お酒が飲みたくなる話

文字数 1,992文字

 老若男女が混ざった奥の六人掛けテーブル席で「乾杯!」とビールジョッキが合わせられ、空席のテーブル二つを間に挟んだ窓際のテーブル席では大学生風の男女が向かい合って自己紹介が交わされていた。カウンターの片隅では女が酔い潰れて「ちっきしょう」と呻いていた。
 黒ずんだ店内の壁を覆い隠すように古い映画ポスターが貼られていた。
 カウンターの内側で初老のマスターがストゥールに座って電子本に目を落としている。店内には会話の邪魔にならない程度の音量で、天井に吊るした二つのスピーカーから映画音楽が流れていた。
 客席では立て掛けられたタッチパネルのメニュー端末で注文を受けていた。テーブル席は密着した壁穴から、カウンター席は目の前の厚みのある間仕切りの穴から、コンベアで配膳され、飲み終えたグラスや食べ終えた皿を空の膳に載せれば下げられる。メニュー端末で確認できる勘定は、座ったままでスマホでキャッシュレス決済が可能だった。カウンターに置かれた金色の現金レジで支払いたい時だけ、マスターを必要とした。
 マスターが目を上げ見回すと客がいなくなっていた。電子本を閉じると、座ったままの椅子が壁際までゆっくりスライドして目を閉じた。扉が自動施錠されると同時に、店の照明と二階の店へ上がる外階段手前に置かれた電光看板が消灯した。

 今夜は海外観光客が占めていた。カウンター席ではラテン系の男二人が、襟首を掴み合い口論し出した。殴り合いになる寸前で彼らの立つ床が開き、二人は叫び声と共に落ちて行った。
「アメイジング!」テーブル席からスマホで争う姿を動画撮影していた金髪の女性が興奮気味に呟く。早速、ネットにアップロードする操作をする。顧客は青や緑や灰色の目を大きく見開いて、クレイジーとかブラボーとか言い合って騒いでいる。
 マスターが手にしている電子本は英語表記のMENUに変わり、タッチ操作で店内レイアウト図から騒ぎのあったブロックを選択して、CLEAR+2と選んでORDERボタンを押したあとだった。
 店内の喧騒が遠のき、様々な言語での談笑に戻った。店外に排出された男二人は階段脇の路肩に伸びていた。
 表の看板に「お酒を飲みたくなる店 HEAVEN&HELL」と赤い文字が明滅している。

 店のバックヤードにある厨房では、ロボットアームとマシンが調理や盛り付け、食器洗浄に稼働していた。業務用冷蔵庫に納まった食材や棚に並んだ酒瓶は、一階の搬入口にある小さなエレベータで引き上げられる。食材の余りや残飯、空瓶の搬出もそのエレベータが使用された。一階では老人が運搬やゴミ出し作業を担っていた。一階の半分は老人の居住スペースだった。酒屋や市場への買い出しには店の軽自電車を利用していた。
 その晩、老人が遅い夕食を済ませてテレビを見ながらくつろいでいると、店から高いアラート音が断続的に聞こえた。外階段を上り非常灯が点いたままの店に入ると、マスターが中途半端な位置で静止していた。カウンターに入り丸椅子の足下のレールを点検すると、リップスティックが挟まっていた。取り除いてから柱に設置されたブレーカーを押し上げる。リセットが掛かったマスターが椅子ごと壁際までスライドした。溜息をついた老人の表情が苦痛に歪んで崩れるように倒れた。
 背後にカウンターで酔い潰れていた女が立っていた。スタンガンを手にしている。女は現金レジを乱暴に開けて札だけを抜き取り、店を飛び出ようとした。扉はロックされて解錠できない。
 女が振り返るとマスターがこちらを見ていた。テーブルの椅子の背を両手でつかみ、扉に向かって振りかぶる。と、立ち位置の床が抜けて女の悲鳴と共に姿が消えた。
 しばらくして目を覚ました老人が外階段を下りると、路肩に足を投げ出して気絶している女のそばに、ラテン系の男が二人立っていた。彼らは一瞬身構えたが、路上に散った札を拾い集めた男の一人は、嫌らしい笑みを浮かべて老人に手渡した。太い腕と手の甲は毛むくじゃらだった。もう一人の男が女を軽々と担ぎ上げて振り返らずに去って行った。店に戻った老人は乱れた店内を直してから、出て行く際にマスターに頷く。彼は手にした電子本と目を閉じた。店が暗闇に落ちた。

 珍しく老人がカウンターでビールを飲んでいた。更に珍しいことにマスターが瓶で酌をしていた。老人が七十歳の誕生日だった。閉店後だったので、正しくは誕生日の翌日だった。
 もう一人いた。酔い潰れた女である。彼女は何も悪びれることなく、いつもの時間に現れていつものカウンター隅で突っ伏していた。マスターが膝の上に置いた電子本を操作する。BGMの音量が心なしかいつもより大きくなり、スタンド・バイ・ミーの曲に切り替わる。マスターはアルコールの代わりにオイルを一口飲んだ。喉に潤滑油が流れ込み、ベン・E・キングの声色を真似て歌い出す。
(了)
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