青の城 5

文字数 2,890文字

 時間が経つにつれ、含んでいた生の意味を失い変質していくその液体。
 鮮やかな赤から、朽ちる色。

 この身に跳ね返ってきたその不快な名残に目をやって、男はふっと目を眇める。この見た目の悪さもそうだが、鼻を突く匂いを無視する事は出来ないだろう。時間をおけば、さらに強くなるのは目に見えている。
 血の匂いを残していく訳にはいかなかった。
 彼の小さなお姫様や、可愛げのない所が魅力の(そんなことを言えば冷たい青の瞳で射抜かれるのだろうけど、今更そんな事は気にしない)現魔王が嫌がるのは目に見えていたからだ。特にこの時間なら食事中のはずだから、アッシュの方が嫌がるはずだ。
 吸血衝動が無い代わりなのか、食事に並々ならぬこだわりを持つあの男は食事の気分を害するような音や匂いを極端に嫌う。しかも人間なんかより遥かに鋭い感覚なのだ。生半可な洗浄では許してもらえないだろう。
 物事に興味の無いあのダンピールの唯一のこだわりを、尊重してやろうと思う程度には彼は後見をしてきたその男を大事にしていた。現在の一番はノンノだとしても、友人の忘れ形見であるダンピールの男は、命を賭けてもいいかと思う程度には入れ込んでいる自覚があった。
 昔から、自分は情に絆されやすい方だったと思う。 
 そもそも吸血鬼であったにも拘らず、人間に入れ込んでしまった時点でイレギュラーだった。しかもあの頃はまだ完全な吸血鬼だったのに。
 聖者シーナ=ディリア。人の身でありながらそのあまりの力の大きさに、彼女の眷属であり彼女自身が愛していた人から迫害され、足の自由と目の自由を奪われ幽閉されていた時に、出会った。神々に守られた彼女は、人でない自分に気づきながらもそれにこだわる事はなかった。そういう部分では、彼女は既に人という領域を超えてしまっていたのかもしれなかった。
 今更、昔の事を思い出す。人ではなく、老いも無いからこそ時の流れの意味が希薄なのだろう。どれだけ時間が経っても鮮やかに甦る、様々な記憶は歯痒くも愛おしい。
 タカト=グッチーセは困ったような顔で笑っていた。
 湖の畔。向こうに見えるは、今現在のタカトの居場所である青の城。そこに帰る為に、これからしなくてはならないこと。

 ぴしゃり。

 穢れた匂いを消す為に、清浄な湖の水の中に身を置いた。
 身を包む冷たい水の感触が心地いい。普通の吸血鬼なら、魔法で消してしまうのだろう。魔力は貸す程に有り余っているタカトも、それは箸を使うより簡単に出来る。しかしあえてこんな方法を好むのは、元からの性格なのか、吸血鬼としての特性を封じられている為か。

 ぱしゃり。

 銀の水飛沫をあげて、全身を水の中に浸した。
 陽光の下で輝く薄茶色の髪。健康的に焼けた肌。怪しく輝くのはアメジストの瞳。
 古の聖者の命と引き換えに吸血鬼としての制約のほぼ全てから解放された青年は、吸血鬼でありながらどこまでもそれらしくなかった。





 これは、いったいどういう事なのか。
 青の城に唯一住まう事を許された(黙認された、ともいうし彼が勝手に押し掛けた、ともいう)魔王アッシュに最も近しい側近は、目の前の光景に秀麗な顔をほんの少し歪めてみせた。長い黒髪のよく似合う整った顔がそんな表情をすると相当な迫力があって、初めて目の当たりにしてしまったベータは恐怖から声も無く息をのんでしまう。
 そんな彼女をじとりとケーディはねめつけた。
 見るからに人間の、気の弱そうな女だ。初めて見るその女は、当然のように彼の主の食事の席上にいた。隣にいる幼い子供はこの際無視。その子供の保護者役を勝手に引き受けている、この状況の原因であるだろう男は現在城の中にいないようだった。
 人間だ。食欲が刺激される事からも疑いようがない。
 人間だが、感じる魔力は異質な物。
 そして何より、主と同じ青の髪と瞳というのが気にかかる。かの王の眷属にされたというのもちらりと考えないでもなかったが、それにしては青の瞳には自我の輝きがはっきりと見て取れた。つまり、女はそのままの状態で王と同じ色を纏っているという事だ。
 人間の分際で、と思う。
 しかし、その色は同じ青でもまったく違うと思い直した。

「マイロード、この女は」
「まきちゃんはおきゃくさまなのよ」

 幼子からの返答。お前にはきいてない、と苛々する。
 恐れを知らない子供程、腹の立つ存在はいない。
 しかもその子供自身は何の価値もないつまらぬ人間の子でしかないのに、その後ろに魔族の中でも一二を争う実力の男が控えていれば尚更業腹だ。しかも、王自身この子供に対して存在を許容している部分がある。
 これが、アッシュが少しでも不快感を示していたのなら、命令されるまでもなくあの男が守っていようとこの幼児を屠る事が出来るというのに。

「見ての通りだ」

 子どもに不満をぶつけようにも、王よりそんな事も分からないのかとでも言いたげな言葉を掛けられてしまうと、それ以上の追求が出来なくなってしまう。
 もう一度、女の方を確認する。
 人間には非ざる青を纏う、眼鏡をかけた女。
 その気配の中にかすかに感じる、青の流れに今度は明確に彼は顔を顰めた。

「俺の先祖が眷属にした人間の子孫だろう。先祖返りだな。どうやら余程、その先祖には愛されたらしい。今では護りも上手く働いていないようだが」

 異質な魔力は、流れた時と繰り返された短い人の営みのサイクルの中で与えられていた権利が変質したもの。王の言う通り、感じる青の流れはその名残。今ではその魔力は人に馴染めるでも無く、かといって消えるには余りに強すぎる残滓。
 恐らく、王の血族の存在そのものに依存しているのだろう。
 逆に言えば、吸血鬼である青の一族が消えない限り、形はどうあれ今後もこの女だけでなく、女の子孫末代までその残滓は残り続けるのだ。女の姿は、たまたまその残滓が強く影響されただけにすぎない。
 見れば、女は王と殆ど変わらない年齢のようである。
 もしかすると、アッシュの誕生により強まった青の一族の影響を受けたのかもしれなかった。

「どのようにされるので?」
「タカトの客だ。ヤツに聞け」

 遠回しに、勝手に手を出すな、と厳命されたケーディはほんの少し不快感を出すだけで、それに反論するようなことはなかった。王自身は、その女に何も含む所が無いのであれば、彼が勝手に何かをする事は許されない。
 己や下賤な者たちなどが持つ好悪が王の言動を左右することなど最もあってはならないから、取り合われない事には何の不満もなかった。むしろこの無関心こそ我が王とすら讃えたくなる。
 そしてこの魔族の王は、周りに勝手に騒がれるのは好まない。
 周囲に対する興味も無いのので、殆どの対象はそういう反応になってしまう。結果、あの後見たる公爵に好き勝手されているのだが。そればかりが腹立たしい。
 今更であるが、忠実なる配下である事を誓う男は深々とため息をついたのだった。
 そんな彼を、話の中心である女はおどおどと、小さな少女はにこにこと見守っていた。二人の目の前にある皿も、王の目の前にある皿も綺麗に空になっている。
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