文字数 3,604文字

 急にヒトミの顔つきが変わった。不安も恐怖も悲しみも呑み込み、仮面を被る。
「何でも利用してやる、ソルを助けるためなら、人間なんていくら犠牲になってもかまわない。わたしは、自分の子さえ無事ならそれでいい」
 冷たい声、残酷な言葉。だけどなんて悲しく聞こえるのだろう。
 これが彼女の本心ではないことくらい、わかる。いや、それは聡介の願望かもしれないけれど、それでもいい。
 もう、いいのだ。どちらでも。
「そうか……。利用、されてやるよ」
 妙に頭の中は冷えていた。いつからかは自分でもわからないが、もうとっくに心は決まっていたから。
「息子を助けるんだろ。俺だって、小さな子どもが危険に曝されてるなら助けてやりたい」
 ヒトミさん、あなたの子ならなおさら。それは言葉にならなかった。
 聡介が幼い日に望んだ光景を、子どもに見せてやるのも悪くない。
 助けてと伸ばされた手は、誰かが掴まなくてはいけないのだ。
「ちゃんと……話してくれないか」
 ヒトミは唇を嚙み、しばらく目を逸らしていたが、やがて決心したように顔を上げた。
「ソルを助け出せたら、三人で何かおいしいものでも食べよう。何がいいか考えとけよ」
「聡介……」
「あ……あんま、高い物は勘弁な」
「わかってるよ」
 ヒトミは泣き出しそうな顔で笑ったあと、静かな声で話し出した。
 彼女はリベラの王、ラルヴァの妻だ。
 二人は愛し合っていたのだが、ラルヴァはヒトミが生んだ子、ソルを強くするためだと言って奪い、引き離した。
 夫に裏切られたヒトミは少数の仲間と共謀し、ソルを奪還できる戦士を探すためにこの世界へやってきた。
 ヒトミは聡介を選び、変身できる身体を与えた。
 リベラが侵略を企んでいるというのも、この町が狙われているというのも、聡介を追い込むための嘘だった。
 聡介は長い息をつく。少し、ほっとしたのだ。
 状況が好転したわけではないが、少なくとも、この世界を侵略しようと大軍が押し寄せてくるということはない。
「で、肝心の息子は今はどうなってるんだ」
「ソルは……力を蓄えるためにフェルムという獣の中に閉じ込められているの。フェルムは元は臆病で大人しい獣だけど、無理矢理体内に子どもを宿されて、とても怒っているわ。いつ暴れ出してもおかしくない」
「どうやってそこに行けばいい?」
 なんといっても異世界だ。きっと遠いのだろう。店は臨時休業するしかないか。焙煎済みの豆は酸化してしまうだろうし、こんなことなら仕入れをセーブすればよかったな。
「えっと……。二丁目の緑地のあたり、かな」
「は?」
 二丁目の緑地といえば、商店街を抜けて五分ほど歩いたところだ。
 冗談か、何かを誤魔化そうとしているのかと思ったが、ヒトミの表情は真剣だった。
「わたしたちの世界はね、遠くにあるわけではないわ」
 そろりとヒトミの手が宙を掴もうとする。そこに透明な蝶がいるみたいだ。思わず、聡介もその指先の行方を見守った。
「ここにあるの。見えないだけ。層が違うと言ったほうがいいのかな。同時に存在しているけれど、通常は干渉し合わない。景色はこことはずいぶん違うけれど、いくつかの国があって、それぞれに暮らす者がいて、日々の営みがある」
 それは、ケロケロの話からなんとなく想像がついた。凶悪な魔物が蠢く世界ではないということ。
「ごく稀に歪みが生じると互いの世界に迷い込む者もいるわ。意図的にこちらにくる者もいる。わたしのように」
「干渉できないものをどうやって助けるんだ」
「こちら側へおびき出す。フェルムの好物で」
 ヒトミの表情が翳る。あまり簡単にいく話ではなさそうだ。
「フェルムが成長しきらないうちに、ソルと分離しなければいけない。そうしないと、フェルムはソルを取り込んで凶暴化するか、ソルがフェルムの力を吸収して心を失うか……どちらかよ。そうなったら、この町は本当に焼き尽くされてしまうかもしれない」
 イノ紳士の予言めいた言葉は、このことを指していたのか。
「で、そいつの好物ってなんだ?」
 細い指先が、そろりといつもしているチョーカーをなぞる。
 色っぽい仕草にドキリとしながら、ふと気づく。そういえば、彼女がこれを外しているところは見たことがない。
「ごめんね、聡介……」
 後悔を滲ませながらヒトミが告げた言葉に息を呑む。
 正直、恐ろしいと思った。だけど逃げ出したいとは思わなかったのが自分でも意外だった。
 信じるしかない。自分を。
 自分を選んだヒトミのことを。


 土曜日の午後、有馬がやってきた。ヒトミは有馬の顔を見ると、何も言わずにクリームソーダを作り出す。
 その間、有馬はリュックからフィギュアを取り出して、どこに置こうかと店内を見渡している。
「増えすぎだろ」
「そう? いい感じになってきたと思うけど」
 週末の度に増えていく。懐かしいものから新しいもの、聡介の知らないマニアックなものまで。窓際はすっかり、特撮ヒーローや怪人に占拠されている。
 しかしおかしなもので、一つ二つだと違和感しかなかったが、増えるに従って調和が取れていくような気がする。
 有馬の思うつぼなので口には出さないが。
 他の客が引けたのを見計らって、有馬は喜々とした様子で訊ねてくる。
「で! ソル君救出作戦はいつ決行なの?」
「……なんでそんな楽しそうなんだよ」
「暗くなったってしょうがないじゃない。それに、もうすぐ子どもと会えるんでしょ。よかったね、ヒトミさん」
「まだ何もしてねーだろ」
「……ありがとう」
「なんだよ、ヒトミさんまで。まだ何もしてねーって」
「本当に、感謝しているの」
 居住まいを正して、ヒトミはまっすぐに聡介を見る。目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
「聡介を騙して、利用してやろうとしていたのに、こんなわたしに協力してくれるなんて」
 しおらしくされると調子が狂う。ヒトミも自分の言葉に少し戸惑ったように視線を彷徨わせる。
「あ、わたし洗濯物入れてくる。もうすぐ雨が降るから」
 そう言ってヒトミは二階へ上がってしまった。
 窓の外は明るい陽射しに満ちていて、雨など降りそうにない。だけど、彼女がそういうなら降るのだろう。
「本当に同棲しているみたいだね」
「有馬まで何言うんだよ。居候だよ、居候」
 行くところがないと言う女性を放り出せるほど非情ではない。ただ、放っておけなかっただけだ。
「そこは聡ちゃんの気持ちで変わるんじゃないの?」
「なんで俺の気持ちで変わるんだよ」
「好きなんでしょ、ヒトミさんのこと」
「なっ―――」
 息が止まりそうになった。なんてことを言い出すのだ。
 バカらしい、バカらしい、バカらしい。
 頭の中で三回唱え、大きく息を吸う。
「は? はぁああっ? なんだよそれ」
 思いの外大きな声が出て、自分でも驚く。
「子持ちの人妻だぞ。しかも旦那は異世界の王様で、すごい強い怪物なんだろ。第一、ヒトミさんは身勝手で我がままで非常識で……俺のこと利用しようとして……」
 有馬はにやにやして聡介を見つめ、カウンターに身を乗り出す。
「それでも、恋は止まらないでしょ」
「なんだよ、気色悪いこと言うなよ。そういうの、柄じゃないって有馬が一番よくわかってるだろ」
「今までの自分じゃなくなっちゃうのが、本当の恋でしょ!」
「だから、やめろよ、そういうの。第一、もうそんな年じゃねぇって」
 恋愛に夢中になるような時期はとうに過ぎた。ある程度冷静に将来を見据えるのが大人の恋愛というものだ。
「年齢は関係ないよ! というか、大人になってからハマるほうがヤバいんだって!」
「楽しそうだな有馬……」
 この調子じゃ、何を言っても同じような返しをされそうだ。ちょっとうんざりして黙り込むと、有馬は急に真剣な顔になる。
「ヒトミさんはいい女だよ」
「そんなこと、わかって――」
 言い終わらないうちにカランとドアベルが鳴り、外の生ぬるい空気が流れ混んでくる。
 急に空模様が変わったようで、ヒトミの言うとおり今にも雨が降り出しそうなにおいがした。
 とりあえず、有馬との会話が中断されてほっとした。
 しかし、客の姿を見て聡介の表情は再び強張る。
「いらっしゃいませ……」
 入ってきたのは中年の女性で、髪を一つにまとめ、綿のシャツにグレーのパンツを履いている。どこかのオフィスにいそうなキリリとした雰囲気だ。
 大きめのバッグを肩にかけ、紙袋を一つ提げている。見覚えのある和菓子店のものだ。
 聡介は、ここの大福が好物だった。
 彼女はカウンターに紙袋を置き、少し怒ったような顔で聡介を見る。
「久しぶりね、聡介。全然帰ってきてくれないから、きちゃった。はい、おみやげ」
「母さん……」
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