第3話 七夕

文字数 33,399文字

 梅雨末期、七夕の夕方。
 非番の不破具衛(ふわともえ)は、台所で野菜を切っていた。山小屋と称する狭い借家の狭い台所が、野菜で占拠されている。今から数時間前の昼下がり、宿直明けで立ち寄った町の図書館から山小屋に帰る途中、彼は農産物の無料販売所に立ち寄った。そこで何個か適当に野菜を買うつもりが、偶然販売所に商品を持って来た馴染みの農家のおばちゃんに見つかると、あれもこれも
「持ってけ」
 只で押しつけられ、
「あんたにゃあ、よーてつどーでもらよーるけー」
 捨て台詞を残された後には、いつも使っている買い物用の二五Lサイズのリュックサックがパンパンになってしまった。台所の現状は、その賜物である。
「うーむ」
 どれくらい用意しておけばよいか。
 玉葱や人参の皮を慣れた手つきで剥きながら、具衛は溜息を吐いた。今夕のバーベキューの下準備である。
 よもやこの山小屋で、
 ——客とメシを?
 喰らう事があろうとは。
 半信半疑で戸惑いつつも、てきぱき野菜を切り分け皿に盛っていく。
 客とは、あの車の女だった。

 町中が大渋滞した梅雨真っ只中のあの日。具衛は宿直帰りで近くの農家へ草刈りの手伝いに出掛けた。のだったが、午後四時過ぎ、急に降り出した大雨で作業は打ち切りとなる。
 夕立か?
 いつ降ってもおかしくない時期ではあるが、予報でもここまで降るとは聞いていなかった。少し待ったが全く止みそうにない。仕方なくズボンの裾を捲り上げて、濡れながらとぼとぼと帰宅し始めた。具衛の移動手段と言えば、公共交通機関か自分の足だ。タクシーに乗れるような金の持ち合わせは常にない。バスは、一時間に一本走れば良いような路線である。歩くしかなかった。
 その帰宅中、急に国道が渋滞し始めた。大型トラックが横倒しになり、国道を塞いでいるのが見える。間もなくすると、土砂降りの中をとぼとぼ歩いて帰っていた川沿いの市道にも車が入り始め、やはり渋滞が始まった。
 うわ。
 泥跳ね運転がひどい。車を回避するため仕方なく、川の北側にある未舗装の土手道を歩く事にした。車に泥を跳ねられるよりはましだ。逃げたつもりだったが、それでも四駆車が入り込んで来て、結局は同じ展開となった。
「車社会だなぁ」
 その文明の力にあやかれない貧者が恨み節を漏らしながらも、とどのつまりで出くわしたのが、例の赤い車だった。車は頭から泥道に突っ込んでおり、直近まで近寄るまでもなく走行不可能である事が分かった。四駆車でさえ慎重を要するぬかるみである。車底部が低いスポーツカーが、素人運転で抜けられよう筈がない。
 無茶をするヤツがいたもんだな。
 具衛が近寄ると、整った身形の女が悲壮な面持ちで車外に座り込み、泥だらけになって大雨に打たれていた。横座りで足を投げ出し、両手を地につけ首をがっくりと落とし、長い髪がだらりと眼前に垂れ下がったそれは、この世の終わり的な絶望に打ちひしがれる女の構図である。その様は事故原因を言う前に、実は心が病んでいるのではないかと疑った程だ。
 正直関わりたくなかったが、見てしまったものは仕方がない。見過ごす訳にも行かず、とりあえず声をかけた。声に反応した女は、濡れたせいか一見してほぼすっぴんだった。大雨に打たれて体温が奪われたためか、ひどく血色が悪く、死人並みに真っ白な顔をしており、唇も紅が落ちかけていて色を失いつつあったが、基本的に整った容姿を持っているためか、これはこれで
 うわっ!? 凄い美人!
 だった。
 慌てた具衛はすぐに視線を逸らし、車の様子を確かめると、国内では余り見かける事がない、仏国が誇る高級スポーツカーブランド
 アルベール・フェレール!?
 製のコンパクトクーペである事が分かり、更に驚いた。たまたまそれを知っていた具衛は、この時点で、女が只者ではない事を察したが、それを口に出す事で何か面倒な事になってもいけないと直感し、呆れて外れそうになる顎を堪えるように閉じた。
 女の身形はそれなりに良さそうであり、一瞬よぎったその直感の角度は微妙だったが、手を差し伸べるのであれば、一応詳細には関わらない事を決め込んだ理由は、盗難車の可能性である。世界のセレブの間では、通称アルベールで通るこのブランド車は、高性能も然る事ながら限定モデルともなると平気で一億円を超える値をつける。汎用モデルでも人気車は軽く三千万を超え、とにかく金銭感覚を狂わす事では話題に事欠かない。そのような車に一見三〇代、それも前半の若い女が、このような田舎で乗り回す事自体が、
 あ、有り得ない。
 不自然極まりなかった。
 地元の者を始め、よく通りがかる者ならば、只でさえ通過に難を要する草道へ、大雨でぬかるみ輪をかけて走行困難な時に、車で通ろうとする訳がない。よそ者だからこそ、ぬかるみにはまったのだ。よそ者とは言え周囲の状況を見れば、通行困難であろう事は察するに余りある有様である。それを冒してまで、あえてそれをしなくてはならない余程の理由が何なのか。具衛はそれを知る事を恐れた。
 警察を呼べば済む事だったが、この渋滞ではいつ着くか分かったものではない。レッカーにしてもそれは同じであり、既に草道の向こう側には通過を待って焦れる四駆車が列を作り始めていた。それでも、
 俺には関係ない。
 その立ち位置は揺るがない筈だったのだが、がっくりうなだれる女を見てみると、気の毒ではあるし一見して、
 悪人には見えない。
 今までの人生で培って来たらしい根拠に乏しい怪しい勘が働き始めた。感情で判断するなど、
 やめといた方がいいんだが。
 とも思ったが、疼き出したものはどうしようにもない。生来の善性が、培って来た怪しい勘が、女を見捨てる事を許さなかった。
 幸いにも車は、バックでぬかるみを抜ける事ぐらいは可能だったようなので、それで女ごとさっさと邪魔にならない所まで退避させた、と言うのが具衛の側としての事の顛末である。兎にも角にも、女の様子と車のステータスの関係性は怪しいと言わざるを得ず、出来る事なら面倒につき合わされたくなかった。それに尽きた。だからさっさと立ち去ったのである。のだが、女はずぶ濡れだった。流石にそのまま放置出来ず、バスタオルの一枚でも投げ込みに行った。すると女は、ナビを操作して何処かへ連絡をしているではないか。大抵の車両トラブルの場合、高級車のそれは、オーナー専用のカスタマーサポートデスクである事が多い。
 まさか——?
 本当にこの車の所有者なのか。驚きながらもそれならそうで、自分とは社会的階層が余りにもかけ離れているとしてさっさと逃げたのだが、女が山小屋に姿を現したのだから仕方がない。確かに川土手に止まっていれば、鉄砲水に攫われる恐れもある。そうなれば、手助けしてしまった分寝覚めも悪い。あれだけの美貌だ。川に攫われて命を落とすようなら、
 怨まれて化けて出られそうだ。
 この時代に、非科学的な発想すら頭を掠めた。それで仕方なく、世間話でもしながら最低限のもてなしをする事にした。女の事情を探ろうものなら、何かの藪蛇になるのではないか、との警戒心は常に頭を離れず、自分の話で差し障りのない所帯染みた山小屋生活の話を主体として時間を潰した。山小屋に来てからの女は、一見して初見よりは気を取り戻していたが、時々見せる凄然とした表情が目につき、どこか拭い難い影を宿しているように見えた。
 油断ならんな。
 具衛は具衛で、余談を許さない雰囲気を醸し出す女に警戒しつつ、かつその気配を気取られないよう腐心したものだ。が、膝を詰めて他人と話をする事にすっかりご無沙汰だった具衛は、その非日常に酔ってしまい、思いがけず話し込んでしまう。するとそれを受けてか、しばらくすると女は影を潜めるようになり、貰い物の稲荷寿司他を出して人心地をつかせると、今度は思いがけず砕け始めた。それどころか逆に女は、予想外に具衛の生活に興味を覚え始めた事から、具衛は更に戸惑う事になる。

 渋滞の日の二日後の夕方、具衛の非番日の最短をついて、女は再び突然、山小屋に現れた。連絡先を交わしていないため、突然になるのはやむを得なかったが、それにしても中々律儀な事だ。
「庭まで入って良かったかしら?」
 山小屋の敷地まで乗り入れた車は、代車なのかセカンドカーなのか分からなかったが、独国が誇る世界的な高級車メーカーのハイグレード車であり、やはり俗世の一般的な階層では手が届きにくい。
「それは、構いませんが」
 服装も先日のスカートとピンヒールではないが、パンツスーツとフラットシューズ姿ながらも一見して良さそうな形であり、
 これはセレブ確定か?
 と思われた。
「借りていたバスタオルの返却に来たの」
 と称した来訪にも関わらず、バスタオルは二枚とも新品になって返って来た。女の話では、
「泥染みが落ちなかったから」
 らしく、のしつきで箱詰めされたそれは、後でスマートフォンで調べたところ、国内のタオル名産地が誇る最高級品であり、その金額を見て具衛はしばらく釘づけになったものだ。その有り得なさに、
 鶴の恩返しじゃあるまいし。
 今の生活振りからすれば、その金で十分一月やり繰り出来ると言うそれは、嬉しいと言うより厄介事に巻き込まれる恐れを憂いたのは、女が帰った後の話だ。
 具衛にタオルを渡し、用件が終了したら、女にしてみれば山小屋と具衛共々、関係づける物はなくなった筈であった。この日は返礼を持参した客人の扱いであったため、一応縁側からではあるが居間に招き入れては座卓を挟んで対面したものだったが、お茶を濁して一〇分少々の滞在で、帰る段になった女が、
「また、来ても良いかしら」
 思いもよらぬ事を言い出したものだから、具衛は更に驚いた。
 一体全体、
 どう言うつもり?
 なのか。
 身形や外見の良さに加え、要所要所で現代人らしからぬ整った所作を見せる女に、具衛は思わず目を奪われると同時に育ちの良さを察したものだ。その明らかに住む世界が違いそうな女と、限りなく最下層に近い山小屋と具衛が、何を理由として結びつけられようとしているのか。答えを求められた間合いで思い当たる理由に辿りつけよう筈もない。
「何もない所ですが」
 仕方なく、苦し紛れに肯定を匂わす程度の返答した。
 女が帰った後も、何となく思案を巡らせ続けたものだったが、結局これまでの女の様子を考察するに、悪巧みや悪人気質は
 ——なさそうか。
 と判断する。
 頭の中で悶々と考えてみたところで悪巧みと言われても、財はなく身一つしかない身である。そんな資がない中年から、一体何を得ようと言うのか。
 そんなもの何にもないわ!
 考えていてバカバカしくなった。
 それなら単なる、
 珍しいもの見たさ——
 なのだろうと考えて無理がないのではないか。最終的には、元々転々として来た人生であり、
 ——どうせ、
 天涯孤独の身の上である。面倒くさくなったり危なっかしくなれば
 とんずらだな。
 と言う結論に至り、しばらく「鶴」の出方を伺う事にしたのだった。

 六月下旬の夕方、女はまた立ち寄った。今度は部屋には上がらず、縁側に腰を下ろしたままだった。ぼんやり景色を眺めては、ろくに口を開かない。押しかけられた具衛は、ホームグラウンドであるにも関わらず、思わぬ客人にどぎまぎしたものだ。片や女はすっかり肝が据わったもので、その居住まいが絵になったかのようだ。急の客であっても客は客。その客に、
 白湯は出せんだろう。
 として、時期外れながらも沸かした湯で煮出した茶を
「熱くて申し訳ございませんが」
 具衛が出す。と、女は
「いつも急に来るから。気を遣わせてごめんなさいね」
 すっかり常連客染みた様子で笑みを浮かべながらも、茶を啜ったものだった。
 何でこんなに慣れてんの?
 女のその図太さに苦笑いする具衛の横で、女は女で
「ここは星がよく見えそうね」
 独り言を吐きながら何やら思案を巡らせる風情を見せている。しばらくすると今度は、誰に言うともなく景色に愛でる様子のまま、
「今度の七夕、バーベキューしよう」
 提案のような計画のような、思いつきめいた事を吐いた。具衛はその開催意図、つまり場所と相手がはっきり掴めず、
「そうですか」
 曖昧な相槌を打つに止め、女の出方を伺ったのだったが、一人で何処か嬉しそうな横顔を見せる女はそれ以上何も言わず、その時は結局はっきりしなかった。
 何なんだ——?
 すると女は、茶を飲み終えて帰る段になって
「燻製器ってお肉焼けるの?」
「野菜は準備出来る?」
 などと言い出した。
 具衛はてっきり女が、事故の日に話した燻製に興味を覚えて
 自宅でやってみたくなったのか?
 勝手に結論づけたのだが、
「お肉とお飲み物は用意するから。七夕の夕方にまた来るわ」
 と言う、具衛に向けられた女の明言で、それは急転直下する。
「ええっ!?
 ここでやるの!?
 呆気にとられる具衛をよそに、言う事を言った女は、さっさと立ち去ったのだった。

 で、今夕。七夕である。
「ホントに来るのかねぇ?」
 一人である事を良い事に、盛大に独り言ちる具衛が知っているあの女の事は、高級車で事故っていたセレブっぽい女、と言う事だけである。物珍しさで絡んでいるだけ、と結論づけたとは言え、やはり不気味だ。極端な言い方をすれば、
 何か化けてないか?
 あの日の女の凄然振りは、人間臭さに乏しかった。何処となく隔世感が漂っていたその雰囲気は、未だ具衛の脳内に、非現実的思考が入り込む余地を生み出すに足る根拠となっている。相談相手を持たない、あえて持とうとしない具衛に押し寄せる感情は、俗世では疑心暗鬼と呼ばれるそれであった。
 が、それならそれで、
 見届けてやるわ。
 現代では非科学的とされるそうしたものに対する感性は、特に拘りもなければ一般的な具衛は、とりあえず準備を進める。梅雨明けはまだ宣言されていないが、前線が南下し、ここ数日は晴天に恵まれていた。
 まずは、山小屋の目の前を流れる水が引いた河原から適当な石を見繕い、庭に即席コンロを完成させた。ある程度の大きさを持つ平らな石を円形に重ねて囲んだだけの、コンロと呼ぶには随分と野生的な物だ。一人バーベキューなら燻製器でも事足りるが、何人来るのか分からないのでは燻製器では頼りない。女は人数を言わなかった。大人数で押しかけられるのは嫌だが、一応備えておくべきだろう。これなら家の中が汚れる事もないし片づけも楽である。網は燻製で使っているものを囲んだ石の上に二枚並べただけだ。これなら数人来ても対応出来る、のではないか。椅子は尻が置ける程度の太さがある木を、倉庫にあった斧で切り倒してコンロの周りに転がした。人が来れば椅子、来なければテーブル代わりとして使う。事が済めば薪に早変わりだ。炭用の熾も多めにキープした。
 で、野菜を切っている。何人かで押しかけて来るようなら、
 追加で準備するとしよう。
 概ね普通の平皿に二盛り程度準備して止めた。外に出て山林で使う太巻きの蚊取り線香に火をつける。そこまで準備を終えると、目の端で、舗装された南側の土手道をやって来る、先日の独車を捉えた。石橋までやって来ると迷わず渡って来る。車はその
 一台だけ、か。
 だった。
 具衛は炭壺から熾を何個か取り出し、予めコンロに入れていた小枝の上に放り込むと、マッチで小枝に火をつける。中から白煙が上がり始めると、車がバックで下がって来た。山小屋の庭先は、広葉樹が覆い茂ってはいるが、真ん中辺りは車一台程度なら通れる隙間がある。山小屋の傍は木々も遠慮がちで開けており、文字通りの庭だった。その庭まで下がって来て、止まった車から降りて来たのは、あの女一人。
「え、それコンロ? ふーん」
 何処となく常に上から目線の女は、薄く笑みを浮かべた。
「人数を聞いていませんでしたし。家の中は手狭かと思いまして」
 熾火を起こす具衛の横で、早速女はトランクを開けてクーラーボックスを担ぎ出す。
「一人に決まってるじゃない」
 女はコロつきのそれを引いて来ながら然も当然のように言うと、
「私、友達いないし」
 クーラーボックスの蓋を開けた。
「さあ、始めましょう」

「これ、焼けたわよ」
「まだ早くないですか?」
「火を通し過ぎちゃいけないのよ、このお肉は」
「そう言えば、タレを用意してないですよ」
「塩コショウを持って来たわ」
 女は仕切り役が板についており、友達がいないと言う割には、中々軽妙なやり取り上手だった。
 まるで、
 ——何とか奉行だ。
 具衛がその押しのうまさに舌を巻いていると、その女がクーラーボックスからレストランでよく見かける木製ソルトシェイカーを取り出し、
「はい」
 と突き出した。
「すみません」
 そのちゃきちゃき振りに思わず引き気味になった具衛が、ぎこちなく受け取る。元々は女が計画し言い出した事だ。土俵は具衛のテリトリーでも、土俵の上は女のものである。慣れない手つきで受け取った塩コショウの頭を捻り、軽く振りかけて一口食べるや
「うま!」
 女の軽妙さに比べて、それ以上の語彙力を持たない自分を呪ったものだ。
「お褒めに預かり光栄だわ」
 そう言う女は然も当然の様子で、少し笑みを浮かべつつ箸を動かしては、飲み物が入ったタンブラーを口元に傾けている。肉はおそらく赤身の牛肉なのだろうが、ステーキ程の厚みのそれが、適度な歯応えと臭み皆無で芳醇な旨味の固まりである。
 こんな肉は——
 食った事がなかった。上等な物である事は訊くまでもない。振りかけた塩コショウにしても、明らかに市販品とは異なる上等な香辛料としか形容しようがなかった。更に、女が飲んでいるタンブラーの飲料は、その人が持って来た物で、同じ物が具衛にも手渡されているが、
「今日は車だから、全部アルコール度数が全くないノンアルコールなんだけどね」
 と言うそれは、ノンアルコールワインらしい。普段酒を飲む事がない具衛にとって、ノンアルコール製品などは更に縁遠い代物だった。一応いかり肩の正当そうなフルボトルのそれは、具衛が知るワインのそれより若干派手なラベルが貼られている。それが何となく陳腐に見えたもので、
 ジュースの延長だろ。
 と、一口飲んでみると
「うま!」
 これも文句なしの美味で、思わずその感想を吐きたいがために、喉を鳴らして飲み込んだ程だった。ジュースとは明らかに一線を画した味わいは、
 こう言うのを——
 芳醇な味わいと言うのだ、と突きつけられたものだが、それを賛美するそれ以上の語彙が浮かばない。まるでワインに負けたかのようだった。
「何ですか、これ?」
 そのあからさまな表現に、もう少しまともな尋ね方があったものだろうにと、瞬間で後悔した具衛だったが、吐いてしまったものは仕方がない。が、女は気分を害した様子もなく得意気に
「サングリアってご存じかしら?」
「スペインのフレーバードワイン、の事ですか?」
「あら意外」
 口につけながら小さく笑んでみせたものだ。同国でこよなく愛されるそれを、以前たまたま飲んだ事がある具衛だったが、通常のアルコール製品だったその味を最早良くは覚えていない。思い出せるのは、鋭利な甘さや酸味が際立った安っぽいジュースのような味だったぐらいの事で、以後それ以上の興味を覚えず飲む事もなかったのだ。恐らく以前飲んだ物は、まさに大量販品の安酒だったのだろう。
「まあ既製品の中では、これはお気に入りだから」
 と言うそれは、酒を飲みつけない具衛でさえ、相当の高級品である事が理解出来た。それでいてしかもこれは、ノンアルコール製品である。
「本物のワイン樽で、きちんと作られたノンアルコール品だから。中々いけるわ」
 ノンアルコールワインと葡萄ジュースの違いは、前者は本物のワイン製造行程で作った、と言う事だ。水とアルコールを分離する脱アルコール製法や、最初から発酵を中止するよう仕込み、アルコールを発生させない非アルコール製法で作られるそれらは、いずれも緻密な一手間が加わっている。女が持参したものは、どうやら熟成ワインの脱アルコール物のようで、よりワインに近い味わいを実現している、と言う事のようだった。それにハーブや柑橘類を漬け込んだと言うノンアルコールサングリアは、中々手間のかかった秀逸品と言って良い。濃厚な葡萄に加えて、仄かに甘いバニラのようで、爽やかなミントのような複雑な香りは、間違いなく飲んだ事がない物で、只々驚くばかりだった。
「お気に召して頂けたようで良かったわ」
 相変わらず上から目線の女は、見た目に違わず平然として結構な勢いで、三〇〇から四〇〇mLクラスのタンブラーに入れたそれをあっと言う間に飲み干していた。山小屋にもグラスくらいはあるのだが、わざわざ持って来たそれは、
「持って来ると言っても、クーラーボックスに入れて来ただけだし」
 注いだ後に温度も上がりにくいのだとかで、極めつけは
「そんなにちまちま注ぎながら飲んでられないから」
 と、何だか酒豪染みている。
「ホントは、自家製の本物が一番気に入ってるんだけど」
 それだとノンアルコールじゃないから、と言うそれは、高級車を乗り回す女にしては、いくら質の良い物とは言え明らかに庶民的だ。何処かしらチグハグに思えてしまうものだったが、一方で、
「余り持ち出せた物じゃないし」
「酒税法、ですか?」
「あら、また意外」
 流石に詐欺師ねぇ、と嘯く女こそ中々詳しいと言えた。具衛はたまたま、日本でそれを作ると、大抵の資格外者は酒税法に触れてしまう事を何かで読んで知っていただけだ。
 何者——
 なのか。謎は深まるばかりである。
 何れにしても食に拘りがない具衛は特に好き嫌いもなく、大抵の物を頓着なく喰らう人間だった。繊細な味の良し悪しは分からないが、絶対的な美味いまずいぐらいは分かる。女が持ち寄った肉や飲み物は、どうみても良い物だった。片やそれを囲む設備は、河原の石のコンロに椅子は切り株である。釣り合いが取れていない事この上なかった。切り株の椅子などは、女の着衣に
 ささくれが刺さっちゃ——
 まずいだろうとして、古新聞を敷いていたりするのだが、それにしてはもう少し何とかならなかったものかと後悔する。しかもその新聞は、勤務先で捨てられていた古紙と言う体たらく振りである。新聞を定期購読するゆとりすらない男なのだ。誰にも見られないとは言え、女の形と食事の上品さに比べると、それを取り囲む設備の下品さは語るまでもなかった。箸も皿も山小屋の物であり、よくよく考えてみれば古びた擦り切れた物を、このようなセレブ女が使う事にためらいがないのが不思議なくらいだ。止めでそれを相手取るのが、山奥に隠棲した四〇前の冴えない中年と来たものだから、具衛がその格差に打ちひしがれるのも当然と言えば当然だった。
 その具衛を知ってか知らいでか、
「まだ明るいわね」
 女は横で、両手を腰に当てて背中を反りながら空を見上げている。空はまだ宵の口で薄暗い程度だった。
 来訪時にはジャケットを着ていた女だが、今は脱いでおり半袖ブラウス一枚だ。クールビズを思わせるビジネスカジュアルスタイルと言う事は、仕事帰りなのだろう。一体、この山奥の何処にこのような
 スタイリッシュな人の勤め先が——
 あると言うのか。不思議に思った具衛だったが、女はやはりそんな具衛に構わずの様相で、空を見たついでに
「あぁ——」
 などと、生々しい声を出しながら両腕を挙げて伸びをした。身体をほぐしながら背中を反っているその様は、ブラウス越しに形の良さそうな胸がより強調される。その生々しい声につられて女に目をやった具衛は、偶然にもその生々しい身体の線が目についてしまい、思わず不自然に目を逸らした。
「どうかした?」
「いえ、なにも」
 慌ててタンブラーに口をつけ、ごまかす。目の端で女を窺いながらも、具衛は手と口を動かし続ける事を忘れない。そうでもしていないと雑念が頭をもたげ、良からぬ事を起こす、または起こされるような気がしてならなかった。何かが化けているのであれば、
 随分と色っぽい——
 化物だ。人を惑わすのが目的なら、もっともな事ではあった。
 年齢は一見して三〇代前半だ。どう考えても、既に女に年齢を開示している今年三八の具衛より年下である事は間違いなさそうである。だからと言って、タメ口を叩くには憚られる何処か毅然としたものを感じざるを得ない。整った容姿は清楚にして問答無用で凛々しく、その一方で可憐さや華やかさと言ったお年頃の女性としてはステータスと言える要素に縁遠く、明確に一線を画している。薄暗いがまだ割とはっきり捉える事が出来る顔の各パーツは、一つひとつが凛々しい仕様で良く整っている。更にそれが、絶妙な配置で象られたような顔つきで、知的美人の見本にして追随を許さないような容貌だった。その上で、化粧もきっちり決めている。不必要気味に長いつけ睫はしっかり上を向いており、目元はしっかり描かれている。口紅も何やら光沢があり、目と口がやたら女優仕様だ。事故の時に見たすっぴんと化粧した顔の違いはよく分かるが、その趣きの良し悪しは男の具衛からしてみれば、すっぴんの方が良いように思えてならない。特に彫りが深い訳でもなく極一般的な大和撫子顔であり、恐らく万人受けする顔立ちだろうに、
 ——勿体ない。
 その自然の美しさを化粧が台無しにしている、ように具衛には思えた。
 身体つきは均整ながら、顔は小さく手足は長く、柔らかそうでいて引き締まっており、一体何をどう鍛えたら
 こんな身体つきになるのかね?
 見当がつかない程に見映えのする、健康体の具現の様相である。そんな身体が纏うのは、山小屋に来る時はすっかりお馴染みになったフラットシューズとパンツスーツであり、今日は灰色系統だ。上着は既に脱いでおり、今はオフホワイトの半袖ブラウス姿だが、一見して何処にもいそうな出で立ちのそれは、一度として同じ物を見た事がない。もっともまだ数える程しか来ていないのだからそうなのかも知れないのだが、具衛などは、夏服は仕事着用の半袖ポロシャツ、私服はTシャツ、寝巻き兼用のノースリーブアンダーが各三着ずつ。下はパンツ、寝巻き兼用のステテコ、綿のカーゴパンツ、五本指靴下がやはり三着ずつ、これだけである。色合いは、どれもこれもはっきりしない燻んだ青だったり、灰色だったり、緑なのか灰色なのかよく分からない、と言った一見して冴えない色味ばかりである。比べるだに虚しい。
 具衛のファッションは良いとして、総じて隙がなく洗練された知性的な印象の女は、口を閉じていれば今日は凄然とまでは行かないが、やはり何処かしら寂然とした雰囲気を醸し出していた。
 いずれにしても、
 凄い美人なんだが——
 強まるのは化物感である。
 と、胸が高鳴っている事に気づいた具衛は、密かに動揺して目線を空に移そうとしたその時、
「何?」
 女に様子を咎められた。少し訝しむ表情がまた一々絵になり、返答に困る。
「こんな肉は初めてで。ただ驚くばかりと言うか」
 辛うじて肉の本当のところの感想を吐くと、
「それは良かったわ」
 軽く頷いた女の耳飾りが動いた。
 ——そうだ。
 完璧そうに決めている女は、飾り気が何処かチグハグだった。大抵の女性並みに耳や首には飾りがあったが、
 手指には全く——
 指輪や腕輪もなければ、爪にも飾り物の類の一切がなかった。イヤリングもネックレスもついている事はついているのだが、すっきりとした白色透明系のダイヤを思わせる石が一つついているだけだ。もっとも、如何にも高そうでどちらも目を引くのだが、手元は何もなく素気ない。その差が逆に目を引いた。
 その女は、
「私はこのお野菜が——」
 止まらない、などとせっせと具衛が用意した野菜の皿を突いては、焼いて食ってを繰り返している。
「これ、産直野菜なんでしょ?」
 本当に美味しい、と喜ぶ女の顎が軽快に揺れると、そこでもう一つ違和感に気づいた。
 髪が——赤い。
 ミディアムの髪は、ストレートのようで、天然なのか軽くパーマを当てているのかよく分からないが、何となくナチュラルに動的でスタイリッシュだ。が、色は、根本から毛先までの全体が黒いようで赤かった。それは単なる白髪染めとは違い、ハイライト仕立てのようで綺麗に染められている。余り極端だと、まさに魔女のように見えてしまいがちな色合いだが、二色がしっとりと落ち着いたコントラストでバランスよく整っており、容姿の美しさを更に際立たせていた。それにしても、赤と黒のハイライトカラーとは中々手間をかけたものだ。
「何か言いたげね」
 最後に髪に魅入られ、ついに視線を逃す事が出来なかった具衛は、女の言に捕まってしまった。
「いやその、平気なのかなと」
「何が?」
「こう言う野生的と言うか、野放図な嗜好を好まれるようには見えないので」
「はぁ? 何その思い込み?」
 女は気分を悪くした事を遠慮せずにぶちまけると、
「御手洗、借りていいかしら」
 立ち上がって唐突に宣言した。
「ええっ!?
 うちのトイレを——
 使うと言うのか。思わず声を上げた具衛だったが、続きを吐きかけて慌てて口を噤む。近辺には他にトイレはおろか、家すらないではないか。
「ダメかしら?」
「いえ、ダメな事は——」
 ないが、男所帯の山小屋の手狭なトイレなど一見セレブ風の女が
 ためらいもなく使えるのか?
 と思いながらも、台所の左奥である事を伝える。
「そ、良かった。近くのお店まで行かされるのかと思ったわ」
 言うなり女は、慣れた身のこなしで靴脱石で靴を脱ぎ、居間に上がり込んだ。玄関は北側にあるのだが、余りにも狭く来客用として使う事が出来ないため、事実上完全なプライベートスペースだ。来客を室内に誘う時は、必然南側に面した居間からとならざるを得ない。先日、バスタオルを持って来られた時も、居間から上がって貰ったのだが、女のように作法を知る者としては余りに段差が高く、出入口として使うには少々ハードルも高い。それを前回の事で学んだ具衛が、女が居間に上がった後、如才なく一足早く靴の向きを替えてやると、女は素直に笑みを浮かべた。
「ありがとう」
 下足番への謝意は作法通りだが、それを励行する者は、只ならぬ美貌の持ち主だ。
「い、いえ」
 つい先程、不機嫌そうな面だった女が柔らかく笑むものだから、具衛は驚いて反射で仰け反ったものだった。
 や、やれやれ。
 気遣わしい事この上ない。格差が違う者とつき合う事は、この上もなく疲れる事を具衛は改めて実感する。問題のトイレは、日頃からそれなりに掃除は行き届いているし、一応水洗トイレだ。更に一応、今日はこんな事もあろうかと、トイレ用の除菌スプレーを買ってトイレ内に設置している。男世帯の洋式トイレは、そうは言っても流石に何かと抵抗が強いだろうと想像しての事だ。トイレを出た所には、極めて小さいが洗面台もある。ここにも一応ハンドソープを設置した。米糠とふすまの混ぜ物をいきなり使わされるのはどう考えても抵抗があるだろうと予想しての事だ。だったのだが。
「米糠とふすまの石鹸はどうしたの?」
 戻って来た女の第一声に、具衛が驚いたのも無理はない。
「ええっ!?
 本気で使うつもりだったのかよ!?
 いくら自然由来の自然に優しいバイオ洗剤とは言え、化学製品に使い慣れた現代人には少なからず
「抵抗があるんじゃないかと思いまして」
 としたものだ。具衛ですら、経済的理由から使っているだけの物である。一見何不自由しそうにないセレブが使うような代物ではない事は、間違いなかった。
「じゃあそれは、また次の機会に取っておくわ」
 それを一見セレブめいた女が拘りもなく、しかも
 次の機会って何だ!?
 などと語ったものだから、動揺を誘うにも程があった。
「でも、ハンドソープ用意してくれてありがとう」
 その一方で、女はそんな素直な謝意を衒いもなく語るものだから、具衛の混乱は深まる一方である。そんな取るに足らない物に一々礼を言うような
 ——身分じゃないだろうに。
 女の節々からひしひしと伝わって来るのは、只ならぬセレブ感だ。それが山小屋仕様だから仕方ないにしても、よくも見窄らしい世帯染みたトイレを平気で使えるものだ、と具衛は驚いた。もっとも周辺に家も店もないため、トイレは山小屋にある物を使うしかない。そのトイレと言えば今でこそ一応は水洗だが、以前は典型的に古びた汲み取り式の和式便所だったそうである。一〇年前に大家によって家を間引かれた際、その更に一〇年前に始まった町の北部に隣接する自治体に誘致された大企業の工場移転絡みで、周辺自治体にまで及んだインフラ整備の流れに乗って下水道が敷設された影響もあり、一応大変狭小ながらも新品に作り替えられたそのトイレは、そこまで使い込まれていない物ではある。庶民が利用する分なら、狭い事さえ我慢すれば十分抵抗なく使える物であるが、女は、極一般的に知恵を働かす事が出来る具衛のような庶民が見て思うところ、どう見ても庶民ではない。
「どうかした?」
 女に呼ばれた具衛は、つい考え込んでいた事に気づかされ、
「トイレ、狭かったでしょう?」
 などと、食事中に間抜けな事を訊いてしまった。あ、と思った時には後の祭りである。
「狭かったけど——何?」
 女は意外にも、全く気にも留めない調子で答えたものだから、具衛が更に返答に困っていると
「今更、何を気にしてるの?」
 女は戸惑いなく、具衛が気にしていた細やかな偏見をぶった切った。
「だって、家自体が小さいんだから、トイレだけ大きかったらおかしいでしょ?」
 確かに言われるとおりだ。貧相な家に豪華なトイレがついていたら、その方が異様である。
「まぁ」
 具衛は思わず失笑してしまった。
「それにトイレ自体は綺麗だったし」
 余程ひどくない限り普通に使うわよ、と完全に見透かされている。
「今更変な見栄を張らないの。家の調度品に多少の難があるのは、理解した上でお邪魔してるつもりだけど」
 女はゆるりと視線を外し、そっぽを向いた。つまらない事に意地や見栄を張るな、と呆れられている事が、後から追加で出された溜息から痛い程伝わって来る。完全に女が一枚上手であり、土俵上も女のものなら、勝負も女のものだった。理詰めで諭すように攻めて来るところが、如何にも男らしくもあり中々の女傑振りである。
「そんなに世間知らずのお嬢様に見えるのかしらね?」
 太々しく足を組んで拗ねる様子がまた一々絵になり、具衛は降参する他なかった。
「すみません。以後気をつけます」
 情けなくも片手で頭を掻きながら、面目なさげに下を向くと、
「分かれば良いのよ」
 と言った後、女はすぐに急転した。上体を屈めて乗り出すように具衛の方に向き直す。
「ね、後で神社に行きたいんだけど」
 その急展開に具衛は、
「じ、神社——ですか?」
 女のその気紛れ振りに、思わず間の抜けた声を上げながら、やや後に仰け反った。
「あの目の前の」
 女が無邪気に指差すのは、川向こうの中山神社である。
 ととと——
 と、その指先について、あっち向いてホイ気味に存在を確かめるように神社の方を見たものだが、そこに神社がある事など既に知り得ている。ようするに女の顔を直視出来ず逃げただけだ。
「ちょっと聞いてる?」
 気後れしている具衛に、早くも痺れを切らしたような女が、また目線を具衛に戻して詰め寄った。椅子代わりに使っている切り株の間隔は、半畳分程度しかない。前屈みに乗り出されると、その距離が更に半分になる。半袖ブラウスの胸元のボタンは、控え目に上一つだけが開いている程度なのだが、その僅かな隙間でも悩ましい肌が見えそうで、具衛は思わず目を泳がせた。
「ち、近いですよ」
 堪らず女に向けて、両掌を翳して顔を背けると
「あ、そ」
 女は然も素気なく座り直し
「思いのほかウブねぇ」
 などと嘯いた。
 西の山向こうにある空は、既に僅かに明るいだけで辺りは殆ど闇だ。只でさえ山間の暗所である。この上更に暗がりに行ってどうしようと言うのか。
「神社はもう真っ暗ですよ」
「真っ暗だから行くんでしょ。星を見に行くんだから」
 女は呆気らかんと言う。
「何、怖がってるのよ?」
 また口端で笑われたもので、弄ばれている事は理解出来たが、このような美人に免疫など持ち合わせない具衛が出来る抵抗と言えば、辛うじて首を左右に振って見せるぐらいの事だった。
「取って食やしないから、後で案内しなさいよ」
 具衛の答えを待つ間もなく女が畳みかけると、
「取って食うってどう言う——」
 それでも飲み食いしていた具衛は、思わず口を止めた。

 食後。
 野生動物が食べ物の匂いを嗅ぎつけて来る可能性があるため、コンロ周りを片づけて戸締りをした上で神社に向かった。中山と言う所にある神社、と言う事で中山神社なのか、または神社の名称が集落よりも先についたのか。具衛は知る由もなかったが、辛うじて一度だけ来た事があった。特別な信仰心を持たない具衛にとっては、入口にある鳥居の扁額を見て名前を知っていた、と言う程度の認識でしかない。
 具衛は一応、女の左斜め前を歩いた。完全に背中を見せない
 ——んだったっけ?
 と言う、何かの物の本で見たエスコートのそれをうろ覚えでやっているだけに、むず痒い事この上なく身体の何処かが痙攣しそうだ。右半身気味に道中を誘うそのついでに、女の足元をスマートフォンのライトで照らしてやった。周囲に灯りは乏しく、近辺で人工的な光を発する物と言えば国道と川沿いの市道にある街灯しかない。それも間隔が長く盆地内は本当に暗かった。天気は良いが頼みの月すら出ていない。どうやらそんな月齢のようだ。
 その準暗黒の中で灯されたスマートフォンのライトのせいか、女の姿が仄白い妖艶さを帯びて浮かんでおり、思わず声を上げそうになる。そんな具衛を知ってか知らいでか、当の女は何処吹く風で泰然としたものだった。
 随分と——
 余裕綽々だ。人里離れた山奥の暗闇と来れば、普通は女の方が落ち着かないものではないのか。逆に具衛は先程来、左手に持っている新聞を握る手に力が入りっ放しだった。座る事も想定して一応持って来た物なのだが、八つ折りにして長細く丸めた事を良い事に、今はそれを都合良く握りしめては気を紛らわせている。
 短時間ながらもその悩ましい道中の果てに辿り着いた丘陵東側の入口には、二〇段程度の階段が待ち構えていた。立ち止まる事なく勢いそのままに無言で歩を進めると、上がり切った所に鳥居があったが手水舎が見当たらない。そこに至って女が、
「こう言う時は、どうすれば良いのか知ってる?」
 久し振りに口を開いた。
 手水舎が無い神社に入る時は、
祓戸大神(はらえどのおおかみ)を——」
 召喚するのが作法の一つである。日本神道において「祓い」はその真髄とも言われ、それを司るを祓戸大神は中核の神々だ。因みに神々であって一柱ではない。
「お呼びしましょう」
「あら意外」
「お褒めに預かり光栄です」
 さり気なく先刻女に言われた事をそのまま返した後、祓戸大神に清めて貰った二人は鳥居を潜り真っ暗な境内に入った。周囲を囲む木々のせいで、境内はより一層暗い。
「本当に真っ暗ね」
「だから言ったじゃないですか」
 目が慣れるまで動く事が憚られる程だった。そろそろと足を踏み入れると朧気に目が慣れて来て、参道、狛犬、標柱、社の存在が目に入り始める。他には特になく簡素な造りだった。山奥のそれにしては寂れていない。
「意外に整ってない?」
 女もそれを感じたようで、辺りは一見して人の手の介在を思わせる整然さを醸し出していた。
「もう少し荒んでるかと思ったけど」
 とは言うものの、常駐する人の気配はない。それにしては周囲の木々は明らかに剪定の跡が認められ、木々の大きさも整えてられていた。
「うちの大家さんが神主さんで、たまに掃除をしておられます」
 境内に入って気づく事だが、丘陵の周囲は針葉樹の高木で囲まれており、中に入ると広葉樹が境内の周囲を囲っている。理由は良く分からないが、風水災害から神社を守るようであり、単純に神社自体を隠すようでもあった。
「また大家さん?」
 女は「一人何役よ」などとつけ加えて笑った。借家の大家に始まり、介護施設の理事長と来て、次は神主である。現在は廃業したが、過去には林業経営者の肩書きもあった。確かに女でなくとも、その役回りの多さは気を引くだろう。
「元々は地主さんですよ。多角経営ってやつですか」
 具衛が答えると
「ふーん」
 女は聞いておきながら、然も関心なさそうに漏らした。
「それよりも、」
 境内に入ったのも束の間、女はすぐに鳥居の方に振り返り、
「ほら」
 東の空を指差す。取って食やしない、と言う女の言が妙に引っかかっていた具衛は、怪しさに加えてその稀有の容貌に慄きつつも、促されるままに振り返った。すると、
「おおっ!?
 慄いていた事を忘れる程の見事な星の筋が、東の山の峰々の上に見えるではないか。世に言う天の川だった。
「予想通りね」
 感嘆する具衛の横で、女は得意気に呟く。天の川の存在が分からない人間でも、星が帯状に集まり靄が光っているのが分かるそれは、名前を知らなくともその名称に辿り着きそうな、それ程の景色だった。具衛はそれまでつけていたスマートフォンのライトを慌てて消す。星空の絶景に目を移すと、他の灯りが邪魔になったのだ。こうなっては付近の街灯すら煩わしい。ついこの瞬間まで、灯りに喘いでいたと言うのに勝手なものだった。
「この辺りの夜は真っ暗闇だろうから、良く見えると思ってたけど」
「普段見ないので、ここまでとは」
「山に住んでるのに、星見ないの!?
「そう言う趣味は余りなくて、専ら本読んでます」
「勿体ない」
 味気なく答えた具衛の無頓着振りに女は食いついたものだったが、すぐに矛を収め星空に魅入られ始めた。
「これは凄いわ」
 七夕の時期の日本において、概ね東側から登る天の川は、梅雨時の事もあり天候不順で見られない事が多い。
「と、錯覚されがちだけど」
 実は、都市化率が八〇%近い日本においては、天候不順もそうだがそれよりも何よりも、様々な物の夜間照明の灯りが大敵なのだ。天気に恵まれても、その灯りに阻まれ
「都会育ちじゃ、中々見れないから」
 都市部で星空を満喫する条件は乏しい。
 都会育ちか——
 確かに女の口からは、広島弁は全く出て来なかった。垢抜けた雰囲気で、耳につきやすい他の地方の訛りも感じさせず
 ——首都圏か。
 と思い至る。これまでの女の洗練された振舞は、そのイメージと重なりやすかった。
 その女は、バーベキューをした後とは思えない程、良い匂いがする。香水も良い物をつけているのか、控え目ながらも肉の匂いを打ち消す良い芳香に、具衛はまた動揺した。結構飲み食いしていた筈なのだが、煙に燻された匂いがしないのがまた不気味である。それどころか、良い匂いがするなどやはり只事ではない。もっとも焼いていた肉は上物の牛であり、不快な臭いどころか食欲をくすぐるかのような芳香だ。だからその臭いがしたところで全く構わないのだが、それにしてもその臭いが食後に全くしないと言うのは、生体反応として不自然に思えてならない。やはりこれは何かの
 化け物か?
 などとまた思い返すが、人に対する害意が明確な分、化け物の方が分かりやすいと思ったものだ。化け物を疑いながらも、そうではないと思っているからこそ悩ましかった。
 全く——
 何を考えて近づいて来たものか。珍しいもの見たさなら、夕方までとしたものだろう。山奥の暗闇で妙齢の女がよく知らない男に近づくなど、普通の感覚を持つ女なら有り得る事ではない。そうでなくても具衛は、元々人嫌いなのだ。人の匂いが鼻につく程の近距離に接近する事自体が有り得なかった。その上相手は、これまでの人生でお目にかかった事が全くないとは言わないが、関わった事は確実にないレベルの妖艶たる謎めいた美女である。女に乏しい人生を送って来た身としては、それだけで動揺の大きさは只ならないものであった。
 どうせ天涯孤独の身だ。
 何を恐れる必要があったものか。
 いつ死んでも良い気楽な身じゃないか。
 などと脳内で捲し立てはするものの、悲しくも男の本能が、退廃的になろうとする具衛の理性を許さない。四〇を目前に控えて尚、女の肌に殆ど縁がなかった男である。訳ありだ。通常の幸せを求める事が出来ない人生を強いられ、あえて自ら女を遠ざけ続けた。一見して優面で、実はそこまでもてない事はなかった。言い寄って来る女にふと気を許しては、触れ合う事が全くない訳ではなかった。が、切実な現実はそれを許さず、その境遇に苛まれ、それを絶つ事を何度か経験して来た。それはまるで修行僧のようであり、関わる人間の中に、面白味のない人生を送る具衛を嘲笑する手合いは多かった。表向きには苦笑いをしてあしらったが、その都度他人に対する壁は厚く高くなり続けた。
 そうした葛藤を知ろう筈もないこの女は、思いもよらぬ出くわし方で絡むようになった。素性定まらぬ妖艶さに慄く事が多々ある中で、容易に推測出来る程の有り得なさそうな社会的階層差に、偶然にしては出来過ぎな示唆を見出そうとする向きと、偶然の産物を受け入れようとする向きが内面で混ざり、思考が混沌と化した。
 偶然とは即ち
 ——神だ。
 とする具衛は、元々特定の信仰を持たない。もっと言えば、人間によって語られる神々を信仰していない。その多くは、人間に対する影響の範囲内での神である事が殆どだ。人間の都合で語られる神などそれこそ神に対する冒涜であり、だからこそ現実として神を語って争いが絶えない。畏敬の念はあるが、盲目的に神にすがりつき万事神のせいにしたのでは、
 神様も堪ったもんじゃないわ。
 そう言う光景を見かける事が多かった具衛は、冷めたものだった。あえて神という存在を認めるのであれば、証明する事の出来ない人智を超越した偶然こそが神であり、その産物ならば抗っても仕方がないとして観念したものだ。が、受け入れるのと畏れるのはまた別の話である。
 この得体の知れない妖艶さは多少の化粧気を諸共せず、生命の神秘美とか自然の造形美と呼ぶに相応しく、星明かりのみの境内で淡白くも美しい彫刻のような怪しさをもたらすのだ。只でも女に乏しい具衛の人生である。畏れるなと言っても、それは無理からぬ事だった。天の川を眺めながら、見た目にも胸が膨らむのが分かる程大きく息を吸い込み、静かにそれを吐き出す。
「どうしたの?」
 それを見た女が口端で笑った。
「いえ、その——」
 また少し息を吐いて、喉を鳴らして整える仕種が無駄に力んでいる。
 女はまた、
「ふふ」
 と怪しく笑って見せた。相変わらずの上から目線で楽しんでいる。流石に翻弄されっ放しの身としては、俄かに面白くない。
「何でこんな所に、わざわざ好き好んで来られるんですか?」
 具衛はやっとの思いで女に尋ねた。後難の懸念から、当初は女に深く関わる事を恐れ、女の意思や都合に触れるような事を尋ねるのは避け続けたものだった。のだが、女の方から寄って来るのでは、いつまでも逃げ回る訳にも行かない。それこそある程度の目的や意図を掴んでおくのは、当然の防御反応と言うべきだった。
「何だそんな事?」
 女の第一声は、そんな具衛の深慮に構わず、至極あっさりしたものだ。
「どうしてあなたに『好き好んで来てる』って事が言えて?」
「え?」
 その他の意図の存在を匂わすかのような女の御告げめいた口振りは、不動の上座である。
 何だそれは——?
 哀れな山男を混乱させるには十分過ぎた。
 他に意図があるのか?
 金目が期待出来ない身である事は明らかだ。そもそも女は金など不自由していないだろう。となると、
 ——命か。
 と言う事になる。命を狙われる覚えなどない筈、と思いたかったのだが。
「じゃあ、くノ一ですか?」
 うじうじ考えても不健康だとして、この際思い切ってぶつけると、
「何それ!?
 女は手を叩いて噴き出した。
「思いのほか古風ね!」
 掌の上で踊らされるが如く、まるで歯が立ちそうにない。あっさりやり込められた具衛が口を尖らせると、
「あなたがおかしな事言うからよ」
 と言い訳めいた事を口にした女は、立て続けに
「好き好んでも来たいから——じゃあ答えになってないかしら?」
 具衛の言葉尻を論うが如く言った。
 然しもの具衛も、
「暗がりに行きたがるのは、普通男の方ですけどね」
 これにはつい、応戦する。
「あら。まるで尻の軽い女が、軟弱な男をたぶらかしてるように聞こえるわね?」
「違うんですか?」
「私がそんなバカな女に見えて?」
「そうは言ってないでしょう」
「言ってるも同じじゃない!」
 そもそもが、こんな口喧嘩をするような仲ではない筈なのだが。それを
 何でこんな——
 痴話喧嘩みたいな事をやっているのか。内心呆れてしまう。本を正せば何もかも、この迂闊なお嬢様のせいだ。
「世の中の男はバカなんで、はっきり言って迂闊ですよ」
 つい、説教染みた事を口にしてしまう。他人を論破したところで後に残るのは大抵の場合恨み辛みであり、その不毛さを具衛は良く理解しているつもりではあった。のだが、世間の男の怖さをよく知らないお嬢様とあっては、善良で健全な男としては黙っている訳には行かない。
「何それ」
 しかして女はやはり、この期に及んで尚、
「迂闊って、私も軽く見られたものね」
 あからさまに角を露わにし始めた。
「女が、以前助けてくれた男と一緒に、山奥の神社で星を見たらどう迂闊なのか言ってみなさいよ」
 両手を腰に当てて仁王立ちの様相の女に、具衛は
「はあ?」
 呆れて思わず間抜けな声を上げる。
 分かって言ってんのか?
 正真正銘の世間知らずなのか?
 具衛は密かに混乱した。大体が、あの大雨の日のぬかるみにクーペで突っ込むような無謀な女である。贔屓目に見ても限りなく後者寄りである事は疑いがない。
「信用して頂けるとは光栄の極みですが、世の男は虎狼の輩ばかりって事ですよ」
「随分虎やら狼がお気に入りのようだけど、あなたも世のそうした輩と同じな訳?」
 結局先日は証明を満足出来なかったわよね、などと、女はまた事故当日に山小屋の縁側で話したそれを蒸し返して罵る。
「私は違いますよ」
「だったら何も問題ないじゃないの!」
「私は違っても、世間の男はそうじゃないって言ってるんですよ!」
「だからこの場の男は、あなたしかいないんだから問題ないって言ってるのよ!」
 気がつくと論点がずれている。そもそも何で来るのか、その理由を尋ねただけだ。それが、世間知らずのお嬢様を気にする余り、妙な押し問答になってしまっているではないか。しかも明らかに旗色が悪い。
「——何でこんな所に、好き好んで来るんですか?」
 もう一度、訊いてみた。
「それはもう答えたわ」
 女は答えを変えない。答えに向き合う気がない、と判断すると諦めた。具衛は元来多くを語る質ではない。元々が、口達者の女などは大の苦手と来ている。
「分かりました。私が悪うございました」
 諦めて、精々嫌味を含んでお開きにしようとすると、
「人を世間知らずのお嬢様扱いするなって、ついさっき言わなかった?」
 蒸し返されてしまった。
 これは——
 どうやら地雷らしい。理詰めで容赦なく攻められた挙句、それを踏んでしまったようだ。
「説得力がない上に記憶力もないなんて、やっぱりあなたも世間のバカな男共と同じなの?」
 女は「がっかりだわ」とつけ加え、盛大に溜息を吐いた。
「だから世の男共の大半は、そのバカ野郎ばかりなんですよ」
「何なら虎でも狼にでもなって見なさいな。捻り潰してあげてよ」
 ここまで言われては、
 ——仕方ないな。
 具衛は、脳内の何かの管のような物が切れたような感覚を覚えた。
 ちょっと懲らしめてやるか。
 力ずくは嫌いだったが、世のバカな男共の得意技がどんなものか、この際少し披露しておいた方がこの世間知らずのお嬢様の身のためにもなる。物も言わず、矢庭にその柔な手を取りに行った具衛が、背中にでも捻り上げて脅す振りをしようとしたところ、
 あっ!?
 と言う間に逆手を取られて、腕を捻り上げられた。関節技を有する格闘技では、必ずと言ってよい程技の一つに列挙される「小手返し」と言うヤツだ。普通はまともに決められたら、ぶん投げられて倒れ込むか、地面に背中を押し潰されるかする。その見事な容姿の一体何処を見れば、その見事な小手返しが予見出来ると言うのか。女は完全に具衛の裏をかいた、と言って良い。
「ふっ」
 と言う気を吐いたような声が、微かに聞こえたような。ぶん投げる型の小手返しを決めた女を前に、具衛は瞬間で更にそれを受け流し、女の投げを利用してぶん投げられる前に、自分の間合いで自転して見せた。女が女なら具衛も具衛だ。世の大半のバカな男共の心については、理解出来る柔軟性を持ち合わせているこの虎は、技体については明白に一線を画し、常軌を逸脱していたりする。
 瞬間後、女が両目の上下瞼を、眼球を曝け出す勢いでひん剥かせた。女の間合いでぶん投げられた筈の具衛は、結局自転していとも簡単に取られた手を切るや、連続して守勢に転じた思わぬ素早さの女の両腕を乱暴に掻い潜り、その細く柔な腰をラグビーのタックルのように低い姿勢から両手で押した。女が声を上げる間もなく、辛うじて口を僅かに開く。並行して足が然も悔しげに一、二歩後方にもつれ、背中から地面に向けて傾倒した。
「くっ」
 かと思うと、苦し紛れの声と共に片手を地面に軽くつき、鮮やかに後転して見せる。そのまま素早く三歩分飛び退った女は、守勢を維持したまま具衛を睨みつけた。まるで時代劇に出て来そうな
 ホントにくノ一!?
 めいた軽業である。両耳のイヤリングと胸元のネックレスが派手に動き、跳ね上がりながら服に髪に絡まるのを構わず女は、具衛の攻勢を予想してか身のこなしに残心を示していた。具衛は具衛で、その女が後転時に繰り出した蹴りを避けながらも、はためいたブラウスの腹部辺りから覗き見えたアンダーシャツに動揺し、慌てて顔を背けつつ、やはり後方に三歩分飛び退っている。
 女の手元に飾り気がない理由は、
 これだったか。
 武芸にストイックな者は、無駄な飾りを纏わない。それでも飾り気が全くないのは我慢ならないらしく、耳や胸元にはそれがある。保身のための最低限の律は犯さない。そのスタンスがあの手指だった訳だ。
 間合いを十分取ると、
「ホ、ホントにくノ一なんですか!?
 具衛は思わず叫んだ。何の恨みで命を狙われたものか覚えはない、と思いたいが。では誰かの依頼か。
「誰の回し者なんですか!?
 などと、何やら時代劇めいた滑稽な台詞を結構本気で語りかけたものだ。
「訊かれて答えるくノ一がいるんなら見てみたいわ!」
 女は発作気味に噴き出し、失笑しながらも
「あなたって、ホント一々意外ね」
 呆れてみせた。自己の優位性が揺らいだ事に驚いたと見え、
「それにしても、私が押し倒されるっていつ以来なのよ」
 詰問やら独り言を吐く女は、
「あなた何者?」
 などと畳みかける。
「いやそれは——」
 こっちの台詞だ。
「私の素性は、ある程度伝えたでしょう」
 具衛は具衛で、やはり驚いた。油断していたつもりはなかったが、見事に後の先を取られ危うく倒されそうになった。実戦でのそれは、殆ど致命傷に近い。お互いに六歩の間合いを空けて出方を探るが、お互いの意外さに気が削がれたと見え、
「まあ——座りましょうか」
「——そうね」
 具衛は女に新聞を手渡した。スラックスで石段に座るのは抵抗があるだろう。
「建設的な理由が聞きたいんですよ」
 社に尻を向けるなど、本来は非礼とされているが、
「神様と同じ景色を、神様にあやかって見させて頂くって事で勘弁して貰いましょう」
 具衛のもっともらしい一言で、二人は鳥居直下の階段最上段に腰を降ろした。それぞれの間合いは相変わらず三歩である。三歩とは畳一畳、尺貫法で言うところの一間、武芸では守勢にも攻勢にも転ずる事が出来る最低限の間合いを指す。要するにその間合いがあれば、武芸に嗜みのある者はとりあえず安心、と言う事だった。
「あなたは説得力を持ち合わせているでしょう」
 具衛は前を向いたまま、徐に女の言をそのまま返した。論うつもりはなかったが、人に言い放つくらいなら、自分は大層な事が言えるのだろう。
 感情的な人間と会話するなど、考えただけでも気疲れするようなコミュニケーションを具衛は嫌う。常に穏やかなのは、単に事を荒立てて面倒を起こさないための、言わば諦めの象徴とも言えた。逆恨みされても面倒である上
 こっちは——
 住居が割れている。始めから分が悪いつき合いだったのだ。
 だがこうなった以上、そうも言ってはいられない。上っ面の人づき合いで済ませ、人と深く関わる事を避けて来た具衛にとって、人情に触れるなど面倒極まりなかったが、女が絡んで来るのだから仕方がない。
「都会暮らししか経験がなくて」
 具衛の意を汲み取ったらしい女は、素直にその心内を語り始めた。
「先月、山小屋を見てカルチャーショックを受けて。猛烈に興味を覚えて。今まで経験がなくて。その——」
「この文化的な暮らし振り、がですか?」
 女が言い辛そうにするのを具衛が茶化すと、
「そう、その文化的な暮らし振りが」
 女は失笑した。少し間を置いて、身を固くする素振りを見せると
「今日は、お礼のつもりで来たの。事故の時の」
 また寂然さを、色濃く浮かばせる。
「——迷惑だったら、もう来ないわ」
 この際、突き放す選択肢も用意していた具衛は、女のその寂しげな静かさが哀れに思えた。
 この女は、これまでに具衛に近寄って来た女達によく見られた、情に訴えては多少の無理無茶を否応なしに捩じ曲げるような、所謂同情を求める精神的脆さがなかった。それどころか男以上にさばさばとして潔く、妙に諦めが良い。その感情が表面に顕在化した結果、寂然と言うフレーズを纏うようだった。情が絡んだ哀愁ではなく、寂然なのだ。その様は只静かで殺風景で、ありがちな情が介在しない。
 さばさばしてるな。
 ここで同情してしまっては突き放せない。そんな事は理解していたが、女の寂しさの理由が気になったのだから仕方がない。それが否定出来ず、
「迂闊と言っただけで、迷惑とは言ってませんよ」
 つい、肯定的な言葉を吐いてしまった。
「私に迂闊なんてないのよ」
 かと思うと、女はすぐ様具衛の言葉尻に噛みつく。
「男なんて、私に敵わないくせに」
 独り言ちて、急にやさぐれた。
「——でも、あなたの不意打ちにはやられちゃったけど」
 すると、今度は急に少し萎れる。
 あんたの容赦ない返し技の方がひどかったけど——。
 具衛は口には出さず、喉元で言葉を飲み込んだ。迂闊を教えるために、片腕を背中に捻ろうとした程度の仕置きに対して、その後の先はまさに容赦ない一撃必倒の鋭さだった。女の言う通り、並の男なら到底躱せず、受け身も取れずに昏倒している事だろう。
 女は然も無念そうに黙り込んだ。情緒の浮き沈みの激しさはこれまでの女達と同様で、そのヒステリックな様子が実に人間臭い。その二面性に妙な可愛らしさを覚えると、心臓が一度大きく高鳴るのを認める具衛だった。
「理由は分かったとして——」
 一の矢はとりあえず、受け止められたものと判断する。
「迂闊や迷惑はとりあえず置いとくとしても、間合いに入る方の素性は、そこに住む者としてはやはり知っておきたいものです」
 が、次のこの二の矢は、見事に女の何処かに刺さったようだった。瞬間で、痛いところを突かれた表情があっさり表面化すると、そのらしからぬ弱々しさに
 やはり女は——
 本能的な性差故の憐憫が働く。
 女はそれでも何か言い出そうとしたが、胸で息をしてゆっくり吐き出すと、
「やっぱり、そうよね」
 自嘲気味に漏らした。
「——はい」
 ためらい気味にも素直に認めると、これまでの期間が猶予に相当し得ると判断した具衛は、少し言い辛さを感じたものの、
「うちは、その——客商売じゃないので」
 決定的な追い討ちした。
 すると横目の端にしか捉えていない女の身体全体が、あからさまに一瞬痙攣したのがはっきり分かった。
 つまりは、
 見ず知らずの人間をホイホイ家に上げるヤツがあるか!
 と突きつけたに等しい。そう言う意味では、具衛のこれまでは相当に寛容であり、逆に女は相当に厚かましかった、と言い切っても良かった。
 ——慈善事業じゃないし。
 彼は歴として山小屋に住んでいる住人に他ならないのだ。事故の時は行き摺りのようなものとしても、後の位置づけ不明瞭な来訪は、バスタオルの返礼を除くと、他者のプライベートな空間に土足で上がり込む行為に他ならないと言う事が出来た。要するに、名乗らずに他人の家に上がり込むのは、大抵の場合実は
 盗っ人と大差ない——。
 のである。
 顔は分かるが名前や詳しい素性は不明、と言う人間が、ずけずけ家に上がり込んて来たら、大抵の家人は怒るだろう。それでも出て行かないのであれば、それは刑法に定めるところの不退去罪と言う立派な犯罪が成立する。例え明白に家人が拒まなくとも、それを良い事に、それに甘んじて上がり込むなどは、
 確信犯的と言うか——
 更に質が悪い、と言う事も出来る訳である。
 女はまた何か言いたげに息を吸い込んだが、途中で口を開いたまま固まってしまい、結局溜息だけ吐き出した。
「峠の茶屋感覚、だったの」
 つい、と白状する。
「江戸時代の」
 とつけ加えると、具衛は、
「江戸時代?」
 おうむ返しに溜息を吐き、素直に顔を顰めた。
 これはひょっとして——
 先月の事故の時、レッカーが来るまで山小屋で場繋ぎ話をした時、ここの自然に寄り添うスタイルの生活が、文明開花以前だと言った覚えがあるようなないような。
 俺がその気にさせちゃったのか?
 と思い至ると、今更ながらにあの折の口車を悔いるが、後の祭りである。そう言えば口が滑って、たまの来訪を催促するかのような、そんな誤解を招くような事を言った気も。
「つい居心地が良くて、と言ったら言い訳ね。結局、あなたに甘えて名乗ってないし——厚顔無恥とはまさにこの事ね」
 女はまた押し黙る。顔を見られないようにするためか、しばらくそっぽを向いていたが、それでも足りないと思ったのか、具衛側の顔半分を片手で覆い盛大にうなだれた。
「訳ありなのは、まあ何となく察してはおりましたが」
 具衛が恐縮そうに尻すぼみに吐くと、女は僅かに首を横に振り、自己否定を示す。
「どう、します?」
 自分が言い出しておきながら、女の余りの落胆振りが思わぬ破壊力を有していた事を認めざるを得ず、据わりの悪い言葉となって漏れた。具衛はその舌鋒に、住居侵入の意を暗に含ませたつもりではあったのだが、まさか女がここまで響くとは思ってもみなかったのだ。その意を解した、
 と言う事は——
 聡明な事は、普段の口振りから見せつけられていたものだったが、何やら素人らしからぬものを感じざるを得ない。
 その女は、少し黙り込んでいたが、
「今まで通り、ってのは都合が良過ぎるわね」
 重い口を開くと、
「何言ってるのかしらね今更」
 自己完結して畳み、また押し黙った。急に重苦しさが押し寄せる展開に、詰問している側の具衛が腰砕けになる。元々平穏を愛する平和主義者であり、悪に相対する時は別として、その他の事で人を責める事など柄ではない。まして今や、安穏を貪る山奥の世捨て人だ。わざわざ人里離れた山奥で人間関係トラブルなど
 嫌だよなぁ。
 これでは何のために山に籠ったのか分からないし、意味がない。
 そんな中、女は突然手を叩き
「いっその事、客商売って事でどうかしら!?
 突拍子もない事を言い出した。
「はぁ?」
 具衛が思わず間抜けな声を上げるのを構わず女は、
「あなたさっき『客商売じゃない』って言ったじゃない。だから茶屋って事にしない? ホントに。今までのお茶代も払うし。だったら名乗らない大義があっても良くない?」
 などと、勝手に盛り上がる。
「何をまた急に」
 具衛は思わず絶句したが、
「茶屋なんて面倒な事。正式に飲食店を開業するのに、どれだけ手間がかかるか分かって言ってるんですか?」
 女のペースに巻き込まれず、冷静な反論を繰り出した。
 根拠法に関する許可届出からすると、具衛の山小屋の場合、まずは飲食業に限らず、個人で始めるのであれば、税制上の「個人事業主の開業届出書」、法人を立ち上げるのであれば「法人設立届出書」が必要
「で——」
 茶屋であれば、最低でも衛生法上の「喫茶店営業許可」が必要だ。これは単に届出れば良いのではなく「食品衛生責任者」の資格を有する。更に菓子を作ってテイクアウトさせるような事でもあれば「菓子製造業許可」も必要で、火を使うため消防法上の「防火対象物使用開始届」も必要となる。
 これらの届出には申請に際して、小面倒臭い諸々の
「書類作成、手数料、法定検査——」
 を受ける必要が一々あり、それで許可が下りれば良いが、却下されれば是正のオンパレードだ。詳細は省くが現状の山小屋では、衛生法的にも消防法的にも到底容易に各種許可が
「まず、下りません」
 法令関係でもそれだけ面倒なのに、
「何よりも——」
 借家である。大家に許可を得ないといけないのは当然の事、客から金を取るのであれば、それなりの物を提供する義務を要するのもまた当然だ。
 そして何よりも客商売など、世捨て人を公言しているような具衛の生活振りからすれば、それはとにかく
「面倒極まりない事で」
 到底あり得ない。
 それを女は、
「そんな大仰でなくても、私だけのプライベート茶屋って事で、ね!?
 妙に軽々しく言ったものである。
「雇っても良いわ」
「謎の経営者の元で働けと?」
 具衛が憮然と答えると、
「はいはい、冗談よ冗談」
 女はまた手早く畳んだ。
「そんなに私が嫌い?」
「な!?
 かと思うと、女がわざとらしくも女をちらつかせたもので、具衛は目をひん剥いて口を歪める。
 何をまた急に——!?
 ずけずけ言ったものか。それでもどうにか立て直し
「好き嫌いはこの際別でしょう。それが素性開示の一助になるんですか?」
 と、もっともらしい事を言うと、
「好きこそ物の何とかって言うじゃない」
「謎の経営者の次は、また謎の女に逆戻りですか? さっき迂闊が分かったばかりなのに、バカな男を焚きつける危うさは分からないんですね」
 流石に紋切り口調で切りつけた。
「はいはい、ごめんごめん。悪かったわよ」
 女はまたあっさり謝ると、先程までの重い空気が途端に緩む。具衛は密かに盛大に顔を顰めた。
 心配して損したわ!
 内心、悪態をついていると、
「いや名前は。ごめん、言ったら終わりそう」
 女がまた、勝手に深刻そうに畳み込む。
「は?」
「いや、独り言」
 かと思うと、また寂然とし始めた。この抑揚がコントロールされたものなら中々の食わせ者だ。実際に食わせ者なのだが、
 これは余程の素性か?
 とも思う。
 山小屋暮らしだが、職場の新聞やテレビで世情はそれなりにチェックしている。家では本ばかり読んでいる訳ではなく、所携のミニノートパソコンで、ニュースや情報番組は好んで見る具衛である。
 メディアでは見ない顔だが。
 いずれにしても選択権は女に委ねた。後は何も言わず、女の決断に任せる。具衛は問題点を指摘した。擦り合わせをするつもりなら、それには応じる。拒否するのであれば、これにて終了である。具衛は山小屋の主として、立ち入りに際して素性を要求した。つまりこれ以上の名無し来訪は、家人として許可しない、更に突っ込んだ言い方をすると法に抵触する、と言う事を宣言した訳である。郷に入りては
 ——郷に従え。
 と言う事だ。
 その極一般的な金言は、今の二人の曖昧な関係性に強烈な楔を打ち据えるものだった。基本的に既存法を著しく侵害しない限り、他人の家に立ち入る際はその家のルールが全てである。来客の素性を押さえるなどは、家人の平穏を守るための正当な防衛反応であり、社会通念上においても当然に認められる行為である事は言うまでもない。それが何処の誰なのか、と言う程度の基本情報なら、それを隠す方にこそ問題がある
 ——としたもんだろう。
 と言える。
「因みに客商売だからって、匿名が通用するって考え方は誤りですからね」
 実は客商売においてもそれは例外ではない。客だからとて、匿名が許されると思うのは大きな誤りである。
「分かってるわよ」
 女は即答した。
 業界によっては、氏名や連絡先を担保として押さえるケースもあるが、それは宿泊業など業界法で定められた行為であったりするものの、基本的に店舗敷地内に客が立ち入るに際し素性を押さえる事は、業界法を根拠とする事を要せず、むしろそれを妨げる法は
「存在しないわ」
 のだ。
 飲食店でも宿泊業でも商業施設でも、実は一向にそれを実行しても構わないのだが、来店客に面倒をかける結果、客離れにも繋がりかねないため、流石にそこまでやる店は多くない。
 そうした中で、飲食業に見られる「一見さんお断り」は、実は店側の正当にして中々巧妙な防衛反応の一つである。こうしておけば、素性が全く分からない客は来ないし、何かあれば辿る事が出来る。一部の大衆にその面倒を忌み嫌い、その理解が及ばない者が散見されるが、実はそれこそが
「甘い認識の最たるものよね」
 客であることをまかり通し無理に入り込めば、店側の許可を得ず無断で立ち入った、つまり住居侵入となる。客は神ではない。人間である。人間であれば、高度な社会システムを構築している現代の事、何事も社会通念や法が存在するのは言うに及ばない。それが法治国家であれば尚更である。日本人は個人の住居では、塀や生垣など明確な仕切りで外部と遮断する割に、飲食業を始めとするサービス提供施設における客の部外者たる認識が、
「低いのよ。情けない事に」
 それは「お客様は神様」と言う接客業界における過度の「お客様信仰」がもたらした弊害なのだろう。客である事を逆手に取り、金に物を言わせて何でも出来ると思い込むような増上慢こそが「一見さんお断り」のターゲットである事を、俗世間はどこまでサービス業界に寄り添って想像出来るだろうか。等々と、
「よく、ご存じで」
 その立て板に水の女の弁舌に、具衛があんぐり口を開ける。
「釈迦に説法って、聞いた事があって?」
「まあ、人並みには」
 窮地であるにも関わらず、女は相変わらずの上から目線で、具衛はつい失笑を漏らした。
「敵いませんね」
「分かればよろしい」
 結局最終的には、やはり女の土俵である。
「でも、あなたの言う事ももっともだと思うし」
 平生を取り戻したような女は、
「メールアドレスだけってのはどう?」
 素直に擦り合わせを始めた。
「メールアドレス?」
 名前をひた隠す意図が見え見えのその提案は、そこが
 ——デッドラインか。
 と言う証左である。
 そんなビッグネームなのであれば、見た事がありそうなものだが、見覚えは
 ないけどなぁ。
 やはり具衛が首を捻るその横で
「あ、メアドかぁ——」
 女は女で、やはり渋い顔で首を捻っている。どうやら名前に繋がるらしい事は、あえて訊くまでもなかった。
 いずれにしても、その私有車と思われるアルベールのナンバーは、実は押さえている。かと言って流行りの通信アプリで、一定時間が経過すればメッセージが消えてしまうような通信媒体は使う気になれなかった。有事に相手方すら辿れない可能性が高く、この際相手方特定は多ければ多い程良い。追跡手段が車のナンバーだけ、と言う状況は避けるべきであった。
 具衛は密かに嘆息して、
 この辺が——
 妥協点と判断した。
 結局はやはり、土俵も勝負も女のものと言う事になるが、バカで説得力を持ち合わせないのは事実なのだから仕方ない。それならせめて相撲くらいはものにしようと、
「それなら、フリーメールアドレスを作りますか」
 提案をしてみる。
「何個か持ってるでしょ?」
 具衛がつけ加えると、俄に女は色めき立った。
「SNSが一般的ですが——」
 それだと大抵、電話番号やIDがバレてしまう。それに具衛は、このご時世下においてSNSを利用していなかった。一方で、数あるIT企業管理によるフリーメールアドレスは、
「都合に合わせていくらでも作れるでしょう?」
 その上いざと言う時は、作成者を辿る事も可能だ。もっともその手段は、基本的に何らかの法を根拠とした活動による事となり、素人レベルでは無理ではあるが。
「それ! 妙案だわ」
「いや普通でしょ、普通」
 妙案って——
 人の事を古風と指摘する割に、そう言う女も似たようなもので
 ——表現が固いな。
 具衛は勢い良く突っ込みかけたものだったが、寸前で飲み込んだ。ここでヘソを曲げられてはまとまる話もまとまらない。
「じゃあ、ニックネームを頭につけるってのはどう?」
「ニックネームは開示出来るんですか?」
「今決めるのよ」
 具衛は急に勢いづいた女に
 あんたはそのまま「鉄子」でいーんじゃないのか?
 その如何にも冷たい印象や頑固そうな意思などから、いの一番に密かなニックネームが閃いたものだったが、流石にそれでは反撃が怖い。
「何?」
 具衛が密かに悶えていると、女が敏感に察して顔を顰めた。
「いえ別に」
 その拍子に、
 ニックネームって事なら——
 別案が閃く。
「仮の名で『カナ』ってのは、どうですか?」
「何の捻りもないわね」
「いや、わざわざ捻る必要ないでしょう。文字通り『仮の名前』ですし『カナ』は女性の名前の音としては一般的で、そのまま呼んでも違和感がありません」
 そこまで説明すると、具衛は
「いやこれは中々、我ながら妙案と言いますか——」
 などと軽く悦に浸り始めた。女はやや悔し紛れに軽く鼻を鳴らすと、
「アクセントは『カ』の方につけなさいよ」
「『ナ』の方につけると、一般的な名前に聞こえないでしょう。それこそ違和感出まくりで注目の的ですよ」
 女に合わせて、具衛が得意気に追認する。
「まあそれでいいわ」
 女はそれなりに納得を示した。
 ホント負けず嫌いだな。
 具衛は呆れを通り越して、噴き出しそうになる。
 そもそも勝ち負けじゃないんだが。
 あっさりと中々妙な名前をつけられた女は、自身の不甲斐なさを感じているのか、まだ何処か釈然としていない。
「じゃあ、あなたの通り名は?」
「宿直さん、ですかね」
 言葉の端にまだ少し悔しさが滲む女の横で、然も冴えているかの如く具衛が極あっさり言った。
「宿直さん?」
「職場でそう呼ばれてるんです」
 具衛の介護施設での職名のそれは、
「それが職場とは全く関係ない人々にまで浸透しているので」
 と苦笑する。
 氏名はアイデンティティーの最たるものだが、それを中々受け入れてもらえない階層がある。職域では管理職と非正規層だ。いずれも職名で呼称される事が多いが、管理職のそれは名誉の高い地位である事から敬称、尊称の一種でもあり、そう呼ばれる事自体が誉とする向きもある一方で、
「私は非正規職員なので」
 下層のそれはつまり、蔑称でしかない。あえて氏名を呼ばず、低い職位による呼称をする事で、
「それは職域差別って言うんじゃなくて?」
 正規職員としての既得権めいた優位性を誇張しようとする正社員との軋轢は、解決困難な根強い労働問題の一つである。
「そんな深刻なもんじゃありませんけどね」
「ダメよ。それは蔑称じゃない」
 女は事情を理解するや、即却下した。
「名ばかり管理職よりはマシですよ」
 一般社員に対する超過勤務手当などの各種手当を渋る一部の企業によって、業務内容は一般社員のそれと変わらないにも関わらず無理矢理管理職に引き上げ、その手当や守られるべき法定労働時間を帳消しにし、文字通り使い潰すと言う「名ばかり管理職」もまた、混迷を呈す現世の労働問題の一つである。
「そんな事をする社会福祉法人があるのなら、お目にかかりたいものね」
 普通それは、著しい超過勤務を強いては労働者を人間扱いせず、薄利多売で収益を上げる小売業界に散見される。
「それに私は、名前で呼ばれるのは余り——」
 世の中から存在を消して、匿名世界の中で生きようとする人々も一定数存在する時代である。が、具衛の場合は少し違う。
「山奥に隠棲して、煙に巻きたいから?」
 それを説明するまでもなくあっさり女に図星されてしまい、思わず女の方を向くと、
「あら図星?」
 どうしようにもない
 美笑——!
 を浴びせられ、たじたじになってしまった。それを見た女は、
「ホント男なんてたわいないわ」
 少しはそれまでの悔しさが失せたようだ。
 ——やれやれ。
 本当に負けず嫌いと言うか、プライドが高いと言うか。扱いにくさに呆れて一息つく。
「私の地元なら、地元で呼ばれてる呼び方の方が自然でしょう」
 気を取り直した具衛が、全うな理由を開示し始めた。
「それはそうだけど。でも『さん』づけを前提とした蔑称って言うのは、やっぱり違和感があるわ」
「別に『宿直』って呼び捨てでも構いませんけど。それだと相当傲慢に聞こえますね」
 具衛は軽く噴き出した。女の顔色が俄かに険しくなる。
「呼び捨てにする人、いる訳?」
「いませんね」
「それを私にさせるの?」
「だって『さん』づけ嫌なんでしょう?」
「周囲に対する聞こえ方ってもんがあるでしょうが!」
「低層の職名に『さん』の有無なんて関係ありませんよ。蔑称は蔑称です」
 具衛が淡々と続ける中で、女は勢い余り、
「それこそ私は悪代官か何かか!」
 予想外の啖呵を切った。
「悪代官って——」
 その予想外の古さに、壺にはまった具衛が堪え切れずに噴き出す。
「例えが極端ですよ」
「誰かさんが、くノ一がどうたら言うからでしょ!?
 湧き上がる失笑を堪えながらも
「私は『カナ』さん、と、さんづけしますけど」
 具衛が早速第一声すると、女は急に顔を背けた。敬称をつけられた文字通りの仮名が、予想外に恥ずかしかったようだ。
「呼び捨ては性に合わないので」
「それは好きにしなさいよ」
 その女がそっぽを向きながらも、
「とにかく、私は人を蔑むような呼称で呼ぶ趣味はないの。別名を考えなさい」
 真摯な向き合い方には好感を覚えたものだが、自分で言い出した割に決めようとしない女である。
「私が決めると、上から目線の悪いイメージしかつかないでしょ。これでも自分の事は結構分かってるつもりだけど」
 と、にべもなかった。のだが、その意味するところは、
 意外に——
 思慮深い。
 常に上から目線で高飛車めいた女であるが、たまに垣間見る情念は悪人のそれではない事は疑いがなかった。
「何か、他にないの?」
「そうですねぇ」
 具衛は片手で顔を撫で回しては、
「他に——」
 変顔を作りつつも、考え込む風を見せる。
「何よそれ、ちゃんと考えなさいよ」
「考えてますよ」
 これもまた防御反応の一環だった。これ程の美女に言い寄られるなど経験がない具衛としては、顔を始め身体のあちこちが凝って仕方がない。
「マッサージして血の巡りを良くして、無い知恵を絞ってるんですよ」
「屁理屈は達者ね」
 と言う女こそ、テンポよく噛みつくものだ。その早さに負けない口を持ち合わせない具衛としては、内心、
 やれやれ——
 が止まらなかった。
 ——別名ねえ。
 実は結構持っている男なのだが、どれもこれも自宅周辺で使えるものではない。具衛の中でそれは過去の悪名に近く、近辺で使って違和感がない呼び方など、
「あれしかないか」
 不本意な一つをおいて他になかった。
「何よ、勿体つけて。あるんならさっさと言いなさいよ!」
 具衛が手を止めると、女がまたその達者な口で食いつく。
「そんなに怖い顔しなくても」
「ぐずは嫌いなのよ」
 きっぷが良さそうな女に対し、具衛は「然いですか」と冴えない事極まりない。それを見た女が、また何か言い出そうとした時
「『先生』ってのはどうですか?」
 具衛がやんわり被せた。女の顔が驚きに変わる。また女が何か言い出そうとするのを
「実は私の勤める施設は、母子の支援施設も併設されてまして」
 また具衛が制した。
 母子生活支援施設。一八歳未満の子供を持つ母親を支える施設の事である。家計の良し悪しを理由とせず、配偶者のない女性、またはそれに準ずる事情のある女性を対象として、生活上問題を有し、児童の養育に支援を有すると認められる母親とその子を支援する。昨今では自治体の委託を受け、
「社会福祉法人が運営するケースが多いんですよ」
「それは知ってるけど——で?」
 ——知ってんのか。
 福祉業界は人生の何れかのタイミングで、誰しもが世話に成り得る筈であるのに、世の中のニーズと比較すると職員の待遇も注目度も決して高いとは言えない。それを即答する女は、
 何者なんだろう。
 具衛でなくても、少しは疑問が頭をもたげるものだ。その疑問をとりあえず脇に置いて、具衛は続ける。
「母子施設の職員は、子供達からするとみんな先を生きているので、役職に左右されず『先生』と呼ばれてまして。その延長で職員間は、誰でもみんな先生と呼び合ってます。それが施設の外にも波及して、外でも先生と呼ばれたりも——」
 具衛は片手で頭を掻きむしった。
「先生って柄じゃないんで恥ずかしいんですけど。教員免許も持ってませんし、先生なんてやったこともありませんし」
 と、追加でひどく恐縮している。
「——まあでも」
 女はすっかり何か言いかけていた矛を収め、一応の理解を示した。これなら蔑称でも呼び捨てでもない上、冗談であるにしても敬称の向きが強い。事実そう呼ぶ声があるのであれば、この近辺で使っても全く違和感がないのだから、それは物の見事におあつらえ向きと言えた。
「せんせーねぇ」
 が、何かが引っかかるらしい女である。
「実は『宿直さん』より『先生』と呼ばれる事の方が多いです」
「じゃあ何で最初からそれを言わないのよ!」
「それこそ傲慢でしょ! 自分の事を先生と呼べって、普通言わなくないですか? それこそ悪代官でしょ」 
 と論うと女は、
「それこそ例えが極端よ」
 少しばつが悪そうにまた顔を背けた。
「言い得て妙だわ」
 背けたまま、何かが引っかかる様子を示すも女は是認する。
「あなたは『先生』に決定ね」
「はぁ」
「そんな声出すと、センコーって呼ぶわよ」
 女がすかさず噛みつくと
「それは好きにしてくださいよ」
 具衛はやや持て余し気味に口を歪めながらも、また女の言を論った。
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