第13話 心地良さからの冷たさと…
文字数 6,712文字
久しぶりに開く家のピアノを前に、あたしは硬直していた。
伴奏の練習は学校で済ませちゃうし、高校に入ってからは家でピアノすら弾いていない。鍵も掛けられたままで調律の時以来だ。鍵を開けるのも触れるのも。
「おお!本当にピアノあるし!!」
鍵を開けゆっくりと蓋を開くと見慣れた鍵盤が露わになる。見慣れているはずなのに酷く懐かしく感じるのはやはりこうしてちゃんと見ていなかったからか…
有沢伴は嬉々として椅子に座り適当なリズムで鍵盤を叩き始めた…
ポーンポーンと広くはない室内にそれは力強く響いている気がした…
有沢伴の形の良い長い指は綺麗で、彼によって弾かれ生み出される音は酷く明るい…リズムは適当なのに…
やがて適当なリズムはちゃんとしたメロディーへと変わっていく。何かを思い出しながら弾いているのだろう、途中途切れ途切れになりながらもそれは今の有沢伴の表情そのものだった。
楽しそうに明るく奏でられている…たどたどしいメロディーなのにあたしは何故かそれが心地良く懐かしく思えた。
「…あたしがちゃんと弾いてあげるから。」
「お?やる気満々じゃん?」
「う、うるさい…!」
有沢伴があまりにも楽しそうに弾くからあたしも弾いてみたくなったなんて絶対言えない。
立ち上がり面白そうにあたしを見つめる有沢伴を無視し、入れ替わるよう椅子に腰を下し、鍵盤に手を添える…
確か…さっきまでこいつが弾いていたのって……
「♪~」
伴のうろ覚えの歌声を聞きながら、あたしは記憶を辿り思い出したその曲を弾き始めた…
そうだ、この曲…昔お母さんが歌っていたジャズの楽曲で…
イースト・オブ・ザ・サンだ…
小難しく意味の解らない英語の歌詞で、でもそのメロディーも歌声も心地良くてあたしは大好きだったんだ。
それに合わせて初めはたどたどしく、そして徐々に慣れて上達していくその感じが…
「♪~」
微かに横から聞こえる歌声…
気づけば有沢伴があたしのピアノに合わせて歌っていた。
それはあの時聞いた英語の歌詞で…
あたしはその意味を無い知恵絞って少しだけ調べた事があったのを思い出した。
後から知る。その歌がラブソングでジャズシンガーによってよく歌われている事に…
「♪~」
有沢伴の歌声はテレビで流れている歌声とは違い低くそして少しだけ色っぽい…まるで耳元で囁く様なそんな…
けどどうしてだろう…あたしはやっぱり拒否反応を起こさず、逆にそれが心地良く耳に響いていく…
あたしの演奏で有沢伴が歌っている…なんだかそれも不思議だけど…
「スッゲーじゃん!お前本当にピアノ弾けたんだ!」
「う、嘘ついてどうするのよ…!てかあんたもちゃんと歌えたのね…」
一曲歌い終わると、有沢伴は目を輝かせあたしを見ていた。
や、やめて!!そんな目であたしを見ないで!!
そんな拒否反応はあったものの、やはり投げ飛ばしたりはせず…
なんだか久しぶりに気持ち良くピアノを弾くことが出来た気がする…
悔しいけど、きっとそれはこいつの歌声のおかげなのかもしれない…これがアイドルの実力って奴か!?
「なぁ!次はさ…」
「ちょ、ちょっと待った!まだ弾くの!?」
「駄目なの?俺もっとお前のピアノ聞きたい。悔しいけどお前上手いじゃん。なんでもっと弾いて沢山の人に聞いてもらおうとしないんだよ?」
「…そ、それは…あたしは別にそんな気はないし…」
「…ま、いいけどさ。でも俺は勿体ないって思うけど?今俺お前のピアノに合わせて歌ってたらスゲー気持ち良かったんだよな…」
「は、はぁ!?そうやってからかって…あんま調子乗ってるとドロップキックするわよ?」
「からかってねーよ!てかなんでお前はそうアグレッシブな方向へ持って行くんだよ!!」
「う、うるさい!!」
「はいはい…でももう一回だけ頼むな。こんな気持ちで歌ったのなんかスゲー久しぶりな気がするんだよ、俺。だから…お前のピアノが俺を…人気アイドル有沢伴を救うんだって思ってさ!」
「余計プレッシャーだわ!!本当調子良い奴だな…」
その後、結局あたしは有沢伴にねだられもう一曲弾くこととなった。本当迷惑な話である。
そして悔しいのは…その歌声に惹かれてしまったと言う事とずっと聞いていたいと思ってしまったことだった。
本当……最近のあたしはやっぱりどうかしている……
『そりゃ…恋の病なんじゃないのかな?』
紫乃さんの言葉が蘇る…
『少なくとも意識しているって事…』
い、意識…?あたしが?あ、あいつを!?
恋の病って…あたしが有沢伴に?
まさか、ありえない!!やっぱりない!!ありえない!!
*****
「俺、そろそろ家に帰るわ。」
「え?」
有沢伴がそんなことを言ったのは梅雨も明け、ついでに月も替わった七月の夜の事だった。
「何で急に…そりゃあんたがいようといまいとどうでも良いけど…」
「そう言って…やっぱ寂しいんだろ?」
「ふ、ふざけんな!そんな訳ないでしょ!!死んだってありえないし!!」
ニヤニヤ顔で、顔を覗き込む有沢伴を見て殴りたくなった。勿論堪えたけど。
確かにいつまでもここで暮らすわけにもいかないだろう。そもそもあたしの有沢伴への拒否反応を治そうって言う目的で暫く一緒に過ごすって話だったし。
すっかり慣れてしまった今、有沢伴がここに留まる理由はない。そしてあたしが彼をここへ留める理由もない訳で…
って留めるって…なんであたしがこいつを!?
むしろこう言ってもらって清々するくらいじゃない…!!
「あたしもすっかり慣れたし…あとはぶっつけ本番って事で良いんじゃない?」
「いや、そこで提案なんだけど…」
「何?」
「お前俺の家に来ないか?勿論下心とかそんなのは全く無い…」
「あったらとっくに窓から投げ捨ててるしね。」
「投げ捨てられてたの!?」
「…それで?なんでいきなりそんな事?」
「…いや、俺お前の家にばっか行ってなんか申し訳ないって言うかさ…もう最近じゃ馴染み過ぎて居心地良いし…花屋の手伝いなんかしちゃってるし…」
「手伝いは有り難いけど…別にそんな事気にしなくても良いって。むしろあんたの家にあたしが行ったらやばいでしょ?有沢伴の自宅な訳だし…」
「いやぁ…それが全くバレてねーんだよ。大家さんですら俺だって気づかないし…」
「どんだけオーラ無し男なの!?」
「無し男言うな!!大家さんみかん箱ごとくれる良い人なんだぞ!」
「別に大家さん馬鹿にしてないわよ…てかみかん箱ごとって…どんだけ貰ってんのよ…」
「みかんは果物の王様だ…ドリアンでもマンゴスチンでも無い…みかんこそ庶民の王様!美味なる果物!!」
「どんだけみかんに愛情あるのよ!!まぁ、あんたのみかん事情はどうでもいいけど…」
本当はちょっと気になるけど…そのみかん愛とか家にどんだけみかんのストックあるのかとか…
有沢伴はまさにオレンジジュースを飲みながら熱くみかんについて語り出した。図解なんかしながら。
こいつ意外と絵上手いな…みかんゆるキャラみたいで可愛いし…
「…というわけで、みかんはな…って聞けよ!!」
「あんたみかんみかんうるさい!!正直どうでもいい!」
「お前、みかん…いやおみかん様はだな!!」
「だからみかんどうでもいい!!」
なんなんだこいつ…みかんの事になると本当面倒臭いな。今度からみかんネタ出さないようにしよう。
アイドルの意外な好物愛を知ってしまったあたしは少し引いた…あの有沢伴が目の前でみかんみかんて崇めてる姿に…
「まぁ、みかんはどうでもいいけど…本当どうでも…」
「みかんはな!」
「みかんみかんうるさい!!」
「…すいません…」
「で?何でいきなり『家来ないか?』なわけ?その真意は?」
「…それは…光代叔母さんがやって来る…」
「は!?」
「ほら!お前やっぱ怒るし!!だから嫌だったんだよ!!知らず知らず直前まで黙っててぶっつけ本番が一番いいかとごふっ!!」
直後、あたしは素早く有沢伴を制裁した。踵落としの刑と言う目から花火が出るだろう恐ろしい刑でもってして。
ぶっつけ本番ってこいつ自分から頼んでおいて、あたしにここまで協力させておいてどういうつもりなの!?
「あたしがここまで努力して来たのは何の為よ!?新様のサイン…いやあんたの為でしょうが!!」
「…いや、新ちゃんのサインの為だろ?」
「そんな事はどうでもいい!!とにかくあたし騙してやり過ごそうとしたその根性が気に入らない!クズ!!あんたほんまもんのクズやわ!!」
「なんで関西弁!?い、いや!!ちょっと落ち着けって!!頼むから!ホールドしないで!!蕾!つ~ちゃん!!蕾さん!!蕾様!!」
「やかましい!!黙って卍固めされろ~!!」
グギギギギ!!
あたしは怒りの卍固めを有沢伴に決めた。やめろと懇願するのは当然無視して。
こうしてその日は結局アグレッシブなプロレス技を有沢伴に掛けるだけ掛けて終わったのだ。
その翌日は何度かメールやら電話が来たけど全部無視した。面倒くさいから。それにまだ怒ってるしあたし。
折角良い奴だって、中々凄い奴なんだって見直してたのに!!やっぱり最低だあんな奴!あたしの事信用してないって事じゃない!!最低!!
と、怒り冷めやらぬ日中…しかし慌ただしい学校生活に追われ(先生からのお説教とか補習の勧めとか先生からの説得とか)夕方になるとあたしの心はすっかり落ち着いていたのだった。
カランコロン♪
「いらっしゃい、蕾ちゃん。今日も勉強頑張れよ?」
「うっ…聡一郎さんまで嫌な事を…」
放課後、あたしはいつもの様に金木犀へと向かった。勿論受験対策為、成績アップの為紫乃さんに家庭教師をしてもらう為に…
紫乃さんはボランティアだからお金はいらないよって笑顔で言っていたけど…合格したら何を要求して来るか…考えると怖い。落ちても怖いけど。
「待ってたよ、蕾ちゃん!今日も逃げずによく来たね。」
「…紫乃さん…ちょっとやつれてません?今日中止にします?」
いつも発するキラキラ爽やかオーラに今日は少しだけ疲労感が混じっている。髪にもちょっと寝癖ついてるし…
そっか、紫乃さん締め切り前なんだ…。山川賞とかいう文芸では凄い賞受賞しちゃってから取材なんかも増えてるみたいだし…
忘れていると思うのでここで改めて説明しよう。紫乃さん事如月紫乃はただの大正ロマンスタイルのコスプレお兄さんではなく、東雲青嵐という名の幻想和風怪奇小説家でもある。そして本業は祓い屋さんと言う胡散臭い人でもある。
東雲青嵐と言う作家は謎のベールに包まれプロフィールから顔写真まで全て非公開…それでも読者は彼の文章に惹かれる。高い人気を誇る非常に素晴らしい作家先生…と言うのが一般的に知られている。
が、ここ最近その謎に包まれたベールが剥がされた。山川賞受賞式という公式な場にて…あの爽やか素敵スマイルと奇妙な和装スタイルのイケメン好青年が全国のお茶の間に晒されたのだ。
しかし紫乃さん…こんな恰好にこんな性格のくせに目立つのは嫌いなのだ。今回の賞も担当さんに頼み込まれて受けたらしいし…。なんでも泣き落としされたとかなんとか。
当の本人は腹黒いが作家界の頂点になんていう野望も欲も全く無い。ただ趣味と実益を兼ねた物語を書ければ良いのだと…書けなくなったらそれまでだと爽やかに言ってるし。
まぁ…長くはなったが…そんなこんなで紫乃さん。うっかり泣き落されうっかりテレビに映ってしまったが為多忙な日々を送っていた。本屋の方も噂を聞きつけたファンが終日やって来るとか。それはいいが、ストーカーされそうになったとか嘆いていたし。
そんな中でもお馬鹿なあたしの勉強を見てくれる…有り難い話だと思う。結構なスパルタ教育だけど。
「可愛い蕾ちゃんの為だし大丈夫だよ。君の合格通知を見ないと俺も安心出来ないしね…」
「ああ…な、なんか今にもどっか行きそうなんですけど!?」
「大丈夫大丈夫…ははは…」
ああ、紫乃さんが…あの紫乃さんが何か壊れてる…
と、気の毒に思ったのは一瞬。その後は紫乃さんによるスパルタ教育であたしは泣く泣く色々な知識を頭の中に詰め込まれた。
「…そう言えば…蕾ちゃん、伴君とはどうなった?彼元気?」
思いの外集中していたあたしは気づいたら閉店間際まで金木犀にいて、聡一郎さんが用意してくれた遅めの夕食を取っていた。
すると…さっきまで笑顔の怖い鬼と化していた紫乃さんが穏やかににこやかに尋ねて来たのだ。怖い鬼の部分は消え去っているが胡散臭い事この上ない。
「…ふん!きいへくりゃひゃいよ(聞いてくださいよ)!!」
「うん、取りあえず食べてからにしようか。というか…また何かあったの?君達?」
分かっているくせに…紫乃さんめ…
この人は心配してか面白がってかやたら有沢伴とのその後の過程を知りたがって来る。
こんな爽やか素敵スマイルを浮かべている時は…絶対面白がってるんだけど…
「…紫乃さん、緋乃と一緒に夕飯食べなくて良いんですか?」
「あ!聞いてくれる?緋乃ったら酷いんだよ…。お兄ちゃん放っておいてむめ乃さんのお店でバイトして夕飯食べて帰って来るんだ…好物沢山作って待ってるのにさ…」
「緋乃の好物って確かパフェとかマカロンとかですよね?紫乃さん作れるんですか!?」
「妹の為ならお兄ちゃんは努力するから。もう作り過ぎてさ、最近じゃご近所さんにお裾分けしてるんだよね…あ、蕾ちゃんもどうぞ。」
「ど、どうも…って何このクオリティーの高さ!?お店で売っている物みたいに美味しいんですけど…」
「俺上達するの早いからね。」
さすが紫乃さん…でもそんな器用さが腹立つわ…
マカロンは絶品だけど…
カランコロン♪
そんな時だった。閉店間際、お客さんもいなくなった店内に突然その人がやって来たのは…
「すみません、もう閉店…ってあなたは!?」
珠惠がそう言って来客を見るなり固まった…
目の前には有名なあの人がいるのだから無理はない…
あたしも硬直していたのだから…色々な意味で。
「…君、宮園蕾さん?」
その人は珠惠を見ると乙女なら誰でもとろけてしまうような笑顔を向けた…
それはテレビで見るものと同じ…そしてこの溢れ出るイケメンアイドルオーラ…どっかの誰かとは比べ物にならない。
「い、いえ!あたしはここの者で…つ、蕾ちゃんならあちらに…」
「そっか、ありがとう。すみません、ちょっとだけ席を外して頂いても良いですか?彼女と大切な話があるんです。」
硬直するあたしを一瞥し、珠惠と聡一郎さんを見て笑顔で穏やかにそう言った人物は間違いなくあのAZUREの九条時であった。
ああ…な、何か嫌な予感がする……
そして…気持ち悪くなって来た……うう……
「すみませんが彼女に何か?いくら君が芸能人だろうと理由も分からずに二人きりにする訳にはいかない。彼女との関係は?」
「いえ、会ったのは今日が初めて…いや、正確には二度目になりますね。話すのは初めてですけど…」
「じゃあ尚更…一体何の用だ?」
と、ここでしっかりと事情説明を求めるのは聡一郎さんだ。元刑事だけあって冷静だが迫力がある。
しかしそれに臆することなく穏やかに答える彼も彼で凄い…
「…まぁまぁ、聡一郎さん。俺が同席しますから。」
「あんたじゃ余計心配だが…」
と、ここで名乗り出たのはやっぱり紫乃さんで…あたしはまだ何も言えずにいた…。
「彼が何を話しに来たのか…俺なら大体察しが付きますし事情も知っていますから…」
「どういう事だ?」
「まぁ、そこは俺が話す訳には…。とりあえず、ここは俺に任せて席を外して頂けませんか?お願いします。」
頭を下げ、紫乃さんは穏やかににこやかにお願いした。
あの聡一郎さんに向かって…
「…わかったよ…。行くぞ、珠惠。」
「え?う、うん…」
「…何かあったらあんたも許さないぞ…いいな?」
と、去り際に鋭い視線を紫乃さんに投げつけると聡一郎さんは珠惠を連れて店の奥へと消えて行った。
残されたのは…あたしと紫乃さんとスターオーラ全開の九条時の三人…。
何なの?この面子…??そしてこの状況…??
逃げ出したいのを堪え、あたしは九条時を見た…
そして彼も…真っすぐあたしを見ていた。
変わらず穏やかな表情で…
「さて…邪魔がいなくなった所で…単刀直入に言う…」
「…な、何でしょう?」
「…伴とはもう関わるな。」
さっきまでとは違うゾッとするくらいの冷たい瞳…
そして冷たい声…
目の前の九条時は冷酷にあたしにそう告げたのだった。
あたしは…まだ固まって動けずにいた…
金縛りにあったように…