【編ノ三(上)】“貴方を忘れない” ~面霊気~
文字数 4,757文字
白い病院の廊下を、降神 警察署交通課の警部補、権田原 守 は足早に歩いていた。
そして、ナースステーションで目当ての病室を確認すると、ノックももどかしくドアを開けて中に入る。
「おやっさん!」
慌ただしく入ってきた権田原を認め、ベッドの上の老人が、口の端を釣り上げた。
「…よぉ、来てくれたのか、権 の字」
やってきた客人を出迎えようと、老人が辛そうに身を起こす。
権田原は、駆け寄ってその背中を支えた。
「無茶しないでくださいよ」
「なあに、これくらい…」
そう言いかけて、老人は咳き込んだ。
その背中をさすり、落ち着いたところでベッドへ横たわらせる。
「へ…俺も意気地なくなったもんだ」
自嘲気味にそう漏らす老人を、権田原は沈痛な表情で見ていた。
老人はかつての上司であり、彼に“蝮 ”のあだ名をつけた敏腕の元・刑事だ。
名前は泉屋 銀七 という。
「長生きするつもりはなかったが…意外に早くお迎えが来ちまったようだぜ」
「冗談でもそんな事言わないでください、おやっさん」
「…聞いてんだろ?権。俺の病名を」
「…」
沈黙する権田原に泉屋は、ふと笑った。
「まったく…顔にすぐに出やがる。根が馬鹿正直なのは、全然変わんねぇな」
「…すんません…」
権田原にとって、泉屋は父親みたいな存在だった。
当時、駆け出しの刑事だった頃、泉屋には刑事としてのイロハを叩き込まれ、鍛えられた。
激しく怒鳴られ、時にはぶん殴られた事もある。
だが、権田原のミスは進んで庇い、辛い捜査でも励ましてくれた。
この男なしに、今の権田原はあり得なかったと言ってもいいくらいだ。
泉屋の定年退職間際、権田原はある出来事がきっかけで刑事課から配属替えになった。
接点が減り、泉屋とも連絡をとる機会が減っていった。
泉屋が倒れたという報せを受けたのは、そんな折だった。
「謝るなって…まあ、お陰で久し振りにバカ弟子の顔を拝めたんだ。病気にもなってみるもんだな」
笑う泉屋に、かつての力強さは無い。
その身を侵す病魔もそうだが、老いが泉屋から精気を奪ったのだ。
「今の仕事は…どうだ?」
そう問いかけてきた泉屋に、権田原は枕元にあった椅子に腰かけながら答えた。
「刑事課 に居た時よりは退屈ですが、
「そうか…そいつは何よりだ」
ほんの少しだけ、泉屋の顔に寂しげな表情が浮かぶ。
彼としては、最後まで愛弟子と共に刑事生活を終えたかったのかも知れない。
だが、その機会は権田原の配属替え…いわば、ある出来事での彼の真っ直ぐな若さが、裏目に出たが故に、永遠に失われてしまった。
「懐かしいな…お前と組んでたあの頃がよ」
「俺は…一生の財産だって思ってます」
「けっ、こそばゆい事言うんじゃねぇよ」
悪態にもかつての覇気が無い事が、権田原は無性に悲しかった。
「まあ、でも悔いらしい悔いはねぇな。俺にしちゃあ、上等な刑事人生だったぜ」
泉屋に妻子はいない。
天涯孤独の身である。
それは刑事という職業に人生を捧げた結果だった。
「…いや、一つだけあったな」
「えっ?」
不意にそう言う泉屋を、権田原は思わず見た。
そして、息を呑んだ。
今まで枯れ果てていた泉屋の両眼に、激しい感情が浮かんでいる。
まるで、現役の頃を彷彿させる眼光だった。
「怪盗“サーフェス”」
「怪盗“サーフェス”?」
思わず聞き返す権田原。
「そうか…お前には話した事が無かったな」
遠い過去を思い出すように、泉屋は目を閉じた。
「怪盗“サーフェス”ってのはな、お前が新米刑事で来る前に、この町に現れた大泥棒だよ」
「…初耳です」
そう言う権田原に、泉屋は昔話を語る父親の様に笑った。
「いい機会だ。冥土の土産に話してやろう」
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遡 ること二十年前。
世に「妖怪」という存在が明らかになり、大騒ぎになっていた時代。
「チクショウ、またやられた…!!」
持ち場から現場に駆け付けた泉屋は、その惨状を見るなりそう呻いた。
目の前には空っぽになったクリアケースが一つ。
周囲には、意識を失って倒れる数人の警官の姿があった。
クリアケースの中には、この博物館が所蔵する古い石仏が納められていた筈だが、ご覧の通りきれいに失われている。
言うまでも無い。
盗まれたのだ。
万全の態勢で臨んだ今回の警備も、とある大泥棒にあっさりと潜り抜けられてしまった。
「うぅ…」
近くに倒れていた警官が、呻き声を上げる。
泉屋は、駆け寄って抱き起こした。
「しっかりしろ!大丈夫か!?」
「け、警部…すみません…やられました…」
「
「はい…そこの植木鉢にあった…花から…いきなり妙なガスが出て…それを嗅いだら…みんな倒れて…」
目を向けると、美しいシオンの花がポットに並んで咲いている。
近付くと、ポットの根元に怪しげな装置があった。
どうやら催眠ガスを放つ装置のようだ。
事前の点検時には、確かに無かった筈なのに…
「クソッ!」
舌打ちしてから、泉屋は倒れたままの警官のところに戻った。
「奴を見たか?」
「少しですが…誰かが…自分のすぐ横を通って…いきました…後は、意識がもたなくて…すみません」
「いや、いい。すぐに救援を呼ぶ。そのまま休んでろ」
そう言いながら、泉屋は無線で増援を催促する。
「“サーフェス”め!」
姿の無い相手に、呪詛を放つ泉屋。
最近、この町では、とある人物が話題になっていた。
怪盗“サーフェス”…そう名乗る姿なき大泥棒。
まるで漫画に登場する怪盗のように、ターゲットとなった相手に予告状を送り付けては警備を掻い潜り、美術品など盗んでいくのが主な手口だった。
そして、その姿を見た者はただの一人もいないのである。
この姿なき怪盗には、これまでに10ほどの美術館や博物館が被害にあっている。
ただ、不思議なのは、盗難にあった美術品や資料は、いずれも目を剥くほどの程の価値は無いことだった。
つまり、洗練された盗みの技術の割に、ターゲットとなった品物はそれに見合うものではないのである。
とはいえ、泉屋にしてみれば、何度も煮え湯を呑まされ続けている仇敵だ。
わざわざ予告状を出し、その通りに盗みを実行する上、これまでも警察の警備網を歯牙にもかけず、盗みを繰り返すあたりが憎々しい。
と、泉屋が歯噛みしているうちに、控えていた救命士の一団が到着する。
次々と担架で運ばれていく警官達。
全員が意識を失っているが、命に別条はなさそうだった。
その時だった。
泉屋の刑事としての勘が違和感を告げた。
「ちょっと待った!」
今まさに担架に乗せられ、運ばれていく一人の警官を引き止める泉屋。
先程、泉屋が抱き起した警官だった。
怪訝そうな顔になる救命士を下がらせ、泉屋はおもむろに間合いを詰めた。
「…」
制帽を目深に被った警官は、意識を失っているように見える。
だが、泉屋がその顔を改めようと近付いた瞬間、突然、眩 い光が世界を覆った。
「閃光弾 か!」
至近距離でまともに光を受けた泉屋が、思わず顔を逸らす。
視界が機能しない中、泉屋は死に物狂いで警官の居た場所に飛び掛かった。
懸命に伸ばした腕が、何かを掴む。
どうやら、人間の足の様だ。
その場に何者かが立っていて、泉屋がその片足にしがみついている状況だった。
「驚きました…凄い根性ですね」
何者かが呟く。
男とも女ともとれる中性的な声だ。
声音には素直な驚きが含まれていた。
「てめえ、“サーフェス”か!?」
「いかにも。人呼んで怪盗“サーフェス”とは私のことです」
眩んだままの目で、必死に相手の姿を見定めようとする泉屋。
だが、視界は白い靄がかかったままで、その姿は全く分からなかった。
声は感心したように言った。
「それにしても、よく私がニセ警官だと気付きましたね?」
「けっ、よっぽど強力な催眠ガスだったんだろうな。他の奴はあらかた眠らされてらぁ。けど、お前だけ意識があったってのは、どう考えてもおかしいだろ!」
「成程…少し芝居っ気が出過ぎましたか。反省です」
声が苦笑する。
「“サーフェス”!今日が年貢の納め時だ!この手は死んでも放さねぇぞ、覚悟しろい!」
格好は無様でも、これは千載一遇の機会チャンスである。
しがみつく腕に力を込める泉屋。
「フッ…情熱的な抱擁は心躍りますが…生憎と、私もまだ捕まる訳にはいきません。こんな事をするのはちょっと恥ずかしいですが、幸い、今の貴方は目が見えないですしね」
瞬間。
泉屋の腕の中にあった足の感触が一瞬で消失する。
「!?」
「さようなら、勇敢な刑事さん。また、お会いしましょう」
遠ざかる声に、泉屋は茫然となる。
やがて、周囲からは救命士達が上げている呻き声しか聞こえなくなった。
後はただ、もぬけの殻となったズボンが、泉屋の腕の中でしおれていた。
「…くそったれが!!」
それを床に叩きつけ、泉屋は絶叫した。
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それから数週間が経った。
上司から呼び出された泉屋は、怪盗“サーフェス”が次の予告状を出してきた旨を告げられた。
「今度は…人形博物館、ですか」
予告状に書かれた次のターゲットを確認し、泉屋が眉をひそめる。
黒いガードにしたためられた予告状には「人形を収集する某博物館に所蔵された、江戸時代の機巧 人形を頂戴する」とあった。
「石仏の次は人形か…相変わらず節操のねぇ野郎だ」
「奴の趣味はともかく、今回のターゲットは値打ちがあるらしい」
上司がおもむろにそう切り出す。
「何でも、その筋では有名な造形師による作品だそうだ。資料は見たか?気味が悪いくらいに精巧だぞ」
「でも、いくら精巧ってたって江戸時代の人形でしょう?」
「まあ、見てみろ」
手渡された写真を見て、泉屋は思わず息を呑んだ。
ほんのりと赤味を帯びた頬に、碧色の光沢を放つ黒髪。
黒水晶の目に血をひいたような深紅の唇。
そこには、生きている人間と変わりない着物姿の少女の人形が写っていた。
大きさも人間の少女と大差ないもののようだ。
「…マジすか、コレ」
「大マジだよ。ついでに言えば、いわくつきの人形らしいぞ」
上司が声を潜める。
「何でも、持ち主が次々と不審な死を遂げて、この博物館に収蔵されたらしい。巷 じゃあ妖怪が実在したとかでちょっとした騒ぎになってるが、案外、こいつもその類たぐいかも知れんな」
「ニュースで見ましたよ。確か…降神町 でしたっけ?んで、こっちは呪いの人形って訳ですか…全く、この世の中は一体どうなっちまったんだか」
妖怪の実在が報告され、目下、日本は混乱状態だ。
ニュースでは、連日ひっきりなし特集が組まれており、話題にならない日が無い。
さらに、その希少性と多様性が大衆に受け、空前の妖怪ブームに世の中が湧いていた。
おまけに、そうした世論を受け、政府主導でも妖怪の社会進出が進められているという。
噂では、市民権を獲得した一握りの妖怪が、役場に配属され始めたとも聞いた。
となれば、警察機関も対岸の火事ではない。
泉屋にしてみれば、厄介な取締対象が増えたくらいにしか感じていなかったが、警察署の廊下を"一つ目小僧"や"唐笠お化け"が制服を着て闊歩 するのを想像し、思わず溜息をついた。
「何にせよ、お上の命令じゃ仕方が無い。いい加減、警察おれたちも尻に火が付いたも同然だ。今度こそ、奴をふん縛ってこい。頼むぞ」
上司からそう言われ、泉屋は敬礼した。
そして、ナースステーションで目当ての病室を確認すると、ノックももどかしくドアを開けて中に入る。
「おやっさん!」
慌ただしく入ってきた権田原を認め、ベッドの上の老人が、口の端を釣り上げた。
「…よぉ、来てくれたのか、
やってきた客人を出迎えようと、老人が辛そうに身を起こす。
権田原は、駆け寄ってその背中を支えた。
「無茶しないでくださいよ」
「なあに、これくらい…」
そう言いかけて、老人は咳き込んだ。
その背中をさすり、落ち着いたところでベッドへ横たわらせる。
「へ…俺も意気地なくなったもんだ」
自嘲気味にそう漏らす老人を、権田原は沈痛な表情で見ていた。
老人はかつての上司であり、彼に“
名前は
「長生きするつもりはなかったが…意外に早くお迎えが来ちまったようだぜ」
「冗談でもそんな事言わないでください、おやっさん」
「…聞いてんだろ?権。俺の病名を」
「…」
沈黙する権田原に泉屋は、ふと笑った。
「まったく…顔にすぐに出やがる。根が馬鹿正直なのは、全然変わんねぇな」
「…すんません…」
権田原にとって、泉屋は父親みたいな存在だった。
当時、駆け出しの刑事だった頃、泉屋には刑事としてのイロハを叩き込まれ、鍛えられた。
激しく怒鳴られ、時にはぶん殴られた事もある。
だが、権田原のミスは進んで庇い、辛い捜査でも励ましてくれた。
この男なしに、今の権田原はあり得なかったと言ってもいいくらいだ。
泉屋の定年退職間際、権田原はある出来事がきっかけで刑事課から配属替えになった。
接点が減り、泉屋とも連絡をとる機会が減っていった。
泉屋が倒れたという報せを受けたのは、そんな折だった。
「謝るなって…まあ、お陰で久し振りにバカ弟子の顔を拝めたんだ。病気にもなってみるもんだな」
笑う泉屋に、かつての力強さは無い。
その身を侵す病魔もそうだが、老いが泉屋から精気を奪ったのだ。
「今の仕事は…どうだ?」
そう問いかけてきた泉屋に、権田原は枕元にあった椅子に腰かけながら答えた。
「
やり甲斐はあります
」「そうか…そいつは何よりだ」
ほんの少しだけ、泉屋の顔に寂しげな表情が浮かぶ。
彼としては、最後まで愛弟子と共に刑事生活を終えたかったのかも知れない。
だが、その機会は権田原の配属替え…いわば、ある出来事での彼の真っ直ぐな若さが、裏目に出たが故に、永遠に失われてしまった。
「懐かしいな…お前と組んでたあの頃がよ」
「俺は…一生の財産だって思ってます」
「けっ、こそばゆい事言うんじゃねぇよ」
悪態にもかつての覇気が無い事が、権田原は無性に悲しかった。
「まあ、でも悔いらしい悔いはねぇな。俺にしちゃあ、上等な刑事人生だったぜ」
泉屋に妻子はいない。
天涯孤独の身である。
それは刑事という職業に人生を捧げた結果だった。
「…いや、一つだけあったな」
「えっ?」
不意にそう言う泉屋を、権田原は思わず見た。
そして、息を呑んだ。
今まで枯れ果てていた泉屋の両眼に、激しい感情が浮かんでいる。
まるで、現役の頃を彷彿させる眼光だった。
「怪盗“サーフェス”」
「怪盗“サーフェス”?」
思わず聞き返す権田原。
「そうか…お前には話した事が無かったな」
遠い過去を思い出すように、泉屋は目を閉じた。
「怪盗“サーフェス”ってのはな、お前が新米刑事で来る前に、この町に現れた大泥棒だよ」
「…初耳です」
そう言う権田原に、泉屋は昔話を語る父親の様に笑った。
「いい機会だ。冥土の土産に話してやろう」
----------------------------------------------------------------------------------
世に「妖怪」という存在が明らかになり、大騒ぎになっていた時代。
「チクショウ、またやられた…!!」
持ち場から現場に駆け付けた泉屋は、その惨状を見るなりそう呻いた。
目の前には空っぽになったクリアケースが一つ。
周囲には、意識を失って倒れる数人の警官の姿があった。
クリアケースの中には、この博物館が所蔵する古い石仏が納められていた筈だが、ご覧の通りきれいに失われている。
言うまでも無い。
盗まれたのだ。
万全の態勢で臨んだ今回の警備も、とある大泥棒にあっさりと潜り抜けられてしまった。
「うぅ…」
近くに倒れていた警官が、呻き声を上げる。
泉屋は、駆け寄って抱き起こした。
「しっかりしろ!大丈夫か!?」
「け、警部…すみません…やられました…」
「
奴
か!?」「はい…そこの植木鉢にあった…花から…いきなり妙なガスが出て…それを嗅いだら…みんな倒れて…」
目を向けると、美しいシオンの花がポットに並んで咲いている。
近付くと、ポットの根元に怪しげな装置があった。
どうやら催眠ガスを放つ装置のようだ。
事前の点検時には、確かに無かった筈なのに…
「クソッ!」
舌打ちしてから、泉屋は倒れたままの警官のところに戻った。
「奴を見たか?」
「少しですが…誰かが…自分のすぐ横を通って…いきました…後は、意識がもたなくて…すみません」
「いや、いい。すぐに救援を呼ぶ。そのまま休んでろ」
そう言いながら、泉屋は無線で増援を催促する。
「“サーフェス”め!」
姿の無い相手に、呪詛を放つ泉屋。
最近、この町では、とある人物が話題になっていた。
怪盗“サーフェス”…そう名乗る姿なき大泥棒。
まるで漫画に登場する怪盗のように、ターゲットとなった相手に予告状を送り付けては警備を掻い潜り、美術品など盗んでいくのが主な手口だった。
そして、その姿を見た者はただの一人もいないのである。
この姿なき怪盗には、これまでに10ほどの美術館や博物館が被害にあっている。
ただ、不思議なのは、盗難にあった美術品や資料は、いずれも目を剥くほどの程の価値は無いことだった。
つまり、洗練された盗みの技術の割に、ターゲットとなった品物はそれに見合うものではないのである。
とはいえ、泉屋にしてみれば、何度も煮え湯を呑まされ続けている仇敵だ。
わざわざ予告状を出し、その通りに盗みを実行する上、これまでも警察の警備網を歯牙にもかけず、盗みを繰り返すあたりが憎々しい。
と、泉屋が歯噛みしているうちに、控えていた救命士の一団が到着する。
次々と担架で運ばれていく警官達。
全員が意識を失っているが、命に別条はなさそうだった。
その時だった。
泉屋の刑事としての勘が違和感を告げた。
「ちょっと待った!」
今まさに担架に乗せられ、運ばれていく一人の警官を引き止める泉屋。
先程、泉屋が抱き起した警官だった。
怪訝そうな顔になる救命士を下がらせ、泉屋はおもむろに間合いを詰めた。
「…」
制帽を目深に被った警官は、意識を失っているように見える。
だが、泉屋がその顔を改めようと近付いた瞬間、突然、
「
至近距離でまともに光を受けた泉屋が、思わず顔を逸らす。
視界が機能しない中、泉屋は死に物狂いで警官の居た場所に飛び掛かった。
懸命に伸ばした腕が、何かを掴む。
どうやら、人間の足の様だ。
その場に何者かが立っていて、泉屋がその片足にしがみついている状況だった。
「驚きました…凄い根性ですね」
何者かが呟く。
男とも女ともとれる中性的な声だ。
声音には素直な驚きが含まれていた。
「てめえ、“サーフェス”か!?」
「いかにも。人呼んで怪盗“サーフェス”とは私のことです」
眩んだままの目で、必死に相手の姿を見定めようとする泉屋。
だが、視界は白い靄がかかったままで、その姿は全く分からなかった。
声は感心したように言った。
「それにしても、よく私がニセ警官だと気付きましたね?」
「けっ、よっぽど強力な催眠ガスだったんだろうな。他の奴はあらかた眠らされてらぁ。けど、お前だけ意識があったってのは、どう考えてもおかしいだろ!」
「成程…少し芝居っ気が出過ぎましたか。反省です」
声が苦笑する。
「“サーフェス”!今日が年貢の納め時だ!この手は死んでも放さねぇぞ、覚悟しろい!」
格好は無様でも、これは千載一遇の機会チャンスである。
しがみつく腕に力を込める泉屋。
「フッ…情熱的な抱擁は心躍りますが…生憎と、私もまだ捕まる訳にはいきません。こんな事をするのはちょっと恥ずかしいですが、幸い、今の貴方は目が見えないですしね」
瞬間。
泉屋の腕の中にあった足の感触が一瞬で消失する。
「!?」
「さようなら、勇敢な刑事さん。また、お会いしましょう」
遠ざかる声に、泉屋は茫然となる。
やがて、周囲からは救命士達が上げている呻き声しか聞こえなくなった。
後はただ、もぬけの殻となったズボンが、泉屋の腕の中でしおれていた。
「…くそったれが!!」
それを床に叩きつけ、泉屋は絶叫した。
----------------------------------------------------------------------------------
それから数週間が経った。
上司から呼び出された泉屋は、怪盗“サーフェス”が次の予告状を出してきた旨を告げられた。
「今度は…人形博物館、ですか」
予告状に書かれた次のターゲットを確認し、泉屋が眉をひそめる。
黒いガードにしたためられた予告状には「人形を収集する某博物館に所蔵された、江戸時代の
「石仏の次は人形か…相変わらず節操のねぇ野郎だ」
「奴の趣味はともかく、今回のターゲットは値打ちがあるらしい」
上司がおもむろにそう切り出す。
「何でも、その筋では有名な造形師による作品だそうだ。資料は見たか?気味が悪いくらいに精巧だぞ」
「でも、いくら精巧ってたって江戸時代の人形でしょう?」
「まあ、見てみろ」
手渡された写真を見て、泉屋は思わず息を呑んだ。
ほんのりと赤味を帯びた頬に、碧色の光沢を放つ黒髪。
黒水晶の目に血をひいたような深紅の唇。
そこには、生きている人間と変わりない着物姿の少女の人形が写っていた。
大きさも人間の少女と大差ないもののようだ。
「…マジすか、コレ」
「大マジだよ。ついでに言えば、いわくつきの人形らしいぞ」
上司が声を潜める。
「何でも、持ち主が次々と不審な死を遂げて、この博物館に収蔵されたらしい。
「ニュースで見ましたよ。確か…
妖怪の実在が報告され、目下、日本は混乱状態だ。
ニュースでは、連日ひっきりなし特集が組まれており、話題にならない日が無い。
さらに、その希少性と多様性が大衆に受け、空前の妖怪ブームに世の中が湧いていた。
おまけに、そうした世論を受け、政府主導でも妖怪の社会進出が進められているという。
噂では、市民権を獲得した一握りの妖怪が、役場に配属され始めたとも聞いた。
となれば、警察機関も対岸の火事ではない。
泉屋にしてみれば、厄介な取締対象が増えたくらいにしか感じていなかったが、警察署の廊下を"一つ目小僧"や"唐笠お化け"が制服を着て
「何にせよ、お上の命令じゃ仕方が無い。いい加減、警察おれたちも尻に火が付いたも同然だ。今度こそ、奴をふん縛ってこい。頼むぞ」
上司からそう言われ、泉屋は敬礼した。