第7話

文字数 1,628文字

 ハンバーガーショップでTを見かけた翌日、Tの様子に変わりながなかったことに、私は少しだけほっとした。Tと一緒にいた女性は、何もTに告げなかったのだろうか。それでも、あの女性が他の誰かに私が話した内容を喋っているかもしれないし、大学でTに関する悪い噂が立っているかもしれないし、女性自身がTに対する見方を変えているかもしれない。
 私は後悔しながらも、口を閉じて、今までと同じようにTに勉強を教えてもらっていた。

 私の部屋の壁は、額に入った写真で埋め尽くされている。すべて、クラシックバレエの発表会やコンクールで踊る私を撮ったものだ。
 猫の耳としっぽをつけて踊るというより笑いながらスキップしている3歳から、青いチュチュを着てグランパクラシックのバリエーションを踊る17歳まで。髪をきつくきりりと結び、さまざまな衣装を着て、舞台化粧をした私が写っている。
 私が数学の問題を解いているとき、Tが珍しく立ち上がって、壁に向かって立った。美術館で絵画を鑑賞するかのように、写真をひとつひとつ丁寧に見始めた。私は勉強に集中できなくなって、顔を上げて、Tを見つめた。
「プロのバレリーナになるの?」
 Tが、写真を見ながら訊いてきた。
 私もペンを置いて立ち上がった。Tの横に立った。いつもよりミントの香りが強くする。
「ならない。ううん、なれない。そんな才能はないって自分で分かっているから」
「そうか」
「私は大学生になって卒業して、どこかに就職する。それでもね、それでも」
 Tが私を見る。
「踊っていると思う。好きだから、バレエは続ける。プロではなくても」
「そうか」
 Tの「そうか」というそっけない言葉は、なぜかじんわりと私に染み込んできた。「そうか」は、私の中で水分を含んで、重みを持ち膨らんでいく。
「そんなに夢中になれるものがあるって良いな。羨ましいよ」
 Tがまた写真を見ながら言う。
「先生は? 先生が夢中になっているものは、これをやっているときは幸せってものは、何?」
 Tが私を見た。しばらく無言だった。
「ない。残念ながら、それほど夢中になっているものはないよ、何も」
「でも、お医者さんには絶対になりたい、それが目標なんでしょ」
 Tは黙ったまま、まばたきをした。何度もまばたきをして、部屋のどこかに落ちている答えを探すかのように、視線を動かした。
「どうなんだろう? 絶対になりたいのかな? 自分でも分からない」
 私はTを見つめた。Tはなぜか悲しそうにも寂しそうにも見えた。私は、しぼんだ風船に息を吹き込むように、明るい声で話し始めた。
「先生、これはね、眠れる森の美女のオーロラ姫、こっちは、くるみ割り人形の金平糖の精、これはね」
 写真を指差しながら、話し続けた。
「これは、2年前のコッペリア。私はお人形の役だったの。そしてこの写真は、おじいさんが青年の魂を、人形の私に吹き込もうとしているところ」
「魂を吹き込む?」
「そうよ、お人形にね」
「どうやって?」
「どうやって、って?」
「魂を、どうやって人形に吹き込むんだ」
 私はTの顔を見た。ふざけているのでも馬鹿にしているのでもなく、本当に分からないことを質問している、小さな子供のような表情だった。
「先生、これはバレエなのよ。これは物語なの。魔法だかなんだかで、青年の魂を人形に吹き込めるのよ」
「そうか」
「そうかって、何が、そうか、なの?」
「現実ではありえないことを想像するのは、僕には難しい。」 
 私はTを見つめた。
 自然と前に腕が伸びて、Tの身体の周辺の空気を集めるような仕草をした。そしてTの胸の前で、両手を重ね、魂を抜き取った。私はつま先で歩き、それを窓辺に並んでいる抜け殻の上に運んだ。
 両手を広げる。Tの魂を抜け殻の上で落とす。
 片足を床について座り、私はふぅっと息を吐いた。抜け殻がふわりと飛んだ。私が集めた抜け殻は、Tの魂を吹き込まれて、一瞬飛んで、床に落ちた。
 Tを振り返ると、棒立ちのまま、私を見ていた。
 
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