#24
文字数 2,547文字
“Melt Suger”
医療に携わるようになった者なら、誰しもが遅かれ早かれ直面する疑問が一つある。
それは、人間というものはどの程度まで『外傷性ショック 』に耐え得るのか、というものだ。
答え方は人に拠って千差万別。
しかし、肝心の答えを突き詰めると、結局のところ次のような問いになる。
即ち。
当の本人が如何に切実に、『生き延びたい』と思っているか、だ。
――――――――――――――――――――――S.キング『生きのびるやつ』
*
「――――――」
気づいた時にはハカナはそこにいた。彼の目に映るのは、規則的に並べられた机と椅子。教壇と黒板。夕方、黄金色に染まり行く教室の中で、彼は自分の席に座っている。
横に見える窓から覗く、見覚えのある校庭と夕陽。認識出来るもの全部、どれもこれもが彼には慣れ親しんだものだった。
(やはり、あれは夢だったんだ)
なんとなく、彼はそう思った。
(あれ……? あれってなんだっけ……?)
胸の内で燻 る違和感。しかし、思い出そうにも、彼の思考は霧散してままならない。何かを忘れている。忘れようとしている。わからない。わからない。……わかりたくない。
はぁ、と溜め息を付き、彼は疲労困憊したかのように机に伏せた。
「――――ッ」
そこで、彼は違和感に気付く。気付いてしまう。見慣れた場所に望ましいはずの光景。しかし、違う。望ましい。それ自体が、この場所の違和感として存在している。見慣れたはずのものが、彼自身の望む光景へと歪んでいる。彼の知っている真実ではない。即ち。
……これは、現実ではない。
出処の分からない焦燥感がハカナの背筋を這った。
「こんにちは、お兄さんっ」
そんな中で唐突に背後から嬉しそうな女の子の声が聞こえた。聞き覚えのある声だ。……だが、振り向くわけにはいかない。この先を、見てはならない。
しかし、どういう訳か、体がハカナの意思とは別に動いてしまう。
(……あぁ、やっぱり)
諦観して彼は流れに身を委ねた。人形のように無機質に、ハカナの体が振り向く。
「とても美味しそうですね、お兄さんっ」
声は可憐な少女のもの。しかし、目前に現れたのはコウモリの顔をした、あの機械の怪物だった。
醜悪な不条理が更に近付いてくる。いくつもの歯車は規則的に蠢 き、螺子はその横でくるくると回っている。大きな口をゆっくりと、これでもかと言わんばかりに開けて、暗闇を覗かせていた。
(彼女が、いるはずがない)
ハカナは自分に言い聞かせる。思い出した。忘れていたものを。忘れるはずもないものも。
(だって、彼女は、既に……。あれが、夢だったって?)
自身の内から声が聞こえる。あの恐怖が、あの痛みが。あれがただの夢だったと、本気で思っているのか? 怪物はあの時と同じ様にハカナを掴み、その凶暴な顎 を開け口に運ぶ。
やはり、彼の体は意思に反して動けない。死なないのはもう分かっている。これはこういうものなのだと、もう理解したから。しかし……
――――怖い。
『恐怖』を前には理屈など関係ない。毒のように彼の体を、悲鳴を伴 い駆け巡る。
体が沈んでいく。彼女の暗闇の中へ。ずぶずぶと。ずぶずぶと。現実では起こらなかったことだ。ここではそれが起こり得る。彼は逃げようと、手を伸ばす。思いも虚しく空を切った。
暗闇に混ざっていくうちに、いつもの眼がハカナを覗き込んだ。右往左往。昏く、輝いている紫色の宝石。現実ではないと彼が理解しても、この恐怖には変わりようがない。
これは質量のない砂糖菓子。時にそれは黒く、苦くなる。今のような彼には、特に。
これを終わらせる方法を、彼は知っている。強く思うのだ。
(起きろ――――起きろ!!)
*
「がはッ!」
水面から飛び出るように跳ねたハカナの体が、勢いよくベッドから転がり落ちた。運良く怪我はしなかった。汗が額から頬に伝う。全身から噴き出た冷たい感触が気持ちが悪い。べたべたと、先程の悪夢が未だに体に纏わりついているかのようだ。
「はぁ…………」
呼吸が少し落ち着いたところで、ハカナは体を再びベッドに戻した。しかし、そうしたところで彼の心が安まるはずがない。体は未だに震え続けている。
休戦時間に入ってからずっと、ハカナはアウトサイダーたちにあてがわれた病室に閉じこもっていた。しかし、いくら望もうとも彼は深い眠りに就く事が出来なかった。セレンが部屋を去ってからずっとこの調子だ。
ハカナが眠りに入ったと思えば、見るのは全て悪夢。寝ては起きてを繰り返し、結局はほとんど眠れていない。彼の目には隈が出来ている。瞼を閉じることすら今の彼には恐ろしくなってくるほどに。
徐々に、徐々に。記憶に刻まれた『恐怖』が彼の体を蝕む。今は何も起こっていないはずなのに、時間が経つにつれて震えは増すばかり。そうしてハカナがベッドの中でうずくまり続けている内に、再び、あの声が響き始めた。
『オハヨウゴザイマス。十分後、自由時間トナリマス』
休戦時間を告げたものと同じ、上からとしか言いようのない声。機械のように無機質で、何の感情も感じられない。夜が明ける。自由時間と言えば聞こえはいいが、その実は自由に殺し合えという意味だ。
その言葉はハカナにひどく他人事のように聞こえた。しかし、これは既に彼自身のことでもあった。
(……起きたくない)
そう彼が思うものの……
今、神々が行っているというゲーム。あまりにも荒唐無稽で、信じたくもない現実。既に何度死にかけたか、考えたくもない。だが、ハカナはもうその戦いに巻き込まれている。
結局少しして、彼は立ち上がり、備え付けのボロボロのハンガーに掛けていた制服に袖を通し、ベッドの下に並べられた靴を履いた。
(……どうせ、ベッドの中に居ても眠れないんだ)
ハカナは身支度を簡素に整えると、そのまま、安定しない足取りでふらり、ふらりと部屋の外へ歩き出した。
医療に携わるようになった者なら、誰しもが遅かれ早かれ直面する疑問が一つある。
それは、人間というものはどの程度まで『
答え方は人に拠って千差万別。
しかし、肝心の答えを突き詰めると、結局のところ次のような問いになる。
即ち。
当の本人が如何に切実に、『生き延びたい』と思っているか、だ。
――――――――――――――――――――――S.キング『生きのびるやつ』
*
「――――――」
気づいた時にはハカナはそこにいた。彼の目に映るのは、規則的に並べられた机と椅子。教壇と黒板。夕方、黄金色に染まり行く教室の中で、彼は自分の席に座っている。
横に見える窓から覗く、見覚えのある校庭と夕陽。認識出来るもの全部、どれもこれもが彼には慣れ親しんだものだった。
(やはり、あれは夢だったんだ)
なんとなく、彼はそう思った。
(あれ……? あれってなんだっけ……?)
胸の内で
はぁ、と溜め息を付き、彼は疲労困憊したかのように机に伏せた。
「――――ッ」
そこで、彼は違和感に気付く。気付いてしまう。見慣れた場所に望ましいはずの光景。しかし、違う。望ましい。それ自体が、この場所の違和感として存在している。見慣れたはずのものが、彼自身の望む光景へと歪んでいる。彼の知っている真実ではない。即ち。
……これは、現実ではない。
出処の分からない焦燥感がハカナの背筋を這った。
「こんにちは、お兄さんっ」
そんな中で唐突に背後から嬉しそうな女の子の声が聞こえた。聞き覚えのある声だ。……だが、振り向くわけにはいかない。この先を、見てはならない。
しかし、どういう訳か、体がハカナの意思とは別に動いてしまう。
(……あぁ、やっぱり)
諦観して彼は流れに身を委ねた。人形のように無機質に、ハカナの体が振り向く。
「とても美味しそうですね、お兄さんっ」
声は可憐な少女のもの。しかし、目前に現れたのはコウモリの顔をした、あの機械の怪物だった。
醜悪な不条理が更に近付いてくる。いくつもの歯車は規則的に
(彼女が、いるはずがない)
ハカナは自分に言い聞かせる。思い出した。忘れていたものを。忘れるはずもないものも。
(だって、彼女は、既に……。あれが、夢だったって?)
自身の内から声が聞こえる。あの恐怖が、あの痛みが。あれがただの夢だったと、本気で思っているのか? 怪物はあの時と同じ様にハカナを掴み、その凶暴な
やはり、彼の体は意思に反して動けない。死なないのはもう分かっている。これはこういうものなのだと、もう理解したから。しかし……
――――怖い。
『恐怖』を前には理屈など関係ない。毒のように彼の体を、悲鳴を
体が沈んでいく。彼女の暗闇の中へ。ずぶずぶと。ずぶずぶと。現実では起こらなかったことだ。ここではそれが起こり得る。彼は逃げようと、手を伸ばす。思いも虚しく空を切った。
暗闇に混ざっていくうちに、いつもの眼がハカナを覗き込んだ。右往左往。昏く、輝いている紫色の宝石。現実ではないと彼が理解しても、この恐怖には変わりようがない。
これは質量のない砂糖菓子。時にそれは黒く、苦くなる。今のような彼には、特に。
これを終わらせる方法を、彼は知っている。強く思うのだ。
(起きろ――――起きろ!!)
*
「がはッ!」
水面から飛び出るように跳ねたハカナの体が、勢いよくベッドから転がり落ちた。運良く怪我はしなかった。汗が額から頬に伝う。全身から噴き出た冷たい感触が気持ちが悪い。べたべたと、先程の悪夢が未だに体に纏わりついているかのようだ。
「はぁ…………」
呼吸が少し落ち着いたところで、ハカナは体を再びベッドに戻した。しかし、そうしたところで彼の心が安まるはずがない。体は未だに震え続けている。
休戦時間に入ってからずっと、ハカナはアウトサイダーたちにあてがわれた病室に閉じこもっていた。しかし、いくら望もうとも彼は深い眠りに就く事が出来なかった。セレンが部屋を去ってからずっとこの調子だ。
ハカナが眠りに入ったと思えば、見るのは全て悪夢。寝ては起きてを繰り返し、結局はほとんど眠れていない。彼の目には隈が出来ている。瞼を閉じることすら今の彼には恐ろしくなってくるほどに。
徐々に、徐々に。記憶に刻まれた『恐怖』が彼の体を蝕む。今は何も起こっていないはずなのに、時間が経つにつれて震えは増すばかり。そうしてハカナがベッドの中でうずくまり続けている内に、再び、あの声が響き始めた。
『オハヨウゴザイマス。十分後、自由時間トナリマス』
休戦時間を告げたものと同じ、上からとしか言いようのない声。機械のように無機質で、何の感情も感じられない。夜が明ける。自由時間と言えば聞こえはいいが、その実は自由に殺し合えという意味だ。
その言葉はハカナにひどく他人事のように聞こえた。しかし、これは既に彼自身のことでもあった。
(……起きたくない)
そう彼が思うものの……
今、神々が行っているというゲーム。あまりにも荒唐無稽で、信じたくもない現実。既に何度死にかけたか、考えたくもない。だが、ハカナはもうその戦いに巻き込まれている。
結局少しして、彼は立ち上がり、備え付けのボロボロのハンガーに掛けていた制服に袖を通し、ベッドの下に並べられた靴を履いた。
(……どうせ、ベッドの中に居ても眠れないんだ)
ハカナは身支度を簡素に整えると、そのまま、安定しない足取りでふらり、ふらりと部屋の外へ歩き出した。