第4話

文字数 28,177文字


 方向からするに、どうやら我々は都心に向けて進んでいるようだった。トシトシは運転中は煙草を吸わず、ただじっとハンドル操作に意識を集中していた。横から見ると、その顔は不思議な哀愁(あいしゅう)(たた)えているように感じられなくもなかった。この人はこの人なりに、いろんなことを通り抜けてきたんだろうな、と僕は思った。僕なんかでは想像もできないようなことを。(ひたい)に刻まれた皺の一本一本が、それらの経験が彼女の身に染み込んだことを、如実に表しているように感じられた。

 時刻は遅かったものの、信号が多いせいでなかなかスムーズには進まなかった。彼女は注意深く前の車との間に車間距離を取っていた。おそらくさほど急いでいる、というわけでもないのだろう、と僕は思った。

「それで、さっきの話の続きだけど」と彼女はやがて話を再開した。

「ええ」と僕は言った。

「一体どこまでいったかしら?」

「妻と子どもと、郊外の家で平和に暮らしていたところです。犬はいなかった」

「そうだったわね。ええ。犬はいなかった。でもそんなことはたいして問題ではなかった。子どもたちと暮らしているだけで、それはそれで十分楽しい生活だったから」

「あなたは当時はごく普通の男として、父親として生きていたわけですね?」

「もちろんそうよ。当たり前じゃない。オカマの父親なんてね・・・。今だったら少しは容認されていたかもしれないけれどね」

「あなたは自分を(いつわ)って生きていた?」

「うーん。それはどうかしらね・・・。たしかに昔からその傾向はあった。男の子の服より、女の子の服に興味を惹かれたりね。でもそれはさほど顕著になることはなかったの。私はごく普通の男の子として生きていた。坊主頭で、野球をやったりね・・・。まあお習字は得意だったけれど」

「たとえば恋愛なんかはどうだったんですか? あなたは男の方が好きだった?」

「うーん。それは微妙なところね。たしかに格好良い男の子にはキュンとしたけど・・・当時は女の子のことも好きだった。だからどっちも大丈夫だったの。もちろん相手がこっちをどう思っていたかは分からないけれどね」

「とにかくそうやって成長した」

「まあね。私はほら、こう見えて成績は良かったし、洋楽ばっかり聴いていたせいで英語も多少は分かったから、良い大学に行くのはさほど難しいことではなかった。そしてそこで男の子と女の子の両方に恋をして、両方ともうまくはいかなかった。ねえ、こんな話をしているとなんだか切なくなってくるわね。ところであなたには恋人はいるの?」

「いません」と僕は言った。

「欲しいと思わないの?」

「そりゃあときどき思います。でもなんというのかな・・・なんだか自分にはまだその資格がないような気がするんです。誰かと付き合ったりする資格、というか」

「ふうん。あんたって変な考え方をするのね。だってその辺のバカップルたちを見てごらんなさいよ。あいつら資格のことなんか考えてもいないわよ」

「まあそうでしょうね」

「あなたきっと頭が良いのね」

「それは分かりません。ただ少しでも自分の頭でものを考えよう、とはしているのですが・・・」

「十九歳でそんなことを考えているだけで偉いってものよ。でもときどき考え過ぎて、袋小路みたいなところに入り込んじゃうのね」

「おそらくそうです」と僕は言った。そしてなぜかTのことを思った。

「そういえばあなたはすごく頭が良い、ってあの子が言っていたわね」

「それは過大評価ですよ」と僕は少し顔を赤くして言った。

「あら、可愛いのね。赤くなっちゃって。でもまあいいわ。実をいうとね、その袋小路って感じは私にもよく分かるの。なにしろ私も似たようなところをぐずぐずとさまよっていたのだから」

「似たようなところ?」

「あら、なにもあなたと私を同列に論じているわけじゃないのよ。でも私だって当時は一人の怒れる若者だった。この腐った社会をなんとか変えてやろうと思っていた」

「それで、社会は変わったんですか?」

「ふふ。あなたって皮肉屋なのね。変わってないことくらい自分でもちゃんと分かってるじゃない。まあ、でもあそこには何かがあったわね。たしかに。そう、本当の発熱みたいなもの」

「僕のまわりにはそんなものは一切ないんですが」

「ハハ。そりゃあ時代が違うからよ。当時はパソコンさえなかったんだから。でもまあいいわ。その話は。とにかく私はそういう時代を生きていて、結局は社会を変えることができずに、一般企業に就職したの。そこで一生懸命働いた」

「一種の挫折を味わった、ということなのでしょうか?」

「挫折ってほどでもないけどね・・・。当時は生きることで精一杯だったから。それは今でも一緒なんだけどね。まあたしかに就職することを一種の変節と(とら)える向きもあったけど、私自身はそうは思わなかった。だって飯を食って生きていかなくちゃならないんだもの。そんなときに綺麗事ばっかりいってられないでしょう? あ、その顔は、あなたは同意しないのね。まあそれはまだ若いからよ。これから時間をかけて、生きるということの本質を理解していきなさい」

「あなたには・・・その、何かほかにやりたいことはなかったのでしょうか?」

「そうね・・・。たしかに本を読むのは好きだったけれど、別に作家になりたいってわけでもなかった。音楽を聴くのも好きだったけれど、ミュージシャンになりたいってわけでもなかった。もちろん才能があったなら別よ。もし才能があったら、私は作家にでもミュージシャンにでもなっていたと思う。勤め人の生活なんて、退屈なだけだからね。でも私にはなんにもなかったの。おしゃべりが得意で、大体なんでもそつなくこなす。でもこれってものがない。どうしてもこれをやりたい、ってものがなかったのよ私には」

「その感覚は僕にもなんとなく分かりますが」

「それはあなたがまだ若いからよ。若い頃は大体みんなそうなんじゃないかしら?」

 もしかしたらそうかもしれない、と僕は言った。

「そう、だからあなたは心配しなくていい。あなたならきっと何かを見つけられる。なんとなくそういう気がするわ。本能的なものだけどね。それで、あなたのことはいいとして、私のことね。そう、私にはなんにもなかったのよ。まるで穴みたいにね。女のあそこ、ケツの穴・・・とにかくなんでもいいわ。穴は穴なんだから。私は自分には核がないのだと感じていた。それも正確にいえば男でもなければ、女でもない。じゃあ一体何なの? ねえ、私は一体何なんだと思う?」

 僕には分からない、と僕は言った。

「そりゃそうよね。こんな年寄りのオカマのことなんか。それはそれとして、当時私は穴だったの。穴として生きていた。それは不思議な気分だったわ。というのも当時ですら私は、自分の人生に十分な意味がないことを知っていたからなの。それにもかかわらず、会社に入って一生懸命働いているの。モーレツ社員よ。同僚とか上司には終始笑顔を振り撒いている。気に食わないことがあっても、見ない振り、聞かない振りでやり過ごす。問題は、

、ってことなの。もちろん仕事は大変だったわよ。徹夜みたいなことも何度かやった。でもきっと、当時の私はそうやって一生懸命働くことによって、中心から目を逸らそうとしていたのね。なぜなら本能的に知っていたからよ。自分の中心にあるのがただの穴に過ぎないってことを」

「あなたは何年それを続けたんですか?」

「何年だったかな・・・。とにかくずっとよ。最初の会社に入ってしばらくして、さっきもいった外資系の会社に転職したの。それで収入はぐっと増えた。仕事も面白くなった。でも穴はずっとそのままだった。もちろん今だからそのことが分かるんだけど、当時は見ないように、見ないようにってそればっかり考えていたわね。そしてその流れの中で、知り合いの紹介で出会った女性と結婚し、子どもも生まれた」

「彼女はあなたに同性愛的傾向があることに気付かなかった?」

「どうかしらね? ある程度は気付いていたんじゃないかしら。でもあの頃は私だってこんな格好はしていなかったし、そうしようと思えば男っぽい振りをすることもできた。そしてときにこれが本当の自分なのだ、と思ったりもした」

「でも違かった」

「そうね。でもあなたには分かる? 本当の自分とは何なのか? 私たちは常にある程度は演技をしているんじゃなくって?」

「もしかしたらそうなのかもしれませんね」

「もしかしたら、じゃなくてそうなのよ。実際に。私は自分がこんな人間だから、他人の演技(くさ)いところをすぐに見分けられるの。そしてこう思う。結局はみんな同じじゃないかって」

「それは・・・どんな意味で?」

「つまりみんな空っぽだ、って意味よ。あなたも、私もね。その

をごまかすやり方が人それぞれ違っているだけなの。男とか女とかいう区分もその一つじゃないかと思っているのだけれど」

「あなたは今演技をしているのですか?」

「あんたはどう思う?」

「ええっとですね・・・」

「ハハ。いいのよ。正直にいって。このオカマパーソナリティーも一種の演技。そんなの当然じゃない。自分でもそれは分かっている。でもやめることができないの。なんというのかな・・・それはきっとこれが私にとって都合の良い衣装だからなんじゃないかしら。とりあえず外見(そとみ)には、

である振りができるしね」

「でも心は空虚だと」

「そうね。おそらく」。彼女はそこで一旦話を止めた。そしてしばらくの間ただ運転に意識を集中していた。低いエンジン音が、細かい振動となって僕の耳に入り込んできた。僕は窓から見える都会の光景をただじっと観察していた。ここで生きている人々の営為に、一体どんな意味があるのだろう、と思いながら。でもそれをいえば、今ここでこうしている自分の人生に意味があるのだとも思えない。



「それで」とずいぶん時間が経ったあとで僕は彼女に訊ねた。「たしか四十五歳のときに何かがあって、それでオカマになろうと決めた、ということでしたが・・・」

「ああ、そうね。その話だったわね。ちょっと昔の思い出に(ふけ)っていてね・・・。チッ! あの車! ちょっと! ウィンカーくらい出しなさいよ! まったく。で、何の話だったかしら。そう、四十五歳のときの話ね。その話は今まであまり人にしたことがなかったんだけどね・・・。でもなんか勢いがついちゃったからあんたには話すわ。なんだか不思議なものね。ついさっき出会ったばかりだっていうのに」

「嫌なら全然話す必要はないんですよ」と僕は頭を掻きながら言った。

「嫌だなんて。そんなことないわよ。あんたきっと聞き上手なのね。こんな風に真剣に聞いてもらえると、なんだか自分が面白い人間になったみたいな気分になる」

「あなたは十分面白い人ですよ」と僕は正直に言った。

「ハハ。あなたのそういうところ好きよ。年寄りのオカマをおだててどうするつもりなのかしら? まあいいわ。その頃の話ね。ええと・・・。ちょっと待って。今思い出すから。そう、当時私は四十五歳で、三鷹(みたか)に家を持っていた。小さいっちゃ小さいけど、それなりに高かったのよ。子どもは二人いて、上が女で下が男だった。二人とも良い子だったわ。女の子の方が活発で、下の男の子の方は大人しかった。今どうなっているのかはちょっと分からないけれどね。妻は六歳年下で・・・今思うとちょっと不思議なところのある人だった。なんというのかしらね。外見上は普通で、大人しくて、見ようによっては美人といえなくもなかったのだけれど、家に帰ると完全に自分の世界に閉じこもっていたわね。私は最初は、それは普通のことなんだろう、と思っていた。私自身社交的な性格だった、ということもあるのだけれど、そういう人は家に帰ると意外に落ち込んでいたりね。つまりそんな感じの二面性があるのは、まあ生身の人間なんだからある程度は仕方がないのだろう、と。

 でも彼女の場合はそれが度を越していたの。なんというのかな、本当に正直にいえば、きっと自分に自信が持てなかったのだと思う。外見上はおしとやかな女性を(よそお)っているのだけれど、本当は憎しみや嫉妬や、自己嫌悪に(さいな)まれている。いつも他人の評価を気にしている・・・。あら、あなたの顔はこう言っているわね。そんなのはどんな人間だって同じじゃないか、と」

「そうじゃないんですか? 少なくとも僕に関しては大体同じですよ」

「そうね。たしかにその通りかもしれない。どんな人間だって外面(そとづら)と、本当の自分とを使い分けているのかもしれない。でも彼女には『本当の自分』というものがなかったのよ。それはある意味では私とおんなじだったのかもしれない。そしてそんな空っぽの人間同士がくっついて、『家庭』と呼ばれるものを形成していた。それは本能的な行動だったんじゃないかと思うの。つまり空っぽの人間は自分と向き合うことができない。なぜならそれが『空っぽである』ということの意味だから。そしてそういう人間は、否応(いやおう)なく外部に意識を集中できるものを求めるの。私と彼女の場合、それが家庭だったというわけ」

「その中心に子どもたちがいた」

「まあね。その通りよ。これは今だから分かるけど、私たちはきっと二人揃って演技をしていたのね。私は陽気な父親を。彼女はおしとやかな母親を。もっともそれはそれでなかなか楽しかった。本当よ。子どもたちは可愛かったし、私の仕事も順調だった。ご近所との関係も良好だった。私は子どもの幼稚園のクリスマス会にトナカイの仮装をしていって、みんなの人気者になった。園長先生がサンタをやってね。私のお尻を(むち)打つの。『サンタさん、もう進めません』。『いや、トナカイ君。子どもたちのためにもうちょっと頑張るんだ。ほらニンジンだよ』。『やったあニンジンだ! これでもっと頑張れるぞ!』ってね」

「トナカイはニンジンを食べるんでしたっけ?」

「そんなの知らないわよ。とにかく子どもたちが楽しめればよかったの。そしてそれは大ウケだった。鞭打たれたときにちょっと性的に興奮したことは誰にも言わなかったけどね。それはそれとして、当時私はその演技を楽しんでいた。妻もまたある程度は楽しんでいたのだと思う。少なくとも外見上はね」

「彼女には何か、目に見える問題はあったのでしょうか?」

「ときどきヒステリックになったりとか、怒って物を投げつけてきたりとか・・・そういうことはあることにはあった。でもそんなに深刻ってわけでもなかったのよ。ある意味では彼女は自分が歳を取っていくことに耐えられなかったのかもしれないわね。甘やかされて育って――彼女が甘やかされて育ったってことは一目見た瞬間に気付いたけどね――両親に一度も反抗したことがなくて、それでいて結構美人。名門女子大を出ている。まあ男も寄ってくるわね。その中でどうして私を選んだのかちょっと理解に苦しむところではあるんだけど・・・」

「両親が()したからじゃないですか?」

「あなたって結構辛辣(しんらつ)なことをいうのね。でもそれは本当かもしれない。私は世間的には名の知れた会社に行ってたし、家柄的にも問題はなかったから。もちろんオカマの傾向があることは知らなかったわけだけどね。でもそれはそれとして、彼女はきっと私の中に自分と同じようなものを感じ取ったのかもしれないわね。そう思うと説明が付くような気がする。あなたは知らないかもしれないけれど、空虚な人間は常にしがみつくべき何かを外に探しているの。そしてそのときの私たちには、お互いがお互いにとっての格好の浮き輪のような存在だったのね。今ではそれが分かる。でも問題は、

、ってこと」

「その二人が今度は子どもにしがみついて生きていた」

「そうね。あなたのいう通りよ。私たちは子どもにしがみついて生きていた。彼らこそが私たち夫婦の生きる目的であり、希望だった。それは間違いないわね。病気になったときにはすっ飛んで帰ったし、夫婦で泣きながら病院に連れていった。休日はほとんど彼らと一緒に過ごした。欲しい物はなんでも・・・とはいわずとも、大抵は買い与えてやった。そう・・・きっと甘やかしていたのね。それは認めなくちゃならない。私たちはきっと子どもを甘やかすことによって自分自身を甘やかしていたの。でも言いわけじゃないけど、一体どこにそうじゃない親がいるっていうの?」

 僕はただ黙っていた。

「まあいいわ。たぶん問題はそこではないから。問題は、

、ということだったの。もちろん見かけとしては子どもを中心に置いた生活をしていた。でもそれは本来正しいことではなかったの。あるいはあなたなら分かるかもしれないけれど、私たちは二人とも、自分が自分として生きることの責任のようなものを子どもに押し付けていたのね。そしてそこには歳を取ることの恐怖もあった。ちょうどその数年前に私の父親が亡くなっていたの。七十三歳。肝臓がんだった。私とは違ってものすごおおく厳格な人でね。酒も煙草もやらなかった。でも肝臓がんで死んだの。まったく運命ってやつはね・・・。それはともかく、私は彼が死んだときあまり悲しまなかったの。もちろん性格的にうまが合わなかったってことはあるんだけど・・・それとは別に――こんなこと実の親にいうのはなんなんだけどね――正直人間としてはたいした奴じゃなかったわけ。本人は自分には威厳があるんだと思っていたみたいだけどね。昭和の親父。私が彼とかろうじて人間的なつながりを感じることができたのは、死んでしまう数カ月前のことだった。もともとがっしりした人だったんだけど、一気に()せ細っちゃってね。しゃべり方も()(れつ)が回らなくなってきて・・・。ねえ、それにもかかわらず私に訓戒を垂れようとするのよ。おい、酒は飲むなよ、とかね。はいはいとか言って聞いていたんだけど、そのとき突然悟ったの。自分はこの男よりずっと強いのだ、とね。そんなの当たり前だと思うかもしれない。(かた)や寝たきりで、病院のベッドでうわごとを言っている。(かた)や働き盛りで一家の大黒柱。一軒家も持っている。でもね、それはそんなに当たり前のことではなかったのよ。なぜなら彼は

父親だったからよ。やっぱり幼少期の記憶というものはしっかり残っているものなのね。彼はおっかなかったけれど、それでもやはり家族を守ってくれる(とりで)のような存在だったの。でもそれが今ガラガラと崩壊して、あとに残ったのは痩せ細った老人だけ。食事も満足に取ることができない。それは正直なところ、(あわ)れな光景だったの。特にかつての姿を知っている者にとってはね。そして私はもう一つ大事なことを悟ったの。それはつまり、

、ということ。考えてみればこれもまた当たり前のことよね。でもね、そのときの感覚は特別なものだった。私は全身に鳥肌が立ったのを覚えている。おそらく私は、そのとき初めて自分の父親を生身の人間として捉えたのだと思う。『父親』という(ころも)()いでね。そしてその(ころも)()いでしまうと、彼はほとんどなにものでもなかった。骨と皮。あとはおぼろげに残った威厳の名残(なごり)のようなもの・・・。

 私は一瞬、彼を抱きしめようかと思った。でもそこまではしなかった。周囲にいつも誰かがいた、ということもあったし、今さらそんなことをするのが恥ずかしかった、ということもある。でも本当の理由は、私が彼のようにはなりたくなかったから、じゃないかと思うの。こんなことをいうと冷たいと思われるかもしれないけれど、それが正直な気持ち。私は彼に同情すると同時に、ある意味で腹を立てていたの。というのも彼は努力を(おこた)ってきたからよ。彼は本当は、生身の一人の男として生きるべきだった。しかし固い(ころも)の奥に隠れて、ひたすら時間を潰してきたの。そのツケが最期に回ってきたってわけ。もちろん本人はそんなこと考えないわよ。本人は最期まで自分は立派な人間なんだと思っていた。でも私はその瞳の奥に、一種の憧憬(しょうけい)のようなものを感じ取らないわけにはいかなかった」

憧憬(しょうけい)?」と僕は言った。というのもそれはちょっと意外な言葉だったからだ。特に老人に対して用いるには。「それは・・・どんな種類の憧憬だったのでしょうか?」

「そんな風に訊かれると私も困っちゃうわね。なにしろ本能的に話しているだけだから。でもそうね・・・私がそのとき感じたのは、彼は本当はもっと自分らしく生きたかったのだ、ということ。もちろん口ではそんなこと言わないわよ。でも目のちょっとした動きから、私はそれを感じ取った。そしてすごくすごく残念に思った。私は正直なところ、こう思っていたの。

、って。ねえ、ひどいでしょ?」

 僕は何も言わなかった。

「まあいいわ。もう全部終わっちゃったことなんだしね。でもそのときの私は本気でそう思っていたの。こうやって生きるくらいなら、むしろ死んだ方がましだな、と。自分の父親に対してよ? でもそれが正直な気持ちだった。問題は、

、ということ。だって私の半分はあの人の遺伝子でできているわけだからね。私のお母さんとあの人がよろしくやって――あんまり想像したくないけど――その結果私が生まれたってわけ。でも私は空っぽで、あの人も本当は空っぽだった。見せかけの威厳でごまかしてはいたけれどね。今ではそれが分かる。でもそうすると、私には本当に分からなくなってしまった。

、とね。あなたには分かるかしら?」

「僕には何も分かりませんよ」

「まあそりゃあそうよね。私にだってよくは分かっていないんだから。でもあのあたりで自分の中の何かが動いた、という感覚はあるの。初めて父親を生身の人間として見て、(あわれ)みを感じて、それはすぐに怒りに変わった。私は彼の目の動きを一生忘れないと思う。それは本当にちょっとした動きだったの。まるで木の影に隠れようとする小さな動物みたいな。でもそれは本当に

だった。怯えながらも、チラチラと外の世界を垣間(かいま)見ていた。私はその姿を一瞬だけ捉えた。でもそのあとは、もう二度と戻ってはこなかった」

 彼は――彼女は――その後しばらく黙り込んでいた。そのおさげのついた頭の奥で当時の記憶がグルグルと渦巻いているのが感じ取れた。エンジンの音は低く、単調に続いていた。都会の道路はやはり信号が多く、なかなか順調には前に進まなかった。でもそれも好都合なのかもしれない、と僕は思った。特に長い話をしている人間にとっては。

 やがてトシトシは話を再開した。

「そのあと父親が死んで、葬式やなんかでバタバタして、親戚も集まってきて・・・。あれ? 私自身の話をしていたのに、いつの間にか父の話に変わっちゃってたのね。でもその話はたしかに私にとって結構重要だったみたい。つまり精神的な意味でね。あの人が死んだことは――最期は本当にあっけなく死んだわ――私の中の

を揺り動かしていたの。何か、今までずっと眠っていたものをね。

 それで、四十五歳のときの話だったわね。そう、歳を取ることの恐怖について話していたんだった。それがいつの間にか横道に逸れちゃってたのね・・・。うん、私が言いたかったのは、おそらくその恐怖をより強く感じていたのは妻の方だったのだろう、ってこと。なにしろ女だからね。それも結構魅力的な女。みんなにちやほやされて育って、結婚して、子どもを産んで・・・三十九歳になった。子どもを育てるのが生きがい、ということになっている。でもその中身は空っぽなの。私はそれを知っている。そしておそらく彼女自身もまた本能的に感じ取っている。

 こんなことをいうのはなんなんだけどね・・・つまり私たちの演技に(ほころ)びが出始めてきたの。つまり『幸福な家庭生活』という演技のね。彼女は母親の役であり、私は父親の役だった。子どもたちはまあ、ごく普通に生きていただけだと思うけどね。とにかく私は彼女の話に耳を傾けることができなくなり始めていたの。というのもその声が――正確には『トーンが』といった方が近いかもしれないけれど――好きになれなかったからよ。この女は何を言ったところでどこにも結び付いていないんだな、と私は思った。つまりね、空っぽの度合いが彼女の方がずっとひどかったのよ。私はあの歳にして、そのことを悟ったの。

、と。それはまるで、カラカラに乾いた砂漠を見ているような気分だった。ごくまれに雨が降っても、全部あっという間にどこかに吸い込まれてしまう。あとに残るのは命のない砂だけ。

 彼女はありとあらゆるくだらないことをしゃべって、それを全部私が聞くことを要求した。口を挟むことは許されなかった。たとえその話に同意していたとしてもね。彼女はしゃべって、しゃべって、しゃべりまくるの。私自身もおしゃべりな方だったから、ただ聞いているだけ、というのは辛かった。でもそんな気持ちにはお構いなしにしゃべり続ける。ご近所さんの話とか、親戚の話とか。大学時代の同級生の話だとか。はたまた子どもが今朝何をしたとかね。テレビの話もよくしていた。彼女は実のところ一日中テレビを観ていたの。そんなのこっちは全然興味ないってのにね。私は一日仕事をして、疲れきっているところにそんな話をされるわけ。子どもは寝ている。でも彼女は起きてずっと待っているの。家に帰りたくないと思ったことも一度や二度じゃなかった。でもそれって変な話じゃない。私が自分で一生懸命稼いだ金で買った家なのにね。今では空っぽの女が牛耳(ぎゅうじ)っている」

「彼女は以前には、そういう傾向はなかったのですか?」

「うーん。あることにはあったと思うんだけど、さすがにそこまでひどくはなかったわね。私たちは二人で『家庭』という虚構を作り上げていたわけだけど、それでもたまには風が吹いてくることがあったの。自然な心の風、というかね。そんなとき私は本当に、ああ、生きていて良かったな、とか思っちゃうわけ。こんな風に家族と暮らしていられて、本当に良かった、と。もっともそんなにしょっちゅうじゃなかったけどね。普段はもっとニュートラルな状態で生きていたと思う。良くも悪くもね。

 とにかく、そのときの彼女にはその風すらもなかったの。

、という感じが私の中にはあった。彼女はそのあちら側にいて、私はそのこちら側にいる。その違いを生んでいるのは、おそらくは死んだ父親の視線だった。彼は、ある意味ではまだ私の中に生きていたのよ。私にはそれを感じ取ることができた。その頃はまだ母親は生きていたのだけれど――もちろん今では亡くなっているけどね――正直なところ、彼女よりも死んでしまった父親との間の方により親密な感情を抱くことができたの。私の母親はほら、良くも悪くも無難(ぶなん)な人だったから。でもそれはそれとして、父が死ぬ数カ月前に私に見せた例の表情。ほんの一瞬だけ浮かんだ生身の彼の精神の光のようなもの。あれが私の中の大事なものを動かしていた。ポイントは

、ということなの。それはさぞかし無念だったはずよ。本人はそれに気付いていなかったとしても。私にはそれが分かる。なにしろあの男の息子なのだから。ねえ、あなたは両親とはどんな感じ?」

「普通ですよ」と少し考えていたあとで僕は言った。「それ以外の言い方を思い付けない」

「ふふ。まあまだ若いからね。きっとお互いに気まずいこともあるでしょう。でもね。これだけは言っておく。優しくできるときには優しくしてあげなさいよ。なにしろ生身の人間なんだからね」

 なんとか頑張ってみます、と僕は言った。

「よろしい。まあそれはそれとして・・・ええと・・・そう、妻の話だったわね。すぐに脱線しちゃって。そう。彼女はあちら側にいて、私はこちら側にいる。そういう話だったわね。でもそれが本当の感覚だったのよ。私たちの間には見えない、しかし高い壁があった。いつの間にかそんなものができていたの。それはあるいは正気と狂気を隔てる壁だったんじゃないか、という気がしているのだけれど」

「あなたの奥さんは、つまり・・・精神的に病んでいた?」

「今思えばそうね。でもさ、一体どこに病んでいない人間がいるっての? あなたは病んでいないの?」

「きっと病んでいますね」

「まあそうよね。私だって病んでいる。いまだにね。でもほかの奴らとの違いは少なくともその事実を知っている、ってこと。違う?」

「おそらくそうでしょう」

「そう。あんたなら分かると思ったわ。でもね、そのときの彼女はちょっと度を越していた。とにかくおしゃべりが止まらないのよ。それもほぼ百パーセントクソどうでもいいような話。そんなのって 耐えられる?」

「ちょっと難しいでしょうね」

「その通り。私だってしばらく我慢していたんだけど、何日も何日も同じことが続いたある夜、椅子から立ち上がって彼女の頬を思いっきりはたいたの。平手でね。彼女はそれでも数秒の間話し続けていたんだけど、突然はっと話すのを()めた。そしてじっと私のことを見ていた。そのときの視線ったらなかったわね。本当に透明で、まるで少女みたいなの。私は彼女の本当の部分を見たと思った。今までずっと眠っていた部分をね。それは正直嬉しいことではあったのだけれど、一方で哀しいことでもあった。なぜならそれは本来自然に、彼女自身の努力によって表出されるべき部分だったからよ。それがこんな風にある意味歪んだ形で表に出てくるなんてね・・・。

 でも幸い――というかなんというか――その部分はすぐに消えてしまった。まるで砂漠に水が染み込むみたいに、ね。あとにやって来たのは不気味な静けさだった。子どもたちはすでに眠っていた。私はまだスーツ姿で、彼女は台所の椅子に座って茫然としている。時刻は真夜中で、刻一刻と時は前に進み続けている・・・。

 と、そのとき何かが起きたの。私は始め彼女が泣いているのだと思った。でも泣いているわけじゃなかった。だってどこにも涙の跡は見えなかったからね。それでも何かが変だった。何がおかしいんだろう・・・って私は思う。するとそのときそれが

であったことに気付く。まるで喉の奥で(うな)るような、そういう音。もちろん彼女がその音を発していたんだけど、始めはそれを信じることができなかった。というのも見た目はまだ綺麗だったからね。でもその奥から発せられるのは、(みにく)い、憎しみのこもった、低い地鳴りのような音に過ぎなかった。私はただじっとそれを聞いていた。だってほかに何ができる? もう一度ひっぱたけっていうの? 私にはそんなことはできなかった。というのも彼女が不憫(ふびん)でならなかったからよ。この女は不毛な魂を抱えている、と私は思った。でも真に問題なのは、彼女が自分で自分を駄目にしているってこと。彼女はもしそうしようと思えば、つまり死に物狂いで残りの人生努力し続けたなら、あるいは救いを得られるかもしれない。でもそんなことはどう転んだって起こりっこなかった。若い頃からあまりにも甘やかされ過ぎてきたからよ。彼女は自分を信じることができなかった。信じようという気さえ起こさなかった。それが壁の『こちら側』と『あちら側』という意味なの。私にはまだかろうじて自分を信じることができた。それはあるいはこの家庭生活とか、会社での生活とか、外に向けた自分のパーソナリティーなんてものが、結局は単なる演技に過ぎないと知っていたからだったのかもしれないわね。たしかに私はお調子者ではあったけれど、その分本当の自分というものを奥の方に隠しておくことができた。『本当の自分』なんていたのかどうかも分からないけれど、少なくともそういう感覚があった。でも彼女に関しては、

それを信じていたんじゃないか、という(ふし)があるの。つまり家庭生活とか、この普段の日常がすなわち本当の世界である、とね。だから今その幻想が崩れ去ったとき――私がひっぱたいたせいね――茫然として何がなんだか分からなくなっちゃったんじゃないかって。それはもちろん強い人間にとっては、一つの必要な過程ですらある。あなたなら分かると思うけどね」

 僕はとりあえず頷き、言った。「なんとなく、ですが」

「なんとなくでも分かってりゃいいわよ。でも彼女はそうじゃなかったの。彼女は強い人間ではなかった。というか、

人間だったの。そしていつまでも可愛らしい世界の中で、幻想を見て生き続けたいと欲していた。でも私にはそれは耐えられなかった。その矛盾が、あの夜に実際の形となって噴出したのかもしれないわね。

 一体どれくらいの間そうしていたのか、もう思い出すこともできない。一時間くらいそうしていたのかもしれないし、ひょっとしたら五分くらいだったのかもしれない。でもそこでは、時間というものがたいして意味を持たなかったのよ。少なくとも客観的な意味での時間というものはね。なぜならそこは私と、彼女だけの世界だったから。もちろん今まではそんなことは起こらなかった。ただの一度も起こらなかった。というのもそうならないように無意識にお互いに努めていたからよ。でも今何かの加減で、そこに行くための扉が開いたの。そういう感覚があった。

 私は始め彼女に謝ろうとしたのだけれど――だって暴力を振るったのは初めてだったからね――すぐにそんな意図も消えてしまった。というのも彼女がなんにも見ていないことは明らかだったからよ。もちろん彼女は本当はそこにあるものを見なければならなかった。つまり自分の平和な、狭い、(いつわ)りの世界観が崩れたあとに、一体何がやって来るのかをね。でも彼女はそんなことができる人間ではなかった。なぜか私は大丈夫だったのだけれど、彼女は駄目だった。彼女は意識をどこか遠くの方に押しやることによってそれに対処した。つまり何も見なかった、聞かなかった、ということにして、もとの世界に戻ろうとしたのね。でもまだ扉は開いていた。私にはそれが分かった。そしておそらくそのために、あの一番最初の部分で、彼女の本当に大事なところが表出されたのだと思う。まるで少女みたいなね。でもそれはすぐに消えて――砂漠の奥に、ね――あとに不気味な音がやって来た。それは明らかに闇の世界からやって来たものだった。私はできればそんなものは見たくもなかったのだけれど、どうしてもその場を離れることができなかった。なにしろ一家の父親だったわけだからね。家の中で起きていることに、面と向き合う責任というものがあった。でもそれだけじゃなく、おそらくは心の底の方で、彼女がどうなるのか見てみたい、という好奇心があったのよ。怖いもの見たさ、というかね。その時点ではすでに彼女に対する同情は消えていた。はっきりいって同情に値するような女ではないのだ、と私は思った。自分の妻に対してそんなことを思ったのは、初めてのことだった。

 やがて彼女の表情に変化が現れたの。その目はほぼずっと茫然としたままだったんだけど――もちろん最初の瞬間は別にしてね――今突然どこかに焦点が定められたの。それは私の背後ちょうど一メートルくらいにある何かだった。私は背筋が凍りついたのを覚えている。全身から一気に血の気が引いていった。彼女の(うな)り声は、今ではギ、ギ、ギ、ギ、という歯ぎしりのような音に変わっていた。それは耳の穴から私の中に入り込み、私の奥の、何か非常に大事なものを奪い去ろうとしていた。かろうじて残っていた、生きる意味のようなものをね。

 もちろん私としてはそんなことを許すわけにはいかなかった。はいそうですか、といってそれを明け渡すわけにはいかなかったのよ。なぜなら私はまだこちら側にいて、彼女はあちら側にいたからよ。私には本能的にそれが分かったの。そしてあちら側にいる人間は、盲目的に周囲のものを引き込んでいくの。なぜなら寂しくて仕方がないからよ。彼らは絶望的に孤独なの。でも、にもかかわらず、最後まで自分と向き合うことができない。

 私はそんなことを、おそらく本能的に感じ取っていたんだけど、なぜかその場を離れることができなかった。もちろん彼女をそのままそこに置いておくわけにはいかなかった、ということもある。さっきも言ったような、一種の好奇心というものもあった。でも今では

身体が動かなくなっていたの。そう、物理的に、よ。そのときはテーブルを挟んで、彼女の向かい側に座っていたんだけど、どれだけ力を込めても立ち上がることができなかった。テーブルに両肘(りょうひじ)を突いて、指を組み合わせていたのだけれど、その姿勢を変えることすらできなかった。かろうじて呼吸はできていたけどね。その中で彼女の視線を感じながら、例の不気味な音を聞いていなくちゃならなかったの。子どもが二階から降りてこなければいいな、とそれだけを考えていたことを覚えている。何があっても彼らにこんな光景を見せるわけにはいかない、と。

 と、そのとき突然歯ぎしりが()んだの。何があったのだろう、と思って視線をテーブルから彼女の方に移した(目だけは動かすことができたのね)。でもその表情には何の変化もない。私の後ろ、ちょうど一メートルくらいにある何かを見つめている・・・。と、そこで

が私の肩を触ったの。そう、両肩をね。でもそんなのおかしいじゃない。だって子どもたちは二人とも二階で寝ている。彼女は目の前にいる。そして私はこうして身動きが取れずにいる。だとすると、一体誰がそこにいるというの? でも実際にその誰かは――

は――そこにいたの。そうか、彼女はずっとそれを見つめていたのだな、とそのときようやく私は気付いた。私だけがそこに何かがいることに気付いていなかっただけなのだ、と。

 それはものすごく冷やりとした手だった。私は――相変わらず身体は動かなかったんだけど――

、と思った。本気でそう思ったの。その何かはどうやら私から体温を吸い取っているみたいだった。私にはそれを感じ取ることができた。そしてそれと同時に、そのほかのいろんなものもまた奪い取っていったの。私という人間を構成していた記憶やら、想念やら、個人的哲学なんかをね。その結果私はどんどん穴に近づいていった。完璧な穴にね。もちろん私はある程度はそのことを自覚しているつもりでいた。自分は穴なのだ、と。でもそのときに感じた不毛さは、これまでとは比べ物にならないものだった。だって本当になんにもないのよ。温かみもなければ、光もない。風も吹かない。あるのは暗闇だけ。

 私はどうしたらいいのか分からなかった。というかまあ、もし分かっていたとしても身体は動かなかったんだけどね。でも、たとえそうだったとしても、私はこのままそこにいる誰かに――

に――吸い尽くされてしまうわけにはいかなかったのよ。なぜなら私は生きていたから。たいしたことはしていないにせよ、いまだ私は一人の生きている生身の人間だったの。というかその事実をひしひしと感じ取っていたのよ。そんなのは生まれて初めてのことだった。あるいは死に極限まで近付いていたことが――そう、そのときの私は死にギリギリのところまで近付いていたのよ――その感覚を呼び起こしたのかもしれなかった。私は

、と思った。生まれて初めて、そう強く思ったの。

 そのとき彼女が動き出した。これまでずっと同じ姿勢のまま私の後ろを見つめていたのだけれど、今突然椅子から立ち上がり、キッチンの方に行ったの。そして家で一番切れ味の良い包丁を持って戻ってきた。先の尖っている、でかいやつよ。その足取りには確固とした意思が感じ取れた。彼女は今何かの確信を持ってこの行動を取っているのだ、と私は思った。

 彼女は私の前に来ると動きを止めた。そして包丁を構えたの。私は最初、自分が殺されるのだと思った。殺されるだけのことをしたとは思えなかったのだけれど、もし彼女が人生に対する恐怖や、フラストレーションや、あるいは行き場のない怒りなんかを、全部この私に向けたのだとすれば、それはあり得ることだと思った。でも私は生きたいと思っている。

生きたいと思っている。でも状況はその反対の方向に向かっている。どうして人生はこううまくいかないのだろう、と私は思った。どうしていろんなことが、もっとスムーズに前に進んでいかないのだろう、とね。

 でもそんなことを思ったところで、何一つ状況は好転しなかった。私の後ろには相変わらずその

がいて、私の中の価値あるものを次々に吸い取ろうとしていた。そして妻は――空っぽの妻は――包丁を構えて私を殺そうとしている。その尖った先端が、(にぶ)く光り輝いている。私はまだその光景を鮮明に覚えている。まるで網膜の奥に焼き付いてしまったみたいにね。ちなみに音はなかった。彼女が歯ぎしりを()めてしまって以降は、部屋はほぼ完璧な無音に包まれていた。まるで背後にいる何かが音をも吸い取ってしまったみたいにね。

 と、そのとき誰かの足音が突然響いたの。階段を降りてくる音だった。ト、ト、ト、ト、トという軽い足音。それはたぶん息子のものだった。私ははっとして自分を取り戻し、急いで背後にいる何かの手を振り払った。そう、突然身体が動いたの。たぶん息子の存在が、私にまだ自分が生きていることを思い出させてくれたのね。それはともかく、私は反射的に妻の手から包丁をもぎ取ろうとした。まずそれが第一に()すべきことだと思ったのね。でも彼女は素早く一歩身を引いて――普段はそんなに速く動けないんだけどね――自分の首に包丁の刃先を当てたの。私はよろめきながらもう一度その手に掴みかかろうとした。でも彼女はもう一歩下がって、躊躇(ちゅうちょ)なく包丁を動かした。それはすっと彼女の肌を切って――幸いほんの薄皮を切っただけだったんだけどね――赤い血を(にじ)ませた。その色は本当に鮮やかだった。あまりにも鮮やかだったので、現実だとは思えなかったくらい。でもそれは現実に起こったことだった。深い心の闇が噴出して起きたことではあったのだけれど――私にはそれが分かったわ――それでもそこは現実だった。その証拠に、今まさにここに息子がやって来ようとしている。

『お父さん!』と彼は言っていた。その声を聞くのとちょうど同じタイミングで、私は妻の手から包丁をもぎ取った。彼女はまるで力を失ったみたいに、へなへなと床に倒れ込んだ。首から鮮やかな血を垂らしながら。

『来るな!』と私は叫んだ。ありったけの威厳を込めてね。たぶん死んだ親父よりも迫力があったんじゃないか、って思うくらい。息子が――当時十歳くらいだったかな――ドアの前で動きを止めるのが分かった。私はこれまで一度もそんな強い口調で話しかけたことはなかったから、彼もどうしたらいいのか分からなくなったんだと思う。

『お父さん』と彼はもう少し経ったあとで、ずっと小さな声で言った。私はその間に妻を楽な姿勢に寝かし、傷の深さを確認した。幸いそれはさほどたいした傷ではなかった。彼女はきっと一種のショックによって気を失ったのだろう、と私は思った。

『ちょっとそこで待っていなさい!』と私は息子に向けて叫んだ。そしてその隙に、血の付いた包丁を流しに持っていって洗った。だってそんなものを見せるわけにもいかないじゃない。そして清潔な布を持ってきて、彼女の首を拭いてやろうと思ったそのとき、何かが意識を叩いた。トントン、とね。そいつはこう言っていた。

、とね」

 トシトシは一旦そこで黙り込んだ。そしてただじっと前の車のテールランプを睨んでいた。車高の低い、高級そうな赤いスポーツカーだった。僕も同じように、ただじっとその車のことを睨んでいた。何か意識を向ける対象が必要だった。僕も、おそらくは彼女も。やがて彼女は話を再開した。

「そう、それでね、私は

を見てしまったのよ。それはもちろん、私の肩をずっと触っていたあの『何か』だった。私は妻のことに気を取られて、すっかりそのことを忘れてしまっていたのね。それに急に息子がやって来たこともあった。私は混乱して、ただ目の前のことに意識を奪われていた。

 でも布を持って戻ってきたとき、私の視界の先にはまだ

がいたの。おそらく私が動けるようになったあとも、まったく同じ場所に留まっていたのね。今ではそれが分かる。それと面と向き合ったとき、私は呼吸をすることさえ忘れてしまった。はっと息を呑んで、そのまままた動けなくなってしまったの。足元には妻が(あお)向けに倒れている。首にはまだ血が(にじ)んでいる。でもそんなこととは関係なく、私はそこから目を離すことができなくなってしまった。なぜならそこにあったのは

だったからよ」

「あなたは具体的には何を見たんですか?」と僕は言った。

「それに関しては口で説明することはできない」と彼女は言った。「というか口で説明しても意味がないものなの。言っている意味分かる?」

 正直よく分からない、と僕は言った。

「まあそうよね。分かるわけないわよね。でもそれはとにかく真実だったの。私には一目でそれが分かったし、そうじゃないという奴はくたばってしまえばいい。なんにせよ、私はそこで

と面と向き合っていた。それが奇跡的な出来事だったってことは今ではよく分かる。そのときには全然気付かなかったけどね。とにかく目の前の物事に対処するだけで精一杯だった。というかそれ以外何ができるっての? まあそれはともかく、大事だったのはそこである取引がなされた、ってことなの」

「取引? それはどんな・・・」

「取引は取引よ」と彼女は言った。「でもそうね・・・現実の世界のように文書を()わしたわけじゃない。にもかかわらず、それははっきりとした取引だった。ギブアンドテイク。何かを得るには、何かを失わなければならない」

「具体的にはどんなことだったんですか?」

「具体的にはこういうこと。



「それが取引の内容?」

「そうよ」

「つまりあなたは、その時点でオカマになった?」

 彼女はそこで一度大きく息をついた。黒いタクシーが隣車線から無謀な割り込みをしてきたが、彼女は(こころよ)く車間距離を開けてやった。感謝を示すハザードランプがチカチカと光った。

「まあそういうことになるわね」と彼女は言った。その口調は心持静けさを増していた。「あのとき私は、その何かと取引をした。実際に言葉を発したわけじゃないけど、そういう取引がなされたことは本能的に分かった。でもね『取引』とはいっても、私にはほとんど選びようがなかったのよ。全体の流れからいってね。だって部屋のすぐ外では小学生の息子が私を呼んでいる。あるいは何か問題があったのかもしれない(まあ実際にあったんだけどね)。すぐ足元では妻が――正気を失った妻が――首に浅い傷を負って倒れている。でも本当に問題だったのは、

、ということだったの。結局妻がおかしくなったのも、本質的にはそのせいだった。彼女は幻想の中で生きていて、これからもその狭い世界の中で生きたいと欲していた。子どもたちに関してはいうまでもないわね。彼らには彼らのハッピーな世界観が必要なの。サンタクロースと人魚姫。ニンジンを食べるトナカイさん。でも私は、父親としての私は、そこで起こっていることに面と向かって対処しなければならなかった。それは責任の問題だったのよ。おそらくそのとき一人の人間としての私が試されていたのだと思う。今ではそれが分かる」

「そしてあなたは家族を救わなければならなかった」

「まあそうね。私は、今自分が目にしている光景が、おそらく自分にしか耐えられないものなのだろう、と知っていた。本能的にね。こんなものを家族の誰かに見せたら、きっと全員頭がおかしくなるに違いないってね。まあ妻はもう頭がおかしくなっていたわけだけど。でもだとすると、もう私には選びようがなかった。なぜならなんといっても私は彼らを愛していたからよ。それだけははっきりといえる。たしかにあれは(いつわ)りの生活だったのかもしれない。夫婦二人で演技を続けていただけだったのかもしれない。子どもたちは徹底的に甘やかされていたのかもしれない。しかし、にもかかわらず、私は彼らを心から愛していたの。頭のてっぺんから、つま先まで、全部ね。そう、ケツの穴を含めたっていい。私は妻の未熟で、空っぽで、利己的な部分まで愛していたと思う。なぜなら完璧な人間なんてどこにもいないからよ。違う?」

 違わない、と僕は言った。

「そう、その通りよ。いい? はっきりいっておくけどね、この世界に生きている人間は百パーセント全員クソったれなのよ。あんたも、私もね。金持ちも、貧乏人も、男も、女もクソったれなの。老人も、若者もクソったれなの。赤ん坊だってクソったれよ。だからギャーギャー泣き(わめ)くんじゃない。とにかく私がいいたいのはね、だからこそ本当は助け合わなくちゃならない、ってことなの。分かる? 私たちは本当はすんごく(もろ)い生き物なの。それにプラスしてクソったれだときている。たった一人で生きていけるわけないじゃない。そうでしょ?」

「おそらくそうだと思います」と僕は言った。

「『おそらく』じゃないの。

そうなの。あなたはそうやってクールな振りをしているけどね、いつか絶対に誰かの助けを必要とするときが来る。そのときに強情を張っちゃ駄目よ? なぜならあんたはクソったれなんだからね」

「よく覚えておきます」と僕は言った。

「そう、よく覚えておきなさい。それで・・・何の話だったっけ?」

「取引の話です」

「そう、取引の話だった。まったく歳を取るとね・・・。まあいいわ。とにかくさっきもいったように、『取引』とはいっても私には選びようがなかったの。私は迷いなく家族を守ることを選択し、その代わりに男を捨てた。もっともそれが何を意味するのかは、そのときにはまったく分からなかったけどね」

「一つだけ訊いてもいいですか?」とそこで僕は言った。

「どうぞ二つでも三つでも」と彼女は言った。

「いや、とりあえず一つでいいです。単刀直入に訊きますが、あなたが取引をした、というのはつまり神だったのでしょうか?」

「いや、神じゃない・・・」と彼女は言った。その(ひたい)には深い皺が寄っている。「でもそうね、悪魔というわけでもなかった。いい? 私がそのとき向き合っていたのは、

だったのよ。言葉で説明できない、というのはつまりそのせいなの。だって

なのだから。言語で置き換える必要がないの。私はそのときそれと向き合っていたし、あなたはそうじゃない。いえるのはそれくらいね」

「それで、あなたは男を捨てた」

「そうね。そういうことになるわね。でもその本当の意味を知ったのは、もっとずっとあとだったけど。とにかくその取引が無事に締結された、という感覚があった。その結果私は家族を守り、男を捨てた。そのことだけは肉体的に理解できた。

 と、まるでその瞬間を見計らったかのように、また息子の声が聞こえたの。泣いているみたいだった。彼はこう言っていた。『お姉ちゃんが死んじゃう』と」

「お姉ちゃんが死んじゃう?」

「そう。どうやら上の子の方に異常が起きているみたいだった。私はその場を離れ――取引が締結された以上もはやそこにいる必要はなかったからね――急いで息子のもとに行った。そして一緒に階段を(のぼ)って、娘の部屋に入った。すると彼女はそこでうずくまっていた。彼女は当時十三歳だった。微妙な年頃ね。そろそろ胸も大きくなろうか、という頃。でもそんなこととは関係なく、何かおかしなことが起きていた。彼女はベッドの上に座って、頭を下げている。その下のシーツは赤く染まっている。何が起きたのだろう、と私は思う。電気が嫌に暗いような気がする。でもきちんと明かりは点いている・・・。

『カッターで手首を切ったんだよ!』とそのとき息子が教えてくれる。どうして彼がそのことを知っているのかは分からなかったけど、まあたぶん階段を降りてくる前にきちんと姉の様子を観察していたのね。とにかく、それを聞いて私は彼女のところに行き、無理矢理傷跡をこちらに向けさせたの。それはひどい傷だった。左の手首に、深く縦に一本切れ目が入っている。私は何かわけの分からないことを叫んで、彼女の両肩を掴んだ。そして真正面から顔を見たの。いつもは明るいはずの彼女の顔は、今ではまったく違うものに変わっていた。その目はぼんやりとしていて、焦点が定まらないの。それは母親の目を思い起こさせた。私は急いで包帯を探してきて、止血をした。その間何かを話しかけたけど、彼女は一切返事をしなかった。そのとき私は悟ったの。

、と。だからこそ自ら死のうとしたのだ、と。でもだからといって何ができる? 私に何ができたっていうの? ねえ」

 僕には何も言うことができなかった。

「おそらく彼女は下で起こっていたことを感じ取って、それで自動的に行動したのだと思う。そう考えると辻褄(つじつま)が合うような気がするの。私が向き合っていた『そのもの』には、明らかに致死的なものが含まれていた。私はそれを見ることができたけど、もちろん子どもたちはそうじゃない。妻もそうじゃなかった。どうして息子が無事だったのかは分からないけれど、あるいは私が結んだ取引のおかげだったのかもしれない。とにかく彼女は何かに動かされて手首を切ったの。そして赤い血が流れた。鮮やかな血が。

 私は急いで救急車を呼んだ。そのとき妻もまた倒れていたことを思い出して、そのこともオペレーターに伝えた。私は娘の方にかかりっきりになっていたから、息子にお母さんに付いていてあげなさい、と言った。あるいは息子はその光景を見てショックを受けるかもしれない。なにしろ状況が状況だったからね。でも私だって混乱していた。平和だった家庭生活が、一夜にしてひっくり返ってしまったのだから。それでも息子は私のいうことを聞いて、ちゃんとお母さんに付いていてくれた。彼女の傷が浅いものだということは分かっていたから、実はそれほど心配はしていなかったんだけどね。むしろ危険なのは娘の方だった。彼女の傷はそれほど深かったのよ。

 やがて救急車が来て、二人を連れていった。私と息子も、もちろん付いていった。その後のゴタゴタは、あまり話しても仕方がないわね」

「二人は結局無事だったのでしょうか?」

「まあ、そうね。妻の方はやがて意識を取り戻し、簡単な治療をしてもらって、すぐに退院することができた。娘の方はちょっと深刻だった。傷自体はなんとか()い合わせて、時間さえかければ治る、というところまでいったんだけど、精神的なダメージが大きかったみたい」

「彼女は何が起きたのかを覚えていたのでしょうか?」

「うーん。それは微妙ね・・・。彼女は何かに動かされて手首を切った。あるいは自分でも何をやっているのかよくは分かっていなかったのかもしれない。とにかく私は彼女があの夜のことを話すのを聞いたことはないし、それは妻や息子も一緒だった、ということ。彼女はその後一週間一言も口を利かなかった。退院してからも、ほんの一言二言ぐらいしか話をしなかった。妻は不思議がっていたのだけれど――そう、ちなみに彼女はほとんど何も覚えていなかったの。おしゃべりをし続けて、気付いたら床に寝ていた、と――それはそれで仕方がないか、と私は思っていた。なにしろあれだけのことが起きたのだから。一人の子どもの心には、耐え(がた)いくらいの負荷がかかっていたのよ。きっと。

 それで、私のことね・・・。あの夜以来、奇妙な噂が近所で飛び交うようになった。もちろん真夜中に救急車が来て、二人が連れて行かれたことは隠しようもなかった。そもそもこっちだって隠そうともしなかったしね。でも何が起きたのかについて、いささか誤解が生じているようだった。彼らはどうやら、

暴力を振るった結果、そうした事態がもたらされたのだと考えたようだった」

「あなたはそれを否定したのですか?」

「いや、そんなことしなかったわよ。だって一体誰に本当のことを話せるっていうの? 話したところで誰が信じてくれるっていうの? 結局あの夜に起きたことは、私が自分の心にしまい込んでおかなければならなかったことなの。それが家族を守る、ということの意味だったのよ。それでその噂はどんどん膨らんで、私が娘に性的暴行をした、ということが暗にほのめかされるようになった」

「でもそれは事実じゃないでしょう?」

「そうよ。完全な嘘っぱち。でも一度広がった噂を収めるのは、すんごく難しいことなの。それに私には真実を語ることができないときている。妻は自分で首を切って、娘は自分で手首を切った。その二つの事件が

同じ夜に起きた。そんなこと誰が信じてくれる? あの家には何かがあるに違いない、と人々は想像する。たとえば父親が日常的に暴力を振るっていたとか」

「あなたはやはりそれを否定するべきだったのでは・・・」

「あなたがそういうのは分かる。でもね、徐々にある事実が分かってきたの。それはつまり、その噂を流していた張本人が私の妻だった、ということなの」

「本当ですか?」

「本当よ。彼女はあの夜、自分がおしゃべりを続けていて、平手打ちを食わされた。そこまでは覚えている。でもそのあとの記憶が一切なかったの。それはある意味ではありがたいことだったんだけど――だって何が起きたのか説明できるわけがないからね――どうもその記憶の空白部分に、別の何かが入り込んだみたいなの。彼女は起きたときには病院のベッドで、首に浅い切り傷があった。明らかに包丁のもの。彼女は思う。一体どうしてこんなものが付いたんだろう、と。そして娘は――大事な娘は――カッターナイフで自らの手首を切っている。そこで何かがつながったのね。あるいはあのときの記憶は、全然なくなったわけじゃなくて、彼女の中で整理されないまま残っていたのかもしれない。平和な日常生活が崩されたことの恐怖、怒り・・・。そういったものが混ざり合って、彼女の中で奇妙な結論を生んだのかもしれない。

って」

 僕は黙ったまま聞いていた。目的地が近くなったらしいことが、なんとなく雰囲気で分かった。

「チッ。また工事してるわね。まったく・・・。そう、それで、噂の出所が妻だと分かったあたりに、私は警察に事情聴取されたの」

「警察?」

「そう。警察。どうやら彼女の両親が相談したみたいだった。どうやら娘が暴力を受けているみたいだ、と。その頃には上の子も帰ってきていたんだけど、家の空気はそれこそ最悪だった。会話をするのは私と息子、あるいは妻と息子の組み合わせだけ。娘はろくに口を利かないし、妻はなんだか変な目で私を見て、ほとんどこっちの話なんか聞こえない振りをしていた。それに私としたって、あんなことを経験したあとじゃあ、簡単に以前の状態には戻れないじゃない。それにそれが正しいことなのか、っていう疑問もあったしね」

「正しいこと?」

「そう。つまりあの夜にそれまで私たち夫婦が築いてきた(いつわ)りの家庭生活は終わりを告げたの。私にはそれが分かっていたし、おそらく妻にも本能的には分かっていたと思う。だからその責任を私になすりつけようとしたの。何度もいっているように、彼女は強い人間ではなかった。問題が起きたときに、それを直視して、なんとか自分の力で状況を打開しようと考える人間ではなかった。誰かほかの人のせいにして、自分は知らんぷりを決め込む。そのうちしかるべき人が責任を取ってくれるはずだ、とね」

「あなたは結局どうしたのですか?」

「結局離婚を申し込んだわよ。彼女はそれに飛びついた。私はもう少し躊躇(ちゅうちょ)するかと思ったんだけどね。彼女の中で、私はもう終わった存在だったの。それがよく分かる。結局警察には逮捕されずに済んだけど、その話は(またた)く間にご近所に広がったしね。職場の同僚にも隠し通すことは難しかった。私の立場はどんどん危うくなっていたのよ。彼女としては慰謝料と――一体何の慰謝料なのよ! まったく――養育費が得られればそれで十分みたいだった。子どもは当然のことながら彼女に引き渡されることになった。なにしろ私は家庭内暴力の加害者、ということになっていたからね。病院に運ばれたとき、彼女の頬には強くはたかれた跡があった。そして首には切り傷。その事実を持ち出されたら、こっちには何ともいいようがないじゃない。まあそれはそれとして、こちらとしてもこれ以上彼女と一緒に暮らすわけにはいかないな、というところはあったの。だから離婚そのものはたいして苦痛ではなかったんだけど・・・」

 彼女はそこで言い(よど)んだ。きっと今でも子どもには未練があるのだろう。

「娘さんは大丈夫だったんですか?」ととりあえず僕は訊いた。

「娘? ああ、そう娘ね。彼女は・・・うん。時間はかかったけど、徐々に回復していった。もともと芯の強い子だったからね。傷跡は残っていたけど、それも無事に塞がった。精神的にいえば、もしかしたら前とまったく一緒、というわけではなかったかもしれない。でもまあ、年齢的なこともあるしね。一概にはいえない。とにかく彼女は少しずつ少しずつ言葉を回復していって、ごく普通にしゃべれるようになった。笑顔を見せるようにもなった。そしてその頃に、私は家族から離れたってわけ」

「離婚後もお子さんたちには会えたんでしょう?」

「それがそうもいかなかったのよ。さっきもいったように、私は暴力を振るったことになっていたし、それだけでなく、結局は持っていた家を手放すことになった、ということもある。彼ら――妻と子どもたちね――は都心にあるマンションに引っ越したんだけど、その家賃やその他の生活費は、私が払ってやらなくちゃならなかった。そして職場では離婚を含むゴタゴタが尾を引いて、私の立場は危うくなっていた・・・。でもまあ、正直にいえば、経済的にはさほど問題はなかったの。問題は私の心。あの夜を境に、家族だけでなく、この私自身も変化していたの。離婚してしばらくして、私はあの妙な取引のことを思い出した。あまりにもバタバタしていたせいで、完全にそのことは忘れていたんだけどね。ある夜たった一人で部屋にいると――私も職場近くのマンションに引っ越していたの。というのもあんな家には戻りたくなかったから――突然そのときの記憶が蘇ってきた。そうか、自分は

と向き合っていたんだな、と。あれが奇跡的な出来事であった、ということがそのとき初めて実感できたの。あんなことはこれからの人生で二度と起きないかもしれない、と。たしかにその結果、こうして孤独にはなってしまったけど、本当の意味ではそれでよかったんじゃないか、と。なぜなら家族を守ることができたからよ。

 と、そのとき、ある重要なことに気付いた。それはこうして一人になってしまわなければ気付かなかったことかもしれない。それはつまり、例の夜から一度も、私は勃起(ぼっき)していない、ということだったの。ねえ、今のこの姿からは想像できないかもしれないけれど、当時私はまだ男だったの。少なくとも自分ではそう思っていた。だから状況が状況であったにせよ、まったく勃起しない、ということはあり得なかった。普通ではない、というかね。でもそれはやはり事実だった。そしてそのとき悟ったの。力なく(しお)れている自分のあそこを触って、心から悟ったの。自分は今オカマになったんだって。取引はきちんと遂行されたんだ、って」

 彼女はその後しばらく黙り込み、ただ運転に意識を集中していた。真夜中の都会の光景は、僕にはただの作り物にしか見えなかった。陰影が欠けているのだ。そして必然性も。

「私はその時点で、完全に家族と訣別したの」と彼女は前触れなく話を再開した。「だってオカマになった父親なんて見たくないじゃない。そうでしょ?」

「どうですかね・・・」と僕は言った。「案外受け入れられたかもしれませんよ」

「もし別の人だったら、そういうこともあり得たかもしれない。離婚後も子どもと良好な関係を保っていくオカマ・・・。でも私には無理だった。というのも私自身がそれを望んでいたからよ。私はとにかくかつての生活と訣別したかったの。あれは(いつわ)りの生活だった。どこにもつながっていないし、どこにも向かうことはない。ただおんなじ場所をグルグル回り続けているだけ。私は一度

を見てしまっていたからね。そんな人間に演技を続けることはできない。

 それともう一つ。家族を守ると決めたからには、彼らと離れている必要があると思ったの。あの夜家では大変なことが起こった。結局は妻と娘が、自分で自分を傷つけたわけだけど、私が近くにいる限り、似たようなことがもう一度起こったとしてもまったく不思議ではなかった。私にはそれが分かったの。なぜならあのとき彼女たちに正気を失わせた闇のようなものは、この私が引き込んだものだったからよ。私はおそらく、無意識のうちにあの平和で、穏やかで、表面的な家庭生活を壊してしまいたいと望んでいたのかもしれないわね。今ではなんとなくそのことが分かる。そう思うと、私は本来誰とも結婚するべきではなかったのよ。子どもも作るべきではなかったし、トナカイになるべきでもなかった。最初から孤独なオカマとして生まれ、孤独なオカマとして死んでいくべきだったのよ。そうは思わない?」

「でもその経験も・・・本当は必要だったのでは?」

「まあそうね・・・きっとあなたのいう通りなのね、哲学者さん。でもそれはそれとして、実際にああいったことを経験する、というのは、けっこうきついものなのよ。たぶんそのせいで一気に老けちゃったのね・・・。前はもっと若々しかったんだけど・・・。まあそれはそれとして、私はそのときを境にオカマになり、家族ともきれいさっぱり訣別した。家はすぐに売り払った。ほどなくして彼女には新しい夫ができた。そいつもバツイチだったらしいけどね。とりあえず子どもたちには新しい父親ができたってわけ。それで私は安心して仕事を辞めた」

「辞めたんですか? 結構いい収入を得ていた、ということでしたが・・・」

「まあね。でももう気持ちが切れちゃってたのよ。あの夜以来。正直惰性で続けているに過ぎなかった。それだって養育費を払うため。新しい父親ができたあとは、規約によってその必要もなくなったから、心おきなく自分のためだけに生きることができたってわけ。私は持っていたスーツを捨て、女性用の服を買い込んだ。そしてその日からオカマになったの。最初は知り合いのバーに雇ってもらって、しばらくして自分の店を始めた。何人かの別のオカマたちを集めてね。その界隈じゃ結構有名なのよ」

「もしかして我々が今向かっているのはそのバーなんでしょうか?」

「その通り。よく分かったじゃない」

 そのようにしてトシトシの長い話は一応の終結を迎えた。

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