第11話 いつか見た笑顔

文字数 5,386文字

 一九六八(昭和四十三)年も暮れのことだ。
 大坂ときをのもとへ、松葉健がやってきた。
「ヤノサンの様子がおかしいんや」
 松葉健の家に、親戚から餅が届いたので、彼は七馬にお裾分けをしようと家まで出かけたのだが、
「ヤノサン、おるかー」
 そう言って、いつものように中に入ろうとすると、
「入ったらあかん!」
 と、大きな声で拒絶されたという。
「ヤノサン、具合が悪いんか」
「大丈夫や。とにかく帰ってくれ」
 そう言って、七馬はかつてないほどの大声を張り上げたらしい。
(そんなに具合が悪いのか!)
 大坂ときをは驚いた。奈良から帰って間もなく体調を崩したことは知っていた。恐らくあのマンガショーの一件で、精神的なショックを受けたのだろう。だが、あれから既に三ヶ月以上が経つ。まさかそんなに尾を引くとは……。
「行こう、松葉君」
「はいな」
 大坂ときをは、仕事にかまけて、七馬と奈良以来まったく会っていなかったことを悔いた。年も年なのだから、もう少し気遣ってやれば良かったと思った。
 二人が七馬の家に駆けつけると、中から物音はまったくしなかった。
「酒井先生! 江上です!」
 そう言って呼びかけても、返事も無い。
 ――まさか。
 大坂ときをと松葉健は顔を見合わせた。
「先生、すみません。入ります!」
 そう言って大坂ときをはドアに手をかけた。鍵はかかっていなかった。
 中には七馬がいた。布団の上で横になっているが、その周囲にはゴミだらけだ。七馬は部屋をきちんと整頓する性格だった。こんなに散らかっている七馬の部屋を見たのは、二人とも初めてのことだった。
「先生、大丈夫ですか、先生」
 大坂ときをが声をかけると、七馬は薄目を開けて、何度か咳き込んだ。
 ――生きている。
 二人はその事実にまずホッとした。
 しかし、七馬の顔色はよほど悪い。
 土気色で、生気がまるで感じられない。
「先生、大丈夫ですか」
「風邪をこじらせてもうてな……」
 か細い声だった。こんな七馬は見たくない。大坂ときをは思わず顔を背けたくなった。
「先生、お食事のほうはちゃんと摂られていますか」
「心配せんでええ」
「ヤノサン、病院に入ったほうがええんと違うか」
 松葉健がそう言うと、七馬は目を大きく見開いて、
「病院には行かん」
 と答えた。
「なんでや。お金の心配か? それなら……」
「金の問題やない。とにかく帰ってくれ……」
 七馬がそう言うので、大坂ときをも松葉健も仕方なくその場を後にした。
 二人はとぼとぼと、桃谷の商店街を歩く。師走の冷たい風が吹いていた。戦後間もなくに建てられた七馬の家は、さぞかし寒かろうと大坂ときをは思った。
「やっぱり、差し入れをするべきや」
 大坂ときをがそう言うと、松葉健も大きくうなずいた。それから二人は、七馬が好きなコーラや、餅やお煮染め、みかんなどを商店街で買うと、七馬の家に戻ってそれらを届けた。
「すまんな。おおきに……」
 七馬はかすかに笑うと、テレビの下から封筒を取り出して、二万円を取り出した。
「これ、買い物代な」
 あまりに弱々しい声だった。
 大坂ときをと松葉健は、二人して七馬の手をがっちりつかんだ。
 その手は、ひどく皺が多く、そして指が細い。――かつての七馬は、漫画家という仕事柄、とても太い指をしていた。また、いつもペンダコができていた。
 それが綺麗になくなって、老人の手となっている。それが二人にはたまらなく悲しかった。
「先生、また漫画を描きましょう」
「ヤノサン、似顔絵をまた描こうや」
 七馬は、もう、返事もしなかった。
 ただ、笑っただけである。
 それから年が明けた。
 一九六九(昭和四十四)年の一月四日、七馬のことを心配した隣家の住人が、彼の家に入ってみると、寝たきりの七馬を発見した。大坂ときをが買ってきた食材にはまったく手がつけられておらず、コーラだけが飲まれていたという。
 驚いた隣家の住民は、かねてより顔見知りだった七馬の姪に連絡を取った。七馬の兄の娘である彼女はすぐに駆けつけ、そのまま救急車を呼んだ。

(……)
 七馬が目を開けると、そこは病室だった。
(そうか、救急車で……)
 うっすらと記憶にある。姪が救急車を呼んだのだ。
「おい、意識が戻ったぞ!」
「酒井さん、分かりますか、酒井さん」
 医者が騒ぎ出す。七馬はかすかに首を動かすことで、彼らに対する返事とした。
 それから七馬はわずかに首を傾けた。
 病室の窓から見えるのは、大阪の町並みだ。ビルディングが立ち並ぶ、日本で二番目の大都市の光景だ。
(よくもまあ、ここまで……)
 不意に思った。終戦直後に広がっていた焼け跡の光景は、いまでも七馬の目に焼きついている。一面焼け野原と化したあの絶望的な状態から、大阪は、そして日本は、よくぞここまで復興を成し遂げたものだ。
(闇市で似顔絵を描いたなあ……)
 あのとき、メンコがまったく売れずに落ち込んでいたことも、いまでは何やら懐かしい。
(闇市……)
 七馬は不思議に思った。戦後の焼け野原や闇市のことを、何故いまになって急に思い出したのだろう。走馬灯というやつだろうか――
「酒井先生!」
「ヤノサン!」
 大坂ときをと松葉健が、病室に駆け込んできた。
「先生、大丈夫ですか」
「ヤノサン、やからあの時、病院入っとくべきやったんや」
 二人の心配した顔を見て、七馬は「すまん」と、小さな声を出した。
 か細い声である。蚊の鳴くようなという表現がぴったりだった。
 それだけ言うと、七馬はただ外をじっと眺め始めた。
 大坂ときをも、松葉健も、何も言わない。ただじっと七馬を眺めている。
 やがて、
「松葉君」
 と、七馬が声を出した。視線は外に向けられたままだ。
「なんや、ヤノサン」
「この光景を見ながらわしは、闇市のことを思い出しとった」
「……懐かしいな」
 既に松葉健の目頭には、熱いものが浮かんでいる。
 七馬は続けた。
「なんでいまさら闇市のことを思い出したんか、不思議に思っとったが……いま、分かった」
 七馬はかすかに笑った。
「ここは、あの闇市のあった場所なんやな」
 七馬が入院した大阪日赤病院は、天王寺区上本町六丁目にある。終戦直後は闇市が盛んだった場所で、まさに七馬と松葉健が出会ったあの場所だったのだ。
 いまや見る影も無い都会の顔になってしまったが、それでも間違いなく、あの闇市があった場所だ。七馬は直感で分かった。
 何やらおかしみを感じて、七馬はフッと笑った。その笑みにも力は無い。
「松葉君、事実は漫画よりおもろいな」
「……」
「君と初めて出会ったこの場所で、君に看取られながら死んでいく。……話がようできとるわ」
「……ヤノサン」
「……」
「……アホなこと言うなや……!」
 松葉健は、もう、言葉も無かった。
 その場にがっくりと膝を突き、嗚咽を漏らし始める。
 大坂ときをの目にも、光るものがあった。それでも彼はぐっと涙をこらえて、七馬の手を握る。
「酒井先生」
「江上君。君とは長い付き合いやった」
「……」
「『まんがマン』のことは、すまんかったなあ」
「何をおっしゃいます」
「わしの力不足でうまくいかんかった」
 大坂ときをは、力無く首を振った。
「違います。あれは先生のせいじゃありません」
「いや、わしのせいや……わしの力が足らへんかった……」
 七馬は笑いもせず、大坂ときをの顔も見ず、横になったまま天井を見つめている。
「江上君、わしは子どもの笑顔が見たかった。わしの漫画で多くの人達を笑わせたかった。そして、それが自分にはできると思うとった。せやけど、それは自惚れやったな」
「そんな……」
「わしには、そんな実力は無かったんや」
 七馬の声には、もう力が無い。
「わしの漫画にそんな価値は無かったんや……」
「そんなことはありません! 先生はたくさんの作品を世に残したではないですか!」
「世間に知られている作品がひとつでもあるか? いまの時代に語り継がれ、読み継がれている漫画をひとつでも描けたか? 『新宝島』やてあれは手塚君の力や。わしやない」
「先生……!」
「わしはついに、誰も笑わせることができんかった……」
 そのときだ。
「違う!」
 泣いていた松葉健が、もう、鼻水まで垂らしながら叫んだのだ。
「そら、いまの時代まで作品を残せたかどうかで言うたら、確かにヤノサンは残せんかったかもしれん。でもな、そういうもんやないやろ、人の一生いうんは……! のちの世に残るとか残らんとか、それだけで、作品や人間の価値が決まる言うんか! それは違う、絶対に違うぞ、ヤノサン!」
「……松葉君」
「あの闇市で!」
 松葉健は止まらない。
「あの闇市でヤノサンがやった絵描きのパフォーマンスは、記録には決して残らん。人々に語り継がれるようなことでもないやろ。せやけどな……あの日、ヤノサンは確かに多くの人を笑わした! あれが無価値なことか! ええ? 価値の無い出来事やったか、ヤノサン!」
「……」
 七馬は黙っている。
「あの日のお客さんは、きっと敗戦のショックを受け取った。あるいは腹ペコやったり、あるいは家族が死んだり、あるいは仕事も金もなくて……どうしようもなく腐っとった人もたくさんおったやろう。それをヤノサンは笑わして、救ったのかもしれんやないか。現に!」
 松葉健は、そこまで言うと声を小さくし、涙を流しながら、うめくように続けた。
「――現に。……俺がそうや」
「……」
「日本が負けて、先のことが分からんようになって、不安で不安で……あそこでヤノサンと会っとらんかったら、俺はどうなっとったか分からん。漫画家にも、恐らくなってへんかった……」
「……松葉君」
「……ヤノサン、自分と、自分の作品を無価値だなんて言うな」
 松葉健は、七馬の手を強く握り締めた。
「俺は大好きなあんたに、後悔しながら死んでほしくないんや」
 か細い声が、七馬の心に染み渡った。
 二十四年前の夏の日、病院ができる前のこの場所で、七馬のおかげで笑顔になった子どもがいま、こうして七馬の前で泣いている。
 泣いてくれている。
「……泣くな」
 七馬は、振り絞るようにして声を出した。
 もうこれが、最後の力だと思った。
「笑えや」
「ヤノサン……」
「わしも笑う」
 七馬は、かすかに笑った。
 沁みるような笑みだった。
 その顔を見て、大坂ときをも、松葉健も、泣きながら笑った。
 ――人間は笑うのが仕事なんや。
 それが七馬の信念だった。数ある生き物の中で、笑うことができるのは人間だけだ。万物の霊長を気取るのであれば、笑え笑え、とにかくニッコリ笑って生きろ。それこそが、人間が人間たる何よりの証ではないか。
 ――だから、笑わせる。
 七馬は満足げに口元を歪めた。
 だが、もうその言葉は、二人の耳には届かなかった。
 聞こえないほどの、か細い声音。
 それが最後の言葉になった。

 七馬の心は、いま死んだ。
 肉体的にいえば、七馬はそれから半月以上、生き続けた。しかし意識はまったく戻らず、延命治療の結果、ただ息をしていただけだといえる。七馬の心は、盟友の二人に告げるべきことを告げると、もはや未練も無くその場から去っていったのだ。
 七馬の肉体が滅んだのは、一九六九(昭和四十四)年、一月二十三日のことだ。死因は肺結核である。
 葬儀は翌日に行われた。喪主は七馬の姪が務めた。
 葬式には大坂ときをを始め多くの漫画家達が集まり、彼の死を悼んだ。
 手塚も連絡を受けたが、どうしても外せない仕事があり、欠席した。しかし手塚はかつての恩人に報いるように、香典を届け、数日後には七馬の遺影を参っている。
「酒井先生は、どうして病院に行かなかったんだろう」
 そんなことを、葬式に参列した者の一人が言った。
 お金が無かったのではないか、と他の誰かが言ったが、そんなことは無い。七馬にはその気になれば、病院に通ったり、あるいは入院するくらいの貯えはあった。現にこの葬式は、七馬の遺産で行われている。生前、七馬は姪に「葬式の金だけは残してあるから心配するな」と言っていたという。
 大坂ときをは、七馬が病院に行かなかった理由が分かる気がした。
 あの奈良ドリームランドでの出来事で、子ども達を笑わせることができなかった七馬は、大きなショックを受けたのだろう。若い漫画家達とも心が通わず、もはや自分はこの世に生きていても仕方が無いと思ってしまったのではないか。
(けれども)
 七馬は最後、笑いながら死んでいった。安らかで、暖かい笑みだった。
(先生は幸せだったはずだ)
 最後の最後で、自分の生きた意味を確かに見い出して、死んでいったのだ。
(そうですよね、先生)
 大坂ときをは、語りかけるように、心の中でつぶやいた。
 ――そうやな。
 七馬なら、きっとそう答えてくれただろう。
 酒井七馬の磊落なたたずまいが、大坂ときをの胸に残っている。
 いまもどこかで、七馬が洋モクを吹かしているような気がした。
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登場人物紹介

酒井七馬(1905~1969)

主人公。大阪漫画界の重鎮。ディズニーを超えるようなアニメ、漫画を作りたいと志す中年漫画家。やがて手塚治虫と出会い、戦後漫画史にその名を残す『新宝島』を手がける。

手塚治虫(1928~1989)

大阪帝国大学の医学専門部に通う学生。七馬の手がける雑誌『まんがマン』に感銘を受け、七馬に漫画の原稿を見てもらおうとやってきた青年。七馬に劣らぬアニメ好きで、日本のディズニーになろうと志している。


大坂ときを(1923~2015)

七馬と共に雑誌『まんがマン』を手がける漫画家。酒井七馬と手塚治虫を引き合わせる役割を果たす。

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