家族の成り立ち
文字数 4,637文字
由佳里の父親が経営している寿司屋に、俺と由佳里はやってきていた。一〇席のカウンター席しかない、こぢんまりとした寿司屋だ。築地で長く営業している老舗であり、常連客だけで経営はなんとか成り立っているらしい。
最奥の席で、俺と由佳里は刺身の盛り合わせを摘みながら熱燗を飲んでいた。会社から遠くはないので、由佳里とサシで軽く飲むときはここにやってくるのである。どうせお金を落とすなら、由佳里の実家で落としてやった方がいい。
それに由佳里のオヤジさんは腕も良く、この店の食材のレベルは相当に高かった。俺は美食家ではなく、牛丼だろうがコンビニ弁当だろうが何でも食べるが、これでも幼少のころから最高峰の料理人や食材に囲まれてきて舌は肥えている。その俺が美味いと感じるのは結構なレベルということだ。
あのな、俺はちっとも富豪じゃねーぞ。家も賃貸だし、貯金だって由佳里とそんなに違いがあるとは思わない。オヤジから出してもらった金は大学の学費だけで、学生時代の生活費だってバイトして稼いできた。実家と俺はまったく違う。
だけど現金で持ってるわけじゃない。大半は株と不動産になってるわけだから、俺の家族は、お金持ちだなんて実感を誰も持っちゃいないよ。株だって、うちが支配権を維持するためには換金できない性質のものだ。自由に動かせる金は、実はそんなにない。
由佳里は本気で言ってくれたようだったので、俺も真摯に状況を説明してやりたいと思った。それに俺たちの仲で、隠し立てするようなことでもない。だが、どうやって説明してやればいいだろうか。俺は悩みながら口にしていく。
由佳里の答えに、俺は憚ることなく腹を抱えて笑った。しきりに富豪と庶民とを区別する由佳里を奇妙に思っていたのに……一〇万円という庶民的な発想に思わず吹きだしてしまったのだ。
いいよ。笑うところだ。ちょうど俺には欲しくてたまらないゲームソフトがあってな。それが三九八〇円だったんだ。俺が喜び勇んで差し出した小切手を、オヤジは哀しげな面持ちで見下ろしてた。そのオヤジの顔を、俺は今でも覚えてる。……器小さいと思うだろ? 今振り返れば俺も思うよ。反論ねーよ。俺は本当に三九八〇円を貰ったよ。その時は嬉しくて、金を握りしめてゲームソフトを買いに行ったんだ。
それからこんな話もある。俺が高一、悠斗が中一のとき、オヤジ名義の一〇〇〇万円が入金された証券口座を渡された。オヤジは言った。『三ヶ月間、この金を自分で運用して増やしてみろ』とな。オヤジなりの、子供に対するテストのようなものだったんだろう。
忘れもしない、為替取引だ……。子供だから加減を知らなくて、たった一取引に全開でレバレッジをかけててさ。日銀がなぁ……日銀が突然介入したんだよ……。そして俺は大損だ。高校生ながらに、心臓が止まる寸前だったんだぞ。オヤジに告げるのが怖くて……証券会社が追証を要求してくるまで隠してた……。それが余計にオヤジの怒りに触れちまって……。
俺はうなだれて続ける。
俺は熱燗を呷り、うんざりして続けてゆく。
俺たち家族には、こんな逸話が山ほどある。一日じゃ語り尽くせないほど、山ほどだ。……ああ、わかってるよ。俺がオヤジから邪険にされるのは当然なんだ。そしてオヤジはそれをハッキリした態度で示すようになってきて、俺も反発し続けるようになっていた。オヤジはわざととしか思えないほど、俺と悠斗を差別した。今だから客観的に状況を振り返ることができるけど、子供の頃の俺は怒りの持って行き場がなかったんだ。オヤジが憎くて憎くて堪らなかった。今でもやっぱり、俺はオヤジが嫌いなままだ。できれば二度と顔も見たくない。正直、俺とオヤジの仲は一朝一夕には語れない、もはや修復不可能なものなのさ。
話を聞いてると、それ、実力の有る無しじゃなくて、個性の問題に過ぎないと思いますね。本当に。なんか、先輩の方が個性が尖ってて、本当は弟さんより、ずっと秘めた実力を持っているのかもしれませんよ? そんな気がしました。
そんなみっともないことを俺はしない。端金なんて幾らあっても大したことはないんだ。それよりも、富裕層に囲まれて過ごしてきたからこそ、自身の能力や人の縁の方がはるかに重要だってことを、俺はこの目で見てきたよ。だから俺は悠斗と事を構えるようなことはしない。オヤジや悠斗に助けを求めるようなこともない。俺は俺の力で、彼らと対等に向き合っていくつもりさ。
……うーむ、風格ですねぇ。その辺の成金っぽい男の人とは違います。私、これでもお金のある男の人に結構言い寄られますけど……先輩と比べれば全然ダメに思えてしまいます。目先の財力をこれ見よがしにチラつかせて女の子の歓心を買おうなんて、情けないったらありません。……あーあ。先輩と会わなきゃ良かったのに。どうしたらいいんでしょうね!
他のお客さんに寿司を握りながらも、俺と由佳里のやり取りに耳を傾けていたのだろうか、店主である由佳里のオヤジさんが俺たちの話に割って入ってくる。
由佳里は子供のように、箸で食器を打ち鳴らし始めた。少し酔いも回っているのだろう。
ひたすら申し訳なさそうにしつつも、オヤジさんは由佳里に江戸前穴子を握ってやった。寿司ゲタからはみ出すほどに大きい穴子を、由佳里は嬉々としながら一口でほおばった。
この親子のやり取りをみていて、しみじみと感じる。うちの家庭とはまったく違う。この親子の温かいやり取りを、心底から羨ましく思った。