第五章 動き出した計画

文字数 12,747文字

    

 五月も末になると、さまざまな花が薫る。
 薬草園では早くもラベンダーが咲き乱れる。その香りはルシャデールの部屋にも届いていた。ベッドわきや居間のテーブルに大きく飾られている。心を落ち着かせ不眠に効果があるからだろうが、興奮して壺を壊すなどしているからかもしれないと、彼女は思う。
 この季節は雨の日が多く、花守探しは進んでいなかった。
「市場を見に行きたい」
 雨季のさなかの、珍しく雲のない日だった。ルシャデールは執事に言った。
「アニスを連れて行く」
「連れて行くのは構いませんが、御前様はお許しされましたか?」
 そんなこともいちいち許可をもらわないといけないのかと思ったが、素知らぬふりで、
「うん」と答えた。トリスタンは施療所だ。患者が四、五人来ていたから、すぐには戻らないだろう。
「アニスは子供ですし、せめてメヴリダをお連れ下さい」
「あの女の顔を見たくないから出かけるんだ!」
 メヴリダの名を出されて、ルシャデールは思わず大声を出す。
 ちょっと外出しようとするだけで、許しはもらったかだの、大人を連れていけだの、大事(おおごと)になる。このまえアニスには迷惑をかけてしまったし、少しでも仕事を休ませてやりたい。そう思ったのだ。もちろん、自分も屋敷を離れて遊びたいという気持ちがあった。
 やってきたアニスは、執事に呼ばれたとあって、不安そうな面持ちだった。
「ああ、アニサード。御寮様が市場を見たいとおっしゃられている。お前は供について行きなさい」
「僕がですか?」
「そうだ。気をつけて行くんだよ。必要なかかりは屋敷に代金を取りに来るよう、店の者に言いなさい」
「はい」
 玄関から出ようとした時、デナンが入ってきた。
「お出かけですか?」
 ルシャデールはうなずく。
「市場を見に行ってくる」
「お気をつけて行ってらっしゃいませ」そうルシャデールに声をかけてから、彼はアニスの方へ「事故のないように、御寮様をお連れしなさい。そして無事に帰ってくること。いいね」と注意した。

 門を出て、西の方へ歩いていく。アニスは後からついて来る。
「ごめん」
 しばらくしてからルシャデールは立ち止まって振り返った。
「え?」
アニスも止まる。
「このあいだ、怒られて食事抜きだって?」
「あ……いえ、後でシャムがこっそり持ってきてくれました」
「おまえまで怒られるなんて……そんなつもりじゃなかった」
「御寮様のせいじゃないです」アニスはにっこり笑う。「僕は間抜けだから、前はよく怒られていました。慣れてるから平気です」
「間抜けじゃないよ」ルシャデールはむっつりと言った。「あんなメヴリダばばあの言うことなんか真に受けるんじゃない」
 二人は再び歩き始めた。
 道沿いにところどころ、古い城壁の石積みが残っている。場所によっては、大人の背丈よりも高い石積みもあった。ラーサ師によると、千年ぐらい前のものだという。グルドール帝国の襲撃に備えて設けられたらしい。自然に崩れたり、家を建てようとする者が持ち去ったりして、今では三分の一程度しか残っていなかった。ただ、その名残として、城壁沿いの道は『壁道(かべみち)』と呼ばれていた。
 壁道は屋敷の西で、北のナヴィータ王国へ向かう西街道と交差していた。南に折れればピスカージェンの市街に出る。市場に行くなら、もちろん左折することになる。が、ルシャデールはまっすぐ進んだ。
「御寮様! 市場へ行くなら向こうですよ」
 アニスが足早についてくる。
「わかってる。市場には行かない」
 え? とアニスは聞き返した。
「人のいないところに行きたい」
 屋敷ではあれこれ干渉され、注目されている。市場でも好奇の目で見られるだろう。
「でも、執事さんやデナンさんは市場へ行くと思っていますよ。もし何かあったら……」
 彼は不安そうだ。
「デナンはわかっているよ。私が市場なんか行かないって。出かける前、おまえに『無事に帰ってくるように』って言っていたのは、私に聞かせていたんだ」
「そう……だったんですか」
「いろいろあってさ」
 ルシャデールはせんだってのデナンとの話を思い返す。彼は主人側の人間としてとるべき態度を注意したが、手伝おうとした仕事の内容の適否については問わなかった。品位に欠けるとか、上級使用人ならば言いそうなことだったが。
(なぜ、デナンじゃなくトリスタンが叱らなかったんだろう)
 部屋へ戻ってつぶやく彼女に、カズックは
「離れた方がよく見えるだろう? 景色も、もめ事も」と答えた。
 それだけじゃないだろう。要するに、トリスタンは本気で私と関わる気はないんだ。面倒なことは侍従や召使にやらせておけばいいと思ってる。
 アニスが執事にこっぴどく叱られ食事抜きになったことは、その時にカズックから聞いた。
 貧しくてもいいから、普通の親と普通の暮らしがしたい。親に甘えたり、叱られたりしたい。自分でも気づかずにいた密やかな望みだった。薔薇園の家に行った日に、それは彼女の心の奥の深い洞窟から飛び出してしまった。飛び出した後で、望みは行き場を失って右往左往している。
「御寮様? どうなさったんですか?」
 うなだれて考え込んでいる彼女をアニスが心配する。
 何でもない、と首を振りルシャデールは、道の傍らの石積みに腰をおろした。アニスもそれにならう。
「この前、どうして本当のこと言わなかったのさ?」
「本当のこと?」
「私が無理に手伝おうとしたって、メヴリダに言えばよかったのに」
「同じことだったと思います」
 アニスは哀しげに笑った。
「同じ?」
「メヴリダさんからすると、主人である御寮様を叱るより、下っ端の僕を叱る方が楽なんです。きっと、『御寮様のせいにするつもりかい、ずうずうしい!』とか言って、やっぱり怒ったと思います」
 アニスはメヴリダの口真似をして言った。その甲高い声とやや早口の言い回しがそっくりで、ルシャデールは笑ってしまう。ややあってから、ぽつりと言った。
「おまえは怒らないんだね、メヴリダにも私にも」
「御寮様のせいじゃないです。御寮様は僕の仕事を手伝ってくれようとしたんです。メヴリダさんに対しては、……悔しいと思わないわけじゃないけど。あの人はああいう人だから、怒っても仕方ないです」
 ルシャデールはおや、と思って彼を見た。子供っぽく感じることも多いが、仕事や周りの人間に対しては、諦めているのか達観している。 
 丘を走る壁道からは眼下にピスカージェンの街が見渡せた。ごちゃごちゃと建て込んだ建物は身を寄せ合っているようにも見える。道から少し降りたところにも、何軒かの農家らしき家が建っていた。
 振り返れば、道の背後には草が生えているだけの丘が連なっている。このところの雨で草は青々としていた。
「あれは何?」
 ルシャデールは道のずっと先の丘に見える白い神殿のような建物を指差した。
斎宮院(さいぐういん)です。斎姫(いつきのひめ)様の御住まいで、月の女神シリンデをまつっています」
「斎姫様って……巫女さんみたいなもの?」
「はい。斎宮院にはたくさんの巫女さんがいて、斎姫様はその長です」
 そう言えば、ファサードの列柱は神殿風だ。
 カシルク寺院をはじめとする、寺や礼拝所で行われているのは、シリンデとは違ったものへの信心だった。
 人はみなすべて光の子。ユークレイシスに発している。すべての魂は兄弟姉妹であり、愛し合い、許しあうことを第一とする。信仰というより処世への指針と言った方がいいかもしれない。フェルガナでは『ユクレス』と呼ばれている教えだ。千五百年前にオルソーズという者が始め、その弟子モドレーが広めた。
 シリンデへの信仰はユクレスが広まって、一時期衰退したが今は少し回復している。だが、神殿は斎宮院一つしかなかったし、人々のよりどころとなっているのはユクレスの寺だった。
「そういえば、メヴリダさんが辞めるらしいですよ」
「ほんと?」思わず声が高くなる。
 二、三日前の昼食の時に使用人たちが話していたのだという。執事にも辞めると話したらしい。
「どうやら次の仕事が決まっているみたいだって、誰かが言ってましたよ」
「やった!」
 代わりの人がすぐ来ますよ、と言うアニスも心なしか顔が緩んでいた。
「これも噂ですけど、デナンさんが次の人を見つけてきたらしいです」
「デナンが……」
 本来使用人の雇い入れは執事の権限だ。それをデナンが口出しするのは明らかに越権行為なのだ。
「デナンは……何か言われている?」
「まあ、いろいろと……」アニスは言葉を濁した。「デナンさんは人に何言われようが動じませんし、人の機嫌とるようなこともしませんから。……強い人です」
 ルシャデールはあいまいな笑みを浮かべた。彼が選んでくれた侍女なら少しはましかもしれない。
「雲が早いですね」
 アニスは空を仰いだ。
「雨になるかもしれない」雲と風の流れを読んで、彼女は立ち上がった。「戻ろう」
 屋敷の門が見えてきた時だった。
「あ……」
 ルシャデールは声を上げた。
「どうしたんですか?」
 彼女が急に止まったので、アニスは不審に思ったようだ。ルシャデールは門の上を指差す。右手に槍、左手に両刃の剣。飾りのない鎧と兜をつけたいかめしい姿で立っている者がいる。
「何かありますか?」
 重ねてたずねられ、ルシャデールはアニスの方を向いた。きょとんとした顔で彼女の方を見ている。
(ああ、そうか)
 彼には見えていないようだ。ということは人ではない。彼女は記憶をたぐる。カズクシャンで、似たような者を見たことがある。大きくて古い屋敷や寺院の、たいがいは門の付近にいる。
 守護精霊。栄えている場所にはたいていいると、以前カズックが話してくれた。
(彼なら知っているかもしれない)
「何でもない、行こう」
 ルシャデールは少年の方を振り返って言った。今まで、自分がユフェレンであることがうとましく感じたことはあまりない。しかし、アニスと共有できない世界があるのは、少し寂しかった。

 屋敷に戻ったアニスには、今度はいつもの薬草摘みが待っていた。御寮様のお供をしたからといって、他の仕事を免除してもらえるほど、僕童は楽ではない。
 執事に帰邸を告げ、物品庫の前を通り過ぎようとした時だ。腕をつかまれ、ぐいっと中に引っ張り込まれた。
 中は薄暗かった。細長い部屋に窓は小さいのが一つ。蜜ろうそくの匂いがする。アニスの好きな匂いだが、今はそれどころではなかった。目の前に威嚇的に立っている相手の顔は逆光でよく見えない。胸ぐらをつかまれたかと思うと、いきなり殴られた。床に崩れ落ちる。何が起こったのかわからなかった。
「おまえ、いい気になるなよ」
 従僕見習いのクランだった。アニスより四つ上だが、よく気がつく性格で、使用人の間では評判がいい。家事頭ビエンディクの甥だという。
「え……何が……何を……どういうことですか?」
 どぎまぎして舌がもつれる。彼にはなぜクランがこんなところへ連れ込んだか、理解できなかった。
「ふん、まともにしゃべることもできないのか。……最近、御寮様に取り入ってるようだな」
「取り入るなんて……」
「侍従にでもなろうってのか?ハッ!おまえみたいなのろまな奴に勤まるわけないだろう。身の程知らずもいいとこだ」
 どうやらクランは自分が侍従になりたいらしい。もちろん、ルシャデールの侍従だ。
 屋敷の召使はおおむね三種類に分かれる。汚れ仕事をする洗濯女や厨房の洗い場担当は最下級だ。今のところアニスはこの部類に入る。その次が庭師、厩番など外仕事の使用人、それから主人の近辺に侍る従僕、家事頭、その上に執事がいる。
侍従は執事よりもさらに上位に位置する。
 もともと、侍従は王からの『賜りもの』だった。グルドール帝国の弱体化に功績があった呪術師を神和師として取り立てた時のことだ。
 強い敵がいなくなった時に、一緒に戦ってきた強い味方が今度は敵になる。歴史の中ではよくあることだ。王は神和師たちを脅威に感じたのだろう。
 そして、反逆心がないか探らせるために、側近の侍従を彼らに下したのだ。神和師の方もそれを承知していたため、侍従とするにあたって、厳しい誓いを立てさせたという。
 そんな時代も過去となり、今の神和家はどこも、王に反逆などという気概を持つ者はいない。
 ただ、侍従が他の召使より抜きんでた立場にあることは、変わりなかった。宮廷にも出入りし、高貴な方々ともお近づきになれる。執事の約二倍の俸給。若くて多少気の利いた使用人が目指すのも無理はない。
「僕が侍従になんて……なれるわけないです」
 アニスはか細い声で言った。
「あたりまえだろ」クランは敵意を含んだ目でにらむ。「身の程をわきまえないと痛い目をみるぞ。この悪霊憑きのチビネズミ、おまえを追い出すなんて簡単なんだ。今後、御寮様とは口をきくな。用を言いつけられたら、他に仕事があるとか言って断れ。いいな」
「は……はい」
「今の話、他人に言ったりしたら……どうなるかわかってるな?」
クランはそう言い捨てて出て行った。
 アニスはその場にしゃがみ込んだ。
(ごめん、父さん。僕は弱虫の卑怯者だ)
 父イズニードなら、こんな時絶対にクランのような奴のいいなりにはならなかったろう。たとえ自分より強者であっても。口の中に金気が広がる。唇が切れていた。
 アニスは「いい子」だった。
 使用人の中でも一番の下っ端として分をわきまえる。生意気だと思われるから意見を言ってはいけない。いいことも悪いことも目立つことはしない。
 大人には大人の事情があるから、それも考慮する。例えばギュルップとメレダが茂みで話をしてても気づかない振りをする。
 噂話はすぐに忘れる。もし、話を振られたら「そうですね」で流す。
 いつも、とりあえず笑顔。間違ったことをしたらとにかく謝る。
 それが今のアニスの方針だった。ずっとアビュー家にいたいなら、他の使用人ともうまくやっていかなければならない。
 だが、その方針が最近揺らいでいる。ルシャデールは大人たちの顔色なんか伺わない。両腕を広げて向かい風を受け止める。
(かっこいいな)
 アニスは憧れにも似た気持ちで彼女を見ていた。もちろん、彼女はアビュー家の御寮様だから立場が違う。
 大人に秘密の計画を持つことは危険だと、『方針』は警告している。それは小さな棘のように胸に刺さっていた。
 アニスはよろよろ立ち上がると、目の周りをぬぐって出て行った。
 
 他の者の思惑をよそに、ルシャデールにとって当面の気がかりはアニスとの約束だった。とりあえずは、書物で例の植物について調べてみようと、午後から書庫へ向かった。
 廊下の突き当たりの書庫の扉が開いている。そこにデナンの姿があった。調べものでもしているのだろう。ルシャデールはまっすぐに書庫に向かう。
「これは御寮様、お勉強ですか?」
 デナンは彼女の姿を認めてたずねた。
「うん、植物とか薬草の本を見たいと思って」
「それでしたらこちらに」
 彼は書庫の奥の方へ案内してくれた。
「この二冊が適当かと思います」
 書棚から出して彼女に差し出した。植物図鑑と薬草の本だった。
「ありがとう」
「辞書はお使いになりますか?」
「ジショ?」
「わからない言葉を調べる本です」
 きまり悪そうにルシャデールはうなずく。
「聞いていい?」
 分厚い辞書を受け取りながら、意を決したように彼女は侍従を見上げた。彼は開きっ放しだったドアを閉めに行った。他の召使に聞かれてはいけない話題だと察したようだ。
「何でしょうか?」
「この前の女の人のことはトリスタンから聞いた。で、あなたと結婚していることになっているって?」
「はい、その通りです」
「……それでよかったの?」
 大人びた顔で彼女は侍従をじっと見つめた。デナンもまっすぐ見返す。
「はい」迷いなく彼は答えた。「御前様から打ち明けられた当初、認めることはできませんでした。三年近く議論した末、わたくしが折れました。普段は物事に執着なさらない方ですが、これだけは譲れぬと」
「それじゃ自分が結婚できないじゃない?」
 彼は微笑むだけだった。
「好きな女の人、いないの?」
「……わたくしには手の届かぬ方でした」
 ふうん、と気のない相づちを打つ。それから酒場でくだを巻くおやじのような口調で言った。
「ま、女なんかいない方が世の中平和だよ」
 デナンの目が笑う。
「でも、神和師の侍従は苦労が多そうだね。ユフェレンは変わり者が多いし、現実的な世渡りが下手だって聞いた」それはカズックに聞いた話だ。
「お嫌いですか、あの方が?」
「大人はみんな嫌いだ」
 するとデナンはクスクス笑った。
「何がおかしいの?」
「こんなことを申し上げると失礼かと存じますが、わたくしの子供の頃によく似ていらっしゃると思いまして」
「あなたの子供の頃?」
 ルシャデールはこの侍従に興味を持った。
「わたくしの家は貧しい貴族でした」
 働かなくても十分生活できるもの、それが貴族だ。しかし、貴族もさまざま。下級の貴族になると、荘園など持たず、働かねば食べていけなかった。
「父が早くに亡くなり、母は働くことなど考えられない女でしたから、幼少の頃よりわたくしが生活を支えておりました。荷車押しから使い走り、井戸掘りや畑仕事の手伝い、いろいろな仕事に手を染めました」
 そんな風には見えなかった。貴族的な物腰に、武人としての鋭敏さも備え、庶民のように体をこき使う仕事をしたような泥臭さはまったくなかった。
 ルシャデールは黙って続きを促す。
「貴族からは働くなど貴族の風上にも置けぬと蔑まれ、平民からはあれで貴族かと嘲笑され……。そんな頃のわたくしと、御寮様はよく似ていらっしゃると思ったのです」
「可愛げのなさならきっと私の方が上だ」
 ルシャデールは自慢にもならないことで威張る。
「はい。わたくしは品よく、突っ張っておりました」
 デナンはぬけぬけとそう言って微笑った。
 普段のデナンから察するに、そんな話など滅多に他人にしないのだろう。ルシャデールに話したのは、おそらくトリスタンのためだ。主人とその養女の仲がうまくいっていないのを見て、わずかでも二人の間をつなごうとしているように思えた。
「幸せだね、トリスタンは」ルシャデールはぽつりと言った。「あなたのような人がそばにいてさ」
「おそれいります」
 自分にも彼のような侍従がつくのだろうか。ルシャデールはデナンを見上げる。
「神和家では『侍従は召し出される』と、よく言われます。嗣子が成人の儀式を迎える十五、六歳までには、おそば近くに現れているそうです」
「あなたもそうだったの?」
「わたくしは当初、御前様の護衛としてアビュー家に参りました」
 その時トリスタンはまだ家督を相続していなかったが、侍従は他に決まっていた。しかし、翌年その侍従が急死したため、デナンがその後を引き継いだ。
「御寮様にも、ふさわしい侍従が必ず現れます」
「そうだといいね」他人事のような口調だった。そもそも、ずっとここにいるどうかもわからない。
 だが、デナンが彼女に向けるまなざしには、アビュー家の嫡子への敬意と信頼が見える。居心地が悪くなって彼女は本をぎゅっと抱きしめ、部屋に戻った。
 結果的に植物図鑑と薬草事典はあまり役に立たなかった。植物図鑑は絵入りだったが、肝心のヌマアサガオとマルメ茸は出ておらず、薬草事典には両方とも記載されていたが、処方については記述がない。
「デナンのやつ、私が悪さしないよう、わざと役に立たない本をよこしたんじゃないのか……」
 一人ごちて、門のところにいた守護精霊のことを考えた。
 精霊たちは時に気難しい。礼を失すると、何も教えてくれないどころか、かえってひどい目に合わせられる。
「カズックに相談した方がいいか……」
 ルシャデールはつぶやいた。
  
 その晩、ルシャデールは屋敷の守護精霊を訪れた。彼はたいがい正面門の近くにいるらしい。そのそばには門番小屋がある。門番は三人いるが、一人は必ず不寝番にあたっていた。
 見つからないように体は寝室に置いてきた。今の彼女は幽霊のような状態だ。
〈こんばんは、守護精霊……様〉ルシャデールは声をかけた。
 守護精霊はあごひげをはやした顔をを彼女に振り向けた。
〈アビュー家の跡継ぎ、ルシャデールです。御挨拶が遅れもうしわけありません〉
 ぺこんと、頭を下げる。口上はカズックに教わった通りだ。
〈五十二代目じゃな〉
〈はい、いつも屋敷を守ってくだ……くだすってありがとうございます〉
〈アビュー家の者がわしと話をしに来たのは八代前の当主以来じゃ。しかし、挨拶のためにだけ来たのではなかろう?〉
〈この屋敷の庭の花守に会いたいのですが、どこにいるのか知りませんか?〉
〈花守か……あれは滅多に姿を見せぬ。人間嫌いな子でな〉
〈なんで……いえ、どうしてですか?〉
〈あの子は昔、人間だったらしいのだが、その時に酷い目にあわされたという話じゃ。会ってどうするのかね?〉
〈薬草の処方を教えて欲しいと思ったんです〉
〈何の薬草じゃな?〉
〈ヌマアサガオとマルメ茸です〉
 守護精霊は眉間にしわをよせた。
〈ふむ、ヌマアサガオとマルメ茸とな。その目的は?〉
 精霊をだますのは難しい。彼らはその場にいなくても、ものごとを知ることができるからだ。
〈屋敷にアニスという男の子がいます〉
〈おお、知っているぞ。毎朝夜明け前から門前や玄関前を掃除している坊やだな〉
 五月も末になると日の出はかなり早い。感心しつつルシャデールは続けた。
〈彼が亡くなった家族に会いたいと言いまして、『天空の庭』に連れて行くと約束しました〉
〈ふむ。それは確かに会いたかろうな。花守は……まあ別に花守に限ったことではないが、無礼な口をきいて機嫌を損ねさえしなければ、教えてくれるじゃろう。ただ、昔話をちょっぴり聞かされるかもしれないが〉
〈機嫌を損ねたらどうなります?〉
〈草花や木をすべて枯らせてしまうかもしれぬ。もっとも、あの子の力が及ぶ範囲はこの屋敷に限定されておるが〉
 薬草が全部枯れたとしても、アビュー家の財力ならば、どこからか買い入れることは可能だろう。しかし、枯れた庭にクホーンや頻伽鳥(びんがちょう)、その他の精霊たちが訪れることはないだろう。人間が気づいてなくても、草木や精霊の存在が与える影響は小さくない。ルシャデールはそう思っている。そして、それは当主であるトリスタンや彼を頼ってくるケガ人、病人にも作用しているはずだ。
〈しかし、まあ、天空の庭の本質を理解している者ならば、彼女の機嫌を損じることはあるまい〉
〈天空の庭の本質?〉
〈別に頭で理解していなくてもいいのじゃよ。心の奥深くでわかっていれば〉
〈ご機嫌を損じないようにしたいと思います〉
〈うむ、そうであるよう祈っておるよ。呼び出すのは簡単だ。『かわいいミディヤ、出ておいで』庭でそう呼べば姿を現す。できればアニスというその坊やの方がいいかもしれん。あれは男の子にそう呼ばれると喜ぶ〉
〈ありがとうございます、守護精霊様〉
〈エムルトと呼ぶがいい。『様』などと、こそばゆくてかなわぬ。たまに遊びにくるのはいっこうに構わぬぞ。現世(うつしよ)に生きる人間と話すのは久方ぶりじゃ。そのうち、わしの来し方を話して進ぜよう。精霊とてそれぞれに歴史があるのじゃ〉
〈長そうなお話ですね。〉ルシャデールは苦笑した。
〈わしがこの固い世界に来たのはざっと二千年ほど前じゃろうか。カズック殿に比べるとひよっこじゃがな。あの方は大地の核のように年古(としふ)りておる〉
〈そう……なのですか?〉
 カズックが神だったことは知っているが、どれほど長命か考えたことはなかった。まして、彼の過去など想像も及ばない。
〈よい子は寝る時間じゃな。またおいで〉
 ルシャデールは頭を下げると自分の体へ帰って行った。

 フェルガナの雨季は、それほどじめじめしていない。一日に二、三回、一時間程度さーっと雨が降り、再び陽が射す。それが五月の末頃からひと月程度続くのだ。
昼前に降った雨で庭は濡れていた。埃が洗われた草木は緑鮮やかだ。葉に置かれた露が陽光をはじき、小さな水晶玉と化している。
 アニスはかごを手に薬草園を歩きながら考え込んでいた。おととい、花守を探すよう言われた。もともと自分の頼みから始まったことだ。それをかなえてくれようとするルシャデールには感謝している。しかし……。
 彼はあたりに人がいないか見回した。誰かに聞かれたくはなかった。
「かわいいミディヤ、出ておいで」小さな声でつぶやいた。「かわいいミディヤ、出ておいで」
(うわあ、なんだか恥ずかしい)
 そんなことをやっているうちにかごはいっぱいになった。もう戻ろうとして、何かが聞こえた。
(え、風の音? それとも……)
〈ねえ、聞こえてる?ねえったら〉
「え? 誰?」
〈誰って、あなた呼んだでしょう〉
 高い声、いや、正確には肉声ではない。頭の中に直接女の子のような高い声が響いてくる。
「君はミディヤ?」
〈『ミディヤ』じゃないわ。『かわいいミディヤ』よ。間違えないで〉
 どっちだっていいじゃないか、と思ったが、ルシャデールからの注意を思いだす。精霊を怒らせるとひどい目に遭うらしい。ひどい目というのが、魔法で蛙に変えられるのか、魔物に食べられてしまうのかわからないが、ここは素直に言うとおりにするに限る。
「かわいいミディヤ、どこにいるの?」
〈いやだ、あなた見えないの。〉
 次の瞬間、何かが顔の前を通り過ぎ、彼のまぶたに触れた。
「うわあああっ!」
 目の前に大きな影が現れてアニスは後ろへのけぞり、尻もちをついた。目に入ったのは大きな葉っぱの形に枝のような手足がついたものだった。目鼻らしきものはない。背の高さは周囲のラベンダーに隠れるくらいだ。
〈そんな、お化けでも見たような驚き方しないで〉
 花守は気分を害したようだった。
(お化けでも見たような……って、お化けに見えるんだけどな。でも、ご機嫌なおしてもらわないと。
 アニスは立ちあがった。
「ごめんなさい、いきなりでびっくりしたから。君が花守のかわいいミディヤさん?」
〈そうよ。あなたは?〉
「僕はアニス。ここのお屋敷で働いているんだ。君は薬草のことを何でも知っているって聞いたから、教えてほしいと思って。御寮様がドルメンのところにいるんだ。一緒に来てもらえるかな?」
〈ドルメンはいや。昔、あそこでひどいことされたの〉
「じゃあ、ここに連れてくる。待ってて」

 すぐにアニスはルシャデールとカズックと一緒に戻ってきた。
 さすがに精霊慣れしているのか、花守の姿を見ても彼らは驚かなかった。平然と木の葉に挨拶する。
 四人は庭師たちに見つからないよう、彼らは薬草園のずっと南側へ移動した。この辺はあまり草花も植えておらず、自然の野原みたいになっている。庭師たちも寄りつかない。今はタンポポに似たコウゾリナと白いヒメジョオンが花を咲かせていた。この一角に半分壊れた物置小屋があるのだ。四人はそこへ入った。
「あなたはサラユルなの?」
 花守はルシャデールに向かってたずねた。
「サラユル? それは何? それとも誰?」
「知らないの? ずーっと昔のアビュー家の人。私は彼を待っているの。」
 ルシャデールの目には、彼女と同い年くらいの女の子の姿が重なって見えた。ぼさぼさの赤茶色の髪、ぽかんと開いた口。やぶにらみの目は焦点が合っていない。
「あたし、大昔にここのドルメンで生贄にされたの。オスニエ川、ああ今はカベル川だったわね、川が氾濫したの。たくさんの家が流されて、人がいっぱい死んだわ。畑もだめになって、食べる物がなくて、飢え死にする人も出てきて」
 生き残った人々は、月の女神シリンデの巫女にお伺いをたてた。すると、「生贄を捧げよ」との御宣託が下ったのだ。生贄にするのは若い娘か子供と決まっている。しかし、自分の子供を生贄に出したい親などいない。
「私は他の子より頭が弱かったの。五歳くらいになっても言葉がうまくしゃべれなくて。ご飯食べるとか、服を着るとか、他の子が一人でできることができなくて、父さんや母さんは怒ったり、悲しんだりしたわ。でも、可愛がってくれていた」
しかし、村長たちが役に立たない子だから、いい厄介払いになるぞ、と父親に迫ったのだ。村長から畑を借りていたこともあって、逆らうことはできなかった。それに、養わなければならない子供はミディヤの他にもいたのだ。
「黒曜石の大きなナイフが私の心臓に突き立てられたわ。とても恐ろしくて、苦しくて。そのままずっと、何百年か私はあのドルメンにいたの。ナイフを突き立てられたまま。
 だけど、ある日サラユルが助けてくれたの。もう大丈夫だよって。ナイフを抜いて、空のお庭に連れて行ってくれたわ。それはとても素敵なところ。だけど、あたしが何よりも嬉しかったのは、長い苦しみを終わらせてくれたこと。そして『かわいいミディヤ』と呼んでくれたことだわ。生きていた時、男の子はあたしを見ると石を投げたもの。サラユルはアビュー家の跡取りだったの。もちろん癒し手よ。銀色の髪に、青い目をして、水晶の精みたいに素敵なの。彼の役に立ちたくて、生まれ変わることはせずに、花守としてここに降りてきたの。サラユルと一緒にいたのは三十年くらいだったかしら。病気で死んじゃったわ。癒し手なのにね。だから、あたし待っているの。彼が生まれ変わってくるのを。でも、あなたたちの中に彼はいないみたいね」
「残念ながら」
 ルシャデールは他に言いようもなかった。生まれ変わりと言っても、同じ国に生まれて来るかはわからない。
「もし、会えたらどうするの?」
どちらかと言えば泣き虫のアニスは、ミディヤの話を聞いてすでに鼻水をぐしゅぐしゅさせている。
「お空の庭からたくさんの花の種を持ってきて、世界中を花だらけにする!」
「サラユルは喜ぶだろうね」そろそろ本題に持って行かなければ。ルシャデールは話題を変えた。「実はお願いしたいことがあるんだ。」
「ああ、そうだったわね。なあに、お願いって?」
「マルメ茸とヌマアサガオの処方を教えてほしいんだ」
「あれは心が体から抜け出してしまうわよ」
「うん。この子を天空の庭に連れて行きたいんだ」ルシャデールは親指でアニスを示した。
「そうなの。ちゃんと帰ってくるんだったら……マルメ茸は小さめを二個、ヌマアサガオは種を一掴み。水差し一杯の水で半日煎じるの。それをコップに一杯飲めばいいわ」
「ありがとう、かわいいミディヤ」アニスが言った。
「時々は呼んでちょうだい。あたし、またあなたとお話ししたいわ。お茶とお菓子も用意してくれるとうれしいわ」
 アニスは半ばひきつったような顔で、それでもにっこり笑って花守を見送った。
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