第1話
文字数 2,728文字
「誰が?」
ボクが意図せずそう返すと、付き合い始めてちょうど一ヶ月半の彼女が楽しそうに笑った。ボクは今、誰もが名店だと知るレストランを訪れている。記念日を重要視する彼女から「付き合い始めて一ヶ月半記念」をここで祝いたいと言われ、要求通り夜景の見える窓際の席を予約し、現在ここにいる。二人で向かい合い、頼んだ炭酸水(彼女はワイン)や食事を口にしながら彼女の世間話へ相づちを打っていると、突然「溺愛している」と言われたのだ。
食事をしながら世間話を聞いていただけなのに、ボクは何か聞き逃したのだろうか? あまりに脈絡のない言葉が現れ、思わず「誰が?」と彼女へ聞き返す。彼女はボクの反応を気に入ったのか、どこか嬉しそうに笑い「ボク」が「彼女」を「溺愛している」と宣言をしてきた。
初耳だ。彼女の告白から始まったこの関係だが、ボクは元恋人たちと大差ない扱いをしている。溺愛の意味が理解できず悩んでいると「そういう無自覚なところが『溺愛してる』証拠」と笑い、彼女は赤ワインの入ったワイングラスを持ち上げ中身を飲んだ。そして彼女はボクへ、ボクがどれだけ彼女を溺愛しているかを誇らしげに力説してきた。
「小さな記念日をすべて祝ってくれる」
「連絡もマメにしてくれる」
「当然のように、すべて支払いをしてくれる」
それを聞いたボクは首をかしげずにはいられなかった。
たしかに彼女は記念日を作りたがるし、それを祝いたがる。ただ、細かな記念日を重要視する人は結構いるし、ボク自身それは苦にならない。時間を問わない連絡だって、勤務時間なら診察中はもちろん休憩中にすら出ることはない。彼女からの連絡も、とくに用事のない時間に返しているだけだ。食事や遊興費の支払いだって、彼女はボクよりも年下で収入も少ないため、ボクが支払うことに問題はないはずだ。
その行為がなぜ「無自覚で彼女を甘やかしている」ことになるのだろうか? 一体、それのどこが「溺愛」になるんだ??本当に初耳ばかりだ。ボクが困惑している間に、頼んだメイン料理が運ばれてきた。ボクの前にはソテーされた魚料理が置かれ、彼女の前にはレアに仕上げられた肉料理が置かれる。ボクはナイフとフォークを手に取り、一口大に切った魚料理を口へ運ぶ……が、残念な気持ちになった。
『若宮さんの好みではないな』
声を出すことなく、一人心の中で呟いた。若宮さんはボクと一つ屋根の下に暮らす奇才あふれる人物で、依頼人から高額な依頼料を受け取り、独特なやり方で依頼を解決する紹介制の「目明し堂」を営んでいる。
若宮さんは、ぼんやりとした決まらない味を好まないため、元の素材の味がよくわからないこのソースに眉をひそめるかもしれない。ボクは外食をするとき、いつも若宮さんが気に入るかどうか下見もかねて料理を頼むのだが、ここへ若宮さんを連れてくることはないだろう。そう残念に思いながら辺りも見回す。
店の雰囲気も少しかしこまり過ぎかもしれない。このレストランはドレスコードがあり、ネクタイとジャケットは必須になっている。若宮さんはのんびりした人なので締め付けるような服よりもゆったりとした服を好むし、当然ネクタイなんかは好きではない。なんなら、極度の面倒くさがりでボタンを閉めるのも嫌がり、ボタンの付いた洋服すらあまり持っていない。
どうしてもきっちりした服を着なければらならないときにはボクが服を用意し、うんざりした顔の若宮さんをなだめすかし、ありとあらゆるボタンをボクが留め、ネクタイも若宮さんが許せるぎりぎりの許容範囲でしめているくらいだ。きっちりした服もよく似合うのに、実にもったいない。
そんなことを考えていると、バイブ設定したボクのスマートフォンが震え始めた。ジャケットのポケットからスマートフォンを取りだし、画面を確認するとすぐに切れた。若宮さんからだ。ずい分と短い着信だったが、何かあったのだろうか。
ボクは彼女に断りを入れ、席を立ち若宮さんへ連絡を入れる――が、出ない。おかしい。さっき着信があったばかりなのに、出ないはずがない。出られない理由があるのかもしれないと思い、今度はメッセージを送る。やはり返信が来ない。もう一度連絡をしてみるが、呼び出し音が鳴るばかりで一向に通話になる気配がなかった。
『何かあったのかもしれない』
ボクは急いで席へ戻ると彼女へ急用が入ったことを伝え「ホテルの支払いは済んでいるから一人で泊まるなり、友人と止まるなりして過ごして欲しい」と頼み、支払いを済ませてレストランを後にした。そして今度は若宮さんではなく、若宮さんを一番理解している相手へ連絡を入れる。若宮さんとは違い、呼び出し音はすぐ通話になった。
「世羅です。突然すみません。今、よろしいですか?」
「えぇ、大丈夫ですよ。カイが何かしましたか?」
若宮さんのお姉さまはボクが説明することもなく、すぐに事情を把握してくれた。さすが若宮さんのお姉さまだ。
「あ、はい。あの若宮さ……カイさんから着信があったんですが、つながらないんです」
ボクがそれだけ言うと、お姉さまは少し考え込み口を開いた。
「先生、今誰とどちらにいらっしゃいますか?」
ボクは聞かれた質問に素直に答える。
「彼女と一緒に東京のレストランにいましたが、今は一人で駐車場へ向かっています」
ボクは走りながら、車を止めてある駐車場へと急いだ。通話しながら走るのはよくないが、今は仕方がない。若宮さんに何かあったかもしれないのに、そんな悠長なこといっている場合ではないからだ。
「……わかりました。先生、カイは私が何とかします。どうぞ気になさらず恋人の元へお戻りください」
「あ、こっちは大丈夫です。若み……カイさんに連絡がついたら教えてくれませんか?」
やはり慣れない「カイさん」呼びにとまどいながら、お姉さまへ連絡をくれるように頼んだ。
「わかりました、すぐにご連絡します。では」
「お願いします!」
ボクは通話を切ると駐車場にある車へと飛び乗り、急いで車を走らせた。しばらく車を走らせていると、お姉さまから連絡が入ったのでハンズフリー通話にする。
「どうでした!? 大丈夫ですか!!?」
焦る気持ちが隠せず、一方的に尋ねると「何も問題はありません」と、落ち着いた声で返された。お姉さまの話では、若宮さんは無事でとくに変わりはないとのことだ。どうやら普通に家にいるらしい。
お姉さまのおっしゃることに間違いは無いだろうが、やはり心配だ。一安心はしたが「もしも」ということもある。あの人は一人だと碌なことをしないからだ。ボクはお姉さまへお礼を言い通話を切ると、つながることのない若宮さんへ連絡を入れ続け車を走らせた。
ボクが意図せずそう返すと、付き合い始めてちょうど一ヶ月半の彼女が楽しそうに笑った。ボクは今、誰もが名店だと知るレストランを訪れている。記念日を重要視する彼女から「付き合い始めて一ヶ月半記念」をここで祝いたいと言われ、要求通り夜景の見える窓際の席を予約し、現在ここにいる。二人で向かい合い、頼んだ炭酸水(彼女はワイン)や食事を口にしながら彼女の世間話へ相づちを打っていると、突然「溺愛している」と言われたのだ。
食事をしながら世間話を聞いていただけなのに、ボクは何か聞き逃したのだろうか? あまりに脈絡のない言葉が現れ、思わず「誰が?」と彼女へ聞き返す。彼女はボクの反応を気に入ったのか、どこか嬉しそうに笑い「ボク」が「彼女」を「溺愛している」と宣言をしてきた。
初耳だ。彼女の告白から始まったこの関係だが、ボクは元恋人たちと大差ない扱いをしている。溺愛の意味が理解できず悩んでいると「そういう無自覚なところが『溺愛してる』証拠」と笑い、彼女は赤ワインの入ったワイングラスを持ち上げ中身を飲んだ。そして彼女はボクへ、ボクがどれだけ彼女を溺愛しているかを誇らしげに力説してきた。
「小さな記念日をすべて祝ってくれる」
「連絡もマメにしてくれる」
「当然のように、すべて支払いをしてくれる」
それを聞いたボクは首をかしげずにはいられなかった。
たしかに彼女は記念日を作りたがるし、それを祝いたがる。ただ、細かな記念日を重要視する人は結構いるし、ボク自身それは苦にならない。時間を問わない連絡だって、勤務時間なら診察中はもちろん休憩中にすら出ることはない。彼女からの連絡も、とくに用事のない時間に返しているだけだ。食事や遊興費の支払いだって、彼女はボクよりも年下で収入も少ないため、ボクが支払うことに問題はないはずだ。
その行為がなぜ「無自覚で彼女を甘やかしている」ことになるのだろうか? 一体、それのどこが「溺愛」になるんだ??本当に初耳ばかりだ。ボクが困惑している間に、頼んだメイン料理が運ばれてきた。ボクの前にはソテーされた魚料理が置かれ、彼女の前にはレアに仕上げられた肉料理が置かれる。ボクはナイフとフォークを手に取り、一口大に切った魚料理を口へ運ぶ……が、残念な気持ちになった。
『若宮さんの好みではないな』
声を出すことなく、一人心の中で呟いた。若宮さんはボクと一つ屋根の下に暮らす奇才あふれる人物で、依頼人から高額な依頼料を受け取り、独特なやり方で依頼を解決する紹介制の「目明し堂」を営んでいる。
若宮さんは、ぼんやりとした決まらない味を好まないため、元の素材の味がよくわからないこのソースに眉をひそめるかもしれない。ボクは外食をするとき、いつも若宮さんが気に入るかどうか下見もかねて料理を頼むのだが、ここへ若宮さんを連れてくることはないだろう。そう残念に思いながら辺りも見回す。
店の雰囲気も少しかしこまり過ぎかもしれない。このレストランはドレスコードがあり、ネクタイとジャケットは必須になっている。若宮さんはのんびりした人なので締め付けるような服よりもゆったりとした服を好むし、当然ネクタイなんかは好きではない。なんなら、極度の面倒くさがりでボタンを閉めるのも嫌がり、ボタンの付いた洋服すらあまり持っていない。
どうしてもきっちりした服を着なければらならないときにはボクが服を用意し、うんざりした顔の若宮さんをなだめすかし、ありとあらゆるボタンをボクが留め、ネクタイも若宮さんが許せるぎりぎりの許容範囲でしめているくらいだ。きっちりした服もよく似合うのに、実にもったいない。
そんなことを考えていると、バイブ設定したボクのスマートフォンが震え始めた。ジャケットのポケットからスマートフォンを取りだし、画面を確認するとすぐに切れた。若宮さんからだ。ずい分と短い着信だったが、何かあったのだろうか。
ボクは彼女に断りを入れ、席を立ち若宮さんへ連絡を入れる――が、出ない。おかしい。さっき着信があったばかりなのに、出ないはずがない。出られない理由があるのかもしれないと思い、今度はメッセージを送る。やはり返信が来ない。もう一度連絡をしてみるが、呼び出し音が鳴るばかりで一向に通話になる気配がなかった。
『何かあったのかもしれない』
ボクは急いで席へ戻ると彼女へ急用が入ったことを伝え「ホテルの支払いは済んでいるから一人で泊まるなり、友人と止まるなりして過ごして欲しい」と頼み、支払いを済ませてレストランを後にした。そして今度は若宮さんではなく、若宮さんを一番理解している相手へ連絡を入れる。若宮さんとは違い、呼び出し音はすぐ通話になった。
「世羅です。突然すみません。今、よろしいですか?」
「えぇ、大丈夫ですよ。カイが何かしましたか?」
若宮さんのお姉さまはボクが説明することもなく、すぐに事情を把握してくれた。さすが若宮さんのお姉さまだ。
「あ、はい。あの若宮さ……カイさんから着信があったんですが、つながらないんです」
ボクがそれだけ言うと、お姉さまは少し考え込み口を開いた。
「先生、今誰とどちらにいらっしゃいますか?」
ボクは聞かれた質問に素直に答える。
「彼女と一緒に東京のレストランにいましたが、今は一人で駐車場へ向かっています」
ボクは走りながら、車を止めてある駐車場へと急いだ。通話しながら走るのはよくないが、今は仕方がない。若宮さんに何かあったかもしれないのに、そんな悠長なこといっている場合ではないからだ。
「……わかりました。先生、カイは私が何とかします。どうぞ気になさらず恋人の元へお戻りください」
「あ、こっちは大丈夫です。若み……カイさんに連絡がついたら教えてくれませんか?」
やはり慣れない「カイさん」呼びにとまどいながら、お姉さまへ連絡をくれるように頼んだ。
「わかりました、すぐにご連絡します。では」
「お願いします!」
ボクは通話を切ると駐車場にある車へと飛び乗り、急いで車を走らせた。しばらく車を走らせていると、お姉さまから連絡が入ったのでハンズフリー通話にする。
「どうでした!? 大丈夫ですか!!?」
焦る気持ちが隠せず、一方的に尋ねると「何も問題はありません」と、落ち着いた声で返された。お姉さまの話では、若宮さんは無事でとくに変わりはないとのことだ。どうやら普通に家にいるらしい。
お姉さまのおっしゃることに間違いは無いだろうが、やはり心配だ。一安心はしたが「もしも」ということもある。あの人は一人だと碌なことをしないからだ。ボクはお姉さまへお礼を言い通話を切ると、つながることのない若宮さんへ連絡を入れ続け車を走らせた。
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