六の上、琥珀嗚愚璃潘虞闇(コハクノオグリハングァン)

文字数 3,176文字

 庁の西門からユウヅツたちの痕跡は続いていた。それは道幅いっぱいの轍と、真ん中のか弱げな足跡だ。轍も足跡も泥濘るんだ道にはっきりと残っていたので、暗い夜道でもよく分かった。クサビはそれを頼りにユウヅツを追うことにした。
 行く道で僧侶に出会った。遊行寺の者だという。ユウヅツのことを聞くと僧侶は笠の中から言った。
「そなたの娘御は、巨大な泥の山を積んだ土車を一人で曳かされておった。土車から荒縄が伸びて娘御の首に巻き付けられていての」
 続けて、
「あまりに不憫であったので、拙僧が泥の山に『ひと引き引いたば千歳供養、ふた引き引いたば万歳供養』と書いた札を立てておいたので、奇特な御仁がおれば助けてくれよう」
 と言う。クサビは僧侶にお辞儀して別れると先を急いだ。
 ユウヅツの曳く土車の速度が速いのか、それともクサビの出立が遅かったのか、全力で駆けているはずなのにまったく土車に追いつかなかった。
 それからクサビは夜通し駆け、時に轍を見失いかけては道の上をはいずって探し、見出してはユウヅツが曳く土車を追いかけた。やがて当たる風が冷たくなり、あたりが明るくなってきた。振り返るとすでに東の空が白み始めていた。道の上に目を落とすと足跡とともに血痕が点々と残っている。クサビが遅れれば遅れるほどユウヅツの身が危うくなってゆく。
 それからしばらく行くと前方に木々が鬱蒼と生い茂る山塊が迫って来た。足柄(あしがら)山、関東平野の西端にたどり着いたのだ。
 山中は昼にもかかわらず暗く静謐に包まれていた。足柄の山道にもユウヅツの足跡と土車の轍は続いている。だんだんとユウヅツに近づいているのが分かった。ところが山中に踏み入れてよりクサビはなかなか歩が進まなかった。それは不思議な感覚にとらわれていたからだ。それはこの轍が今できたものなのか、ずっと以前にできたものなのかが分からないというものだった。さらにありえないことだが今よりもずっと先の世にできたとさえ思えてきていた。そのために、クサビは少し歩いては立ち止まり、これはいつの轍なのかを考え、また歩き出して少し進み、またいつできた足跡なのかを考えては立ち止まった。
 それでもクサビにはユウヅツが目と鼻の先にいることがわかっていた。それは深い森の中から漂う土気のせいだった。嬰天が発する饐えた強い臭気が近くにある。それはおそらくユウヅツが曳く土車の匂いなのだ。
 暗がりの中から男の低い声がする。
「わがてるて」
 女の澄んだ声がする。
「わがつま」
 男の声は耳に覚えがなかった。女のそれはユウヅツの声に他ならなかった。ただそれは、嬰天を共に狩ったときのでもない、局室でのどかに過ごした秋の日のでもない、あの薄原の童女のころのでもなかった。それよりもずっとずっと遠くから聞こえてくる声なのだった。ユウヅツに声などなかったはずなのに。
 その時、暗闇の中で何かがうごめきだすのをクサビは感じた。それがクサビの足元ににじり寄ってきて心をかき乱そうとする。クサビは咄嗟にそこを飛びのき息を整えると、激しく首を振って気づきかけたことを打ち消した。
「そんなはずはない」
 と。
 クサビは土気にむせびながらさらに激しい刺激に向かって歩を進めた。この強烈な土気の近くにユウヅツがいるはずだ。はやく助けねば。思いは募るがなかなか土車に追いつかない。クサビは
「あの時のようにまた、見捨てて帰るというわけにはいかない」
 と、心に念じるのだった。
 その時、暗闇の中からぼうっと女が現れた。それはユウヅツとも違う、長く美しい髪をした姫だった。そして女は
「母上、お戻りください」
 と言った。それはたしかにユウヅツの声だった。
「ユウヅツ、母はお前を連れに来た」
 しばらくの沈黙の後、再び女はユウヅツの声で、
「できません。この人を連れて行かねばならぬのです」
 と言った。
「お前が連れているのは嬰天だ」
 再び、しばし黙して女が言う。
「知っています」
「ならば、なぜ」
「わがつま、夫だからです」
 こんどはクサビが沈黙した。間をおいて言った。
「お前は裳着も済んではいない。夫などあろうはずもない」
「それは、薄野にて母上にお会いしてからのこと。それ以前はこの御方の妻だったのです」
「あの時まだ童女であったではないか」
「そうではありません。もっともっと遠くのことです」
 クサビは、女が言う遠くという響きに眩暈を覚えた。
「遠く」
 それは、走り隷に応召するずっと前、襤褸をまとって巷を徘徊していたさらに先のことのようだった。ぐっと沈んだ女の声が言った。
「母上、まだ思い出されませぬか。私です。照手です。あなたの娘です」
 クサビの心魂が「もっと遠く」へ引きずられてゆく。足柄の暗き道が相模川の土手道に変わる。
 河原を見渡す土手の上から処刑の列を見つめていた。陽はすでに沈みかけ西のそらは茜色に染まっている。川からの湿った風がクサビの額を撫でて行く。
 西から下ってきた狼藉者と契って家名を汚した娘の照手を、先に誅戮した狼藉者に殉じさせよとの夫の命で、一行は相模の河原まで来たのだった。見届け役を自ら申し出て、クサビはうら寂しいこの川辺にいた。さぶらいが鬼鹿毛の手綱を曳いて川中に進む。深みに行くにつれ牢輿が水没してゆく。牢輿の中の照手も水につかってゆく。いよいよ天蓋が水に没するとき、照手が何か叫んだがその声は川風が攫っていった。
 時が相模川の流れのようにゆったりと進む。西の空は深紺に代わり、噴煙を上げる不死の山のはるか上の一つ星が強く瞬いてやがて消えた。
「照手は死んだ」
「そうです。照手は死にました。しかし、嬰天は私を再び母上に引き合わせてくれました。薄野で照手は母が来るのを知って、わが身の嬰喰を放ちました」
「野盗に追われていた」
「あれは生き残ったわがさぶらい共です。突然現れた嬰喰が照手とは知らずに護らんとしていたのでした。しかし」
 クサビがそれを遮って言った。
「母の嬰喰が飲み込んでしまった」
 女はうなずいて言った。
「おかげで、照手は再び母上の娘になることができました」
「母が憎くはないのか」
「何故?」
 女は不思議そうな顔をした。
「お前を見殺しにしたと」 
「母上も照手もあの時はああするより仕方なかった。そうではありませんか」
 あれよりほかに術などなかった。男の作った取り決めに従い生きながらえてゆく。三界に宿無し。いつの代もそれが女に課せられた生き方だ。そうは思ってもクサビの心魂にはわずかに悔悟がわだかまっている。それはなんだ。
「母上の劈開をお示しください」
 女の声は甘く、クサビの心の襞ににじり寄てくる。これまで知られることのなかった劈開に迫ってくる。快感がわが身の底から湧き上がるのを感じる。それは震えるような、どこかにつれ行かれるような快感だった。解徐の瞬間に嬰天が放つ愉悦を想う。しかしそれにあらがう自分があった。なんとしても心魂をわがうちにひそめることを願った。
 気づくとクサビは泥の中にひざまづいていた。山道の真ん中で肩を落とし、二度と立ち上がれぬほどの疲労を体中に感じて。見上げるとあの女が立っていて、その背後に小山ほどもある土くれがそびえたっている。上人が立てた札が卒塔婆に見え、まるで土饅頭のようだった。そしてその頂点に大きな目玉が浮いている。その目玉には瞳が二つあってクサビのことをギロっと見つめていた。あの狼藉物の瞳に違いがなかった。
 女もまたクサビのことを見つめていたが、しばらくすると血の色の唇を開くと言った。
「どうか母上の心魂をお示しください」
 そして女と嬰天は足柄の闇の中に消えていった。
 クサビはそれを追おうと足を踏み出したものの抑えがきかず、どうとその場に倒れ伏してしまった。クサビの意識は遠のいてゆき、そのまま深い眠りについたのだった。


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