文字数 8,440文字

「ねえ、理香ちゃん。最近、どうかした?」
 小児科の二階の事務室で、いつものようにランチをつつきながら、スミレ先生が言った。
 スミレ先生の情熱は、例のコンビニの春雨炒めから、同じコンビニのサラダパスタに移ったらしい。何も真冬に冷たいパスタにはまらなくてもいいのにとは思うけれど、このマイペースさが、いかにもスミレ先生ではある。
 そのスミレ先生が、いつになく真面目な顔で理香を見ていた。
「なんか元気ないような気がする。それに、少しやせた?」
「別に変わらないですよ。ちゃんと食べてますし」
 ほら、と言わんばかりに、赤いお弁当箱の中から玉子焼きをつまんで、頬ばってみせた。スミレ先生は、今ひとつ納得していない様子で「ならいいけど」とつぶやいた。
「体調悪いとかなら、すぐ言ってよ。信頼できる専門医を紹介するから」
「いりません。元気ですから」
 明るく話しながら、気がつけば別のことを考えていた。
 あの夜、長谷さんは、結局、理香が住むマンションの前まで送り届けてくれた。
『送っていただいて、ありがとうございました。気を遣ってくださったのに、みっともないところをお見せしてしまって──。申し訳ありませんでした』
 車を降りる間際、深々と頭を下げた理香に向かって、長谷さんは「いいえ」と丁寧に言った。
『無理に送らせてもらったのは、僕の方ですから。こちらこそ、押し売りをしてすみませんでした』
 どう返事をしたらいいのか分からず、もう一度頭を下げてドアに手をかけようとした時、「理香さん」と呼び止められた。長谷さんが理香を見つめていた。
『そのうちに、また──』
 取り立てて言うこともない、ただの挨拶だ。友達に同じ言葉を言われても、きっと気にもとめない。でも、あの人の声が、あの時から何度も頭の中で回り続けている。
「ねえ、理香ちゃん」
 スミレ先生の声で我に返った。ぼんやりしてしまっていたらしい。
「やっぱり変だよ。何かあった?」
「何もないです」
 理香は、取り繕うようにミニトマトに箸を伸ばした。嘘は言っていない。長谷さんとの間に何があったわけでもない。ただ、苦しいだけだ。
 あの夜から、忘れよう、冷静になろうとどんなに自分を諫めても、気がつけば、あの人のことを考えている。穏やかに話す声も、フロントガラスを見つめる横顔も、そっと頬に触れた指も。
 母の顔が浮かんだ。母みたいなことだけはしない。絶対しない。ずっとそう思い続けてきたのに。
──わたしの心の中を知ったら、スミレ先生はどう思うだろう。軽蔑するのかな。それとも、可哀想だって同情してくれるのかな。
 自虐的に考える。
 気づくと、スミレ先生がプラスチック製のフォークを置いて、理香を見つめていた。気遣うような優しい目だ。その顔を見ていたら、ますます自分が醜いものに思えてきた。スミレ先生は、きっと軽蔑も同情もしない。たぶん、ただ心配してくれるだけだ。


 学習会がない日は、夕方六時ごろ事務所を退出している。
 壁の時計で時刻を確かめ、そろそろ帰宅しようとキャビネットにファイルをしまって、パソコンの電源を落とした。コートを羽織り、マフラーを手に取ったところで、事務局の携帯電話が鳴った。
──小川と申します。
 明るく名乗った男性に、心当たりがない。
「お世話になっております」
 無難なあいさつを口にしつつ、焦り気味に思い出そうとしていたら、「先日、フォーラムにおじゃましました」と相手の方からヒントをくれた。途端に、ローズ色のポケットチーフが頭に浮かんだ。
「その節は、お忙しい中で来てくださって、ありがとうございました」
 あわてて言った理香に、小川さんは「いいえ」と愛想よく答え、用件を切り出した。
──実は、ボランティアの件でお電話を差し上げたんですが。確か、フォーラムの時、協力者を募集しているというお話があっていましたよね?
「はい」と理香は即答し、勢い込んで尋ねた。「どなたかいらっしゃるんですか?」
 今は一月下旬。二月から三月上旬にかけては、入試をにらんで土曜日にも学習会を行うことになっている。ところが、ちょうどその時期に、ボランティアの主力を担ってくれている大学生が後期の試験とレポート提出期間に入ってしまうため、人繰りに苦慮していた。
──実は、うちの母なんですが、去年の春に中学の教師を退職しまして。フォーラムの話をしたら興味がわいたみたいで、詳しく教えてほしいと。
 中学教師。元プロだ。理香は、背筋を伸ばした。
「中学校ですね。何の科目を教えてらっしゃったんですか?」
──数学です。
 理系科目はもともと手薄なので、とてもありがたい。そして何より、中学校の先生だったという経歴は信頼度が高い。
 まずは見学をしてもらい、丸岡先生にも会ってもらうことにして、希望日を聞いた。丸岡先生と調整の上で改めて連絡することを伝えて、電話を切った。
 この縁をつないでくれた人に、心の中で小さく感謝の言葉を述べた。


 事務室の電気を消し、スミレ小児科の二階の扉から外階段に出る。陽が落ちて、外はすでに暗くなっていた。
 理香は、小さな踊り場に立って街の灯りを眺めた。冬の薄青く澄んだ空気の向こう、民家の屋根の際に、昇り始めたばかりの月が見える。たった一つ、星の見えない暗い空へと昇っていく寂しい月──。
 理香は、束の間、その場所に立って目の前の光景をぼんやりと見つめ、やがて足下に視線を落とした。バッグの肩ひもをぎゅっと握り締め、虚ろな足音を響かせて階段を降りていく。
 雪は降っていないけれど、相変わらず空気が冷たい。小児科の駐車場を出て駅に向かって歩き出したところで、マフラーを置いてきてしまったことに気がついた。取りに戻るかどうか一瞬だけ迷って、「もういいや」と思う。もう一度あの階段を上って暗い事務室に引き返す気には、どうしてもなれない。
 大通りの歩道を歩き、JRの高架の少し手前で左に折れる。暗くて細い道を歩いていくうちに、居酒屋や小さなスナックが並ぶ猥雑な通りに出た。駅に近づくにつれて人通りが増えていく。そのにぎやかさに、少しだけ元気づけられた。
 見慣れた街の見慣れた駅。知らない人だらけのコンコースに足を踏み入れ、改札を通り抜ける。階段を上がるのが億劫に思えて、エスカレーターでホームに上がった。
 そこに、とても会いたかったけれど、会うべきではない人の姿を見つけた。
 背筋がすんなりと伸びた、きれいな立ち姿。彼だけが、ホームで電車を待つたくさんの人の中から浮き上がって見えた。いつか電車で会った時と同じ、フード付きのジャケットと細かいストライプのマフラーが、悲しくなるくらいよく似合っている。
 理香は呆然と彼の姿を見つめた。
 こんな風に会ってしまうとは思いもしなかった。家に帰るところだろうか。家族が待つ温かい場所へ──。そう思うと、胸が締めつけられた。
 腕時計を見ていた長谷さんが、ふっと目を上げて理香を見た。見つかる前に立ち去ればよかったことに、遅ればせながら気がついた。けれど、もう遅い。理香は、ぺこりと頭を下げた。
「──理香さん」
 穏やかな声が耳に届いた。長谷さんは表情を緩め、やわらかくほほえんだ。まるで「おいで」と言うみたいに、一歩動いて自分の隣にスペースを空けてくれる。理香は、遠慮がちに彼に近づき、隣に立った。
「まさか本当に会うなんて」と長谷さんは笑った。「今日はこっちで打ち合わせで。もしかして会わないかな、とちょっとだけ思ってはいたんですが」
「あの──」
 理香は、おずおずと長谷さんを見上げた。
「ん?」
「この間は、ありがとうございました。あの、いろいろとすみませんでした」
「あなたは、本当に──」長谷さんは言いかけ、少し困ったように笑った。「謝らないでください。気にすることは何もありませんから」
 理香は、ますます小さくなった。
「でも」
「いいから、謝らないで」長谷さんがきっぱりと言う。それから、独り言みたいにつぶやいた。「あなたがそんなだから、僕は──」
「え?」
 声に出して言うつもりじゃなかったのかもしれない。長谷さんは、一瞬だけ目をそらし、それからふっと口元を緩めた。
「とにかく、謝罪はなしです。それ以外のことなら、何でも」
 理香は、もう一度「あの」と言おうとして口をつぐんだ。自覚してしまった想いが言葉を奪う。この人を前にして、申し訳ないという気持ち以外に、何を口にすればいいのか分からない。
 黙り込んでしまった理香に向かって、長谷さんが「じゃあ、僕の方から」と切り出した。
「今日は、何か予定がありますか?」
 どきん、とした。
 このあとにどんな言葉が続くにしろ、デートの誘いだなんて思わない。この人は、ほかに大事な人がいるのに、誰かとどうこうなろうなんて考える人じゃない。それでも、これ以上、この人との関係を深めるべきじゃない。
──踏みとどまるなら、今だ──。
 分かっていながら心が揺れる。
<間もなく、三番線に列車がまいります>
 背後で、列車の到着を知らせるアナウンスが流れた。理香はふらふらと吸い寄せられるように、選ぶべきではない言葉を口にした。
「いいえ、何も。もう帰るところなので」
「よかった。じゃあ、食事をして帰りませんか」
 ほほえんだ長谷さんの向こうで、いつもの列車がホームに滑り込んでくる。理香はうなずいた。
「取りあえず、乗りましょう」
 うながされて、一緒に車内に乗り込んだ。ドアの近くに並んで立つ。やがて、発車のアナウンスとともにドアが閉まり、列車はゆっくりと動き出した。
 揺れに身を任せながら、理香は、遠ざかっていくホームを眺めた。いつもの風景が、全然違うものみたいに思えた。
「次に会ったら誘おうと思っていたんです。この間、あなたをあんな状態で置いて帰ってしまったし」
 気にかけてくれていた。何一つとして長谷さんのせいではないのに──。
「ありがとうございます」
 頭を下げた理香に、長谷さんが「どこに行きましょうか」と軽い調子で言い、手すりにもたれて腕を組んだ。
「居酒屋って感じでもないですね。何か食べたいものはある?」
「わたしは、何でも──」
「じゃあ、適当に決めてしまってもいいですか?」
 理香はうなずき、一つだけ気になっていることを口にした。
「あの、長谷さんは、予定、大丈夫なんですか? 無理して誘ってくださってるんじゃ──」
“早く帰らなくていいんですか?”
“ご自宅は大丈夫なんですか?”
 本当はそう尋ねるべきなのかもしれない。でも、肝心なことは口に出さない、ずるい自分がいる。
 誰かの涙が前提の幸せを望むつもりなんてない。ただ、少しだけ、この人と一緒にいたい。
 祈るような気持ちで答えを待っている理香に、長谷さんは「理香さんは、人の心配をしすぎです」とあっさり言った。「誘ったのは僕なんだから。聞かれたから答えますが、予定はありません。どうせ一人で食べるつもりでしたし」
 一人──。
 意外な言葉に、少しだけ戸惑う。でも、嘘をついているようには見えない。だって、長谷さんの顔に後ろめたさは欠片も見えない。もしかすると、普段から外で食べて帰ったり仕事で遅くなったりすることが多くて、長谷さんにとっては、いちいち気にするようなことでもないのかもしれない。
「どうかしましたか?」
 長谷さんが首をかしげている。理香は小さく息をはいた。
「いいえ、何も──」
 もう、何もかもどうでもいいことみたいに思えた。今日この人に会えたことだけが全部で、ほかには何もない。だから、今だけは身勝手な自分を見て見ぬふりをしよう。今だけは──。
 二駅だけ電車に乗って、すぐに降りた。長谷さんは、人の流れに乗って、慣れた足取りでホームを歩いていく。いつもはガラス越しに眺めるだけの場所を、こうして長谷さんと一緒に歩いているのが不思議な気がした。
 駅前広場に出たところで、長谷さんは足をとめた。
「ちょっとだけ歩きますが、大丈夫ですか?」
「平気です」
「よかった」と長谷さんが笑い、二人で肩を並べて歩き出した。
「実はね、会社、すぐそこなんです。あのビルの裏」
 歩きながら、長谷さんは思い出したように言い、駅の向かいに立っているオフィスビルを目線で示した。
「そうなんですか」
 どうりで、研さんに代打を頼まれた時、すぐに駆けつけることができたわけだ。会社の場所は、前にもらった名刺に印刷されていたはずだけれど、ちゃんと見ていなかった。
「一応、人を雇っているので、自宅で営業というわけにもいかなくて。まあ、ちゃんとオフィスを構えている方が信頼度も上がるし、来客にも便利なのでいいかな、と」
 今度寄ってください、と冗談ともつかない口調で言う。
 いつの間にか駅前のにぎやかなエリアを通り過ぎていた。長谷さんは、その先の細い通りに入っていく。やがて小さな店の前で立ち止まった。
「ここです。電話せずに来ちゃったけど、空いてるかな」
 引き戸を開けて中をのぞく。店のスタッフと短い会話を交わしてから、振り返って理香に手招きをした。


 四席しかないカウンターに並んで座り、ビールの小さなグラスを片手に、長谷さんが見繕ってくれた洋風のおばんざい風のお料理をいただいた。
 調理をしている男性と、オーダーを取って料理を運ぶ女性。夫婦だろうか、二人きりで切り盛りしているらしい小さな店の中は暖かくて、とても居心地がいい。
 長谷さんが、豆のサラダを口元に運んでいる。ふと目に留まった箸遣いがとてもきれいで、思わず見とれてしまった。
「どうかしましたか?」
 目を向けられ、理香は少しあわてて「いいえ、何も」ともごもご言った。
 その時、長谷さんの箸の先からヒヨコ豆が落ちて、皿の上にころんと転がった。何だか急に可笑しくなってきた。今までの緊張が嘘みたいにほどけていく。ほんのちょっぴり口にしたビールのせいじゃない。きっと、長谷さんが持つ和やかな雰囲気のせいだ。この人のそばにいると、どうしてだか、とても安心する。
──だから、この間の夜も泣いてしまったのかもしれない。
 考えている理香の隣で、長谷さんは眉間にしわを寄せた。
「何だか楽しそうですけど、僕、変なことしました? いや、豆は転がしましたが」
 理香は思わず笑った。
「いいえ。おいしいですね」
「でしょう?」気を取り直したかのように長谷さんが言う。「時々ここで食べて帰るんです」
 やはり家で食べない日も多いらしい。仕事柄そういうものなのかな、と一人で納得する。
「理香さん、少し痩せませんでした? ちゃんと食べてますか?」
 豆をつついていたら、長谷さんがスミレ先生と同じことを言った。理香は、スミレ先生に言ったのと同じ言葉を返した。
「別に変わりません。ちゃんと食べてますし。ほら」
 ヒヨコ豆をつまんで、口に入れた。うん、大丈夫だ。ちゃんとおいしい。
「それならいいんですが。前から食事に誘おうと思っていたのは本当なんですが、実は、今日、あなたの顔を見た瞬間に『これは、食べさせないと』って思ったんですよね」
「何ですか、それ」
 とまどいながらも笑ってしまった。長谷さんが、わざとらしく理香の手から箸を取り上げ、「ほら」と言って、かぼちゃを小皿に取り分けてくれる。
「ちゃんと食べて」
「──すみません」
「いえいえ」
 このくつろいだ空気は何だろう。ちょこちょこと箸を口に運ぶ理香を、長谷さんが楽しそうに見ている。
 いつの間にかグラスが空いていた。「何か飲みますか」と聞かれて、お水をもらうことにする。この間、迷惑をかけたばかりだというのに、今日またここで酔っぱらってしまったりしたら、さすがに申し訳なくて二度と顔を合わせられない。
 カウンターの内側に声をかけてから、長谷さんが理香に向き直った。
「理香さんは、どうして今の仕事を?」研から聞いたんですが、と続ける。「大手の学習塾にいらっしゃったんでしょう? 失礼ですが、条件は比べものにならないくらいよかったのでは?」
「まあ、そうですね」
 理香は、正直に口にした。夜は遅いし土日も休めないハードな仕事だったけれど、三年勤めて給料はそれなりにもらっていた。転職して、収入は半分近くに減った。丸岡先生には「副業していいから」と言われているが、今のところはギリギリでどうにかなっている。
 長谷さんにはすでに泣き顔を見られてしまっていることもあって、誰にでも話しているわけではない事情を話す気になった。
「塾で担任をしていた生徒が、中学三年生の夏にお父さんを亡くしたんです」
 長い髪を二つ結びにした、元気な子だった。ちょっと沙彩ちゃんに似ていたかもしれない。ついこの間のことを思い出し、沙彩ちゃんのお父さんが助かってよかったと切に思う。
「塾の月謝ってね、高いんですよ。月四万円とか五万円なんて当たり前です。それに、夏とか冬の講習とか合宿とか、それだけでも何万円もかかります」
 言ってから、長谷さんは知っているはずだということに気がついた。中学生のお嬢さんのために月謝を払っているのだから。思い出さずにいたのに、胸がチクリと痛む。理香は、その痛みに気づかないふりをして、話を続けた。
「葬儀のために塾を休みますって連絡があった次の週に、その子のお母さんが見えて、塾はやめざるを得ないって言われたんです」
 お母さんは、わざわざ授業が終わる時間を見計らって現れ、お世話になりました、と自分よりはるかに年下の理香に丁寧に頭を下げた。
 一、二か月ならともかく、春まで通ったら何十万円にもなる、とてもそんなに負担できない。お母さんはそう言った。大丈夫、家で勉強させますから。ちゃんとできると思います──。まるで自分に言い聞かせるように言った、あの時の顔が忘れられない。
「いいのかなとは思ったんです。一生を左右する大事な時期に、お金が続かないからって手を離していいのかなって。でも、仕方ないやって、その時はそう思いました。わたしにはどうしようもないし、親御さんが決めたんだからって」
 長谷さんは何も言わない。静かに耳を傾けてくれている。
「結局、その子はそのままやめていきました。そのあと、たまたま大学の同級生と話していた時に、『丸岡哲夫先生って知ってる?』って言われて──」
 調べてみたら、教育学の分野で有名な先生だった。ネットで検索したら、ゼミの学生と一緒に取り組んでいる活動を紹介する新聞記事が出てきた。それが、AFFだった。
 ボランティアとして、仕事の合間を縫って学習会に参加した。何か月か過ぎて、NPO法人の申請と専従スタッフ雇用の話が出た時に、自ら手を上げた。
「自己満足ですけどね」
 話しながら、だんだん顔が下を向いてしまう。理香は、膝の上に置いた手を見つめた。
 きれいな話じゃない。これは、贖罪だ。自己満足の贖罪。
 直接のきっかけは、沙彩ちゃんに似ているあの子だった。でも、それだけじゃない。大学四年の秋、当たり前だと思っていた世界が全部くずれて、百八十度違うものになってしまうまで、中学教師になるつもりだった。教職課程をとり、教員採用試験を受けて、すでに一次試験に受かっていた。
 でも、そのことは口にしない。口にすれば、そのほかの事情も話さざるを得なくなるから。
 長谷さんは、グラスを手に何か考え込んでいたが、やがてつぶやくように言った。
「誰かのために何かをしようと思うことは、それだけで十分きれいな──っていうと語弊があるかな。何て言ったらいいのか、人の優しい気持ちを集めた、きらきらするようなことだと思う」
 理香は目を上げた。膝の上の手を握り締める。
「きっと、全部そこから始まるんじゃないかな」
 長谷さんは理香の顔を見て、「何か、ものすごく恥ずかしいこと言ってるね」と笑った。「でも、いちいちそんなことを議論しなくても、十分じゃないかと思います。あなたは、ちゃんと誰かを大事にして、誰かの未来に関わることができていると思う」
 思いがけない言葉に胸が熱くなった。
「長谷さんは、優しいですね」
「優しくなんかないですよ。本当にそう思うだけです」長谷さんは、少し寂しそうにほほえんだ。「人は、自分のためだけには生きられない。だとしたら、誰かのために生きているのかもしれないって思うんです。それなら、僕は──」
 あの時、長谷さんが何を言おうとしたのか、今なら少しだけ分かる気がする。曖昧ににごした言葉の先を、ちゃんと聞いておけばよかった。何度でも尋ねればよかった。
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