第１話

　自称バンコク一愛想よい格安チケット屋に、今ならパリ行きが安いわよと勧められ、まあヨーロッパだったらどこでもいいやと軽い気持ちでパリを旅した時のことです。
　その国の玄関である首都空港はまさに国力の象徴ともいわれ、威信をかけ技術の粋を集めた建築物であることは理解できますが、シャルルドゴール空港の異次元な壮大さにはなかんずく度肝を抜かれました。
　外部の自然光を最大限に取り込もうとする巨大なガラス壁、何層にも交差する透明なエレベーター、大量の入国者を手順に沿って歩かせれば、何戸惑うことなく円滑にパリ市内の駅に着くという、とても合理的に考えられ国民性を如実に表している空港のひとつです。

　たちまち市内行きの電車に乗って気づけば二駅過ぎており、そこへギターを持ったひとりの若者が、いかにもここでパフォーマンスをするぞという恰好で乗り込んで来ました。車内もそれなりに混み始め乗客は隙間なく立っている状態にも関わらず、彼はおもむろにU2の曲をよく通る声で歌い始めました。

　これを以前利用していた埼京線の中なんかでやった日には、好意的に感じる人より、「なんで通勤時間にこんなことするんだ！」怒りに震えた乗客から罵倒されること相違なく、車内の混乱、緊急停止避けられず、最寄りの派出所に突き出だされ、おまけにチカンの冤罪までなすり付けられ、いつしか全国的なニュースにもなり、「このバカタレ県民の恥さらし」と母が涙に暮れること間違いありません。

　しかしそこは寛容なフランス国民、たとえ車内が隙間なく混雑していても誰一人として文句を言う人もおらず、車内の静粛も意に介さず若者は弾き続けます。若者を見つめる人、車窓に目を向け耳だけ傾ける人、なす術がなくただ車内の様子に狼狽える沖縄のバックパッカー、懐かしい楽曲から、人々は胸中に去来する在りし良き日々の情景に思いを馳せ、車内にはギターの音色と澄んだ歌声だけが響き渡ります。
　彼がギターを抱え乗車するなり、ハンドバックから小銭を出す女性客もいて、この瞬間この場にいる乗客の殆んどが突然の演奏を受け入れ楽しんでいる、たった数分の出来事ですが、無味乾燥な都会の空間もシンプルなパフォーマンスで変化を加え和ませる、それを人々が渇望していることに感動を覚えました。

　混乱もなく改札を抜け、地下鉄の階段を上りパリ中心部に出ると、やはり歴史の重厚さを感じさせる街並みが突然視界に拡がり実感もひとしおです。さて今日の宿を探しましょうかね、パリ市内に記念すべき第一歩を踏み出そうとすると、靴底になにか柔らかいものを踏みつけた感触を覚えました。イヤな予感と共に、恐る恐る確認するとやはり大きな犬のフンです。
　思わずぎゃーとデカい声で叫びたいところですが、ここは寛容の国のそれも首都パリ、なるべく動揺を抑え「なあんだ、フンか、ふ～ん」てな感じで何事もなかったように歩き出すと、それこそ辺り一面犬のフンだらけに気が付きました。

　何とか今日の宿にたどり着き、カウンター越しに栗毛お兄さんがもう部屋はない、でもちょっと待って折角日本から来たんだから、この部屋だったら空いてると日本円で6000円の部屋を案内されました。宿泊について、私には「一泊1500円以上だすもんか」という妙に固執する妥協しないポリシーみたいものがあり、どの国に行ってもいつも値段が折り合わず宿探しで半日以上費やすことは毎度のこと「ノン、ノン」と指を横に振ります。
「分かったムッシュ、じゃあここは？」冬場だったら確実に凍えてしまいそうな屋根裏部屋に案内されました。窓は小さくトイレは汚く勿論マットレスは薄っぺら、値段を聞くと夏場のみの特別価格3000円、ここはやはり自分の寛容さを遺憾なく発揮して泊まることにしました。

　しかし私の寛容さもそこまで。世界中どこでも低価格マクドナルドの一番安いセット800円！まずぎゃー！、水ボトル１ℓが700円！ぎゃーあ！！、ここまではどうにか我慢できても、早速フランス入国記念ビールを飲むべく値段を聞くと１本550円、ギャ～あぁぁ！！！もう限界です。
　翌朝、すぐさま宿を出てベルギー行きバスターミナルに向かいました。

　時差、空腹、そして物価高、さらに犬のフンに打ちのめされた私は、ベルギーの首都ブリセッル行き長距離バスの硬いシートに腰を下ろし、道向こうの広場で無邪気な子供たちがサッカーに興じるのを眺め、その中のひとりが私を見てアッカンベーしている幻覚を見ると、なぜかしらひと筋の涙がこぼれ落ちてきました。

　なんでこんなに物価が高いのか、なんで犬のフンがこんなにも多いのか、なんでパリに来てしまったのか、これでいいのか、と訳が分からず、でも冷えたビールが飲みたい・・・、と想いをベルギービールに寄せると思わず顔がにやけ、ついでにヨダレまで出て、いつしか寝入ってしまいました。