4-1-11 復讐の檻に迷い入る(3/3)

文字数 3,424文字

 本当にこれで良かったのだろうか。
 モートンは、何度目になるかわからない自問自答を、再び脳裏で繰り返している。
 カナリーがイシタナに帰国すると決めてから、実際にミッダルトを発つ日までの時間は、あっという間に過ぎていった。
 ジェスター院からイシタナの院への転籍手続きには若干の日数が掛かるだろうと予想していたのだが、どうやら彼女の父親が裏で手を回したのか、あっけないほどスムーズに決まってしまった。ミッダルトからイシタナに向かう旅客便も滞りなく手配されて、荷造りも一部を除いて現像機(プリンター)設計図(レシピ)に落とし込めば、大した量にならない。カナリーの帰国手続きは、驚くほど順調に進められていく。
 そしてカナリーの帰国当日を迎えるまで、モートンは自分の判断が本当に正しかったのかどうか、何度も何度も己に尋ね返していた。
 このまま、カナリーをイシタナに帰してしまって良いのか。
 良いに決まっている。連邦軍の現役将官である彼女の父親の元の方が、安全なのは間違いない。
 言い訳するな。お前はシャレイドに約束しながら、いざとなったらカナリーを守り切れる自信がなくなっただけの、腰抜けだ。
 言いたい奴には言わせておけ。シャレイドとの約束を守るため、何よりカナリーの無事のために、俺は彼女を故郷に送り返すことを決めたんだ……
「わざわざここまで付き合ってくれなくても良かったのに」
 右肩に引っ掛けたバックパックの肩紐を掴みながら、そう言ってカナリーは苦笑した。
「ほかのみんなと一緒に、シャトル発着場まで来てもらえるだけで十分だって言ったでしょう」
「俺が見送りたいんだから、好きにさせてくれ」
 ふたりの周りを大勢の人々が、荷物を抱えながら行き交っている。発着予定の宇宙船の便名を知らせるアナウンスが、やむことなく響き渡っている。モートンとカナリーはふたり肩を並べて、ミッダルト第一宇宙港の発着ロビーを歩いていた。
「お前が乗る宇宙船が極小質量宙域(ヴォイド)の向こうに見えなくなるまで、しっかりと見届けるつもりで来たんだから」
「何日かかると思ってるの、それ」
 カナリーの笑声がロビーに響く。つられて、モートンも笑顔を浮かべる。
 カナリーの帰国を見送る友人はほかにも多くいたが、モートン以外は全員、宇宙港に向かう地上のシャトル発着場までの見送りだった。宇宙港までは往復で一日がかりになってしまうという理由以上に、モートンとカナリーのふたりきりの時間を用意しようという、友人たちの気遣いがあったのは間違いない。
 ゆっくりと歩いてきたつもりだったが、宇宙船の搭乗口はもう間もなくだった。あと数十メートルを歩けば、カナリーとは本当に離ればなれになってしまう。そのことがわかっているから、ふたりの歩みは徐々に緩やかになっていった。
「ねえ、モートン」
 搭乗口まで残りわずかというところで、カナリーの足が止まる。
「私はこれでジェスター院とお別れだけど、覚えといて。私たちの絆は少し距離が離れたぐらいじゃ、絶対に途切れたりしないって」
 そう言ってカナリーが、横に立つモートンの顔を見上げる。“私たち”という言葉に、ここにはいない、斜に構えた薄い笑みが似合う友人も含まれていることは、確かめるまでもない。彼女に倣って立ち止まったモートンは、真っ直ぐに注がれる彼女の青い目をダークブラウンの瞳で見返した。
「当たり前だろう」
 その言葉に笑顔で頷き返したカナリーが、そのまま彼の胸の内に飛び込んできても、モートンは驚かなかった。カナリーの細い腕が、別れを惜しむかのようにモートンの背中に回って、しがみつく。モートンの両腕も彼女の背中と腰を掻き抱いて、その身体(からだ)を力強く抱きしめていた。そしてモートンは、カナリーがこんなにも細くて華奢な存在なのだということを、そのとき初めて知ったのである。
「絶対だよ。絶対に忘れないでね」
 彼の胸に埋まった栗毛頭の下から、カナリーのくぐもった声が聞こえる。
「忘れるもんか。俺たちの絆は、絶対だ」
 モートンがカナリーの耳元に口を寄せて、低い声でそう告げると、彼の胸に押しつけられた栗毛頭が何度も頷くのがわかった。
 搭乗締め切り残り五分のアナウンスが流れるまで、ふたりは抱擁を解こうとはしなかった――
 宇宙港のロビーに張り巡らされた強化ガラスの窓の向こうで、宇宙船に繋がれていたボーディング・ブリッジが緩慢な動きで離れていく様子が見える。
 カナリーが乗る宇宙船の便名は、トーレランス旅客航宙社の78便。乗客乗員数は千五百人超、全長は一千メートルに届こうという、最新の巨大旅客宇宙船だ。船体表面を覆う真っ白な塗装が、その雄大かつ壮麗な存在感をさらに引き立てている。
 二回生の長期休暇の折り、カナリーとシャレイドと三人で繰り出した旅行で利用した宇宙船は、貨物船を改造したひどい年代物だった。個人用の就寝スペースすら用意されない中、目的地に着くまで三人で悪態をつき続けていたのも、今となっては懐かしい。あの巨大旅客宇宙船の居室スペース内で、今頃カナリーも同じことを思い出しているだろうか。
 トーレランス78便はロビーのモートンにその側面を見せたまま、ゆっくりと宇宙港から遠ざかっていく。真っ暗な宇宙空間の中でロビーの窓ガラス越しに映るその巨体が、モートンの掌に収まるほど小さくなるまで距離を取ってから、船体はゆっくりと方向を変えた。船尾に瞬いて見えるのは、フルスロットルを控えて収束するメイン推進エンジンの噴射口の光だろう。あの光の塊が真っ直ぐに放出されれば、トーレランス78便は極小質量宙域(ヴォイド)に向かって一直線に旅立っていく。
 ジェスター院でこれまでを共に過ごしてきたシャレイドが姿を消して、今またカナリーも故郷のイシタナに帰って行く。彼女の乗る宇宙船が今まさに旅立とうとするのを目の前にして、モートンは切れ長の目を細めた。ダークブラウンの瞳の奥で涙腺が決壊寸前であることを自覚して、せめて人前では涙を見せまいという、ささやかな抵抗のつもりだった。やがてトーレランス78便の船尾の光が、輝きを増し始める。
 いよいよカナリーは遠くへと行ってしまうのだな。モートンの胸中にそんな感傷がよぎった瞬間――
 トーレランス78便の巨体が、音もなく光の球に包まれた。
 最初、宇宙船の船尾を覆うほどの大きさだった光の球は、急速にその直径を増して、あっという間にトーレランス78便の巨体を包み込むほどの大きさまで膨れあがった。光球が放つ明かりが、ガラス窓越しに宇宙港のロビーに射し込む。右手を翳して光を遮りながら、モートンの目はこれ以上ないほどに見開かれていた。
「カナリー……」
 ロビーの中は既に、悲鳴と絶叫が渦巻いていた。間を置かずしてけたたましい警報が、つんざくかのように響き渡る。ほとんど同時に流れ出した港内アナウンスは、トーレランス78便に重大な事故が発生したことを告げていた。
「カナリー!」
 ガラスに両手をつき、額を押しつけながら、モートンは叫んだ。膨張の勢いが収まった光球は、だが巨大な直径を保ったまま、彼の目の前でなお輝きを放ち続けている。紛う事なき凶事の証しのはずなのに、漆黒の宇宙空間に浮かぶその光球の輝きは不気味なほどに鮮やかで、美しかった。
「そんな、なんで、カナリー、カナリー!」
 膝から下の力が抜けて、(ひざまず)きそうになりながらなおガラス窓に張りつくモートンに、港内アナウンスが対デブリ防御用障壁の閉鎖を告げる。程なくして宇宙港全体を震わせるかのような地響きと共に、無機質な硬質の板がモートンの視界を塞ぎ始めた。
 徐々に輝きを失いつつある光球から視線を逸らすことが出来ないまま、モートンは驚愕と混乱と絶望に陥りながら、ひたすらカナリーの名を叫んでいた。防御用障壁が完全にガラス窓を覆い尽くしても、その場から動き出すことは出来なかった。ただカナリーの名前を繰り返し、繰り返し叫び続けて、最後は嗚咽混じりに涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしたまま、それでも彼女の名前を口にしていた。
 怒声と泣き声と悲痛な叫びに埋め尽くされるロビーの端で、視界を覆われたガラス窓に張りついて、不格好に両膝をついたまま、モートンはいつまでもカナリーの名を叫び続けていた。
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