第1話

文字数 4,139文字

   1

 俺がバイトからアパートに帰ると、俺がいる。俺はベッドに寝転がって、ポンコツ芸人のコントを、へへへ、へへへと、IQの低さ丸出しな笑い声をたてながら観ていた。
「勤労、ご苦労」
 寝転がっている俺――まぎらわしいので俺2号とする――は、帰ってきた俺――こっちが俺1号だ—―に視線を一瞬だけ投げ、偉そうに言った。
「なんか、おまえ、むかつく」
 俺1号はスニーカーを脱いであがると、はずしたマスクを丸めて2号に投げつけた。2号はそれを右手で打ち返す。
「きたねえな」
「俺がしてたマスクだろ」
「おまえは俺じゃねえんだよ」
「でも、おまえは俺だろうが」
 2号と不毛な言い争いをしていても、苛つきが募るだけだ。

 いつから俺が2人に増殖したのか、実ははっきりと覚えていない。気がついた時には俺1号と2号がいて、さらに事態を複雑にしているのが、1号と2号の意識が時々入れ替わることだ。1号だった俺はある時、1号の記憶を持ったまま2号になり、そこでは2号の記憶もまた俺のものになり、そうしてしばらく2号として過ごしていると、ふいにまた1号に戻る。戻った時には、そこまでの記憶とともに、俺が直近で2号だった間の1号の記憶もまた俺のものになるのだ。
 そうして俺1号の記憶と俺2号の記憶は組紐でも編むかのように、混然一体となり、それでいて今現在の意識と記憶はやっぱり別物で、でもやがて、今は過去になり、1号と2号で共有されていく。

 いっそ単純に1号と2号に増殖したのであれば、別々の2人の人間として生きていくことも出来たのだろうが、記憶と意識の組紐状態のため、それもまた難しい。だから、一人が外に出ているときには、一人は必ずアパートに残ることにしている。
 俺1号は冷凍庫から冷凍パスタを取り出し、外袋を切って中を取り出し、電子レンジに放り込む。それから、缶酎ハイ。
「おまえ、で、愛実ちゃんを誘えたのかよ」
 2号が相変わらず寝転んだままで聞いてくる。
「うるせえ」
「どうだったんだよ」
「そのうち、意識が入れ替われば分かるだろう」
「なんだそうか、結局、誘えなかったのか」
 2号がバカにしたように鼻で笑った。
「今日は客が多くて忙しかったんだよ」
 俺は中古リサイクルショップで週4で働いている。愛実ちゃんはそこのバイト仲間だ。大学2年なので、俺より2つ年下ということになる。
 俺は大学で上京したが、志望校には入れず、モチベーションは上がらなかった。むしろライブハウスでのバイトが面白くて、大学はさぼりがちになった。そのままどんどんバイト中心になっていき、結局、大学は2年で中退した。
 ただ、去年、コロナ禍になると事態は急変した。ライブハウスでは人員整理をせざるをえなくなり、俺はあっさり職を失ったのだ。
 さして貯金があるわけでもなく、さすがに俺は焦った。
 それで、端からバイトを応募しまくり、結局、いまのリサイクルショップに落ち着いたのだ。時給はほぼ最低賃金で、資金的には全然楽にはならない。なにしろ、働いている俺は1人なのに、メシを食う俺は2人いるのだ。もっとバイトを増やしたいのだが、リサイクルショップ側にニーズはない。だから、もう一つ、別のバイトを入れようかと思案している。
 俺が愛実ちゃんを誘いにくいのには、こうした俺の経済面、それから多分、「引け目」という精神面での現状もある。
 電子レンジの温め時間が終わり、チンと知らせてくる。
 俺はテーブルの皿にパスタをあけ、生卵を落としてかき混ぜる。格安スーパーで買ってきた128円パスタ。卵は10個98円のパック。意外と美味い。美味いが、しかし。
 テレビでコントが終わり、音楽番組に変わる。流行りの曲だ。誰だっけ? ミュージシャンの名前が出てこない。なんだか、同じところを、ぐるぐる回っている感じの曲だ。
 新型コロナウイルス感染拡大による自粛は、いわばトンネルだ。ワクチンも出来たし、いつか、このトンネルを抜ける日は来るのだろう。そうなれば、また、ライブハウスの仕事にも戻れるかもしれない。
 でもその一方で、俺はうすうす気づき始めてもいる。
 そもそも、コロナ禍になる前だって、俺はライブハウスで、所詮は単なるバイトに過ぎなかった。バイトのシフトは深夜も含めて随分と入っていたけれど、俺にはこれといった技術もなく、知識もなく。
 あのライブハウス、ほとんど個人経営だから、きっとコロナが無くなっても正社員なんか雇わない。
 あー、俺は何をしたいんだったっけなあ。
 パスタを啜りながら、思いを過去に飛ばす。
 何か、やりたいこと、あったんじゃないかと。
 でも、そんなもの、無かった。
 高校の時には、ただ単に東京に出ようと思っていただけで。
 それ以上のものは、無かったのだ。
 ベッドの上で、俺2号が居眠りを始めたようで、気持ちの良さそうな寝息が聞こえてくる。


   2

 俺が2号に入れ替わり、数日たった夜。
 まさに3食昼寝付き、いや、晩飯を早めに食べて、そのあとうつらうつら、夜寝を楽しんでいた時、慌ただしく玄関ドアが開いた。
「おい!」
 帰宅したての俺1号が俺2号に言った。
「やばいぞ」
「なんだ、どうした?」
「愛実ちゃんが来る」
「いつ?」
「もうあと30分くらいで」
「マジか」
 さすがに俺2号は飛び起きた。
「何でそう言うことに」
「それは、今度、入れ替わった時に確認してくれ。今は時間がない」
「どうしろって言うんだよ」
「悪いが、部屋を空けていてくれ」
 それを聞き、俺2号は怒りで眠気が吹っ飛ぶのを感じた。1号も結局は俺なので、2号の俺にも、1号の考えていることが手に取るように分かった。
 1号は、俺が2人いることを愛実ちゃんに伏せておいて、それでこの部屋でチャンスがあればと思っている。せめてキスくらいはと。
 もちろん、2号の俺としては、1号ばかりに、そんなおいしい身勝手を許すわけにはいかなかった。
「ダメだ」
 俺2号は断固として言った。
「俺はここから動かない」
「おいおい」
 1号は揉み手でもしそうな勢いだった。
「分かるだろう、俺。こんな、俺が2人いるなんて、愛実ちゃんに知られるわけには」
「だが、それはダメだ」
「いいじゃないか。どうせ今度入れ替われば、愛実ちゃんとの記憶はおまえの記憶にもなる」
「それでも、ダメだ。記憶はしょせん、過去のイメージだ。ナマじゃない。ナマの感触じゃない、それは生きちゃいない、死んでる」
「なあ、頼むよ」
 1号が2号を立たせようと引っ張る。
 俺2号は断固、立たない。
「おい、いいのかよ、こんな、2人いるところを見られても」
「それでも仕方ないな」
「だって、うまくいけば、この先、おまえが愛実ちゃんとデートすることだって出来るんだぞ」
 たしかに、それは魅力的な話ではあった。
 1号に先を越されはしても、いずれ、2号の俺にもチャンスはある。そこで、さらに先に行ってやる。そこで、1号を出し抜いてやればいい。
 今日は仕方ないか。
 愛実ちゃんを誘うことに成功した1号に花を持たせるか。
 だが。
 インターフォンが鳴った。
「愛実です、着きましたあ」
 玄関ドアの向こうから、愛実ちゃんの声が聞こえたのだ。
 俺2人は顔を見合わせた。
「どうすんだよ、早えよ」
 罵る俺2号に、
「とにかく、とにかくだ。俺が出る。おまえは風呂に隠れていろ。それで、俺は愛実ちゃんを連れて、外へ行く」
 了解するしかなかった。
 俺は、薄汚れた部屋着のままで、スマホだけ持って風呂場に逃げ込んだ。明かりも消したままにしておいた。
 玄関の開く気配。
 話し声。
 風呂場のドアをきっちり閉めてしまったので、何を話しているかまでは聞こえない。
 二人の会話は3分くらい続いただろうか。
 やがて、玄関ドアが閉められ、外から鍵をかける音が響く。
 用心のため、それから数分は風呂場で待ち、それでようやく部屋に戻った。
 蛍光灯は点けっぱなしだったが、テレビは消えていて、妙にがらんとして感じられた。
 俺は何だか気が抜けて、ひとつ、ため息をついた。
 折り畳み椅子に座る。
 この、訳の分からない生活は、この後、どれだけ続くのだろう。
 俺はどこへ向かっているのだろう。
 それとも、どこへも向かってはいない、のだろうか。
 急に、1号の声が聞きたくなった。俺が俺を恋しく思うわけもない。そうではなくて、俺は置いて行かれそうな不安に襲われたのだ。1号が、1号だけが、愛実ちゃんと一緒になって、唯一の俺になって、2号の俺は消滅していきそうな、そういう不安に、俺の脳のすべてが埋め尽くされたのだ。
 だから、俺2号はスマホで俺1号に電話をした。
 愛実ちゃんとデート中であるのは分かっている。だから、電話には出ないかもしれない。それでも、居ても立っても居られなくなって、俺は電話したのだ。
 そこで。
 予想外のことが起きた。
 スマホから聞こえてきたのは、
「この番号は現在使われておりません」
 という冷たいメッセージだった。


   3

 それで、俺の不安は爆発した。
 もう、ダメだった。
 俺は部屋着のままで、玄関ドアを開けた。
 まぶしかった。
 太陽の光だ。
 何だと?
 今は夜のはずじゃないか。
 1号がバイトを終えて帰宅して、それで、愛実ちゃんがすぐに来るといって、それで……。
 ――ありえない。
 こんなの、ありえない。
 だが、俺2号を包んだのは、まぎれもなく、真昼間の陽光なのだ。
 俺は目を細めながら、アパートの外廊下を歩いた。
 何が起きているのか、俺にはまったく分からなかった。
 俺は夢遊病者のように階段を降り、道に出た。
 季節は春のようだった。
 ええと、春で合っているのか?
 なんだかもう、さっきまでの記憶が曖昧なのだった。
 だんだん、目が明るさに慣れてきた。
 目だけじゃない、体のすべてのパーツが、外に慣れてきた。
 外の空気はおいしかった。
 俺は両手を広げて、大きく深呼吸した。
 もう一度、1号に電話をした。
 使われていませんのメッセージ。
 SNSで、1号を呼び出そうかとも考えた。
 でも、止めた。
 俺はスマホを放って捨てた。
 もう、どうでもいい。
 1号のことも、愛実ちゃんのことも、将来のことも。
 どうでもいいから、ただ、生きて行こうか。
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