第1話 琥珀色の魔法

文字数 1,988文字

 会社から解放されると夏の夕方のモワッとした空気に包まれ、美咲の心は折れそうになっていた。美咲にとっての夏、それは海でもなければ山でもない、琥珀色(こはくいろ)の親友と語り合う季節だ。人はひとたびこの琥珀色の魔法にかかると、誰しもが彼との友情を(はぐく)みたくなるものだ。ただ、気が付くと三十代半ばの美咲のおなかは、かなりの危険ゾーンに突入していた。この年の美咲にとって木曜日は、週末をとことん楽しむための休肝日であった。
 美咲は、「全ては週末のため、今日は我慢よ!」と自らの心に発破(はっぱ)をかけて、駅までの道を歩いた。
 電車に乗りこむと、歩いていた時より増してこれでもかと汗が噴き出して来た。すると、眼の前にバーベキュー場の広告がこれみよがしに掲示されていたことに気づいた。広告の中の男性は、何とも美味しそうにジョッキを斜めに傾けていた。美咲は、何でこんなに美味しそうに撮れるのかしらと、思わず目を奪われた。
「駄目よ、駄目、美咲。こんな誘惑に負けているようでは!」美咲は自分にそう言い聞かせ、先日から気になっていた動画を見ようとスマホを開いた。すると、「糖質ゼロなのに〜 このコク、この切れ味!」と美咲が今シーズン最もハマっている商品のCMが流れた。
「もう、何でこういう時に限って、スキップまでの時間が長いのよ」
 美咲の心はもうかなりのダメージをくらっていた。
 (しばら)くして美咲の前の席が空き、彼女はゆっくりと腰を掛けた。ふ~っと一息をつき、今どこら辺か確認するため頭を上げると、今度はオクトーバーフェストの予告広告が飛び込んできた。「あ~っ、もうすぐこの季節がやってくるのね。もう待ちきれないわ!じゃない、美咲!」美咲は心の中で自分に突っ込みを入れるが、もう限界が来ているのは火を見るより明らかであった。
「そう、こういう時は瞑想(めいそう)よ。さぁゆっくりと目を閉じて、今日一日の出来事を思い返して…… 」美咲は、自分に言い聞かせながらゆっくりと今日一日のことを思いだした。ところが浮かんできたのは、中島のお客様からのクレーム対応だった。休暇の中島に代わって応対し、お客様対応は満点だったものの、おかげで午前中は自分の仕事がなに一つできず、ちょっと苛立(いらだ)ちを覚え昼休みに入ったのだ。そして追い打ちをかけるように、前に立っていた若い二人の会話が耳に入ってきた。
「よお、久しぶり。いつ以来だ。」
「前は花見だったっけ? 今日も暑いし、ちょっとだけ行かないか?」
「いいねぇ、俺、駅前の居酒屋で学生時代にバイトしていたから、サワーは一杯サービスしてもらえるぜ。」
「サワーかぁ。でも、こんな暑い日はやっぱり。」
「だよな。乾杯はとりあえずアレでしょ!」
 美咲を乗せた電車は、美咲の心がノックアウトされゴングが鳴り響いた瞬間、最寄りの駅に到着していた。
「ごめんなさい、私の肝臓さん。お願い今日は約束を破らせて。来週は水・木と連休にさせてあげるから。」
 美咲は、そう(つぶや)くと駅前のスーパーに駆け込んだ。そう、飲むと決まれば、次はおつまみの準備だ。夏に欠かせないのは枝付きの枝豆。同じ枝豆でも袋入りとはワンランク違うこの季節だけの宝物。そして、鶏ムネ肉の細切(こまぎ)れとネギ、キムチを買い物かごに入れ、足早にセルフ会計に進んだ。

 美咲は家に帰るやいなや、グラスを2つ冷凍庫に投入した。
「よし、こっちの準備は万端。あとは……」
 枝豆は、両端を切り落とし、塩もみをして大量のお湯で茹で上げる。出来立ての姫たちをじっくりと冷ましている間に、ムネ肉の細切れとネギを炒めて最後に魔法のスパイスをササッと一振り、このスパイスが親友にはまるで双子の兄弟のように途轍(とてつ)もなくマッチするのだ。
「よし、最強のおつまみ完成! あとは……」
 美咲は、エアコンを消して窓を少し開け、カーテンを閉めた。琥珀色の友には、少し暑いくらいの気温がちょうどよいのだ。
 そして、明かりを少し落としてから、美咲は(おもむろ)に服を脱ぎだした。美咲にとっての最高の贅沢(ぜいたく)、それはキンキンに冷えたグラスに注いだこの琥珀色の魔法を誰にも気遣いすることない一人の部屋で真っ()で飲み干すことだ。
 さらにこの贅沢に一味つけるのが、黄金比率3割の泡。たとえ、四十路の足音が近づいて来た美咲であっても、外ではこの泡が生みだす白い(ひげ)が付いた顔を他人に見られたくはない。そう、たった一人のこの空間であれば、たとえ裸であろうと髭が生えていようとお構いなしだ。
  「あ~っ、最高!! やっぱり、夏は真っ裸にビールよね!! 実家じゃこんなことできないし、まして結婚、子供なんていたら絶対にできない至福の時間よ!」
 この琥珀色の魔法は、午前の仕事上の嫌なことも誘惑に負けた弱い自分の心も全てを泡とともに消えて失くしてくれるのだ。
 美咲の部屋からは、「プシュッ」という合図とともに新たな魔法が冷えたグラスに注がれていくのであった。
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