ささべさんのコーヒー

文字数 1,205文字

 夏になると、飲みたくなるのがアイスカフェオレである。このとき頭に浮かんでいる一杯は、大学生の時にアルバイトで通っていた職場の、事務担当のお姉さま(と言いたいくらい可愛い人だけど、実年齢は割といってるらしい)「ささべさん」が入れてくれたアイスカフェオレである。
 「ささべさん」は業務はちゃんとこなし、信頼されている事務職さんだったが、伝言メモ用に変な柄の付箋を集めていたり、職場では必ず靴を履き替えクロックスにしたり、力の抜き方が絶妙な人で、いつも笑顔で楽しそうだった。だから、隣の机でお手伝いとして働く私もいつも楽しかった。自分も勤め人になった今は、毎日が楽しいなんてことはないだろうと思うのだが、当時学生の私には、ささべさんが「困ったなあ」と言っていても、そんなに困っていなさそうに見えていたので、そうした態度も含めて、本当によくできた方だったのだと思う。
 その職場には「ささべさんコーヒーの時間」というものがあった。職場の真ん中にあった空きテーブルの傍でコーヒーを淹れていると、職場の皆さんが匂いにつられてパラパラと集まってきて、「ほっと一息」の時間になる。メンバーはその都度違うが、端っこで上司部下で真面目に話すこともあったり「あー締め切りやばいよー」と追い詰められた人が束の間のおしゃべりをしたり、結構大事な「余白空間」だったように思う。私が「ささべさん」にゆとりや豊かさを感じたのは、何においても「余白」を作ることが上手だったからかもしれない。
 さて改めて、カフェオレの話だ。基本的にコーヒーはいつもホットなのだが、夏だけは、わざわざ氷も買っておいて、アイスコーヒーを作る。そして、皆さんにコーヒーを配り終えた後、ささべさんが小さく手招いて「私たちは、カフェオレにしちゃおうか」と言って、冷蔵庫に冷やしてあった秘蔵の牛乳でコーヒーを割ってくれるのだ。お店や自分でやるのとも違って、私史上、一番に美味しかったカフェオレはあの一杯だ。それを二人だけで共有できることも、また楽しかった。本当に美味しかったあのアイスカフェオレの秘密はなんだったのだろう。味も匂いも覚えているようでふわふわしていて、再現できない。
 と、ここまでその当時のあれこれを思い出して気が付く。カフェオレというのは、あの当時の、「ささべさん」と過ごしたあったかくて大好きな記憶を、そのままつなぎとめるために置かれた碇なのである。あるいは栞ともいえるのか、いつでも「カフェオレ」というイメージから当時の自分の気持ち、職場の空気について、温度丸ごと思い出すことが出来る。
 心や空気なんて、味や匂いよりずっと形なく頼りないものだというのに、こんな風に何かのきっかけで時間がたってもそっくりそのまま現れるから不思議だ。思い出が増えるたび、こういうものがたくさん増えてそれに囲まれて生きていけるのなら、歳をとるのも楽しいことだなと、最近思う。
 
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