真夜中のクラゲ

文字数 1,842文字

 ――目が覚めたら、今日も夜でした。
 薄いカーテン越しに、夜中特有の静寂と湿った闇夜の空気が伝わってきます。私は半開きの目を軽くこすり、手探りで電気をつけました。明かりが灯っても、決して温もりはありません。いつものことなのです。私は、毎日、一人ぼっち――。
 去年のことでした。私は会社に通いながら育児に追われ、多忙ながらも充実した毎日を過ごしていました。しかし、ある日突然、目の前の現実はあまりにも酷く冷たい仕打ちを私に与えました。……子供の突然の病死。旦那との確執の果ての離婚。精神を病んだ末の退職。私は、それから毎日、家の中で過ごすようになりました。
 ああ、私なんて、死んでしまえばいい。何回願ったことでしょうか。私の人生に、果たして意味などあるのでしょうか。あんなに愛していた我が子……、どうして私が生き残っているのでしょうか。
 涙なんて、もう枯れました。両親の声は私には届きません。私の声も両親には届きません。私はこの真っ暗な夜に呑み込まれて、息もできずに苦しんで、もがいて、溺れて死んでいくのでしょうから。
 そんなことを考えていた時、ふと薄暗い窓辺に一筋の光が見えました。車のライトではありません。また、懐中電灯の様な人工的な明かりでもありませんでした。それはなにか温かみのある優しい光でした。
 私は起き上がってカーテンを開けてみました。そこには、無数の青白い光が浮かんでいるではありませんか! 窓を勢いよく開けると、冷たい空気が夜とともに流れ込んできました。あっという間に、私の部屋は夜となり、そして私は宇宙に浮かぶ星屑の様に深々と闇に同化していきました。
 光の正体は、なんとクラゲでした。そうです、あの海にいるクラゲです。月の光を反射して、青白い光を放ちながらふわふわと空中に浮いているのです。
 幻覚でしょうか。いえ、間違いありません。夢でもありません。どう見てもクラゲが、たくさんのクラゲが夜の空中に浮いているのです。まるで水族館に来ているみたいな不思議な光景。クラゲは青白い光を放ちながら、空を自由に泳いでいました。
 ゆらゆら、ふわふわ、ぷかぷかと流れに身を任せ、幻想的に優雅に泳ぐクラゲ。昔水族館で見たときに、私はそのあまりの美しさに時間を忘れて眺めたものでした。
 いったい、このクラゲたちはなんなのでしょうか。この風の冷たさは現実に間違いありません。肌が痛くなるほどの冷たさは、現実でなければならないのです。
 私はただ月明かりに照らされて浮かんでいるクラゲを眺めていました。すると、一匹が私の近くまで漂ってきました。私はそっと、手を伸ばしてみました。
 ビリッ! クラゲが指先に触れたその瞬間、私の体に電気が走りました。「痛っ」と声が出そうになりましたが、その前に私の頭の中に映像が流れ込んできました。それは、私がまだ小さかった時の思い出でした。お母さんにお菓子をねだっている私。そんな私をなだめているお母さん。横には、その様子を見て笑っているお父さんがいました。ああ、そういえばそんな時もあったなと思っていると、気がつけば痛みはもうありませんでした。
 クラゲには、毒がある。すっかり忘れていたけれど、この現象も毒のせいかしら?
 さっきのクラゲは触れた瞬間に消えてしまったようです。私は恐る恐るもう一匹に触れてみました。また電気が走ると同時に、過去の思い出が目の前に広がります。嫌がる私をあやしながら保育園に連れて行くお母さん。仕事から帰ってきてビールを美味しそうに飲むお父さん。小学校。友だちとのケンカ。泣いて帰ったあの日。楽しかった遠足。寝不足の修学旅行。両親に反抗したひと時。振袖に腕を通した家族写真。上京。就職。結婚。出産。愛。離婚。そして死別――。
 思い出の中で、我が子が私に言いました。
「お母さん、産んでくれてありがとう」
 クラゲの毒は私の全身に染みわたりました。きっとそのせいでしょう。夜空が滲むほどの涙が溢れてしまうのは――。
 気がつけばクラゲはあと一匹しか夜空に浮かんでいません。私は少し考えました。もう、思い出を見る必要なんてないのです。おそらく最後の一匹は現在の私を写すでしょう。でも、もう大丈夫。私はこんなにも幸せを感じられているのです。幸せに傷つくなんて、なんて嫌味な毒なのでしょう。涙腺が痺れて仕方がないではありませんか。
 私は静かに窓を閉めました。最後の思い出は、未来のためにとっておこう。そうだわ、今度、家族で水族館に行こうかしら。
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