#10. 主神アトゥム
文字数 2,407文字
では、どうする? 今からでもプリンセスに取り憑くか?
「マーリン。プリンセスは戦闘訓練などは」
「受けていないわ〜。姫としての教育のみね〜。させた方がいいのは分かっていたけど、さすがに無理だったのよ〜」
私は無言で頷いた。救世主としての剣技体術訓練となれば、かなり厳しいものとなる。普通、姫には不要なものだ。周囲の疑問の目や反発は避けられない。今からとなれば尚更だ。しかも、次の天界戦役が起こるとすれば、来年だ。もう時間が無い。時間が、足りない。
神との戦いに備える為にこの世界はある。だが、その真実を知るのは教皇、国王、私のみ。人類では、の話だが。いや、これは正確ではない。
エルンスト教経典に全て真実は書いてある。ただ、誰も信じていないだけだ。神話や寓話の類と同じ、何かしらの教唆を含んだファンタジーとしてしか読まれていないのだ。
「……ふう。建国2000年を前にして突如姫が現れたと倭で聞いた時には、マーリンがとんでもないミスをしてくれたと思っていたのですが」
「失礼な〜。あたしだって、ちゃんと働いているのよ〜。一日18時間くらいは寝てるけど〜」
寝過ぎ。しかし、判断は間違っていない。今までは二人目の子種があれば全て排除してきたが、それが救世主となれば話は別だ。そのせいで政務省はかなり苦労した事だろう。建国以来初めての姫だ。王族専属護衛騎士団も、3つから4つに増える。四六時中姫を警護する性質上、男性騎士では問題もある。実力を備えた女性騎士のみの編成という制限付きなのだから、選任は難しかったはずだ。
しかし、今私が直面している問題は別次元だ。あと一年でプリンセスを鍛え上げなければならない。出来なければ、世界が滅ぶ。アトゥムの目覚めは近いのだ。
「……ねえ、ゼルタちゃん」
「はい。なんですか、マーリン?」
苦悩する私を見かねたのか、マーリンが優しく話しかけてきた。油断するとプライドなどかなぐり捨てて甘えてしまいそうになる。これが慈愛の女神の恐ろしさだ。
「もう、やめてもいいんじゃないかしら?」
「やめる? 何を?」
「神との、戦いを」
私は耳を全力で疑った。幽体である私の耳などただの飾りだが、それしか疑えるものがない。
「あのね、ゼルタちゃん。前回の戦役で、アトゥムちゃんと和平条約を結んだでしょう? あなたは時間稼ぎだと信じていないでしょうけれど、あたしは違う」
無言で顔を見つめ続ける私に、マーリンは静かに語りだした。
「アトゥムちゃんに、もう世界を滅ぼす意志は無い。あたしは、そう思ってる」
「ば、馬鹿な! 何を根拠に!」
あり得ない。あり得ないあり得ないあり得ない! マーリンは今までアトゥムに何をされてきたのか忘れたのか! マーリンとて、何億、何十億という人々の命を奪わされてきたではないか!
「根拠は、あるわ。アトゥムは、今、地上にいる。天界を離れ、地上にある」
「な! なんですって!? アトゥムが、すでに目覚めている!? どこですか、マーリン!? なんの為に!?」
「落ち着いて聞いて、ゼルタちゃん。どこに、とは答えられないけれど、なんの為に、というのは教えてあげられる。アトゥムは、人間になりたいの。だからアトゥムは人に転生し、地上に降りた。無力な、何の変哲も無い、赤ちゃんとして」
「そんな馬鹿な! 嘘だっ!」
「きゃあっ! 落ち着いて!」
私から抑え切れない膨大な魔力が迸った。それによる暴風が執務室内に吹き荒れ、ランプを激しく揺らし、書類を舞い上がらせた。
「これが落ち着いていられますか! どこですか、マーリン! それが本当であれば、今すぐに仕留めるべきです!」
「落ち着きなさい!」
「ぐああああっ!」
私はマーリンの魔力に弾き飛ばされ、壁に激突した。幽体なので何のダメージも無いが、久しぶりの感覚に狼狽えた。
「それは教えられないと言ったはず」
私が大人しくなるのを見計らい、マーリンが冷酷に言い放った。
「なぜ、ですかっ……? ただの赤子なら、簡単に」
「それをすれば、マルスが降りて来る。天界二位の戦闘神、軍神マルスが、ね」
「なっ!」
軍神マルス。オズワルドが倒した戦女神ヴァルキュリアを凌ぐ戦闘神。今、彼に対抗出来る戦力は、私とマーリンも含めて地上には無い。
マルスの力でも、この世界を滅亡させるに十分過ぎる。ヴァルキュリアでも出来た事だ。アトゥムがいなくとも、彼がいれば同じように危機が残る。
「あたしはアトゥムと契約をしたわ。天界が地上に干渉しない事と引き換えに、アトゥムがこの地上で無事に暮らせるよう便宜を図る、と。便宜、とは安全保障も含まれるの。これは破格の取り引きだわ。だから、あたしは承知した。あなにも無断でね。あたしはこの地上を守りたいだけなのよ。アトゥムへの復讐を目的とするあなたとは違ってね」
ふふふ。さすがに、マーリンは私を良く知っている。そうだ。私とマーリンは目的が違う。私は、地上などどうなろうと構わない。アトゥムさえ、殺せれば!
「……かつての力を失ったあたしでは、マルスと戦うのは無理なのよ。それくらい知ってるでしょう、ゼルタ? それでもあたしはあなたより強いわ。どう、ゼルタ? アトゥムさえ殺せればいいと言うのであれば、まずはあたしを殺さなければならないわよ? あたしと戦う、ゼルタ?」
この口調、本気だ。金色に光るマーリンの瞳に、私は心の底から恐怖した。