」
 新婚の妻みたいなセリフ。一日千秋。長い不在のせいで、父にできない世話を子供に焼いているのかと思った頃もあったけれど、たまに帰国して家にいる時注意して観察しても、こんな態度は取らない。むしろ久しぶりに会うせいか、よそよそしさが先に立つ。
 さらに激しくまとわりつかれていたのは、兄。兄が帰宅する時間帯、よく母とリビングにいたが、玄関が開くカチャ、という音を耳ざとく聞き取り、ものすごい速さで、廊下へ出て行く。今日もきっと同じように飛び出してきたのだろう。うっとうしい女。
 リビングに入ると、バターの香りが充満していた。少し焦げたにおいも混ざっている。吐き気をもよおしてしまう。さらに冷や汗が出そうになるのを、あわてて気合で引っ込める。
「あっちゃん」
 二十六歳にもなって、未だにこの呼び方を貫いている。
「今日は三十個焼けたわよ。さてクイズです。どうしてこんなに多く焼けたのでしょうか?」
 どうでもいい。テーブルの上には、表面がこんがりと焼けたマフィンの山。チョコチップが混ざっていたり、胡桃が乗っていたりする。
「さあ・・・どうしてかな」
 作り笑顔で、答える。興味などないし、その理由を考える労力も、もったいない。
「それはね」
 もったいぶって。かわいい母親を演じているつもりなのか。五十もとうに過ぎてそんな仕草をしたところで、受けるのはレッスンに来ている母の崇拝者の生徒だけだ。
 父が母のことをいとおしく思っていたら、もっと頻繁に帰ってくるだろうし、こう何度も海外赴任の辞令を受諾しないはず。父は、もしかしたら自ら希望を出しているのではないか、と私は疑っている。
「新しいオーブンを買ったからなのでした!」
 世界の一大ニュースみたいに、告げる。私も、演技で驚くふり。
「今度は上下段あわせて三十個一度に焼けるの。今日は初めてでちょっと焦げちゃったけど、あっちゃん、明日はもっと上手に焼くから」
 私は、恐れおののく。今日も明日も、マフィン三十個。
 朝の出勤時、玄関に紙袋があって。中には一つ一つラッピングされ、チェックのリボンで飾られたマフィンが。
「あっちゃん、上司や同僚の人と食べてね」
 いつものセリフ。今までは、それが十五個だったのに、倍になる。レッスンに来る人にもあげるので、毎日ではないけれど、週に二、三回は持たされる。新しく機能的なオーブンを、私は恨む。定時にあがり、飲み会にもつきあわない私には、仲の良い同僚なんかいるわけがないではないか。飲み会に参加したのは、たったの一回。入社してすぐの歓迎会の時だけだ。あの日も、あらかじめ遅くなると言っておいたのに、八時を過ぎると十五分おきに電話してきて、
「まだ終わらないの? 女の子をこんな遅くまで拘束するなんていったいどういう会社なのかしら? あっちゃん、よく考えた方がいいわよ」
 無視していたら、かかってくる頻度が増してきたので、しかたなくトイレに行った際に通路で応対したら、この調子。通りかかった部長に肩を叩かれ、
「おっ、彼氏?」
 とからかわれた。彼氏なら、どんなにいいか。母は、人の気持ちをそぐ天才だ。楽しいことに、水を差す。まるで草花に与えるがごとく無邪気に。その水が、子供の成長に大切なものであると、何の疑いもなく。
 むしろとてつもなく毒となっているというのに。
 この時は、私に言うだけでは気が済まなかったらしく、翌朝会社にまで電話してきて、クレームをつけた。前の会社でもよくやられていたから、そんなに驚かなかったが、社内の人はもちろん初めてのことなので、大変にびっくりしていた。その時点で、私と母はヘンな人とみなされているのだから、
「母が作ったマフィンです。おやつにどうぞ」
 などと言えるわけがないではないか。明日は、お弁当屋のおばさんにあげるとしよう。
 母は、バカの一つ覚えでマフィンは作るが、料理は苦手なので、私はいつも会社の近くのお弁当屋でランチを買う。数年前に生徒さんに褒められて以来、いったい何千何百のマフィンを作ったことか。私はどうしてこんなに熱心にマフィンを作るのに、毎日の食事をないがしろにするのかわからなかった。掃除、洗濯は普通に出来るのに、何故料理をしないのか。
 そして、わかった。料理は、想像力を必要とするのだ。他の家事は、音符のようなもの。テンポ、調子の出し方など全部決まっていて、想像力の入る余地がない。書かれた通りに従えば、良い。お菓子というのは、分量を勝手に変えると膨らまなかったりするから、忠実に守る方が無難なのだ。料理は、そうは行かない。毎日同じものを出すわけにはいかないし、組み合わせも考えなければならない。そういうことを考えるのが、きっと面倒くさいのではないか。
 今日の夕食も、パックのお惣菜を三種類と冷奴、そして白米が並んでいるだけ。冷奴にいたっては薬味の一つもなく、ただただ白い豆腐が皿に水切りもせず乗っている。汁物がつく日もあるけれど、それもインスタントだ。
「あっちゃん、お弁当作ってもいいけれど、お昼には冷めちゃうから、近くで温かいのを買った方が良いわね」 
 方便。会社に、電子レンジあるんですけど。あたかも私のことを思いやっているかのような物言い。違う。自分が作りたくないだけ。それだけ。
 兄が、この家を出て行った頃のことを思い出す。それまでは、私への干渉はここまでひどくはなかった。初めての子供であるいとしい息子に関心が注がれていて、私はきっと二の次だったのだろう。それが今、父も遠く、兄も去り、気づけば残ったのは私だけ。急激に母の重たいものがのしかかってきた。
 母は、敏博をピアニストにしたかった。自分が果たせなかった夢。想像力のかけらもないから、ピアニストになれなかったのに、あと少しの運またはチャンスがなくて、ピアノ教室の教師になっている、と思っているのが、またもの悲しいのだ。
 兄は、幼稚園の頃から、隣町にある教室に通わされていた。わざわざ。自分で教えればよかったのに。きっと、自分が教えたらどこかで頭打ちになることがわかっていたのではないか。生徒の中からも、一人もピアニストになった人はいない。小学校になると、他の子はサッカーや野球を始め、敏博もそういうスポーツ系の習い事をしたいと頼んだが、
「指をけがすると困るから」
 となかなか許しはしなかった。でも、敏博の機嫌が悪くなるのが耐えられなくなったのか、
「指を使わない水泳ならいいわ」
 と折れた。母は。自分の思う通りにしたい時、巧妙な手口を使う。遠隔操作により、仕向ける。そして機会を見て、いきなり独裁者のようになるのだ。水泳の時も、冬になり風邪を引いたことをきっかけにした。髪の毛をちゃんと拭かない兄が悪かったはずなのに、
「お宅様は大切な人様の子を預かっておいて風邪を引かせるんですの? 一体どういう神経してますの?監督不行届きって言葉ご存知? 私、ピアノの教室やっておりますけど、生徒さんの親御さんにマスコミ関係の方いらっしゃるんで、そちらにお伝えしても良いんですよ」
 母は、水泳教室の受付で、兄の手を引いて言い放った。後に敏博が、何度も口真似をして見せてくれたので、知っている。そういう時の母の抑揚、表情を容易に想像できる。少し顔を上向きにして、自分が百パーセント正しく間違っているのはそちら、というまなざし。相手は、丁重に頭を下げる。母は、
「勝った」
 と思う。違う。
「この人、頭おかしい。関わらないほうが良い」
 と判断されただけ。
「大切な坊ちゃんをお預かりしたのに大変申し訳ございません。しかしながら、こちらは単なる小規模な水泳教室でございます。どうかもっと手厚いケアのできる大きな教室に通われたほうが・・・」
 体の良いお断り、でも、これも母にとっては、嬉しい。教室をやめる口実になるからだ。
「ほらね、こんなとこで習っていたら、そのうち肺炎になって入院しなくちゃならないかもよ。風引きさんくらいで済んでよかったわ。」
 兄を見つつ、
「短い間ですが、お世話になりました」
 と言い放ち、敏博の手を引いて出口へ一直線。そしてまた、ピアノ漬けの日々に戻すのだった。
 兄を気の毒に思っていた。放課後遊ぶことも許されなかった。
「お砂場で遊んで爪の間に砂が入ったらどうするの? ピアノの先生はご迷惑でしょうね」
 そういう時、母は必ず座っている兄の真ん前に立ち、手を腰に当て、威圧した。顔だけは、やさし気に笑いながら。
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