第1話

文字数 5,228文字

 今年の三月下旬大学の卒業式があった。僕は朝早くからめざめシャワーを浴び、スーツに着替え会場へと向かうバスに乗った。
 あるバス停でバスが停車した時のことだ。奇妙な荷物を持った数人の学生が車内に乗り込んできた。人間ほどの大きさがある白い箱である。「もしかして」と思いながら視線をそっちにやるとその白い箱には目や口が書き込まれている。箱は僕がちょうど小学生のころに流行っていた、消しゴムを擬人化した児童誌の人気キャラを模していた。
 この学生らも卒業生である。なのにどうしてあんな箱を持ち込んでいるのか。答えは簡単だ。僕の通っていた大学――京都大学の卒業式において、卒業生によるコスプレは例年のように行われる一種の風物詩なのである。
 会場であるみやこめっせに着くと、やはりスーツや振り袖を着た学生の中に混じって、ゲームやアニメのキャラのコスプレをしている人が少なからずいた。気合の入っている者もいれば手抜きをして、ただの着ぐるみパジャマを着ている人などもいる。場の光景はなかなかに混沌としていたけれども式自体はちゃんと行われた。各学部の代表に卒業証書が渡されて、総長の言葉があって、それでおしまい。特別なことは何も起こらない。卒業式は相変わらずただのセレモニーのままだった。
 式の終了後まもなくして僕は実家に帰った。当然卒業式のことが話題となる。父はユーチューブのライブ配信で式を見ていたらしく、学生のコスプレについて「あれは自由をはき違えてるよなあ」と苦笑しながら言った。ああいった学生特有のノリがキライな母は無愛想な目つきで「なんだったの、あれ?」とポツリ。僕はあいまいにうなづきながらも、両親とは少しちがうことを考えていた。
 どうやら世間一般では、京大生というのは「変人」のイメージと結び付けられがちのようだ。京大は「自由の校風」を標榜する大学であり学生たちもフリーダムな人間が多いとされている。大学入試のたびにコスプレをさせられる折田先生像や奇天烈な立て看板の数々など、「変人集団京大生」を象徴する要素は数多い。けれどもそれは間違いだ。京大生の大半は変人ではなくただの常人である。あの卒業式は京大生の凡庸ぶりを象徴するものだし、「自由の校風」を体現するものでもない。むしろあれは不自由な感性の産物と言ってもいい。

 自分のことになってしまうが、僕はこれまで小中高を通して「変人」と扱われがちだった。別に僕自身は変なことをしているつもりはないのだが、周りから見るとどうも僕は異端者の側らしい。それで指をさされてバカにされる。しゃべり方だとか、ちょっとした仕草だとか、発言だとか、そういった点を細かくあげつらわれ笑い物にされるのは子どもには耐え難いストレスだったもちろん不愉快だから真剣に怒って抗議する。しかしこっちは大真面目でも、周りから見るとそれはピエロじみた滑稽な態度のようで結局僕はますますバカにされる。そんな僕はスクールカーストなんかも小中高と低めで、修学旅行の班決めの時などまあ中々悲惨だった。
 けれども、京都大学に合格してみると途端に立場が変わった。たとえば、成人式の際に帰郷した時などあつかいがまるで違ったりした。僕の地元は新潟、ようするに辺鄙な田舎である。町一番の進学校ですら東大京大に合格できるのは年に五人程度だ。すると掌返しということが起きる。僕は成人式後の同窓会において、昔僕のことを殴ったことがあるヤツから「オレ、お前のこと面白いって思ってたんだよ」と笑い混じりに言われたり、「おっ、京大生の○○さんじゃないですか!」となれなれしく話しかけられたりした。作り話ならここで僕が何か、ウイットの効いたことでもいってかれらを赤面させてやるところだが、現実にはそんなこと起きやしない。僕はただただ苦笑するばかりだった。
 昔小耳に挟んだ話だが、ある大学で調査を行ったところ、自分の大学のアメフト部が勝った時、その大学の学生は「うちのチームが勝った」と述べる者が多かったという。逆にアメフト部が負けた場合、「アイツらは負けた」と述べる者が多かったという。アメフト部からすれば腹が立つ話だろう。何も身銭を切っていない傍観者どもが随分と都合のいいことを言うものだと。僕も同じ思いだった。結局かれらは「常人」なのだ。かれらには他人を評価する芯というものがない。京都大学に受かる前と後で僕の何が変わったわけでもないというのに。
 人間は、「自分とは違う」とみなした存在について語るときしばしば独りよがりになる。尊崇するにしても軽蔑するにしても独善の気配がにじむ。僕がアフリカや東南アジアの未開文明を理想化して語る人に、しばしば軽蔑の気配というか、上から目線の雰囲気を感じ取ってしまう理由もそこにあるのだろう。方向は肯定に寄っているが、自分とは遠く離れた世界、自分とは違うものを都合よく取り扱っているだけだ。結局はただのエゴであり無理解にすぎない。
 そして常人と変人との関係にも似たような点がある。憧れと軽蔑、常人は変人にこの二種の感情を同時に抱きがちだ。もてはやす利益がない時は、しばしば軽蔑したりあざけったり優越感を噛みしめるための踏み台として扱う。しかし内心では「変人」という特別なポジションに憧れてもいる。白い羊の中に一匹だけ混じった黒い狼になりたがっているわけだ。だから隙さえあれば「変人」のマネゴトをして、「特別な人間」として自分を飾り立てようとする。注意深く観察すれば、常人のこういった心理の例には枚挙にいとまがない。「特別」になりたい、他から区別されたいという人間の欲求はそれほどにも強いものなのだ。
 在学時の経験からも言わせてもらうが、京大生の大半は常人である。多くの場合常人が変人のマネゴトをしているだけだ。件の卒業式のコスプレはその一例に過ぎない。例えば、もしあのコスプレをしているのがそこらのFラン大学の学生だったらどうか。SNSで袋叩きにされてもおかしくはないだろう。「国はこんな大学に補助金を出すな。税金の無駄だ」とか「日本の教育は地に堕ちた」だとか、そんな趣旨のコメントが殺到することだってありうる。しかし京都大学は日本で一、二位を争う偏差値の高い大学であり、「変人」のイメージが世間一般に浸透している。地元の同窓会での僕への掌返しはその一例だが、常人は能力のある変人に対し概しておもねりがちである。だから「流石京大生!」だの「自由の校風の体現」だの妙な具合にもてはやす人が出てくる。しかし本質を掴んだ評価とはいえない。偏差値のバリアがあって、昔から何度も同じことが行われており浮くことはない、警備員につまみだされることもない、これだけ安全保障がそろい、ようやく卒業式の一日だけ変人のマネゴトをすることができる。どう考えても変人に憧れる常人の所業である。
 本物の変人ならいちいちそんなの意識しないたろう。むしろ変人といわれる人で能力のある人は、生真面目な人間が多いというのが僕の印象だ。逆に常人が変人の素振りをすると、そこには大抵うすら寒いおふざけの雰囲気が混じる。養殖ものの臭みがにじみ出てくる。
 
 少し話は変わるが、近ごろ僕がハマっているバンドに神聖かまってちゃんというものがある。バンド名から察しがつく人もいるかもしれないが、サブカル色強めのエキセントリックなバンドだ。例を挙げると「友達なんていらない死ね」だの「花ちゃんはリスかっ!」だの曲名の時点でかなりキテレツなものが多い。しかし僕はこのバンドには養殖ものの臭みを感じない。むしろ表現者らしい純粋な魂の熱を感じることの方がずっと多い。
 もう少しこのバンドについて説明しようと思う。バンドの中心人物である「の子」氏は双極性障害をわずらっているとみずから発言している。実際の子氏の行動には躁鬱じみたところがある。全裸になったり流血したり放尿したり、無許可の路上ライブをして警察にしょっぴかれたり、極めつけはテレビ番組に出演した際ナルトを口から吐き出しカメラにくっつけたりと、奇行にまつわるエピソードは枚挙にいとまがない。かと思えば、ライブ中にもかかわらず突然何もしゃべらなくなったり、壮絶なリストカットの画像をネットにアップしたりと鬱的な傾向をのぞかせもする。このようにの子氏はかなり不安定な精神の持ち主であり、またそのためか小中を通しイジメにも遭ってきたそうである。この少年時代の陰惨な体験の数々は作曲にも反映されており、「イジメ」、「自殺」、「友達」といった言葉はこのバンドのキーワードと言ってもいい。
 しかし、たとえば死生観が直接歌われた曲「僕は頑張るよっ」などになると、そこに現れる死生観はむしろ平凡といってもいいものだったりする。奇をてらった感じはなくむしろ自然体のまま思いを吐き出しているといった印象だ。だからだろうか、神聖かまってちゃんの表現は時に、流行りの曲のいちいち気の利いた歌詞などよりもずっと素直に共感できるものだったりする。一見キテレツでもその背景には表現者としての真剣な叫びがあると直感できるのだ。もちろんの子氏本人にも目立ちたがり屋な一面はあるのだろうが、まさかうすっぺらい自己顕示欲だけでナルトは吐き出せないだろう。このバンドは自然体のまま「変」なのである。
 神聖かまってちゃんの例に限らず、一見ヘンテコなものでも真剣に作られたものならばそれはしばしば人の胸を打つ表現となりうる。現代アートなどその代表例だろう。ピカソの絵をラクガキにしか見えないという人もいるが、あれらの作品の大半はむしろ既存のコンテクストの限界を越えようという真摯な努力の産物である。旧態依然とした秩序を破壊し、更新しようと試みた作品が前衛性を帯びるなんて当然のことだろう。しかしそういった精神に疎い人間、表現者の魂の熱というものを知らない人間からするとそれは理解に値しない稚拙な作品ということになる。そういった作品がロクに評価されていないならともかく、世界的に有名だったりするとかれらは自分の感性を否定されたような気分になり、時に芸術家の仕事全体を攻撃するような言葉を吐いたりする。僕はこういう人間が嫌いだ。僕を否定してきた「常人」たちと同じタイプの人間だからだ。

 しかしどうにも近ごろは、魂の熱に欠けた軽薄な「表現」がいたるところに蔓延しているようだ。SNSなどを見ているととくに強くそう感じる。なれ合いの中でしか面白さが保障されていないセンスを崇め奉る無数の畜群。隠そうとしても隠しきれない旺盛な自己顕示欲と承認欲求。作り手が真剣な努力の末生み出したオリジナリティを、ネットミームという形で呆れるほどの早さで消費してしまう大勢の「消費者」たち。かれらは自分独自の価値や感性を誠実に鍛えようとはしない。今ウケている、流行っている感性や言い回しをせっせと模倣するばかりだ。そして感性や発言という人格の映し鏡ともいえるものを軽佻浮薄なもので埋めつくしてしまう。京大生の変人アピールにもこれと似たきらいがある。メディアなんかが作り上げた「変人集団京大生」のイメージにのっかるばかりで新味のある創造性など欠片も感じさせないのだ。件の卒業式におけるコスプレも結局は既存の秩序の中にすっぽり収まってしまっていた。警備員からつまみだされる学生なんてひとりもおらず各種メディアで廉価で消費されるばかりだった。これでは既存の秩序の破壊と更新など到底起こりようもない。
 京大の現総長である湊総長はあの卒業式で、現代の情報過剰社会における「批判的精神」の肝要を学生に説いていた。あの「批判的精神」とは、自分の力で物事について考え、上辺に惑わされることなくたしかな正しさを見極める精神のことだ。それはもはやひとつの生き方といってもいい。誰にもいずれは死が訪れる。そして死という最大の実存の前では、軽薄ないつわりなどあっという間に吹っ飛んでしまう。その時頼りになるものとは、それまでの人生で積み重ねてきたたしかな重みを持つものはずだ。だからこそ僕は自分の意志で行き先を選び、誰かのせいにせずひとりで身銭を切り、幸も不幸も誠実に受け止める、そういう「人間らしい」生き方を尊重したいのである。
 実をいうと僕は、大学を卒業した今でもどの職場にも就職していない。バイトをしながら友達といっしょに漫画を作ったり、この文章みたいに作文をしたりしている。道は遠いがいずれはそれで飯を喰っていきたいとも思っている。それがやりたいことだったのだ。京大を卒業してフリーターなど、地元の連中が知ったらもう一度掌返しを喰らうかもしれない。しかしそれならそれでいい。やり直しが効く若いうちに挑戦しておきたい。「自由」とは本来そういったもののはずなのだから。「批判的精神」のもと、自ら選び取っていくはずのものなのだから。
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