パンチドランカー

エピソード文字数 587文字

 ボクシングの世界前哨戦で連敗を喫した男は、独りぼっちの船で幕の内弁当をほおばった。「か、勝ちたかったんだ……」彼はぼそっと呟いた。赤ウィンナーを(さかな)に一升瓶を一気に飲み干した。刺激が脳髄まで届いて眼を眩ませた。彼は空になった瓶をのぞき込み、顔を(しか)めたままふっと息をついた。酔いがまわるのが早かった。彼の思考とは裏腹に、引退を告げるテン・カウントゴングが耳の奥で鳴り響いていた。

 このとき彼の身体と精神は、ぼろぼろになっていた。激戦に次ぐ激戦を勝ち抜いて遂に世界ランカーになった彼であったが、試合で相手から無数に受けたパンチの量は彼の体を(むしば)んでいた。ときおり彼の視界は黒い蝶がひらひら飛んでいるように見え、よけたと思ったパンチがよけきれす、試合の記憶すら抜け落ちていく記憶障害と酒を一滴も飲んでいないのに呂律(ろれつ)がまわらない言語障害にもなり、突然の寝小便に襲われることもあった。ふと意識を失っては失禁し、ジャージのズボンをびしょびしょにした。

 海面が太陽光にキラキラ反射し金色に輝いた。「ハハハ……チャ、チャンピオンベルトが……い、いっぱいだ」彼は大きな一歩で踏ん張って船の甲鈑から海に向かって飛び込んだ。「ワァオーン!」対岸にいた彼の愛犬のワン公が狼みたいに遠吠えをした。青い空にぽっかりと浮かんだ入道雲は不気味なほど真っ白だった。
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