第1話
文字数 2,045文字
落陽が早くなり始めたころ、仕事の都合で、大学時代に下宿していた町に寄った。約15年ぶりということで、下宿していたおんぼろアパートも、小綺麗に改装されて名前が変わっていた。だが、近くにあったチェーン店の居酒屋は昔の様相のまま、とりのこされたかのように残っていた。夕日も沈みかけてきていて、私は一杯やって行くことにした。
入ると、むわっと見えない肉煙に包み込まれ、目に染みた。懐かしい。脂ぎったべとべとの地面、不思議な覇気をもつアルバイトの学生。そこはほとんど、若いあの頃の情景そのままだった。
カウンター席に案内された。目の前で、鳥の油が網の下に落ちた。ジュッと鮮やかな炎と共に、香ばしい匂いが上がった。網は黒く炭を纏っている。私の記憶では、もう少し銀ピカに輝いていたように思う。
そういえば、人生で初めて、お酒を飲んだのもここだった。
せっかくなのでかつて飲んだ酒を頼もうと思ったが、思い出せず、結局生を一つと、焼き鳥を何本か頼んだ。
艶やかに照る皮のタレを一口食い、口に残る油を流し込むようにビールを飲む。喉が心地よい音を放つ。
何を飲んだかは思い出せないが、初めて飲んだ時の苦さは覚えている。私は真面目で、20になるまで酒を飲んだことがなかった。ところが今は飲まない日はないと来ている。
肉汁たっぷりのつくねにかぶりついた。そういえば、つくねを豚のひき肉か何かと思っていたころがあった。なんと物を知らない若者であったか。また、酒が進んだ。
ビールを飲み終えたころ、がやがやと若者の一団が入ってきて、私のちょうど後ろのテーブル席に座った。
私はにやりとした。会話から、それらが私の後輩であるとわかったからだ。
私は映像系の大学に通っていた。そこでは、後輩が先輩の映画撮影を手伝うというのが長年の伝統で、その打ち上げで、先輩は後輩におごるというのもまた伝統だった。
私はハイボールと、焼き鳥丼を頼んだ。私はおごられる時は、決まって焼き鳥丼を頼んでいた。ハイボールもその時に先輩におごられて好きになった物だ。
「どうも、皆ありがとう。本当におつかれさまでした。乾杯!」
と控えめな声で若者が言った。いかにもインドアそうな彼が今回の監督らしい。「乾杯」と若者達はカラッとした大声でジョッキを掲げ、一斉に飲み、うまそうなため息を漏らす。私はこっそりハイボールを数ミリ掲げた。
それから、彼らはいかにも若者の悪ノリといったように、沢山の焼き鳥や、から揚げ、鍋を机一杯に頼み、頼みながら、その匂いだけを刺身に酒を何杯も頼んでいった。
彼らの代わりに食べるつもりで、私は焼き鳥丼をバクバクと口に入れた。べたっとした白米と、練り飴のようなタレがいい具合に口の中で練り合わされてうまかった。
「コンペに間に合いそうか」「この作品なら優秀賞とれる」などの言葉が聞こえた。どうやら、自主制作映画の打ち上げだったらしい。
若者達の声が、重く耳にのしかかる気がした。
私は、その時ようやくハイボールに口をつけた。レモン臭のげっぷが、鼻から抜けて、少し苦かった。
一度だけ、私も監督をやったことがあった。
二年生の時、自主制作映画でのことだ。
ただ、私は、夢見る映画オタクでしかなかった。夢だけで現場が回せるものではない。仲間達からは、それはたいそう文句を言われたものだった。
「へたくそ! 二度とすんな!」
と酔った仲間から言われた。
それから、私が監督をやることはなかった。今も、映画制作に携わる身だが、そんなことを考えられる立場ですらない。
ハイボールを一気に飲み干した。げっぷに苦みはなかった。私はまた、今度は小さく、口角を上げるほどでにやりとした。
「へたくそ監督! 二度とやんな!」
ビクッとした。
ちらりと見ると、金髪の若者が、インドアの若者に言ったらしい。かなり酔っているようで、顔がランプの様に紅潮していた。
インドアは、彼も酔っぱらっているようだった。赤目に涙を浮かべた。
私は、きまり悪く、残った泡を啜り、次は何を飲もうかとメニューに目を向けた。
突然、ガーンッと店内中に音が響いた。
店内中が音の方向を見た。
インドアだった。インドアがジョッキをテーブルに叩きつけたのだ。
インドアはぽかんとした顔でいる金髪の方を向いて、
「また、やるけん! ワイはえいきゃが好きなんや! だからまたやるけん! ずっとやるけん!」
と言った。
インテリはまたも冷静な若者達が押さえつけた。しかし、インテリは、「またやる、えいきゃ……」とずっと呟いていた。赤ら顔で嬉しそうにとろけた顔で。
ふと、建付けの悪い箪笥がパッと開けるように、初めて飲んだ酒を思いだした。
届いたそれは、全くの濁りけのない、透き通った液体だった。
焼酎。あの時、選んだ理由は、「日本人だし」とかいう適当な理由だった気がする。
一杯の焼酎をゆっくり、ゆっくりと、舌の先で感触を確かめるように飲んだ。
苦かった。
大いに私はにやりとした。
入ると、むわっと見えない肉煙に包み込まれ、目に染みた。懐かしい。脂ぎったべとべとの地面、不思議な覇気をもつアルバイトの学生。そこはほとんど、若いあの頃の情景そのままだった。
カウンター席に案内された。目の前で、鳥の油が網の下に落ちた。ジュッと鮮やかな炎と共に、香ばしい匂いが上がった。網は黒く炭を纏っている。私の記憶では、もう少し銀ピカに輝いていたように思う。
そういえば、人生で初めて、お酒を飲んだのもここだった。
せっかくなのでかつて飲んだ酒を頼もうと思ったが、思い出せず、結局生を一つと、焼き鳥を何本か頼んだ。
艶やかに照る皮のタレを一口食い、口に残る油を流し込むようにビールを飲む。喉が心地よい音を放つ。
何を飲んだかは思い出せないが、初めて飲んだ時の苦さは覚えている。私は真面目で、20になるまで酒を飲んだことがなかった。ところが今は飲まない日はないと来ている。
肉汁たっぷりのつくねにかぶりついた。そういえば、つくねを豚のひき肉か何かと思っていたころがあった。なんと物を知らない若者であったか。また、酒が進んだ。
ビールを飲み終えたころ、がやがやと若者の一団が入ってきて、私のちょうど後ろのテーブル席に座った。
私はにやりとした。会話から、それらが私の後輩であるとわかったからだ。
私は映像系の大学に通っていた。そこでは、後輩が先輩の映画撮影を手伝うというのが長年の伝統で、その打ち上げで、先輩は後輩におごるというのもまた伝統だった。
私はハイボールと、焼き鳥丼を頼んだ。私はおごられる時は、決まって焼き鳥丼を頼んでいた。ハイボールもその時に先輩におごられて好きになった物だ。
「どうも、皆ありがとう。本当におつかれさまでした。乾杯!」
と控えめな声で若者が言った。いかにもインドアそうな彼が今回の監督らしい。「乾杯」と若者達はカラッとした大声でジョッキを掲げ、一斉に飲み、うまそうなため息を漏らす。私はこっそりハイボールを数ミリ掲げた。
それから、彼らはいかにも若者の悪ノリといったように、沢山の焼き鳥や、から揚げ、鍋を机一杯に頼み、頼みながら、その匂いだけを刺身に酒を何杯も頼んでいった。
彼らの代わりに食べるつもりで、私は焼き鳥丼をバクバクと口に入れた。べたっとした白米と、練り飴のようなタレがいい具合に口の中で練り合わされてうまかった。
「コンペに間に合いそうか」「この作品なら優秀賞とれる」などの言葉が聞こえた。どうやら、自主制作映画の打ち上げだったらしい。
若者達の声が、重く耳にのしかかる気がした。
私は、その時ようやくハイボールに口をつけた。レモン臭のげっぷが、鼻から抜けて、少し苦かった。
一度だけ、私も監督をやったことがあった。
二年生の時、自主制作映画でのことだ。
ただ、私は、夢見る映画オタクでしかなかった。夢だけで現場が回せるものではない。仲間達からは、それはたいそう文句を言われたものだった。
「へたくそ! 二度とすんな!」
と酔った仲間から言われた。
それから、私が監督をやることはなかった。今も、映画制作に携わる身だが、そんなことを考えられる立場ですらない。
ハイボールを一気に飲み干した。げっぷに苦みはなかった。私はまた、今度は小さく、口角を上げるほどでにやりとした。
「へたくそ監督! 二度とやんな!」
ビクッとした。
ちらりと見ると、金髪の若者が、インドアの若者に言ったらしい。かなり酔っているようで、顔がランプの様に紅潮していた。
インドアは、彼も酔っぱらっているようだった。赤目に涙を浮かべた。
私は、きまり悪く、残った泡を啜り、次は何を飲もうかとメニューに目を向けた。
突然、ガーンッと店内中に音が響いた。
店内中が音の方向を見た。
インドアだった。インドアがジョッキをテーブルに叩きつけたのだ。
インドアはぽかんとした顔でいる金髪の方を向いて、
「また、やるけん! ワイはえいきゃが好きなんや! だからまたやるけん! ずっとやるけん!」
と言った。
インテリはまたも冷静な若者達が押さえつけた。しかし、インテリは、「またやる、えいきゃ……」とずっと呟いていた。赤ら顔で嬉しそうにとろけた顔で。
ふと、建付けの悪い箪笥がパッと開けるように、初めて飲んだ酒を思いだした。
届いたそれは、全くの濁りけのない、透き通った液体だった。
焼酎。あの時、選んだ理由は、「日本人だし」とかいう適当な理由だった気がする。
一杯の焼酎をゆっくり、ゆっくりと、舌の先で感触を確かめるように飲んだ。
苦かった。
大いに私はにやりとした。